7・|無機質《インオーガニック》
7・無機質
ウィーク・デイの機内は、ビジネスマン風の乗客で、意外に混んでいた。もっとも、スーツに身を包んだこちらだって「ビジネス」だ。
(俺は、まるで喪服みたいな黒の一張羅だが…同行の彼女は、淡い黄色のスーツにスカートだ)。
国内旅行並みの格安航空券で、十数時間のフライト。それでも、真冬の観光シーズン・オフ。「エコノミー」とはいえ、幸い、最後部に近い二人掛けのシート。少しはマシだ。
「でもね、父と同じことを言われて、一気に熱が冷めたの」
進行方向にむかって、左側の並びの・俺の左。シェードを降ろした窓際に座る彼女は、話を続ける。
「父に逆らって、専用のテン・プレートも、八重歯に合わせて作ってもらったのに…」
ここで彼女が言っている『テン・プレート』とは、「ボクサー」が試合中にくわえている『マウス・ピース』のような形をしたものだ。「野球」の投手など、瞬間的に歯を食いしばる競技で使われる事が多い。
(歯の保護ばかりでなく、力を入れる時に「歯を食いしばる」という行為は重要なのだが…専用の『テン・プレート』は、その補助になる上に、さらなるパワー・アップの手助けにもなるという)。
「価値観の相違ね。一度わかってしまうと、もうどうにもならなかったわ」
なるほど、欧米人は「歯並び」にうるさい。矯正用の針金を入れた子供などは、よく見かける光景だ。そして特に「八重歯」は、『キリスト教』圏では「吸血鬼」を連想させるので、忌み嫌われるそうだ。
(それでなくとも、力を込めるような競技においては、「歯」や「歯並び」は重要だ。かみ合わせが悪いと、入る力も入らなくなる)。
もっとも今どき、「インプラント」による補正もしないプロ・アスリートも珍しいが…
『フン!』
とりあえず俺たちは、まずはマネージメント契約を結ぶため、ヨーロッパの島国へ向かっていた。
(なんでも、「代理交渉人」となる彼女の元夫は、その国のオリンピック候補にもなった「アーチェリー」の選手だったという。海外での強化合宿だか・親善試合だったかの際に、「強制されるのが、うっとうしかった」から、「父から亡命したの」だそうだ)。
「父は、本当は男の子が欲しかったんだろうけど…女の方が有利な面もあるわ」
たいていの競技でそうだが…男女の区別がある場合…男子の方が、選手層が厚いものだ。それゆえ、いっそう競争が激しくなり、頂点を目指すのは、より大変な事になる。
「普通いないでしょ、自分からウエイト・リフティングやろうなんて女の子」
かつては、女子のスポーツが強い国は、女性の地位が高い、つまり、それだけ豊かで・男女の差別が少ない国だったがわけだが…今ではその昔、「第三国」などと呼ばれ、一段低いと見なされていた国々の女性選手が活躍している。
(傍観者的立場から見ていると…そんな彼女たちの方が、スポーツ先進国では「根性」などと呼ばれ、否定されてきた「貪欲さ」が残っているのは、一目瞭然だった)。
「それに、スポンサーもつきやすいし…」
『男女同権』『男女平等』ばかりが強調されるが、あらゆる分野で女子には、そんな「特権」があるのも事実だし…
『ついでに、悪い虫もだろ』
心の中で悪態をついた俺の正面に、左から顔を突き出して来て…
「だけど、信用はできる人よ」
普通の会社なら、税金対策のために、あえて借金を残しておいたりするものだが…「潔癖症」で、「借り」を作るのが大嫌い。そんな優良企業を経営する人物らしい。
「ただ、ちょっと変わったところがあるんだけど…」
俺の正面に突き出していた顔を引っ込めながら、そう言うが…
『あんたが言うのかい?』
そんな思いを素直に表現するなら、「なら、よっぽど変わってる奴なんだろうな」という事になるのだろうが…黙っておいた。
『フン!』
「息もかからんばかりの近距離」での会話が、ひと段落したところで…俺はサッサと「睡眠」をきめこむ事にした。狭いレーシング・カーの操縦席には慣れているが…移動中は、少しでもくつろいでおく事が肝心だ。
『休憩が下手なヤツは、一流になれない』
俺はそう思っていた。
(日常のトレーニングは、筋力や体力の「維持」の意味もあるが…日々のルーティン・ワークを続けていると、たとえプロのスポーツ選手と言えども、よほど強い意志で客観性を保てる人間でなければ、ついつい甘えがでるもの。やがてマンネリ化して「練習のための練習」になってしまい、「何を目的でやっているのか」わからなくなってくる。たとえば…「腕立て伏せ」と称して、民芸品の郷土玩具にある『赤ベコ』みたいに、首だけ振っている奴は、よく目にする光景だ。「ストレッチ」にしても…どこの部位を伸ばしているのか?…同様だ。一人でやっていれば、なおさらだろう。そこで、監視役としてのトレーナーが必要になるし…だから・たまには、『合同トレーニング』を行なったりするワケだ。もともと「闘争本能のかたまり」みたいな人間ばかりだから、「ライバル心」に火が着き、「向上心」が目的なら『効果覿面』だろう。もっとも、黙っていれば…「ガス欠」になるまで…いつまでも走り続けているような俺だ。「オーバー・ワーク」になる事は明白。誰か、止めてくれる人間が必要だった。つまり俺にとってのトレーナーの一番の役目は、ストッパー役ということだ。それゆえ逆説的に、彼女のような存在が不可欠になる)。
どちらにしろ、「やり過ぎるヤツ」は、身も・心も、長続きしないだろう。
(しかし『好きこそモノの上手なれ』と言うように…枯渇する事なき「好き」という要素や、それに伴った飽く事なき「好奇心」に「探究心」も、「才能」のうちではある)。
