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9・情炎(フレイム)

9・情炎(フレイム)



『フン!』


 もともと俺は、いわゆる外国人って奴の方が…これは「日本人から見て」という意味だが…気性(ウマ)が合った。国籍・人種を問わず…日本人以外とは、アイ・コンタクトでわかりあえるようなところがある。もし『生まれかわり』というものがあるなら、おそらく前世の俺は、どこか異国の地の生まれなのだろう。


『フン!』


 無言で左に目くばせし、俺たちは立ち上がる。

 世界的に、以前の先進地域は、どこもかしこも不景気・少子化で低迷していたが…かつての征服民が、その昔、自国の植民地だったユーラシアの「とある国」を見下して、こう言ったという。


「ここにだって、F1レーサーになるだけの才能を持った者もいるだろう。でも奴らは、(貧しくて)そんなことを、考えもしないだろう」


…と。だが、『栄枯盛衰は世の習い』。最近のアジア圏では、特に南方の各地が元気だ。それは経済面ばかりでなく、人間にも言える事。スポーツなども、そちら方面の選手が台頭してきていた。


(もっとも「金は天下のまわり物」。21世紀の初頭から急成長を始めた先の「とある国」とは、人類文明史の初期においては『四大文明』の一つとして、世界の最先端を行っていた時期があった国家だ)。


『フン!』


 俺の左隣りに、並んで立つのは…きついウェーブのかかった黒髪に、黒い瞳と黒い肌の男。「ン」で始まる名前…ようするに、「ん」で始まる単語を持つ言語圏からやって来た、痩身の若者だ。


(「人類発祥の地」でありながら、かつては「暗黒大陸」などと呼ばれ、文明化・近代化の波から取り残されていた時期もあったが…今では「最後の大市場」と言われ、発生した各種の利権獲得のため、各国・官民をあげて奔走している状況だ。当然、自動車業界も、そのひとつで…アフロ系の人選は、もちろん「彼の地」での、宣伝効果や販売促進を狙った意味もある)。


 軽く一礼をうながして、俺たちはその場を辞す。


「フイ~ッ!」


 除幕式(アンベイル)の済んだ新車を残し、ステージから(ソデ)に入った俺は…レーシング・スーツの首のベロクロをはずし、肩をすくめてみせた。ニヤリと、褐色の肌から白い歯がのぞく。俺たちのチームの正ドライバー。


(裕福な出ではない彼は、かつて「貧乏人の必需品」と言われたテレビ…一番金のかからない「ヒマつぶし」だからだ…を使ったゲームの世界から這い上がってきた逸材だ。全世界がオン・ラインで接続された現代。参加者の数は想像を絶する人数で、その厳しい中から厳選された一人。事実、実車に乗り始めた当初から、並々ならぬ適正を示したというが…先の逸話を語った「選民」に、聞かせてやりたいものだ)。


「子供」とまでは言わないが、まだハタチを過ぎたばかり。先に述べた、「事故死した有名俳優のゴースト・ドライバーではないか?」というウワサの張本人だ。


(たとえば、初期の「パワー・ステアリング」が実用化された頃は、「サスペンション配置形状(ジオメトリー)」や「転輪(ジャイロ)効果」などで、加速すれば・自然に直進状態になる「送りハンドル(セルフ・ステア)」が効かず、自分でハンドルを戻す操作が必要だったと云うが…路面から、タイヤやサスペンションを経由して伝わるフィードバックが少ない「アクティブ・サスペンション」。(あいだ)にコンピューターの制御が介入するので、情報量が少ないのは仕方ないのだが…もちろん、人間の感性に近い・生のフィーリングを実現するために、日々・改善は続けられているが、しかし、そんなハンドリングは、ゲーム上がりの人間にはピッタリだったのだろう)。


『フン!』


 彼の経歴など、俺にはどうでもいい事だが…


(実のところ陸上競技など、筋力を鍛えれば、いくらでも速く走れそうだが…「持って生まれたスピード感」が無い人間は、大成しないそうだ。スカウト・マンなどは、そのへんを「見抜く」目が必要なんだそうだが…それは、モーター・スポーツも同様。だから案外、「自分の脚で走る」のが速い奴は、機械を操っても速いものだ)。


 往年の名レーサーの言葉に、こんなものがある。曰く…


「チームが欲しているのは『今日勝った人間』ではない。『明日勝てる可能性のある奴』だ」


 なるほど名言だ。小柄だが、ガッチリした身体つき。肉体の方は、クスリや外科的手術で造り上げてきたようだが…


『さて! ハートの方は、どうだろう?』


(もちろん・これには、「心臓」それ自体と、『メンタルな強さ』という二つの意味あいがこめられている)。


 ある医学的研究によれば、レーサーというのは、体力的には、特定の箇所をのぞいて…たとえば、『横G』に耐えるために太くなった首や、かつてパワステが無かった頃の腕力など…特に注目すべきところは無いそうだ。しかしレーサーには、他のスポーツ選手とくらべて、格段にひいでているものがあるという。それは『精神力』だ。だが、それも・もっともな話だろう。一歩間違えば、死に直結するようなスポーツなど、そうそうあるものではない。少なくとも、トップ・レーサーともなれば、多くの門外漢が持っているであろう『破天荒』なイメージとは、対極に位置するものだ。「速く走る」という事は、そんなに単純な行為ではない。


(前にも述べたが、猛スピードで移動するレーシング・カー…ハンドルやペダルを操作する手先・足先の、わずか数ミリ・数センチの動きが、百分の一秒・千分の一秒後には、数十メーター・数百メーターの差となってあらわれる)。


『蛮勇』で速く走れるなら、何の苦労もいらない。

 つまり、レーサーに必要不可欠なものとは…飛び抜けた身体能力はいらないが、「車を速く走らせる才能」と「忍耐力」。


(案外それは、「持って生まれたもの」が占める要素が大きいのだが…今では多くの選手が、「メンタル・トレーニング」も取り入れるようになっている)。


 その両方を持ち合わせなくては、成功できないばかりではなく…おそらく、現状の・この世界では、長生きできないだろう。


(つまり、画像の中のゲームの世界と、こちらリアル・ワールドの一番大きな違いは、「失敗するとリセットがきかない」という点だ。実際にクラッシュした際などに、やり直しのきかない「痛み」や、最悪「死」が待っている)。


 どちらにしろ成果の評価は、いずれ時間がたてば、結果が証明してくれるだろう。


『そのためには…』


 舞台の方を振り返る。


『コイツのデキ次第だ』


 迷彩色に塗られた、俺たちの愛機…「ファントムF4」。


(「怪人(ファントム)戦闘機(ファイター)の試作4号という意味だ)。


『フン!』


 塗料を塗った場合と、重量増加分は、ほとんど変わらないが…貼ると剛性アップになる特殊な素材のシートで彩色された、緑と黒と茶の車体。


(航空機などでも、金属地肌より重量は増えるが、表面が滑らかになるので「空気抵抗」が減り、最高速はアップするという)。


 迷彩色というのは、しかるべき場所で見ればカモフラージュになるのだろうが…場違いな所に持ってくると、極彩色みたいなものだ。とても良く目立つ。


「ベトナム戦争を思い出すな」


 その場に居合わせた「小西」が、そう言う。

 なんでも、当時、迷彩色に塗られた「F4ファントム」という戦闘機が、日本の米軍基地にも配属されていたそうなのだが…


『アンタ、そのころ生まれてたのかい?』


 まあ、そんな事はどうでもいいが…


『まったく、半月早い「七五三」だぜ!』


 今宵は、サーキットに隣接されたホテルのパーティー会場で、お披露目会が催されていたのだが…体制発表会から、およそ10カ月あまり。長い残暑もひと段落し、やっと秋の風が吹きはじめた頃。


(俺のボヤキ通り、ちょうど「七五三」の半月前だ)。


 初開催の「アルティメイト・マイスター日本大会」。

 今シーズンの最終戦に組み込まれていたのだが…場所は、主催者である『A・S・アクティブ・スポーツ・ソサエティー』が、「AMS(アルティメイト・マイスター・シリーズ)」の規格に合わせ、中日本の過疎の土地に建設した、1周6キロのレーシング・コース。


