表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

伝えられなかった一言が、今も胸に残っている。

作者: 寂しがり屋のサンタクロース

「人はときに、大切な人へ“ありがとう”を言えないまま別れてしまう。けれど、その気持ちは心に刻まれている。伝えられなかった言葉に縛られず、残された優しさを抱いて生きてほしい。」

ありがとうを言えなかった夏


夏の盛り、俺―― 望月 澪は田舎町へ逃げ込んでいた。


都会の暮らしに疲れ、仕事も人間関係もすべて投げ出した。

何も考えずに汗にまみれて過ごすつもりだったのに、そこでの出会いが俺の人生を変えることになる。


夕暮れの道端で、彼女は何もない場所につまずき、泣きそうな顔で小さく呟いた。

「……妖精さんのせいです」

あまりに真剣なその言葉に、思わず笑ってしまった俺。

彼女は頬を赤くして、きまり悪そうに笑い返した。

その瞬間から、雫という名の少女は俺の胸に深く刻まれた。


雫は病弱だった。

それでも「やりたい」と口にすることは子供のように無邪気で、俺はその願いを一つずつ叶えてやった。

夏祭りの夜、提灯の光に照らされた浴衣姿。

波打ち際ではしゃぎ、すぐに座り込んで「大丈夫」と笑った海辺。

水族館でクラゲを見上げ、「きれい」と小さく呟いた横顔。


時折、雫はふと窓の外を眺めて言った。

「……ほんとはね、もっと色んなことしてみたいんだ。秋のお祭りに行ったり、雪だるまを作ったり、クリスマスにケーキを食べたり……」

その声は夢のように透き通っていて、俺の胸を締めつけた。

だからこそ、今できることは全部叶えてやろうと心に決めた。


けれど夏は残酷に終わりを告げる。

雫は倒れ、病室の白いベッドに横たわった。

細い呼吸を繰り返しながら、彼女は弱々しくも笑った。

「みおさん……一緒にいてくれて、ありがとう。大好きです」


涙で視界がにじむ。

「俺も大好きだ……雫。行かないでくれ」

それしか言えなかった。

本当は――「ありがとう」を伝えたかったのに。

声は喉に詰まり、どうしても出てこなかった。


そんな俺を見て、雫は小さく首を振った。

「……ねえ、覚えてる? 初めて会った時、私……転んで、変なこと言っちゃったよね」

「……あぁ。『妖精さんのせいです』って」

「ふふ……あの時、笑ってくれた。馬鹿にするんじゃなくて、優しく……笑ってくれた。あの瞬間、私、救われたの。だから……頼っちゃったんだよ」

涙を浮かべながらも、雫は穏やかに笑った。

「……良かった。みおさんで」


その言葉を最後に、彼女は静かに瞳を閉じた。

“ありがとう”を返せないまま、俺は雫を失った。


数年後の夏。

俺は夕暮れの海辺に立っていた。

潮風が頬を撫で、波音が胸の奥まで響く。

思い出すのは雫の声と笑顔。

「妖精さんのせいです」と誤魔化した出会い。

「もっと色んなことしてみたい」と夢を語った横顔。

そして最後に残した「大好きです」という言葉。


――あの時、俺は“ありがとう”を伝えられなかった。

それだけが胸に残り続けていた。


波打ち際に立ち、俺は空へ向かって、静かに囁いた。

「……雫、ありがとう」


囁きは波音にさらわれ、静かに消えていく。

届いたかどうかは分からない。

けれど、胸の奥の空白がほんの少し埋まった気がした。


あの夏は終わらない。

雫が残した“生き直す力”は、今も俺の中で灯り続けている。



完。



最後まで読んでくださった方へ。

この物語は“ありがとうを言えなかった痛み”を書きましたが、同時に“それでも誰かを大切に思った事実”が残ることを信じています。

あなたが誰かに『ありがとう』を伝えたくなったなら、それが作者として一番の喜びです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
雫の“妖精さんのせいです”のシーンが最後まで効いていて、本当に映画を観ているようでした。切なくて、でも温かい。 なんで妖精なんだろうとは思いました。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