『フン!』
俺は右手で、ヘッドフォン・ステレオのリモコンのようなスイッチを、オフにするが…そのコードの先は、腹筋と・両の太腿に向かっている。Yシャツとスラックスの上から巻かれた、紺色の帯状のベルトは、俺に「タイヤ・ウォーマー」を連想させるのだが…
(「タイヤ・ウォーマー」とは…走り出してすぐに、タイヤが最大グリップ力を発揮できるよう、事前に適正温度に温めておくためタイヤに巻く・電気毛布みたいな物だ)。
カラダに悪そうな『加圧式トレーニング』と、筋肉を「電気パルス」で刺激する『振動式トレーニング・マシン』を組み合わせた装置だ。
もともとは、宇宙に長期滞在中の宇宙飛行士の筋力維持用に開発された物だが…現在では、スポーツ・マン&ウーマンの筋トレにも、取り入れられている。
(弱い負荷なら、『エコノミー症候群』や・麻酔をかけた手術中の『血栓』予防にもなるそうだが…かつて一般に販売された、まったく効果の無い「偽健康器具」とは違う。もっとも元々は、そこからヒントを得たらしいが…だから「素人判断で高負荷をかけ過ぎてしまった」等、使い方を間違えば「オーバー・ワーク」以上の弊害が出てしまう危険な器械。彼女のように、ちゃんとした資格を持ち・使用方法を心得た者の指導&管理の下でなければ、所有する許可すら下りない、正規の医療機器だ)。
その後、シートの背もたれをリクライニングさせて、「アイ・マスク」を装着。もちろんリラックスの意味もあるが…実は俺の両の瞼は、意識して力を入れないと、完全には閉じない。偽のまつ毛が付いている・模造品の皮が…これも事故の後遺症なのだが…突っ張り気味なのだ。娘と違い俺は、目覚めている間、ずっと何かを見続けていなくてはならない。
(もっとも中には、健常者でも薄目を開けたまま寝ている人間がいるように、俺だって本当に疲れている時は、そのままで寝てしまうが…)。
「ふ~」
『あの時』。火と熱にあぶられた俺の目玉は、眼球の表皮が再生するまで、しばらく辛い思いをしたが…
(ヒリヒリして目が開けていられないのに、「まばたき」もできなかったからだ。ちなみに、黒目には血管が通っていない。だから出血はしないが、それゆえ菌に冒されると、最悪・穴が開くそうだ)。
幸い、「2・0」以上あった視力の方は低下する事もなく、完治してくれた。
(ユーラシアやアフリカの平原育ちの人間には、「5・0」くらいの視力は、別段・珍しい事ではなかった。中には「8・0」などという、驚異の能力を持つ人間もいるそうだ)。
ただ日本に来て…環境の違いなのだろうか? 多少、視力が落ちた気がするが、それでも充分な能力は残っていた。
(中には『白内障』の手術と同様の手法で、濁った「水晶体」を取り除き、人工の眼内レンズに置き換える時に…コンタクト・レンズの要領で…視力を調整する者もあった)。
それに、どういうわけか俺は、生まれつき「利き目」の右目と・左目の視力に、大きな開きがあった。
(「利き目」を知るには…両目で差し出した指を見つめ、順番に片目をつぶり、ズレて見えない方が自分の「利き目」だ)。
霊能者、それも「霊視」能力に長けている人間は、片目…とくに左目が悪い場合が多いと言う。
(目玉が二つあるのは、「遠近感」をつかむため。耳が左右にあるのは、「音源」がわかるようにだが…)。
俺も、利き目である右の方が…正確な数字を測定した事はないが…はるかに良い。
(と言っても、「左右の差が大きい」というだけで…左眼の視力が、特に悪いというわけではない)。
俺は霊の存在など、まったく信じていないが…案外、俺の特殊能力『絶対速度感』も、そのあたりにヒントがあるのかもしれない。
(視覚的に誰にでもある『盲点』は、脊椎動物の目の構造上、生理的に存在する『暗点』…見えない部分の一つで、『生理的暗点』とも言うが、娘の目に関しては、「眼自体でなく、そういった脳や神経の領域に関係するものなのだろう」と想像している)。
だいたい、景気が良いと、スポーツ・カーが売れるようになり、モーター・スポーツは盛り上がるが…いつの世の中も、経済状態が悪くなると、「オカルト」や「心霊現象」が流行るものだ。
今は、世界中すべてが、沈んだ時期だが…「臨死」なんて、生き返った人間の語っている事だ。
(なんでも、死の瞬間に脳内で放出される快感物質がもたらす効果は、「性的絶頂感の百倍にも達する」という説がある。つまり、「臨終」の一歩手前まで行って・それを体感した人間が、それを「あの世=死後の世界」と勘違いする事だってありえるだろう。と言うより、実際に存在していないモノなら、「錯覚しているとした方が正確だ」と俺は解釈している。あいにく、あの時・あの瞬間、そんな体験をしていない俺なので…「死をむかえるほどの、大それた出来事ではなかったんだろ」。最近では、『その程度のことで、それほど深刻な事態ではなかった』としか、思っていない)。
文明が芽生えてから数千年。しかし・おそらく、それ以前からの数万〜数十万年にわたって…本当に『あの世』があるかどうか、あまたの人間が頭を悩ませてきたが、いまだに・その存在は証明されていない。
(かつて、科学者がまだ哲学者でもあった頃の、とある高名な学者先生は、こう言ったという。「もし(死後の世界が)あった時のために、心づもりだけはしておいた方が良い」と。ならば、死後の世界を信じる人間に、『死線』をさまよった事がある俺は、こう言ってやりたい。「もし無かった時のために、今をもっと生きておけ!」と)。