(欧州式の「サーキット」ではなく、「スピード・ウェイ」を名に持つアメリカン・スタイルのレーシング・コース。その名称が示す通り、最初の右コーナーに『30度バンク』を備え、窪地を利用して適切に配置されたレイアウトは、コース全体が・はるか一望のもとに見渡せるようになっている。ゆくゆくは、このインフィールドの内外に、各種スポーツ施設や遊園地を持つ総合アミューズメント施設として、『A・S・S』の「日本展開」の拠点となるはずだ)。


 俺たちのチームの本格的な参戦は、来年からのはずだったが…主催者側からの強い要請もあり、特例で急遽・出場が決まったわけだ。


(日本のメーカーが出場すれば、良いPR材料になるし…俺のようなアジア人が顔を出せば、東洋の各地にもアピールできる)。


『フン!』


 俺はリザーブ・ドライバーとして、会場入りしていた。


(メイン・スポンサーとなったアフリカ資本の石油会社のコーポレイト・カラー「紫」を基調に、赤と黄色と黒の、太い斜目のストライプの入るレーシング・スーツは、まるで、どこかの民族衣装のようだ。だいたいマシンの迷彩色自体、熱帯のジャングルをイメージしたものらしい)。


 参戦初年度のチームは、シーズン中のテスト制限が緩和されるし、地元の利もある。


(ここのコースの「こけらおとし」も、俺たちのマシンが行った)。


 他社・他車との比較にもなり、前哨戦としては申し分ないが…やはり、準備不足の観は否めない。


(だいたい、テスト・グループが、そのままレース・チームになったような状態では、迅速なピット作業(ワーク)など望むべくもない。「継続は力なり」というのは、チームの総合力にこそ当てはまる言葉だが…生まれたてのチームでは、希望的観測すら望めない。素人目には、「自動車メーカーが、本気で取り組めば」と思うかもしれないが…レースの世界では、いろいろな面で、かなり特殊な技術が要求されるものだ。既存の組織を、機材やスタッフごと買い取ったのならともかく…新興の新参者では、それゆえ『一朝一夕』ではいかないものが多々ある。鋭意、経験者を募集(リクルート)するという手もあるが…デザイナーにしろ・メカニックしろ、社内で「()え抜きを養成・育成する」というのが、この企業の基本方針でもある。もっとも、今後「徹夜作業」なんてものも発生するだろう。労働組合などとの絡みもあるから、別会社を立ち上げて、レース部門を独立させる構想もあるようだ)。


 おまけに今回は、第1ドライバーのみの1台参加(エントリー)なので、データー収集も充分ではない。


「フン!」


 有力チームが、クルマとドライバー両方のテストも兼ねて、レース前の金曜や土曜日のテスト・セッションに新人を起用するように、俺も、もう1台用意されたスペア・マシンを使って、セット・アップや本番用のタイヤ・テストに(はげ)んでいたが…


「彼は、本当の意味での天才…チュラル・ドライバーだよ」


 特にブレーキングは才能だ。たとえ「アンチロック()ブレーキ()システム()があったとしても、「どこまで突っ込めるか?」「きちんと止められるか?」は、別物だ。


(『ブレーキ』というのは、「止まる」ための装置ではない。減速方向への速度コントロール・システムで…「停止」というのは、結果としてそうなるだけで、減速側へのいち(・・)行為にすぎない)。


 持って生まれた要素が大きい。


(たとえば、「反射神経」は生来のもので、訓練で大幅に改善できるものではないという。それと同じようなものなのだろう)。


『これも仕事だ』


 そう割り切って、セッションの合間、インタビューを受けていた俺は、ナンバーワン・ドライバーについての感想を求められていた。


『フン!』


 新進気鋭の若手と、かたや過去の遺物と目されていた老体(ロートル)レーサー。


(実際こちらの団体では、若くして成功を手に入れた奴なら、俺の年齢に達する前に、とっくに引退していたし…生きていたいなら、誰もが「引き際」を考え始める歳だった)。


 世代も違うし、誰もが不仲・反目を予想したようだが…どういうわけか俺たちは、はじめから気が合った。


(と言っても、無口な俺に、日本語のできない若者。お互い片言の英語では、話が弾むわけもない。もっとも、前にも述べたように…言語が変わったからと言って、生来・口数の少ない人間が、急に饒舌になるはずもない)。


 右も左もわからない、慣れないニッポンという事もあったろう。俺は「チーム・メイト」以上の役目を果たしていたのだが、ただし…


『あいつは、自分がどうして速いのか、わかっていない』


 ここからは「オフ・ザ・レコード」。俺の頭の中での会話だ。


『だから一番困るのは、スランプになった時さ』


 不調になった時の、天才にありがちなジレンマ。


「何が悪いのか、サッパリわからない」


 はっきり言って…俺が思うに…彼は「走り過ぎ」だった。

 数年前にデビューした正統派団体で、複数のカテゴリーを掛け持ちして、多い日には、1日3レースのトリプル・エントリー。やがて、二つのクラスでダブル・チャンピオンを獲得したのだが…それ以降、成績も停滞気味。ここのところ見るからに、「走り」に生彩を欠いていた。


(前にも語った事があると思うが…職業病になるようでは、やり過ぎなわけだ。そんな時は、たとえば日常のトレーニングにしても、向上心の無い「練習のための練習」になっていたりする)。


「継続は力なり」と言うが…いくら天才といえど、集中力の欠如は致命的だ。


(先に述べた「人間関係」に関するものも、慣れ合いの「ナアナア関係」になってきたら、一喝する事も必要で…こういったものが、一歩退()いた所から全体を俯瞰する「(現場)監督」の役目になるわけだ)。


 ダラダラ続けているくらいなら、いっそ思い切って、きっちり休んだ方が良い時もある。


(ケガや故障で戦列を離れていた選手が、復帰後に活躍する事があるが…それが良い例だろう)。


無人機(ドローン)の方が、速く走れるんじゃないか?」


 それに、今回から『A・S・S』の「アルティメイト・マイスター・シリーズ」に鞍替えするにあたり…(あちらのレースで)ゴースト・ドライバーを務めたことが発覚したゆえに、「むこうの団体には、参加しづらくなったからだ」という噂が立ち、成績の低迷が批判に拍車をかけていた。

 さらに、もともと彼は、昔からアフリカの新興石油王のバック・アップを受けていたのだが…そのボスのワンマンぶりが、メディアの反感を買ってもいた。


(オイル・マネー企業は昨今、世の中の移り変わりとともに、規模は小さくなったが…その分かえって、少数の人間が利権を握るようになったという。それが、俺たちのメイン・スポンサーだ)。


『フン!』


 そんなゴシップは、こちらには関係の無い事だった。ピットのガレージの中で俺は、ヘルメットをかぶり、シート・ベルトに縛られたまま、狭いコックピットに閉じ込められ、ジッと待っていた。

 こうしていると、完全に外界から隔絶された気分になってくる。不快だというのではない。「俺の仕事場」。「一番落ち着ける場所」。エンジニアなどと必要な会話を交わす以外、インタビューなどの、わずらわしい思いをしなくてよいし、必要とあらば、高いテンションを保ったまま、一晩でもそうしていられる自信がある。


(基本『個人主義』の俺は、たとえば軍に入隊したとしたら、きっと「狙撃兵(スナイパー)」に志願する事だろう)。


『?』


 だが彼は…ピット・インのたびごとにマシンから降りては、毎回ヘルメットを脱いで、ソワソワと落ち着かない様子だ。

 チラチラとコチラの様子をうかがい、俺がタイムを上げれば、マシンに飛び乗り…


(本戦仕様の「日の丸カラー」に仕上げられた俺のクルマと違い、「熱帯草原(サバンナ)」育ちのNo.1ドライバーの国色(ナショナル・カラー)…「白地に黒縞」模様の縞馬(ゼブラ)カラーだ)。


 コースに出ては、コンマ数秒・上回って帰ってくる。


(同じチームのドライバーを、ヘルメットと・見えもしないゼッケンでしか判別できない向こうの団体と違い…区別は一目瞭然。また、一台(シングル)エントリーばかりでなく、三台以上の参加や・臨時(スポット)での参戦も認められている。もっとも、規定台数を越えれば「予選落ち」も出てくるが)。


