逃げることしか、できなかった
校舎の裏。
部活棟と古い倉庫の間の、誰も通らない通路。
放課後の空気は、いつもと変わらないはずだった。
なのに、胸の奥がざわついた。
――来る。
理由は分からない。
音も、気配もない。
それでも次の瞬間、何かが起きると体が理解していた。
「……またかよ」
理由もなく胸がざわつく、この感覚。
外れたことは、一度もない。
俺は歩くふりをした。
走らない。目立たない。
普通の高校生でいるために、そうしてきた。
背中に、はっきりとした悪寒が走る。
視界の端に、誰かがいた。
女子生徒だ。見覚えはない。
同じ制服なのに、視線だけが妙に静かだった。
その瞬間、頭の奥で警報みたいな感覚が鳴った。
今、走らなければ。
そうしなければ、取り返しのつかないことになる。
考えるより先に、地面を蹴っていた。
風景が歪む。
足音が消える。
息が詰まるほどの速度で、校舎の影が後ろへ流れていった。
止まったのは、駅前の雑踏だった。
人の波に紛れ、肩で息をする。
心臓がうるさい。視界がチカチカする。
――やった。
――見られてない……はずだ。
駅前は人が多い。
誰も、俺ひとりに興味なんて持たない。
そう思い込もうとした。
その瞬間だった。
「……逃げ足、速すぎ。普通じゃない。」
耳元で、声がした。
振り返ると、さっきの女子が立っていた。
何事もなかったような顔で。
「……誰だよ」
「安心して。今は“仕事中”じゃないから。」
その言い方が、逆に怖かった。
「ねえ、君。
自分が、普通じゃないって自覚ある?」
その言葉で、点が線になった。
俺は答えなかった。
正確には、答えられなかった。
彼女は少しだけ、困ったように笑う。
「やっぱり知らないよね。そういう子、多いんだ。」
雑踏の向こうで、スマホの着信音が鳴った。
彼女はそれに出て、短く頷く。
「……うん。見つけた。たぶん“未登録”」
未登録。
聞き慣れない単語だった。
通話を切った彼女は、こちらを見て言う。
「すぐには何もしないよ。今日は“確認”だけ。」
「……何の」
「君が“守られる側”か“処理される側”か。」
冗談だと言われても、冗談には聞こえなかった。
「今日は帰っていい。次は、逃げないで。」
彼女は人混みに溶けていった。
まるで最初から存在しなかったみたいに。
俺は、その場から動けなかった。
――処理。
意味は分からない。
ただ、ひどく嫌な言葉だった。
翌日、何事もなかったように学校へ行った。
教室はいつも通りだ。
「おはよ。なんか今日、顔死んでね?」
隣の席の親友が笑う。
「寝不足。」
「また? 夜更かしすんなって。」
適当に返して席に座る。
――普通。
これが、俺が守ってきた日常だった。
授業中、何度も昨日のことが頭をよぎる。
そのたびに思考を切った。
考えたら、終わりだ。
俺は自分の足が速いことを知っている。
異常なほど速いことも。
だから使わない。
使えば、気づかれる。
気づかれれば、何かが始まる。
昼休み、親友と購買に向かう途中で背中がざわついた。
「なあ、昨日の駅前のやつさ。もうSNSで回ってる」
心臓が跳ねた。
「学校の近くで見たって話と、駅前で見たって話があってさ。
時間が合わないらしい。」
笑い話の調子だった。
俺だけが笑えなかった。
――結果だけ、見られた。
喉の奥が冷えた。
放課後、帰り道で足を止める。
昨日と同じ感覚が、背中に貼りついていた。
今度は、走らなかった。
角を曲がった先に、彼女は立っていた。
「約束、守ってくれたね。」
「……何者だよ」
「調査員」
「詳しいことは、まだ言えない。でも――
君みたいな子を放っておけない人たちがいる。」
「保護。そう言えば、聞こえはいいかな。」
「君は、まだ何も知らない。だから、選べる。」
「何を」
「逃げ続けるか。それとも、知るか」
風が吹いた。
次の瞬間、彼女の姿が消えた。
正確には、見えなくなっただけだと後から分かった。
「これは、私の能力。三十秒だけ。」
「次に会うときは、たぶん“仕事中”」
「その時は?」
「君が、何であるかが決まる。」
その夜、眠れなかった。
――未登録。
――処理。
一度でも知られてしまえば、
「普通」は簡単に壊れる。
それだけは、分かった。