『その時が来たら、スイッチをオフにするように、静かに終焉を迎えたい』
個人的には、そういった願望を持っているが…
『ん?』
左肩に、重みがかかる。普段は、寝つきの良い俺なのに…どうやら彼女に、先を越されたようだ。
『機内の気圧のせいか?』
酒に酔ったような状態になり、幻覚が見えるという『酸素欠乏症』ではないだろうが…あれこれと、とりとめのない思いが浮かんで来る。
(もっとも俺は、先にも告白したように、アルコールを受け付けない身体だ。「酩酊」以前に、ただ気持ちが悪くなるだけで、「酔う」という状態が理解できない)。
…術後に、執刀した担当医師から「いつでも交換可能ですから」と言われた場面が蘇る。
『つまり、メンテナンスの必要があるわけだ』
俺は・あの時、そう思ったはずだが…切れた「靭帯」は、「自然治癒」しない。
(「靭帯」とは、関節部で骨と骨をつないでいる、いわゆる「筋」と呼ばれる部品だ)。
伸びてしまったり・一部が損傷してしまった場合は、『捻挫』と呼ばれるわけだが…完全に切れてしまうと、縫合手術が必要になる。
(通常、再生手術は二回までと言われており、その後は「人工靭帯」となる)。
骨折こそまぬがれたものの、あの事故で可動範囲以上にねじられた俺の右膝は、スジが切れていた。しかし他の、もっと重要な治療があった。それが済むまで、伸びていたゴムが切れた時のように、先が丸まったまま放置されていた俺の靱帯は、手術可能な期限が切れていた。そこで、「トルク・レンチ」のようなもので『トルク管理』して、「タッカー」か「ホチキス」のような道具で人工腱を固定する事になった。
(すべての製造物は、製品ができあがった時点から「経年劣化」が始まる…と言われている。「永久動力」が実現していないのと同様、ノー・メンテナンスで永遠に使い続けられる人工物も、今のところ存在していないし…使わなくても・放っておけば、「酸化作用」である『錆』などが発生してしまう。自然の産物にしたところで、大気や風雨のある地球では「風化」や「浸食」が始まり、元のままの姿をとどめていられる物など、なにひとつ無いのだろう)。
機械装置と違って生物には、ある程度の「自己再生能力」が備わっているが…
(「外宇宙」旅行を実現するためには…機械にも、「自己診断」と、この「自己再生」の機能が必要だと言われている)。
一方で、人間などは、確実に「老化」もする生身の肉体でできている。
(アメーバなどの下等生物は、自分のコピーを複製するだけで変化も進化もしないが…「高等生物は、たくわえた知識や経験を後代に伝えるために『老化』する」という説がある)。
たとえば、さっき話題になった「歯」だ。正しい「インプラント」をすれば、今まで付いていた自前の物より、はるかに丈夫な物を手に入れられる。ただし…「再石灰化」能力はないので、ガタがきたら交換だ。
要は「使い分け」なのだろうが…『どっちも・どっちだ』。それにしても…
『寝入りばなに起こされたから?』
その後の寝つきが悪く…さらに、左肩に載っている、彼女の頭。妙に鼻につく。
『髪の毛の匂い?』
嫌なのではない。
「この子は、いい匂いがする」
娘が、まだ幼かった頃。退院したばかりで、家でヒマをもてあましていた・あの頃の俺の唯一の仕事、そして最大の楽しみは…養護学校へ行く前の、娘の髪の毛をとかして、髪飾りのついたバンドでしばってやる事だったのだが…
『この子は、とっても・いい匂いがする』
どこかの国の、売れない作家の話を聞いた事がある。教養ある紳士だったがそうだが、十人並みのルックス。しかし、いつも美女をはべらせており、その彼女たち曰く「この人は、とてもイイ匂いがする」人物だったそうだ。だから…
『これは・きっと、女のフェロモンみたいなものだから、男の俺にしかわからないのでは?』
そんな風に思っていたのだが、ある時…
「この子は、とても・いい匂いがする」
女房も、同じ事を言っていた。だから…
『この子はきっと、幸せになる』
俺は、そう信じている。
…と、そんな事を思い出しているうちに、いつしか眠りに落ちていた。
※ ※
「ふあ~!」
人々の群れに交じって通路を歩く俺は、つっぱる頬に逆らって、欠伸をするため口を開く。
「時差ボケかしら?」
左下から、そう問いかけてくるが…
『化粧してたんだ?』
マシンのセッティングや・自分が身につける装具のフィッティングなどには、「超」が付くくらいシビアな俺だったが…もともと『どうでもいい』と思えるものには、すっかり無頓着な俺だ。
『アイ・シャドウが、にじんでるぜ~』
こんな事でもなければ、そんなモノには気づかなかっただろうが…
「フン!」
それは、まあいい。俺は口元を押さえながら…
「変なタイミングで起こされたから…」
俺にしては珍しく、そう返事を返す。
(なにしろ、「サマー・タイム」だと8時間の時差だが、今は「冬時間」。日本より9時間遅い。日本にいれば、そろそろフトンに入る時間だ)。
『だから目覚めが悪いだけさ』
次の句は、心の中でつぶやく。
「これから世界を飛び回るんだから、時差ボケにも慣れてもらわないとね」
慣れない化粧が崩れかけている以外、いたって快調そうに語りかけてくるが…
『だいじょうぶだろ』
なんでも…人間の「体内時計」は、25時間周期だという説がある。だから人類は、南北の移動しかできない「渡り鳥」と違い、地球の裏側まではびこったのだろう。だから…
『どうせ寝られない時は、いくらがんばっても眠れないものさ』
そう思い…