 そんな事を、くり返していたが…


優先順位(プライオリティー)をつけて、順番にこなしていくだけだ』


 俺たちは、セッティングのまっ最中だった。

「一発の速さに欠けるマシン」

 俺に言わせれば、速いマシンをゆっくり走らせる事はできても、遅いクルマでは、コンスタントにタイムを刻む事すら不可能だと思っていたのだが…チーム全体に迷いがあった。「本番のロング・ディスタンスに賭けるしかない」という苦肉の策を取る事になったが…満タン状態での挙動も、不満だらけだった。


「フン!」


 おまけに、軽量&ハイ・パワーなレーシング・マシン。タイヤの面圧はかせげないので、面積を広げるしかないのだが…タイヤ高は、ふた回りほど。幅は、通常のトップ・フォーミュラーカーの2倍弱。黒々とした・そのタイヤのシルエットは、視覚的にもマッチョで良いが…それでも、エンジンのパワーの方が(まさ)っている。ハード・コンパウンドのタイヤでも、予想以下の周回数でタイヤがボロボロになっていた。これでは、「ロング・ディスタンス」どころの騒ぎではない事は、明らかだ。


(純国産を標榜していたマシン。タイヤ開発にも、国産メーカーが参画していたが…もっとも、今どき日本人だけでメンバーを固めるなんて、どだい無理な相談だ。正社員以外にも、外注や契約社員など、多数の優秀な外国人スタッフが在籍している)。


『?』


 マシンから降りるなり、ヘルメットを脱ぎ捨てたエース・ドライバーは…

「ステイ・カルム」

「テイキット・イージー」

 そんな風に声を掛ける・個人(パーソナル)マネジャーや理学療法士(フィジオ)など、取り巻き連中にわめき散らして、いったんモーター・ホームに引っ込むが…やがて、まるで別人のような顔をして戻ってきた。どうやら、興奮剤や精神安定剤を使い分けているようだ。


『フン!』


 コックピットの中から、そんな姿を認めるが…目の前に掲げられたデーターのモニターに視線を戻した俺には、ちょっとしたアイデアがあった。

 有線式の通話装置をオフにして、右前に立って・ハンディーPCにデーターを打ち込んでいる「藤原」を手まねきし…


「次のセッション、ついでに試してみたいことがあるんだ」


 そう告げて、両目でウインク。


(つまり、「他のみんなには内緒だぜ」という意味だ。もともと、あの事故・以前から俺は、普通に片目で「まばたき」できる人間ではなかったが…極寒の地で進化・発展した、「ひとえ」の(まぶた)を持つ北方系の民族の特徴だそうだ…俺と彼との間には、すでにそれくらいの「アイ・コンタクト」が通じる『あうんの信頼関係』ができあがっていた)。


 俺は、右側から操縦席(コックピット)に顔を突っ込んで来た「藤原」に、ヘルメット越しに耳打ちし、「ワン・ペダル・モード」を解除して、通常のペダル操作に戻してもらう。


(合わせて、自転車の「トウ・クリップ」のように、靴底をペダルに固定する機構も、両足ともにリリース)。


「ショウさん!」


 けたたましい排気音を残して、走り去って行くレーシング・カー。エアー・インパクト・レンチの作動音や、大勢の人々のざわめき。いろいろな騒音が渦巻く中から、自分の名前を呼ぶ声を聞きわける。こういった人間に備わった能力を、『カクテル・パーティー現象』と呼ぶそうだ。


(前にも述べた通り、こちらの団体では、主催者が使用している公式品以外、一切の無線機器が禁じられている)。


『フン!』


「藤原」が右手の親指を立てて、合図している。

 イグニッションのボタンを押して、スターターを回す。大昔のレーシング・カーと違い、現代のレーシング・マシンは、始動装置完備だ。だから、コース上でスピンし・エンジンが停止したからといって、その場でリタイヤなんて「興醒(きょうざ)め」な結末はありえない。


(規定以上の大幅な軽量化や、実際より重たい方向に設定された最低重量が、クール・スーツと連結したエアコンなどの装備をも可能にしていた)。


 コース・インした俺は、コーナー進入で、通常なら左足でブレーキを踏むところだが…あえて、アクセルを操作していた右足を踏みかえてブレーキング。減速終了後、ふたたびアクセルに足を戻すまでのわずかな時間でタメを作り、外側のタイヤに荷重を載せるようにして、コーナーへと切り込んでいく。後は、アクセルでタイヤのグリップの限界を探りながら、カーブの出口へ。


(「カーブを曲がる」という動作には、二つの力が作用している。まずは『スリップ・アングル』。「舵角(だかく)」という言葉があるが、(ハンドル)を切って抵抗をつけ、向きを変える行為だ。何かと「低抵抗(フリクション)」が優れているかのような「謳い文句(キャッチ・コピー)」があるが…「空気抵抗」が無ければ飛行機は飛ばないし、「摩擦抵抗」が無ければ車は走らない。次に『コーナーリング・フォース』。これを一言で言い表わすならば、「外足荷重」といったところが適切だろうか? 自分の足で走っている時だって、カーブを曲がろうとすれば、外足をつっぱるだろう。そういった力だ。低速域や「きっかけ作り」では『スリップ・アングル』を使い、旋回中は『コーナーリング・フォース』がメインとなる)。


『フン!』


 以前、とある雑誌の企画で、2輪駆動と4駆の「エンジン・ブレーキ」の効きの違いを検証した記事を読んだ事がある。そこでは、0・(コンマ)数秒の違いに、「明確な差異は無い」と結論付けていたのだが…


『はたして、そうだろうか?』


 前にも述べたように、時速400キロで走るレーシング・マシンは、1秒間に110メートルも進んでいる。レーシング走行中には、「ペダルを踏みかえる」という行為の・わずかな時間のズレが、大きな意味を持ってくる。


(ゆえに俺は、黄色信号の点灯時間を、あとコンマ数秒長くするだけで、交差点での「出会いがしら」の事故が、大幅に減ると思っている)。


 それに何より、そのタイヤだ。ミューの高くない路面を念頭に作られている。


(ずいぶん昔のこと…2輪でも4輪でも、そうなのだが…整備されたサーキットで育った日本人が、悪い意味で伝統のある、路面の荒れた欧州のコースに行くと能力を発揮できなかった時期があるそうだ。しかし今では、新しいアジアのサーキットに対し、日本がそういった環境になっている。もちろん、ここのコースは最新だ。だが敷かれたばかりのアスファルトは、まだ油分が多く、グリップは良くない)。


 そんな現代ニッポンのタイヤは、ブレーキを残したままコーナーの奥まで突っ込み、強引に車の向きを変えるような走りを想定して作られていない。


(『ブレーキングG』=「縦G」と、『コーナーリングG』=「横G」の兼ね合いだ。グリップの良い路面でタイムをかせごうと思ったら、ブレーキを残しながら、徐々に…と言っても、コンマ数秒の単位だが…縦と横の力の配分を変えていく走り方のほうが、操舵輪であるフロント・タイヤに荷重がかかり、効果的に向きを変えられる場合(パターン)が多い。だが、タイヤのグリップ力は、縦方向と横方向の総和とされる。たとえば、コーナー入口でブレーキングに80パーセントの力を使っていたら、横方向のグリップは20パーセントしか残っていない事になる。いま俺が試しているのは、減速区間で縦方向に100の力を使い、旋回中は横方向に100。そしてコーナー出口からの加速に、100の能力を向ける…といった走法だ)。


 この事に関しては、勘違いしている奴が多いのだが…挙動の変化を多用するか否かなど、走り方の違いは、マシンの開発コンセプトの違いによるところが大きい。一番の違いは「レーキ角」だ。


(真横からクルマを見た時の、前下がり…と言うより、リアの上がり具合を指す)。


 角度が大きいほど「ハイ・レーキ」と呼ばれ…車体に前下がりの傾きをつけて、『(むか)え角』を増やし、路面に押しつける力=「ダウン・フォース」を強くする。


(「ハイ・レーキ」のレーシング・マシンを例えるなら…駐機状態の「ゼロ戦」などの、プロペラ戦闘機を想像してもらうと良い。飛行機と自動車では、要求される力の入力方向が正反対の向きになるが…前方が見えないくらいに頭が持ち上がっているのは、下面に向かい風を受けて、離着陸をしやすくするためだ。そして、速度と高度が上がれば水平状態になるのは、ハイ・レーキのレーシング・カーが、全開で直線を走っている時は、路面と平行になるのと同様だ)。


