伝えられなかった一言が、今も胸に残っている。
「人はときに、大切な人へ“ありがとう”を言えないまま別れてしまう。けれど、その気持ちは心に刻まれている。伝えられなかった言葉に縛られず、残された優しさを抱いて生きてほしい。」
ありがとうを言えなかった夏
夏の盛り、俺―― 望月 澪は田舎町へ逃げ込んでいた。
都会の暮らしに疲れ、仕事も人間関係もすべて投げ出した。
何も考えずに汗にまみれて過ごすつもりだったのに、そこでの出会いが俺の人生を変えることになる。
夕暮れの道端で、彼女は何もない場所につまずき、泣きそうな顔で小さく呟いた。
「……妖精さんのせいです」
あまりに真剣なその言葉に、思わず笑ってしまった俺。
彼女は頬を赤くして、きまり悪そうに笑い返した。
その瞬間から、雫という名の少女は俺の胸に深く刻まれた。
雫は病弱だった。
それでも「やりたい」と口にすることは子供のように無邪気で、俺はその願いを一つずつ叶えてやった。
夏祭りの夜、提灯の光に照らされた浴衣姿。
波打ち際ではしゃぎ、すぐに座り込んで「大丈夫」と笑った海辺。
水族館でクラゲを見上げ、「きれい」と小さく呟いた横顔。
時折、雫はふと窓の外を眺めて言った。
「……ほんとはね、もっと色んなことしてみたいんだ。秋のお祭りに行ったり、雪だるまを作ったり、クリスマスにケーキを食べたり……」
その声は夢のように透き通っていて、俺の胸を締めつけた。
だからこそ、今できることは全部叶えてやろうと心に決めた。
けれど夏は残酷に終わりを告げる。
雫は倒れ、病室の白いベッドに横たわった。
細い呼吸を繰り返しながら、彼女は弱々しくも笑った。
「みおさん……一緒にいてくれて、ありがとう。大好きです」
涙で視界がにじむ。
「俺も大好きだ……雫。行かないでくれ」
それしか言えなかった。
本当は――「ありがとう」を伝えたかったのに。
声は喉に詰まり、どうしても出てこなかった。
そんな俺を見て、雫は小さく首を振った。
「……ねえ、覚えてる? 初めて会った時、私……転んで、変なこと言っちゃったよね」
「……あぁ。『妖精さんのせいです』って」
「ふふ……あの時、笑ってくれた。馬鹿にするんじゃなくて、優しく……笑ってくれた。あの瞬間、私、救われたの。だから……頼っちゃったんだよ」
涙を浮かべながらも、雫は穏やかに笑った。
「……良かった。みおさんで」
その言葉を最後に、彼女は静かに瞳を閉じた。
“ありがとう”を返せないまま、俺は雫を失った。
数年後の夏。
俺は夕暮れの海辺に立っていた。
潮風が頬を撫で、波音が胸の奥まで響く。
思い出すのは雫の声と笑顔。
「妖精さんのせいです」と誤魔化した出会い。
「もっと色んなことしてみたい」と夢を語った横顔。
そして最後に残した「大好きです」という言葉。
――あの時、俺は“ありがとう”を伝えられなかった。
それだけが胸に残り続けていた。
波打ち際に立ち、俺は空へ向かって、静かに囁いた。
「……雫、ありがとう」
囁きは波音にさらわれ、静かに消えていく。
届いたかどうかは分からない。
けれど、胸の奥の空白がほんの少し埋まった気がした。
あの夏は終わらない。
雫が残した“生き直す力”は、今も俺の中で灯り続けている。
⸻
完。
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最後まで読んでくださった方へ。
この物語は“ありがとうを言えなかった痛み”を書きましたが、同時に“それでも誰かを大切に思った事実”が残ることを信じています。
あなたが誰かに『ありがとう』を伝えたくなったなら、それが作者として一番の喜びです。