『時差ボケ対策には、寝るのが一番!』
たっぷり寝ようと思っていたのに…
「ふあ~!」
アクビを繰り返しながら、「入国審査」に向かう。そして…
『フン!』
多少「植毛」してあるので、そこに長さを合わせると、だいたい・いつも、長からず・短からずの髪型に落ち着く事になるが…
『そんなトコ見たって、無駄だぜ~』
耳は整形しづらいから、空港の「入国管理官」は耳を見るというが…「アマチュア・レスリング」の選手の比ではないほどに…溶け落ちてしまった左耳の大半は、造り物だった。十数年前…つまり、あの事故以前の写真と比較されたら、通過できなかった事だろうが…
『さぶ~!』
一歩おもてに踏み出すと、まっ昼間だというのに、濃い灰色のブ厚い雲が低く垂れこめ、うす暗くて陰鬱な景色が広がっている。
イミテーションの左の耳タブは、冷気で縮み上がることは無かったが…思わず悪寒が走り、身震いするほどの寒さだ。
『フン!』
もともと欧州や北米・東海岸の主要都市は、日本などより高緯度の北方に位置しているのだが…大西洋を上ってくる暖かい海流「メキシコ湾流」のおかげで、温暖な気候を保っていた。しかし最近、その流れが不安定になっているそうだ。
(「温暖化」が進むなか…大雨が増えた所があるかと思えば、干ばつに悩まされる地域がある。案外「地球」全体としては、これでバランスが取れているのかもしれない)。
そして「統一通貨」も破綻した現在…
『ヨーロッパも、終わりかもな』
俺はそう思いながら、コートの襟を立てて、タクシーに乗り込む。
(「伝統のヨーロッパ」と言われ、『第二次世界大戦』後も各種「世界選手権」などが、西欧中心で開催されていたものの…独自路線を歩む米国には見向きもされず、多くの点で再出発したニッポンの後塵を拝していた欧州諸国。たとえば…20世紀の後半のモーター・サイクル界は、日本のバイク・メーカーがレースを席巻し、オートバイ市場も独占状態。「このままでは、単車は日本製ばかりになる」勢いだったと云う。しかし、新世紀に入った頃。『ヨーロッパ共同体』から『欧州連合』へ。ノー・パスポートの実施や統一通貨の採用などで、先の大戦で焦土と化した大陸も、やっと本格的な戦後復興がなった。それに合わせ、老舗モーターサイクル・メーカーの巻き返しが始まったそうだが…やはり『理想の千年王国』など、いつの時代にも実現しないものだ。最近では、旧「東欧国家」間の不仲・『北大西洋条約機構』加盟国同士の内紛・主要国の『EU』離脱などなど…政情・経済が不安定な国々が増えつつあり、予断を許さない状況でもあった)。
「ふあ~!」
彼女と違い、右も左もわからない土地だ。車に揺られるままに、空港から市街地に向かい…途中にある、新興の商業地帯に入る。まだ、ま新しいオフィスが立ち並ぶ、その一角。質素だが堅実そうな、2階建ての建物の2階に、目的地となる事務所があった。
「ビーンナ・ロング・タイム!(久しぶりね!)」
彼女の言葉を受けて、古風な木製デスクの向こうで立ち上がったのは…濃いグリーンのスーツに、薄く縦縞の模様の入った白のスラックス。
『なるほど!』
「ゴルフ」か「テニス」か「スカッシュ」の大会の役員にでもいそうな、人となりだった。
「グラットゥ・シー・ユー!(お目にかかれて光栄です!)」
少々かん高い声で、自分の事を「スコットランド人」だと言って、右手を差し出してきた。
(かつて「住民投票」が行われた事もあると云う『スコットランド独立運動』。遠いニッポンからすれば、「イングランド」も「スコットランド」も「ウェールズ」も区別のつかない、ひとつの『グレート・ブリテン』なのだが…古の『大英帝国』・かつての『イギリス連邦』は現在、対外的には、通貨「£」を固持し・『欧州連合』離脱。きっと内にあっては、無知な他所者にはわからない内情があるのだろう)。
『なんだ・かんだ言って、やっぱりファザコンなんだろ』
俺なんかより、彼女自身の父親に近い年齢だろう、白髪混じりの金髪に、鷲鼻の背の高い男だった。
「こちらが…」
そう言って彼女は、俺を紹介し始める。
―Bogie the hardboiled―
『ハードボイルドのボギー? なんだよ、それ? 黙ってりゃ、勝手なこと言いやがって』
まあ、未知の言語を前にすれば、誰だって押し黙ってしまうだろうが…あいにく俺は、英語なら、多少のヒアリング能力があった。
『しゃべらないからって、なにも考えてないとでも思ってるのかよ?』
公の場では、「雪ダルマ」とかアダナされるが…仲間内でいる時や・酒が入ると、口が軽くなる奴もいたが…
『無口だからって、何も考えてなかったら、それはただのバカだろ』
だいたい…
『ゴルフ用語で「bogey」って言ったら、大したスコアじゃないし…アメリカのスラングじゃ、「国籍不明機」って意味があるんだぜ! わかって言ってるのかよ?』
矢継ぎ早に・そんな事を考えながら、差し出された右手を握り返すと…
『フン!』
瞬間、額から大きく落ち窪んだ眼窩の奥からのぞく目は、さすがはオリンピック候補になった射手だけの事はあって、一瞬、値踏みをするような鋭い眼光を放つが…
「ナイス、ニックネーム! キャッチ・フレーズは…それで、いきましょ」
すぐに鷲鼻を鳴らし、茶目っ気がありそうな笑顔を見せる。
「ヨロシク!」
さすがに以前、日本人妻がいただけあって、日本語混じりの英語だし…「ヒヤリング」の方は、先にも言ったように、それなりに勉強してきた俺だ。だいたい理解はできたが…表現力の方は、細かい申し開きができるほどのモンじゃない。