 一方で、はじめからレーキが少ない仕様を「ロー・レーキ」と言い…ボディー下面と路面の間隔(クリアランス)を一定に保ち、「ダウン・フォース」を確保する。

 こちらは、大きな挙動変化を嫌う。だから、ブレーキングからコーナーリング移行時など、マシンの姿勢を崩さないような、スムーズな操作が要求される。


(それで同一コースでも、クルマの特性の違いによって、どちらかの走法に分かれたりするワケだ)。


 そして俺たちの乗るマシンは…床底面(フロアー・ボトム)の角度が、路面と・ほぼ平行な「フラット・レーキ」の思想の元に、設計・製作されている。ゆえに…


「コーナー進入までにはブレーキングを済ませ、高いコーナーリング・スピードを保ったまま旋回する」


 それが肝心要(かんじんかなめ)だった。


『フン!』


 かなり良い感触だった。1周のタイムが向上した上に、タイヤのタレも大幅に改善され、安定したタイムを記録していた。


(こういうステップ・ワークをすると、若干ではあるが燃費の向上にも貢献するパターンが多く、ロング・ディスタンスを作戦とするには、さらに有利な展開になるはずだ)。


 時間も限られた、「フリー・プラクティス」の最終セッション。終了時間も迫っていた。


「!」


 俺のタイムを見たエースは、あわててヘルメットをかぶり、マシンに乗り込む。データーは共有してあったが…もっとも、数字やグラフでは、違いが読み取りづらい領域ではあるが…同じチームとはいえ、コース上ではライバルでもある。


『フン!』


 チラリとこちらに一瞥(いちべつ)をくれたたけで、ピット・レーンへと出て行く。しかし次の瞬間、ガレージの天井付近から吊るされた、音声の無いテレビ画面に映し出された光景は…


『?』


 減速にのみ専念できる『ワン・ペダル・モード』から、通常の操作に切り替えたばかりなのに…なかなかセッティングが決まらず、アセッていたようだ。


(それに、「タイヤ・ウォーマー」を使っていたとはいえ、まだ完全に温まりきっていないタイヤでは、本来のグリップ力を発揮できないのだが)。


 コース・インする際、左側に続いていた「ピット・レーン」とコースを仕切るガードレールが切れ、速度規制が解除されたピットの出口で、スロットルを強く踏み込みすぎたのだろう…左回りにスピンしながら、左側を走る本コースを横切るような形でストップしたところに、全長2キロの半分以上を過ぎ、最初のバンクを目指し、ほぼフル・スピードの「時速430キロ」で疾走してきた車が、横っ腹に突っ込む。


『!』


 ターボやエンジンの冷却で、100度以上の高温になり・数十気圧の高圧に加圧された特殊な液体を使った冷却液(クーラント)が、一気に大気中に開放され、派手な水蒸気の煙りを上げるが…


『ゴクリ!』


 思わず息を飲み、言葉も出ない。


『なんてことだ』


 バンクの下まで弾き飛ばされ、前側の1/3ほどの所で、「サバイバル・セル」を切り裂かれた彼のマシンは、エタノール系の特殊燃料に火がつき、見えない透明な炎を上げて燃え上がる。


(ほぼ満タン状態だった上に、スペシャル・ブレンドの燃焼効率の良い燃料)。


 一瞬にして、ショットガンの弾も弾き返すシールドが溶け、ヘルメットの塗装が、ただれ・崩れ落ちていく。


『ほんとうなんだな』


 凍ったような、冷たい青白い火炎(フレイム)の中で、水分が抜けて、筋肉が収縮しはじめた腕は、助けを求めて手を振っているように見えたが…主催者が流しているモニターの公式データー上では、呼吸も心拍数も平行線を示していた。おそらく・あの位置では、彼の胴体もまっ二つになっているはずだ。


『フン!』


 コースの両サイドに埋め込まれたランプは、『イエロー・コーション』(追い越し禁止)から、「全車即停止」を意味する赤色点滅へ。

 消火用の、水を主剤にする液体が吹きかけられたところで俺は、マシンから降りて…ヘルメットも脱がず…そのままモーター・ホームへとむかった。


     *     *


『人が死ぬ頻度が高いサーキットに、怪談話がまったく無いのは、誰もが納得済みだからだろう』


 前にも語ったが、俺は心霊現象なんてものには全然・縁が無く、死後の世界なんてものも、まったく信じていなかったが…前々から、そんなふうに思っていた。


(そんなものは幻覚だと思っているし…だいいち、高速走行という非日常的状況にあって、幻影などに惑わされ・しっかり現実を把握していなかったら、危険きわまりない事態に(おちい)る事になる)。


『レーサーなんて、超現実主義者でなければ、つとまらない』


 だいたい、どいつも・こいつもウソくさい。

 常識的に考えた場合、宗教的奇蹟なんてありえない。しかし、そんな「教え」が、全世界レベルでまかり通っているなんて…それこそ「摩訶不思議」を通り越して、理解不能で意味不明な「奇跡」だ。


(だったら目の前で、奇蹟を起こして見せてくれ。たとえば、「盲目の人間を開眼させた」という云い伝えのように。そうすれば俺だって、信じる気になる…かもしれない)。


 もっとも『霊』だって、現代の科学レベルでとらえられないからといって、否定できない点もあるだろう。


(『呪い』や『(たた)り』の類いだって、『量子力学』的「素粒子」レベルのエネルギーのやり取りまで測定できるようになれば、何かわかるかもしれない)。


 しかし太古の昔から、ずっと・そんな事に頭を悩ましてきたのであろう人類なんて、きっと・いつまでたっても、その程度の存在のままなのかもしれない。

 どちらにしろ俺は、女房・子供を踏みつけてまで出家した、超有名宗教の開祖様と同類だ。


(俺なんかとでは、格も理想も違うだろうから、比較したのでは失礼かもしれないが…教祖様は、最初から『衆生済度(しゅじょうさいど)』なんて高い目標を掲げていた訳ではなく…高邁(こうまい)な教義は、後世の後継者の後づけで…あくまで、単なる個人的な「悟り」=『解脱(げだつ)』を目指していたにすぎないと思っている。じゃなけりゃ、高貴な身分や家柄、ましてや家族を捨てるような「人非人(にんぴにん)」な行動には出ないだろう)。


 だから俺は『地獄の業火(ごうか)に焼き()くされるまで、走り続けなくてはならない』


 そう覚悟はしているのだが…現実的な問題、最高峰のレースに参加するにあたっては、最前線の現地スタッフばかりでなく、バック・アップしてくれている研究所のメンバーまで含めれば、どこのチームでも何百人という人間が関わり・携わっている。

 人一人が死んだとはいえ、不参加を決め込むなんて…なにより、大金をつぎ込んでくれているスポンサー連に、顔が立たない。


(「1チーム=1千億円近い」とまで言われる活動費が、動いている時代だ)。


「フン!」


 さまざまな意見が飛び交い、深夜にまでおよんだ長い協議の末…


「君は、どうなんだ?」


 結論が出ないまま、最後に・そう振られた俺は…


「異存なし」


 簡潔・明瞭に返事をする。


(最終的に、実際に走る俺の意見が尊重された格好になったが…チ=ム・メイトとはいえ、同時に一番のライバルでもある敵が、一人減ってくれたワケだ。ましてや、立場が上の人間が消えてくれたとなれば、闘わずして、ポジションがひとつ繰り上がったようなものだ。こんな「千載一遇(せんざいちぐう)のチャンス」を、みずからフイにするようなら、「戦う」ことを辞めたほうが良い)。


 そんな経緯(いきさつ)で、リザーブ・ドライバーだった俺は、いきなり「第一線」に駆り出される事になったわけだが…


「眠れないの?」


 俺の気配を察したのか、闇の中から彼女の声がするが…眠れないのは、彼女も同じだったのだろう。


(ホテルの一室。本来なら「住職近接」。レース前は、自分専用のモーター・ホームにでもこもっていたいのだが…正ドライバーでもない俺には、逆にそんな高待遇は、望むべくもない)。