『フン!』
どちらにしたって、日本語だって無口な俺だ。言語が変わったからといって、急に饒舌になるはずもない。
(店の客の中に、「海外駐在の経験があり、現地語がペラペラ」と言われる寡黙な男がいる。だが現地語が達者だからと言って、その言葉なら、急に「おしゃべり」になるはずもないだろう。無口な人間は、基本的に「無口」なのだ)。
というワケで…このあたりから、すべて日本語で表記させてもらう。
(アメリカ映画に、ありがちな手法だ。それまで、字幕つきの他言語で会話していたのに、いつの間にか…少なくとも、主要な登場人物は…英語で話している)。
「あなたは商品価値が高いから、仕事がやりやすいです」
すでに、おおよその話はついている。
(と言っても…これも「ケガの功名」? 俺の名が、世界的に知れ渡ったのは、あの事故のおかげだ)。
「成功報酬で、契約金の10パーセント」
向こうは、事前に聞いていた通りの条件を提示してきた。
『なるほど相場だ』
100万なら、10万にしかならないが…1億の契約が成立すれば、相手の取り分は1千万だ。だからマネージャーだって、より良い条件を求めて努力するし、選手の方は…特に、こういった交渉や事務手続きが苦手な、俺みたいなタイプは…自分の仕事に専念できる。
(それに…あの出来事だって、もう十年も前の話。あの当時なら、もっと強気の要求もできただろうが…現在の自分の年齢だってある。譲歩すべきポイントだ)。
『ただし…』
すべては、俺が試験に合格してからの話だ。「資格」がなくては、お話にもならない。
「フン!」
「受験」の必要書類や、同意書・誓約書などの代行も頼んであったので、いくつか署名する箇所があったのだが…
『あんまりキレイ好きだと、女に嫌われるぜ~』
陰気なおもての景色とは対照的な、新しくて清潔な明るい応接室。
『話に聞いていた通りの潔癖症?』
そんな人柄をしのばせる室内のソファーに腰を下ろし…
「ちょっと見せて」
そう言う彼女の指図を受け、ペンを握ったが…フト気づけば、彼女の前夫はいつの間にか席を外している。
「ミスター10パーセントは、どこに行ったんだい?」
俺が多少、皮肉を込めてそう訊くと…
「いても仕方ないでしょ」
真剣に紙面に目を落としていた彼女は、そっけなく答えてから…
「彼、ディスレクシアなのよ」
そう告げてくる。
『ディスレクシア?』
聞いたことの無い単語を口にした。
「日本語にすれば『失読症』…早い話、文字を読むのが苦手な人なの」
なんでも、彼女の解説によれば…「英語」や「フランス語」など、「綴り」と「発音」が一致しない言語で顕在化しやすいそうだ。
(だから、たとえば日本人の中にも、「英語」を学習するようになってから、自分が『失読症』であることが判明する例があるという)。
「だいじょぶなのかい?」
「不安になる」というほどでもないが、俺は何気なく訊いてみる。
「なにが?」
そういえば・いつだったか、自分がそうである事を告白したハリウッド・スターのニュースが、報道された憶えがある。
「契約書とか…」
もっともな思いだろう。
「ああ、あれは弁護士の仕事よ。だいたい、今どきのブ厚い契約書なんて、素人の手におえる代物じゃないでしょ」
彼女は、書類から目をそらさずに返答してくる。
『なるほど…』
俺が言うのも何だが…どいつも・こいつも、変な奴ばかりだ。こうしてみると『フツーって何だろう?』と思ってしまう。俺の周りだけが特殊なのか? とにかく、変わった奴らばかりだ。
「フン!」
それから俺たち二人は、この地にとどまる事もなく…
(この国の道路は、「あたかもドライビングを楽しむためのような造りをしている」と聞いた事があったが…ようするに、「運転が楽しくなるような、快適なカーブが続く」という意味だ。しかし、そんな事実を確認する間もなく…)。
空港とオフィスまでの往復だけで…その日のうちに…ヨーロッパ内陸部へと飛んだ。ハード・スケジュールだが、俺たちは「遊び」に来たわけではない。
(それに…「駆け出し」の身分には、仕方がない事だ)。
『ふう~! 着いたぜ!』
深夜に近い時間。鷲鼻の男が手配してくれてあった宿に入る。
初めての国の・初めての街だし、暗くなってからだったので、まわりの様子は、よく・わからないが…古いが小綺麗な建物。ただし、料金の安いアウト・バス…トイレとシャワーが共同…の部屋だ。それに…
『いいのかよ?』
ベッドが二つ並んだツインの部屋。
「これも経費節約。ガマンして」
「新参者」には、やむをえない処置だが…
『新婚旅行じゃないんだぜ』
俺の言いたい事は、まったく意に介していないようだ。
『まあいいさ』
俺たちは二人とも…「男女の営み」どころか…健康な男女が、それぞれコッソリと済ませなくてはならない用件にも、お互い無縁な存在だ。
「フン!」
とにかく荷物を置いて、まずは食事をしようと、一緒におもてに出てみるが…かなり遅い時間。近くで開いているのは、安酒場といった感じの店しかなかった。
『まあいいか』
「薄暗い」を通り越した、暗い照明の店内。
(黒い瞳には「まぶしい」と感じない明るさでも、サングラスが必要な青い眼の連中には…逆に、これくらいで充分なのだろう。白人系社会に接すると、そう感じる事が度々あるが…たとえば「紅」でも、「ツヤ消し赤」だったり…欧州系のレーシング・マシンのカラーリングは、俺の目には「地味」としか映らない暗色系が多い)。
左に伸びるカウンターの奥に進み、空いている回転椅子に腰を降ろす。俺の右横に彼女。
「フン!」
何とか「腹にたまる物」のオーダーを済ませたところで、さらに奥にあるトイレに向かった俺が出てくると…
『?』
右奥のボックス席の方から、酔った男が一人、左手に酒ビンを提げて、こちらに近寄って来るところだった。
「ありゃまあ~、黄色い女が、黄色い服着て…こんなところに座ってるぜ〜」
短く灰色っぽい頭髪。白いシャツの上に、黒の皮ジャンの前をはだけ、酔った目をした細身の男。
「黄色ってのは、気違い色なんだぜ」
歳の頃は、40過ぎか? もっとも俺が知る限り、黒人などの有色人種は、年をとっても変わらないが…白人というのは、案外、老けこむのが早いから、見た目ほどの歳ではないのかもしれない。
「ヒマワリの絵で有名な画家の、有名なあの黄色。あれは梅毒で、アタマやられちまったせいなんだってな」
そう言いながらカウンターに右手をついて、彼女の顔をのぞき込む。
「それに…黄色が好きって奴は、浮気っぽいんだそうだ」
言動から察するに、『白人至上主義者』的な輩なのだろうが…泥酔状態なのか? 俺の存在に気づきもせず、下卑な笑みを浮かべながら…
「今晩、俺と…」
男がそう言いかけたところで、俺が割って入ろうとすると…
「あなたは、動物には二通りのタイプがあるって、知ってるかしら?」
彼女は落ち着きはらった態度で、正面を向いたまま、そう言って話しはじめる。
「たとえば山で、ばったりクマに出くわした時、あなたならどうする?」
男は、キツネにつままれたような顔をしているが…
「猛獣系に出会った時は、目をそらしてはダメ」
彼女は、ソッポを向いたまま続ける。
「目をそらしたとたんに、襲われるんですって」
さらに続けて…
「じゃあサルにあったら、アナタならどうする?」
彼女は、カウンターに突いた両ヒジの先の、両手をもみ始める。
「ハア〜?」
その男は、酔っている上に、もともと無い頭をひねっているのだろう、真剣な面持ちになってきた。
「野性のサルにであったら、目をあわせてはダメ。目があったとたんに、襲ってくるらしいわ」
俺の右隣りに座る彼女の先に、男が立っている。ここからでは、彼女の表情をうかがう事はできないが…
「ナンダ~?」
からかわれている事に・やっと気づいた男は、鼻息が荒くなる。
「その話を初めて聞いた時、なるほどなって思ったのよ。眼をつけたの・目があったの…そんなことで、いちいちケンカするなんて、ずっと不思議に思ってたんだけど…」
彼女は、そう言いながら…
「人間はサルから進化したんだから、仕方がないかって…」
その時になって初めて、ソイツの方に顔を向けるが…
『なるほどな』
「集会」先での『暴走族』同士・「修学旅行」先での『ツッパリ』同士。
こんな状況なのに、かえって俺は冷静な気分になって、感心していたのだが…
「なんだと~!」
彼女と目を合わせた男は…酔った赤ら顔を、いっそう赤くして…いきり立つ。
「本能ですもんね」
男を見下したような言い方をする。
「俺がサルだってのか?」
男は、カウンターに載せていた右手を上げて、上体を起こし…
「このアマ~!」
そう叫ぶと、つかみかかるように右手を伸ばしてきたが…
『!』
「ガシッ!」と音がして、男の動きが止まる。
『?』
男の右腕を、彼女は左腕で受け止めていた。組み合った男はしかし、面食らったような顔をしている。
「フン!」
彼女の握力が、尋常ではないことがわかったのだろう、動くことすらできないようだ。
「やめとけよ」
俺は「腕相撲」のレフリーのように、組み合った二人の拳の上に手を掛ける。
「あんた、体重何キロあるんだい?」
俺はその、サルからニワトリのような表情に変わった男に声を掛ける。
「彼女は、元ウエイト・リフティング75キロ級だ。あんたくらい、軽がるとかつぎ上げちまうぜ」
俺は、組み合った二人の手を分ける。
「わかっただろ?」
まわりには、知ってる顔だっているのだろう。
「ケッ!」
一気に酔いが覚めたような顔になり、バツが悪そうに去って行くと…
「ビールちょうだい!」
彼女は、カウンターの奥で一部始終をうかがっていた若い男に声をかける。
『たいしたもんだぜ』
それから、左に座り直した俺の方を向いて…
「ああ、怖かった」
上目づかいに左の八重歯を輝かせて、照れ臭そうに・ほほ笑んだ。
「フン!」
俺は…なんだか上機嫌だった。
※ ※
白壁に、赤茶色の梁の家々。
『やはり赤茶の屋根は、瓦なのだろうか?』
そんな事を思うが…石畳の道が続く、「いかにもヨーロッパの山村」といった、俺が持っていたイメージに、ピッタリの街並だった。
(昨夜は、結末は痛快だったものの、不愉快な出来事があったが…昼間の治安は、悪くなさそうだ)。
そこの街はずれにある『アクティブ・スポーツ・ソサエティー』研究所。そこの研修所も兼ねた総合施設が、俺たちの訪問場所だ。
「フン!」
ここの創設者は、世界的に有名なスポーツ食品会社の創業者で…現在は、そちらの会長職にある人物。
(実際の効果の方は定かではないが…効果的なプロモーションによって、『巨万の富』を得た)。
そして…その様々なPR活動の一環として、数々のスポーツ・イベントにスポンサーとして関わっているうちに、既成の団体の運営では飽き足らず、自らの組織を立ち上げた。
(それが、『アクティブ・スポーツ・ソサエティー』本体だ)。
「旗揚げ」した当初は、その過激な思想…表だってではないが「ドーピング」などを肯定・黙認するという…に、一部の「正統派を自認するアスリート」や、自然主義を掲げるインテリ」の間では、不買運動なども起こったが…健康食品の経営者ではないのだ。社長みずからが、おのれの肉体を最先端の形成美容技術で飾り立て、アピールした。