「ああ…」


 前にも述べたように、本来・寝つきの良い俺だったが、この日は特別だった。


(もちろん・それが、久しぶりの本番前だからという理由だけでない事は明白だ)。


(とむら)い合戦?』


 もっともらしい理由をつけて、納得しようとも思ったが…偽善めいてて打ち消した。


『恐怖心?』


 通常は誰もが『自分だけは、そうはならない』と思っているか、ハナから考えもしないようにしているかだが…こんな事があると、ドライバーばかりでなく、関係者の誰もがナーバスになるものだ。


(どちらにしろ、危険な競技だ。時にはそれが「緊張感」なのか「恐怖心」なのか、わからない事もある)。


 しかし…こんな場合は、催眠術にでもかかったかのように、感情の無い機械のように振る舞わなくてはならない。


『現実なんて、こんなものさ』


 俺は、仰々しく泣きわめく「創り物」のドラマや芝居が大嫌いだった。べつにニヒルを気取るつもりはないが…それが俺の意見だ。


「前から一度、聞いてみたかったんだけど…」


 ツインの部屋の、俺の右側のベッドから…こちらに向き直る気配とともに、そう訊いてくる。


「どうして、こんなことをやっているのかしら?」


 なるほど。


「同じところを、ぐるぐる回っているだけなのに…」


一般(カタギ)の人間」から、よく問われる質問だ。


「どうして走るのか?」


 たいそうな理由があるわけではないし、初めてサーキットを走った頃は…ただ単純に「楽しい」だけで…そんな事、考えたことすら無かった。


『自明の事だから?』


…人に勝つために?…

…誰よりも速く走りたいから?…


 理由はひとつではないが…俺が用意している解答のひとつに、こんなものがある。


(事前に答えがあるという事は、すでに何度も「自問自答」した事があるからだ。たとえ自分で走った事がなくとも、モーター・スポーツに関心がある者なら、一度や二度は頭を悩ませた事があるであろう命題(テーゼ)だ)。


「得意なコーナー。好きなコース。『ここだけは、きめなくちゃ』と思う場所がある」


 上手く走れた時の高揚感は、とても言葉では言い(つく)せない。


『フン!』


 前にも自論を述べた、「芸術の意義」にかかわるようなもので…たとえば「(つぼ)」だ。美術館や博物館に展示される物がある一方で、日用品として、誰にも注目されない物もある。


(実用品という観点から見れば、はるかに使いやすいにもかかわらずだ)。


 特にクルマの運転は、絵画や彫刻・音楽などと違い、(壺などと同様)実用性がある分、比較がしやすいだろう。だが…


「この道○十年。その俺が言うんだから」


似非(エセ)職人」が、よく口にするセリフ。しかし…


『○十年も、いったい何していたんだよ?』


 真の求道者(きゅうどうしゃ)なら、恥ずかしくて・絶対に口に出せない文句。


(俺に言わせれば…「タクシーやトラックの運転手を何十年やろうと、一流レーサーになれるわけじゃない」という事になる)。


『世の中、勘違いしている奴らが多すぎる』


 たとえば…ミュージシャンや芸人を目指して、居酒屋でバイトしている人間。

 たとえ・それで生計を立てていても、「プロ意識」の無い人間を、はたして「店員のプロフェッショナル」と呼べるだろうか? つまり…


『「プロフェッショナル」とは「プロ意識」を持つ人間の事だ』


 俺は、そう信じている。そして、それ以前に…


『フン!』


 ただ何とは無しに、「創作者(クリエーター)になりたい」と言う(やから)もいるが…そんな奴に、聞いてみたい。


『何か表現したいものがあるのかい?』


 芸術家になれる人間は、始めから「目的」や「目標」が違うものだ。


(だから、たとえ幼稚な作品でも…それが観賞にたえる物かどうかは別にして…子供の絵の方が、はるかに芸術性があったりする訳だ)。


「それに…」


 俺も闇の中、こちらを向いた彼女がいるであろう右に寝返って…


「セクシーなラインを持つカーブは、何度通っても飽きがこない」


 際限(さいげん)なく訪れる、めくるめく快感。


(心理学者「ジークムント・フロイト先生」の言う、「すべての動機は性欲に起因する」という説は、『あんがい本当かもしれない』と思う一瞬だ)。


 でも、通り過ぎた次の瞬間には、もう…


『もっと上手く走れたんじゃないか?』


 そんな気がするのさ。そして、一周して戻ってくる頃には…


『もっと速く走れるんじゃないか?』


 そう思っているワケさ。


(だから、「利き手側・利き足側の方がミスが多くなる」とか、「得意な場所の方が事故率が高くなる」というのは、案外、事実なのだろう)。


「毎周・毎周が新鮮で、毎回・毎回がチャレンジなんだ」


「…」


「つまり…サーキットのアスファルトの上に、『表現したいもの』があるのさ」


 俺は闇の中に、そう返答するが…


「でも、そこまでして…命を()してまで、走る価値があるのかしら?」


 きっと、そう続けたかったのだろうが…


「…沈黙…」


 たしかに…


「それも、命まで賭けて」


 常人(じょうじん)には理解できない感覚だろう。でも…


「みんな、納得済みのはずさ」


 むしろ冷淡に、俺は自分自身に言い聞かせるように、そう語る。それに…


『彼女だって、かつては一途に打ち込んだものがある』


(スポーツの世界で、少なくとも自分の限界くらいは極めたはずだ)。


 安っぽい、昼のメロ・ドラマのようなセリフ。そんな事を、口にする人間じゃない。


『フン!』


 思いとどまったようだ。


 ただここで、『文化』について、一言で俺の意見を述べさせてもらうなら…


『何がしかの才能ある人間が、その世界で食っていける世の中』


 それが『文化』だと思っている。そして起き上がり、ベッドのへりに腰掛けながら、こうつぶやく。


「能力のある人間が、その道で努力しないのは、犯罪にも近い行為だと思っている」


 そう。10年前の俺のままなら、『それも当然』とばかりに、考えもしなかった事だろうが、今は…「才能」と呼べるほどのもが備わっているかどうかはともかく、プロとして食っていけるだけの「適正」くらいは持って生まれてきた事に、素直に感謝している。


『フン!』


 少し落ち着いてきた俺は、立ち上がり、場所を移す。


志津子(しづこ)


 父親が名づけてくれたという、古風な名前。


『?』


 闇の中。俺が小声で、そう呼ぶと…それを便りに、手を取り・引き寄せられる。


情炎(フレイム)


『俺には、「地獄の業火(ごうか)」に焼き()くされるような「死に方」のほうが、(しょう)に合ってる』


 どちらにしろ…「野たれ死に」のような、中途半端な(しかばね)(さら)すくらいなら、いっそ灰になってしまった方がマシだった。


『フン!』


 俺たちは、求め・求められ、深く唇を重ねた。


     *     *


「ポン…ドン! ドン! ドン!」


 開幕を告げる、朝の花火。


「運動会みたいね」


 そんな「志津子」の声で、目を開く。


「日本には、そんな習慣があるのかい?」


 ()()もなく裸体をさらしたまま、カーテンを引く志津子の後ろ姿に、そう尋ねる。


(と言っても、特に男の場合、自分の『肉体』に自信のある奴は、やたらと「脱ぎたがる」ものだったりするが…まあ、そんなトコだ)。


『「ひとわ」の時は、どうだったろう?』


 もっとも、たとえ養護学校でなくとも、あの子は運動などできない身体だし…俺も、自分の顔の再生が済むまでの、人目をはばかるような暮らしを続けていた時期だ。


(その後だって、日曜・定休の仕事ではなかったので…何かのイベントがある時は、昼の空き時間に、あわてて駆けつけるのが「関の山」だった憶えしかない)。


『フン!』


 窓外(そうがい)に目を()れば、見事な「秋晴れ」が広がっているが…こうしていると、「定食屋の亭主」だった頃が、遠い昔のようだ。結局、一度きりの人生。結果はともあれ、『やった者勝ち・楽しんだ者勝ち』なのだと思う。


「いよいよね」


 左肩に寄り添うように、「志津子」がやって来る。それも・これも、彼女との出会いがあっての事だ。


「フン!」


 大会の方は、予選まで含めたワンデイ・レース。


(金〜土とテスト・セッションがあるので、サーキット入りは「ゲート・オープン」となる水曜・以降だが)。


 なにしろ、「世界最速」が謳い文句だ。サポート・レース等の下位カテゴリーなど、不要だった。


(こちらの団体にも、2輪&4輪、オン・ロード&オフ・ロードなど、各種のカテゴリーはあるものの…各ジャンルで、「世界最速」を掲げていた)。


 だいたい何レースもあったところで、観ている観客の方も疲れるだけだ。メイン・イベントの頃には「あくび」が出てしまう。

 その代わり、フィナーレは、長く盛大に。「ピット・ウォーク」も、この時に行なわれる。メイン・ストレートには完走車両が並べられ…選手はケガでもしていないかぎり…全ドライバーに、ファン・サービス・イベントへの参加が義務付けられている。


(中には、不満足なレース結果に機嫌の悪い選手もいるが…精神集中したいレース前より、良くても悪くても気分的には楽なので、得てして好評だった。それに、帰り車の分散にもつながるので、地元からの苦情も少なくなる)。


『さて!』


 朝の公式練習までに、身体のウォーミング・アップを済ませておかなくてはならない。

 なにしろ、朝の「FP(フリー・プラクティス)」は、「ウォーム・アップ」というより、マシンの最終チェックが目的だ。


『フン!』


 たとえば、元妻がやっていた「フルート」だ。その日の気温や湿度で、チューニングが変わってくる。

 それと同様に…「ピン・ポイント」で、最良のセッティングを狙っている現代最先端のレーシング・マシンは、何かがわずかでも狂えば、最適からはずれてしまう事がある。


(特に、不確定要素の多い・ゴムの(かたまり)「タイヤ」が、一番厄介だ。サスペンションなど、千分の一ミリ単位で、再アジャストが必要だったりするし…予選や決勝になった時点での、気温や湿度・路面の状態や路温などを予測し、セッティングの微調整の案を練っておかなくてはならない)。


 朝の「フリー・プラクティス」は、そんな確認の意味が強い・非常に重要な、本番へ向けての「最後の仕上げの準備」となる。それに…


『期待してるぜ!』


 昨日のテストで効果がありそうな空力パーツを、「地の利」を活かし、急遽、投入する事にもなったので…その正否の判断もしなくてはならない。


(もっとも…「思いついた物を、その場で造って・試してみる」。近年の「軍事関連」では、「兵站(ロジスティック)」などの効率化のため、「(整備や修理などで)必要な物は、その場で作る」のが当たり前だが…フル参戦しているチームなら・どこでも、「3Dプリンター」と原材料を持って来て、現場で試作したり、調達しているものだ)。


 ただ…演奏の合間にも、フルート自体の温度変化によりズレてきた音程を、マウス・ピースの部分を出し入れする事で調節する必要があるが…競技車両(レーサー)も、タイヤや燃料の減り・コースの汚れ具合や路面の温度変化など、変わってきた状況(コンディション)に合わせ、走りながら「安定装置(スタビライザー)」や「ブレーキ・バランス」などの微調整を行う必要がある。

 今では・かなりの部分を、AIと連動したコンピューター制御機器が、肩代わりしてくれているが…不確定要素すべてを、網羅する事など不可能。


(相互通信によるコミュニケーションが禁じられた状態では、いっそうレーサーとしての力量が問われ・資質が試される)。


 最終的な判断・調節は、ドライバーが走りながら、カンと経験で行う事になるが…


「センサーの数と、メモリーの容量がどれだけあるか」


 それが仕事の仕上がり具合を左右する、重要な要素(ファクター)となる。


(もちろん・それは、機械的な物ばかりでなく、人間自身の肉体についても言える事だが…)。


『フン!』


 すでに、今シーズンのシリーズ・チャンピオンは決定していたが…


(こちらの団体の「選手権ポイント制」は、画一的で杓子定規(しゃくしじょうぎ)な・むこうの団体の制度とは異なり、台数に合わせて、獲得できる点数が変動する。出走するクルマが多ければ、それだけ見返りが増し…それに、決勝レースで走りきれば、たとえ全車完走の『ブービー賞』でも、1ポイントは手に入る。だから、たとえ最下位を走っていたとしても…最終ラップに前走車が、トラブルで棄権する事だってありえる。それで…次戦にむけて、エンジンなどを温存するための「戦略的リタイア」をするチームは、皆無に等しかった)。


 客の入りは、上々のようだ。朝のプラクティスの段階でも、かなりの人出がある。

 なんでも…昨晩になってから、インターネット販売の前売りチケットの数が、いきなり急増したという。


「誰もが、非日常を求めている」


 皮肉な事だが、前日の死亡事故が、良い宣伝になった事は確かだし…


『安全になり過ぎるのも、退屈なものだ』


 これは、俺の個人的な意見だが…


『ちょっと危険なくらいじゃないと、つまらない』


 前にも、同じような事を語ったが…実際、それが俺の本音(ホンネ)だし…入場券の売上増が、観衆の気持ちを如実に代弁している。


『フン!』


 なんでも、「空気」にも『味』があるんだそうだが、『共感覚(シナスタジア)』がある人間になら…


(これも、以前・述べた事だが…つまり、『五感』=「視・聴・嗅・味・触」が分化していない赤ん坊と、同じ特性を残した人間なら)。


 空気を吸って・味覚を覚えたって、おかしくないだろうし…当然、「匂い」や「臭い」は、常人にだって感じられるものだ。


「イ〜イ、におい!」


 かつて祖父(ジイサン)が、懐かしそうに語っていた事がある。子供(ガキ)だった頃の思い出らしいが…まだ、わずかに残っていたのであろう、不完全燃焼の煙りモクモクの発動機。わざわざ、その排気管の後ろに行って、においを嗅いでいたそうだ。


(環境や身体には、害悪だろうが)。


「死」や「毒」を肯定するような言葉を口に出すなんて、清潔になり過ぎた現代では、アンチで野蛮な行為だが…ガソリンやオイルの焼ける臭いに、郷愁に似た感覚を覚える人間だっているワケだ。


『フン!』


 また、これは俺の実体験だが…21世紀の初頭に造られたという、「V10(ブイテン)」のレーシング・エンジンの(サウンド)を、「(ナマ)」で聴いたことがある。


(「ターボ」がルールで禁じられ、まだ「ハイブリッド」などが普及する以前。「MGU=電動機(モーター)発電機(ジェネレーター)装置(ユニット)」などの、余計な付属物がついていない「NA=自然吸気ノーマル・アスピレーション」)。


 雑音のまったく入っていない、綺麗に調律された音色は、まさに『究極の内燃機関』。完璧に調和のとれた旋律を奏でて走り去ると…


「アウッ・アウッ!」


「酔いしれる」なんて、生やさしいものじゃない。「興奮」というより、あまりの「感動」に、息ができない。

 これが12気筒だったら…

 それが20数台も走ったら…

『心臓が止まってしまうんじゃないか?』と思ったほどの、経験をした事があるが…


「爆発による爆音には、人体の五感を揺さぶる快感が存在する」


 それも・また、事実だ。


(いまだに電気自動車エレクトリック・ビークルが、少なくとも「モーター・スポーツ」においては主流になれないのは、結局、そんなところが原因なのだろう)。


「フゥ〜」


 決勝・当日は、あわただしく過ぎて行くが…「本チャン」前なんて、たしょう忙しいくらいの方が、つまらない緊張をしなくてよいものだ。


『フン!』


 朝の公式練習が終われば、簡単なチェックを済ませ、予選前の・公開形式の「最終車検」へ。


(ドライバーをも含めた車重計測もあり、車検が終わるまで、付き添わなくてはならない)。


 カウルのはずされたマシンが、衆人の目にさらされる事になるのだが…


外装(ボディー・ワーク)はすべて剥ぎ取られ・丸裸にされるので、少なくとも表から見える外観は、丸見えだった。盗み見て・模倣する機会(チャンス)は、いくらでもある。下手な「性能調整」のための規則を入れるより、よっぽど安上がりに「技術の均衡化」がはかられる)。