(「不老・長寿」を望む老人や、「マッチョな肉体」を渇望する若者には、『効果覿面』だったようだ)。
『フン!』
そして本日、俺たちが面会するのは…そいつらが世界展開している「アルティメイト・マイスター・シリーズ」の一部門…「モーター・スポーツ部」の統括責任者。
『ヒュ~!』
俺は心の中で、「冷やかし」とも「嘲笑」ともつかない口笛を鳴らす。
『フン!』
近代的だが、重厚な色調の調度品が置かれたオフィスにいたのは…ウェーブのかかった「白髪まじりの頭髪」を無造作にかき上げ、紫が濃くなったような紺色の・絹のような光沢を放つスーツに、黒皮のようなズボン。ノー・ネクタイで、青いシャツの一番上のボタンをはずした、物静かなプレイボーイ然とした男。背丈は・それほど高くないが、彫りの深い顔をしている。もう60近い年齢だろうが、均整のとれた姿態と・血色の良い顔色には、ヤル気と野心がにじみ出ている。
(そう言えばいつだったか、スーパー・モデルとのゴシップ記事を目にした事があった)。
自分の事を「ローマ人」だと言って、名乗りを上げたが…鷲鼻の「スコットランド人」同様、そして特に「陸続き」の場所では、よそ者にはわからない・はた目には気づかない、大昔から受け継ぐ誇りや、引き続く確執があるようだ。昨晩の連中だって、「人種差別」の意識があったのは明白だ。
(特にモーター・スポーツは、白人・欧米の文化という自負があったのだろう、邦人開拓者たちは、言われの無い差別を受けてきた。ゆえに日本人が、ジャパン・マネーや日本企業の支援を受ける事は、何ら恥ずべき行為ではないわけだ)。
でも、それも仕方ないのかもしれない。「国境を接している」というばかりではなく、過去の歴史をたどっていけば、今では同じ国内にあっても、複雑な血縁・血族関係があったりするそうだ。
「島国」という事もあり、架空の民族「大和」なんてものを創り上げ、「単一民族」だと思い込んでいられる日本は、平和な国なのだろう。
(かつては、「水泳」と「モーター・スポーツ」に、黒人選手はいなかった。モーター・レースの世界では、21世紀の初頭までには解禁された感じがあるが…そこには「商業主義」的な理由も、もあったかもしれない。しかし・もちろん、著名な陸上選手と同じく、当人の才能と実力によるものだった。だが、たとえば『ミス・ユニバース』。優劣の選考基準は曖昧だが、そこにノミネートされるくらいなら、誰を選んでも間違いないレベルにある。また、たとえば『ノーベル文学賞』。科学などの実学的分野と違い、芸術的な功績に、甲乙はつけがたい。そこで、「できレース」とまでは言わないが…どちらも「今回は、この民族」「今度は、この言語圏」的な『話し合い』や『事前の打ち合わせ』があって、受賞が決定すると言われている。このあたりの事情は、「裏取引」や「闇協定」が噂される、日本国内の『○○・オブ・ザ・イヤー』や『全日本○○大賞』よりはマシだろうが…どちらにしろ現在までのところ、黒人のトップ・スイマーは誕生していない。それは…肉体的に不向きな面もあるのだろうが…「いまだに(おそらく、『同じ水の中につかる』という事に対する)差別の意識が、根強く残っているからだ」とも言われている。一方で、『性差別』は…「ゆるやか」にではあるが…緩和されてはきていた。かつて敵性国家の横やりによって実現しなかった、某大国・初の黒人大統領に続く女性大統領が、近年やっと実現し…後追いで、その同盟国「ニッポン」でも、最初の女性首相が誕生したばかりだ。ただし宗主国に先立って、独断で「初」などを実行してしまうと…以前、共産圏の某国と先行して国交を回復した総理大臣が、疑獄事件で更迭されたように…「失脚させらるおそれがある」との説がある)。
「多少の危険があったほうが、ショーの真実味が増すと思わないか?」
スモークのガラス張りの部屋に置かれた、黒い大きなデスクの、向こうと・こちら。
(俺の左隣りの・背もたれの付いた黒革のイスには、彼女が座っている)。
「たとえばモーター・サイクルのレースだ」
元々は貿易関係の仕事をしており、数ヵ国語に通じているとのうわさ通り…日本語も、そこそこ堪能だった。
「バイクのレースに転倒はつきものだが、それがリアリティーの証明になっている」
冬枯れの景色を背に、彼は俺たちに、自分なりの価値観や・団体の基本方針を語って聞かせた。
「それゆえに、バイク・レースのファンは熱狂し、勝者は英雄として称えられるわけだ」
(特にオートバイのロード・レースでは、アニメ・ヒーローのバトル・スーツ然としたライディング・スーツの登場により…「炭素繊維強化プラスチック」や「ケブラー繊維」を多用した物だ…ケガこそあるものの、死亡事故は、ずいぶんと減っていた。でも改革は、意外なところから始まった。動物の皮の革ツナギに、愛護団体からクレームがついたのだ。以前、毛皮のコートが批判されたのと、同じような趣意だが…それでなくとも、今の世の中にあって、旧態然とした皮革製品を使い続けていた事の方が、どだい、おかしな話だったのだ。そして・こちらの団体では、子供向けテレビ番組などとのタイアップにより、さらなるファン層の広がりを見せ、いっそうの人気を博していたが…それは20世紀の末期。外圧による『貿易不均衡』是正の一環として、それまで「メーカー自主規制」により、国内販売されていなかった750cc以上の大型バイクが解禁された出来事に似ている。それにともない「免許制度」も見直され、試験場でしか受験できなかった『大型自動二輪』…通称「限定解除」…が、教習所でも取得可能になったのだそうだ)。