 チーム・クルー2人が押す愛機の後ろについて、車検場の中を静々(しずしず)と進めば…両側には、目を皿のようにしてのぞき込む老若男女に、カメラの放列。


(どこのチームもプロのカメラマンを雇っており、時には特大の望遠レンズを使って・遠方からピット内を撮影するなんて行為は、昔から行われていた事だ)。


 本車検は事前に済んでおり、こういったメカ好き・カメラ好きなファンや、ジャーナリストを思ってのイベントだが…こちらだって、インタビューのマイクを向けられたり、差しだされる紙切れにサインをしたり、まるでレッド・カーペットの敷かれた花道を歩いている気分になってくる。


『フン!』


 無事に車検を通過すれば、後は心おきなく戦うだけだ。

 スタート・ラインに並んで、いったんスタートしたマシンが、ゴール後の再車検で失格になる事など…明らかなルール違反が発覚した場合などを除いて…ありえ無かった。


(むこうの団体では…たとえば車体下面の「スキッド・プレート」が、走行中の摩耗で規定の数値を切ってしまったため「結果がくつがえる」なんて事が、実際に起こるのだが…こちらの組織では、ゴール直前で、壁にでもヒットし・タイヤが取れてしまった状態でチェッカーを受けても、事後の再車検で「重量不足で失格」なんて事にはならない)。


『?』


 車検場出口に、一列に並べられた27台のレーシング・マシン。鉄柵の向こうの群衆の一番手前に、紫色を基調にしたスタッフ・ウェアーを認める。


芳我(はが) 志津子」


 そう書かれた顔写真入りの許可証(クレデンシャル)を、首から提げている。


(俺たちが住んでいる土地に、(つづ)りは若干違うのだが、彼女の苗字と同じ発音の地名がある。かつて、同名・地方豪族がいた場所だ。彼女が・まだ「愛媛」の生家にいた頃、博識な親類から伝え聞いた話では…なんでも、『江戸時代』になる以前。時の権力者に敬遠され…『南北朝』の時代には、「国内最強」と謳われ・名を馳せた主家である有力豪族と共に…俺たちの住む街から見て、四国の一番遠い向こう側の「彼の地」へ、『領地替え』になったゆえの事だという。歴史の表舞台では、あまり語られないようだが…案外、今となっては掘り起こす事も不可能な深い因縁があり、偶然とはいえ、因果が・どこかでつながっているのかもしれない)。


『フン!』


 手にしていた、彼女特製のスペシャル・ドリンク入りのボトルを手渡し、ヘルメットをかぶる。

 エアコンからの冷気を導入する、「クール・スーツ機構」を備えてはいるが…体内の水分は、また別物だ。(たとえ真夏でも)冷やし過ぎに注意した水分を、レース前にチビチビと補給し、体内にため込んでおく必要がある。


(完走だけが目的ではない。チューブを通して水分補給できる、「ドリンク装置」も装備しているが…特に夏場のレースなど、「脱水症状」に気をつけなくては、ハナから勝負にならない)。


『準備完了! いつでもいいぜ』


 コックピットにもぐり込んで、待つ事しばし。


『!』


 間もなくオフィシャルの合図に従い、イグニッション・オン。


『キュイ〜ン・キュルルル…ブオン!』


 スターター・ボタンを押せば、一斉に咆哮が上がり始める。


「ワオ〜ン! ワオ〜ン! ワオ〜ン…」


 パドックの・この一角からは、全員おのおののマシンに乗り込み、自走で各自のピット前まで向かう事になる。


(かつてのように、大勢の人間がたかって『儀式』をおこなわなければ、エンジンに火が入らなかった頃と違い…それはそれで、何か「特別感」があって、楽しくもあったが…コンピューターで完璧に制御された現代のレーシング・マシンは、「乗用車並み」の手軽さだ)。


『帰ってきたぜ!』


 全身に鳥肌が立つのがわかる。背後でエンジンが燃えているこの感触が、俺は・たまらなく好きなのだ。


『フン!』


 午前中の遅い時間。ピット前で待機。そろそろ、予選(クォリファイ)が始まる時刻だ。


(今回は、「アメリカン・スタイル」の、1台ずつタイム・アタックを行う予選形式。出走の順番は、朝の公式練習でタイムが良い者から選んでいけるが…雨などの自然現象は、ゴルフ同様、不可抗力とみなす。よって、雨が降りそうなら早めに、降っている雨が上がりそうだったり・晴天なら、路面にラバーが載る後半が有利となるが…条件はイーブンだ)。


 本日は、まったく降りそうにない晴天。有力選手は、こぞって後半を選んでおり、俺の順番は前よりだ。


『フン!』


 前走車がスタート&ゴール・ラインを通過してタイム・アタックに入ったところで、ピット・レーンをスタート。前車がクラッシュして、破片やオイルでもまき散らさない限り、1周のウォーミング・アップ後、タイム計測が始まる。


(こちらの団体では、事故後の撤去作業は迅速を極め…レース中でも、基本的に途中・中断は、ほとんどない。『イエロー・コーション』の「追い越し禁止」区間は、ピット・レーンでも使用される「スピード・リミッター」を作動させて通過しなくてはならないし、それに…『双六(すごろく)』ではないのだ。本番中に、セーフティー・カーなどを導入して「振り出しに戻る」なんて…素人(シロート)相手の演出では、興ざめもいいところ。もし「赤旗中断」があった場合、その後のレースは、トータル・タイムで勝者を決める。つまり、見かけの順位と実際の順位が異なっているかもしれない、最後まで手の抜けない展開になったりするが…「GPSグローバル・ポジショニング・システム」を使ったリアル・タイムのレース順位が表示され、手に汗握るタイム・レースとなるわけだ)。


『フン!』


「タイヤ・ウォーマー」で温められていたとはいえ、たった1周のウォーミング・アップ。路面と相談しながら俺は、タイヤをつぶす感じでアスファルトに押しつけ、熱を入れる。


(たとえば、時速100キロで回れるコーナーがあったとしよう。99キロでは遅すぎる。しかし101キロでは速すぎて、タイヤがスリップしてタイムをロスするか、悪くすればスピンしてコース・アウトする事になる)。


 大きな半径の最終右コーナーを立ち上がって、フル・スロットル。コントロール・ラインを通過し、フル・スピードで第1コーナーとなる・右回りの30度バンクに向かう。


『…!』


「アルティメイト・マイスター」においても、バンクのあるコースは初見参。ここのバンクは、平地に盛り土をする形で造られたものなので、斜度の少ない下段を通っても回って行けるが…アクセルを開け続けたまま走れる上段とでは、速度差は一目瞭然だ。


(最大傾斜角30度という、テスト・コース並のバンク。このくらいの角度になると、コース脇から見上げると、ほとんど壁だ。はってだって登れない)。


『クッ!』


 斜面に入ると、一気に路面に押し付けられるような力が働く。通常のコーナーなら、「遠心力」によって発生する横の力「横G」が、バンクの中では縦の力「縦G」に取って代わられる。


(直列系の長いクランクシャフトを持つエンジンでは、バンクに入った瞬間に()かる・この「縦G」のために、クランクがたわんでコンロッドがちぎれ、クランク・ケースを割ってピストンが飛び出すというトラブルが発生したチームもあった)。


 また前に話した通り、タイヤにしても特殊な使用状況になるため、タイヤ造りに関しても、バンクゆえの独自のノウハウが必要なのだが…幸い装着している物は、「国産」とはいえ、とある往年の名タイヤ・メーカーを買収した、実質的な経営者。元もとの名を冠したタイヤを製造してい続けている海外の企業は、バンクを使ったアメリカン・レースに参戦していたため、知識も経験もあり、データーの蓄積も豊富だった。


(ヨーロッパ系の、バンクを知らないメーカーのタイヤを履いているマシンは…不利を承知で、傾斜の緩いバンク下方を走らなくてはならなかった)。


『フン!』


 左側に設置されたガードレールが、白いラインのように流れる。

 バンク最上段までを、フルに使い切った俺のタイムは…それでも、まん中より下だった。まあ仕方がない。無理なものは無理なのだ。与えられたものの中で、最善を尽くす事も仕事のうちだ。


「調子はどうなの?」


 ガレージの片隅で、ドリンク・ボトルのチューブをくわえてチェアーに腰かけ、クイック・マッサージを受けている自分の姿に俺は、ゴングの合間、コーナーに座っているボクサーを連想していたのだが…


「いいよ」


 背後から声をかけてきた「志津子」に、のん気な調子で、そう返事をする。


(俺自身のコンディションは良好だし…マシンの方も、現状ではベストな状態だ)。


 予選が済んだマシンは、そのまま決勝前まで車両保管がなされる。


(マシンにトラブルがある場合は、グリッド降格のペナルティーを受けて、修理にあたらなくてはならない)。


 車輌保管が解除されたスタート前も、通常(ルーティン)の「ピット・イン」時と同程度…給油とタイヤのエアー・チェック、ウイング角度などのエアロ・パーツの微調整…以外の作業は禁止されているので、精神的にはともかく、一日で一番ゆったりした時間が流れる。


『フン!』


「志津子」の手が、首から肩に移ったところで俺は…


「血液型は何型なんだい?」


 唐突に、そう声を出す。


「?…なによ、いきなり」


 一瞬「志津子」は、両の手の動きを止める。


「いや、前から訊こうと思ってたんだけど…次に・こんなことを話せる機会があるか、わからないだろ」


 それが冗談ではない事は、昨日の出来事でもわかるだろう。

 しかし不思議なもので、「最初の出会い」と、「最後のシーン」というものは、妙にはっきりと憶えていたりするものだ。特に「ラストの場面」は、後で何度も思い返すからだろうが…


…ガレージから出て行く際、ヘルメットの奥から、こちらに向けられた彼の視線…


 脳裏で幾度も焼き直され、今も鮮明な記憶となって残っている『静止画像(ストップ・モーション)』。きっと、一生涯忘れないだろう。


(そして…モニター越しに目にした、ユラユラと揺れる・透明な青白い「冷たい炎(フリーズ・フレイム)」も)。


「縁起でもないこと言わないで」


 本当は、そう言いたかったはずだが…俺にしてみれば、無理に思い出さないようにしたり、忘れようとするより、むしろキッパリと肯定してしまった方が、スッキリするものだ。

 だが、少し思案した「志津子」は…


「本番前だっていうのに、血液型だなんて…余裕ね」


 そんなふうに言葉を替えてきた。


(最近では、「血液型性格判断」的なものに、否定的な意見の人間も増えてきたが…俺は、『血液型による傾向は、厳然と存在する』と思っている。もちろん、それがすべてとは言わない。たとえば、前に話した通り、俺は肉体的にはピタリ「スポーツマン・タイプ」。しかし、その手の解説書には、「B型は芸術家肌」との記載が多い。一見、俺の説と矛盾するようだが…画家や書家が「戦略(ストラテジー)」をたてて、画線や筆跡を思い描くように、レーサーやサーファーは、アスファルトや波間に「戦術(タクティクス)」や「軌跡(マニューバー)」を思い浮かべる『アーティスト』だと思っている)。


「A型よ」


「志津子」はそう言って、ふたたび俺の両肩をもみ始める。


『フン!』


 淡い記憶の中にある、ちょっと母親(オフクロ)に似た雰囲気があったのは、たまにいる…


「O型みたいなAだからか?」


 最後は、思考の中でのセリフだが…もっとも俺が想像するにオフクロは、群れの中で・好んで(アタマ)を張りたがる、「親方・親分肌」の仕切り屋。典型的(ステレオ・タイプ)な「O型」のはずだ。


『ヨシ!』


 陽が短くなり始めた季節。午後の太陽が、わずかに傾きはじめた時間。


(気温の低下にともない、路面温度も下がる事が予想されたので、「藤原」と相談の上、フロント・タイヤ前面の「スポイラー」を上げておいた。この部品は、「整流板」というより、「セッティング・パーツ」としての意味合いが強い。いま俺が施したように、タイヤの露出量が少なくなれば、タイヤに当たる風の量が減り、タイヤ温度が上がりやすくなるわけだが…今のところ、周りを見回してみても、このアイデアを採用しているのは、俺たちだけだった。もっとも『温故知新(おんこちしん)』。1970年代、「スポーツカー・ノーズ」VS「ウエッジ・ノーズ」だった時代の古い雑誌の記事に、そんな記述を見つけたからなのだが…簡単だが、効果は絶大だった)。


『フン!』


 グランド・スタンド前のメイン・ストレート。


(俺は観客席の中ほどに、「小西」と「ひとわ」の姿を認めるが…女房の姿は無い)。


 整列したマシンは、メカニックや取り巻きなど、もろもろの人々に囲まれ、遠巻きに見ると群衆の中に埋まり、色とりどりのパラソルが花を添え『百花繚乱(ひゃっかりょうらん)』。

 もっとも、スタート前のレーサーの眼には、そんな物は、ほとんど映ってはいない。そんなとき俺は、サッサと愛機に乗り込む事にしているのだが…今回はスタート前に、『黙祷(もくとう)』が捧げられた。その事に関して、マイクを向けられた俺は…


「彼だって、納得済みのはずだよ」


 手短に、そう答えておいた。


(長いブランクがあるので、自分のことを『百戦錬磨(ひゃくせんれんま)』などと、うぬぼれてはいないが…一度は死線をくぐり抜けてきた俺だ。生きのびる(すべ)を、多少は心得ているつもりだ。そして、その一番のコツとは…どんなに熱くなっても、常に心の片隅に・一歩さがった所から、物事を客観的に眺められる「冷静さ」を残しておくことだ)。


『フン!』


 合図(コール)がかかり、エンジンが始動されると、一斉に人の波が退()きはじめる。

 スターティング・ポジションは20番目。10列目のイン側となったが…今回のスタート方法は、アメリカン・スタイルの「ローリング・スタート」。2列の隊列を組んで走り出し、「スタート・ライン」を横切った時点でスタートとなる。


(止まった状態から走り始める「スタンディング・スタート」では、グリッドの左右の違いによる有利・不利が出てくる。路面の汚れがひどい場合や、走路のタイヤ・ラバーの載り具合によっては、ひとつ後列でも、反対側の方がマシな時もあるくらいだが…このスタート方式なら、そういった影響は少なくなる)。


『フン!』


 黄色のランプを点滅させた「ペース・カー」に従い、隊列が動き出す。

 マシンを左右に振ったり、強めの加速とブレーキングを繰り返し、タイヤを温めなくてはならないが…著しい隊列の乱れを作った選手にはペナルティーが課されるため、注意が必要だ。


『さて!』


 最終コーナーを立ち上がり、直線に出る。隊列に乱れがある場合は、さらに1周走る事になるが…今のところ順調だ。


『ヨシ!』


 俺は身構える。ここでスタートになるだろう。

 基点となる「コントロール・タワー」手前には、先導車用退避路があり、そこまでは一団となって、ノロノロと進む…と言っても、200キロ近い速度は出ているが。


『来る!』


「ペース・カー」のイエローのランプが消え、右手のガードレールの切れ目に飛び込む…と同時に、「スタート・ライン」の頭上を横切るシグナルが、赤からグリーンへ。この時点でスタートだ。


『ここだ!』


 エキゾースト・ノートが一気に高まり、全車一斉に加速に移る。

 俺は前後左右の間合いを見切りながら、右の列から左の隙間を狙い、コースを左斜めに横切る形でレーン・チェンジ。そのまま前の車の「スリップ・ストリーム」に入り、バンク最上段まで駆け上がる。

 競艇や競輪で使われる「まくり」の戦法…外側から勢いをつけ、一気に前に出る行動に出たわけだが…


『?』


 右下の、浅い角度の所でスピンした2台の車が、白いタイヤ・スモークを上げ、墜落するかのように、バンク下方へと落ちて行く。

 さらにその後方では、コースをふさがれた後続車に乱れが生じているようだ。


『!』


 俺はミラーの片隅で、そんな光景を認める。いきなり「サバイバル・ゲーム」の様相を(てい)してきた。


『フン!』


 それぞれの思惑が入り乱れ、軌跡(ライン)が交錯する。


『今日のレースは荒れそうだぜ!』


 俺は前車のスリップから抜け出て、右下へと急角度でバンクを駆け降りた。



〈ひとまず…了〉


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