話は、さらに続く。
「どうしてオープン・ボディーで、車輪を露出させていると思う?」
モーター・スポーツ部門責任者は、そう問いかけてくる。
『?』
「アルティメイト・マイスター」の車両規定では…ボディーは単座。ドライバー直後の「メイン・ロールバー」と、「フロント・ロールバー」や「サイド・ロールバー」は装備しなくてはならないが…真上から見た場合、ヘルメットからステアリングにかけては、完全に視認できなくてはならない事になっている。もし、コックピットに直撃を受けたら…もっとも、屋根が付いていたからといって、完全というわけではないだろうが…完璧にドライバーを保護できるわけではない。しかし・それも、先の「モーター・サイクルと同様の理屈」と、割り切るしかないだろう。
(それに、安全性以外の面でも、構造物に穴が開いているという事は、マシン造りから見た場合、強度が落ち、剛性を確保するのが難しくなる。たとえばオープン・カーだ。一般の人の目には、屋根が無いぶん軽量そうに映るだろうが…ルーフにおおわれた車と同じ頑丈さを確保するには、かなりの補強が必要となる。おまけに、転倒した際の乗員保護の観点から、「フロント・ウインドウだけで車重を支えられる事」という安全基準上の要求から、屋根付きの同型車種より重くなる事すらある)。
また、真正面と・真後ろから見て、タイヤが完全に露出しないような規則になっているのは、タイヤとタイヤが接して、大事故にならないようにだが…
(同じ方向に回転するもの同士が接触すると、後ろから乗り上げた方は、いともたやすく宙を舞う)。
ただし、マシンを真上から俯瞰した状態と、左右から見た場合は、タイヤ全体が見えなくてはならない事になっている。
(車体を、正面と後面から見た場合の、車輪周りのボディーの高さは…「タイヤの上方1/3以下が見える」のが規則だ)。
「私は、クルマのレースには二つの種類があると思っている」
統括責任者は続ける。
「ひとつは、ツーリング・カーやストック・カー、一部プロトタイプ・カーのように、クローズド・ボディーを持った物」
(クローズド・ボディーとは、つまり「屋根付き」のクルマの事だ)。
「そういったレースの場合、観客の方は、クルマを見にくるのさ。競馬だって、そうだろ。まずは馬さ。馬が良くなくちゃ、どんな騎手が乗ったところで、お話にならない」
『たしかに、それも一理ある』
俺も、心の中でうなずくが…
「もちろん、ワン・メイク化の長所も弊害も理解している」
景気が悪くなると、「コスト削減」を掲げ、使用する車両や部品を規制したり・統一化する動きが出るものだが…少なくとも外観には多様さを残しておかないと、それでシリーズが消滅してしまった事例は、いくつもある。
「マシンの個性も大切だ。しかし私は…観客の一人として言わせてもらうなら、乗り手の放つ、極限の輝きを見たいんだ」
『フン! イイこと、言うじゃねえか』
俺に『二言』は無かったし…むしろ、諸手を挙げて『賛同』したい気分だ。
「20世紀の後半、映像の世界にコンピューター・グラフィックスの技術が使われるようになった頃…とあるアクション・ムービーで、主役を演じる俳優から、クレームがついたという逸話が残っている」
なんでも、特撮ヒーローものの主人公が、高い塔の上から飛び降り・着地して歩き去るまでのひと続きの場面の途中に、あえてカットを入れる事を要求したのだそうだ。
理由は『単純明快』…仮想世界の中に、すっかり組み込まれてしまったのでは、「俳優としての自分の存在価値が失われることになるから」だそうだ。
「つまり我々は、ドライバーのアイデンティティーを残しているんだよ」
『なるほど・たしかに、誰が・どんな運転をしているのかがわからなくては、ラジコンが走っているのと同じだ』
さらに、こちらの団体の規則では…タイヤの一部ばかりでなく…サスペンション部まで・完全におおわなくてはならない規則になっている。車両・下部の「平底」規定と合わせて、「空気通路」を廃止する事により、暗に「グランドエフェクト・カー」や「ウイング・カー」を禁止しているわけだが…
(もっとも最近では、「サスペンション・アーム」なる物を装備している『アルティメイト・カー』は存在していない。路面に対して・車輪の軌跡が、円弧を描くという事は…『幾何学的配置』が複雑になり、「無駄な動きをする」あるいは「理想の動きができない」という事を意味する。そこで、動力や潤滑の系統と連動した油圧シリンダーや…ちなみに、レース専用エンジンに必要とされる最低の油圧を確保するためには、市販車の「最高回転」並の回転数まで回さなくてはならない…エアコン用と併用で搭載したエアー・コンプレッサーで作り出した自前の圧縮空気を使い、車輪を上下に動かす懸架装置が考案された。「ホイール・トラベル」が、せいぜい・わずか十数センチというレーシング・カーだから可能な事だが…その上、左右それぞれに装備されたサーボ・モーターにより、『ハンドリング・バイ・ワイヤー』を実現し、ステアリング用のギヤ・ボックスすら存在しない。さらに、駆動を伝えなくてはならない後輪の「ユニバーサル・ジョイント」部などには、「トルク・コンバーター」の要領で…「デフ・ロック」のような機構も備えた…油圧を駆使し、動力を伝達する物などもある)。
ウイングは、車体の外にはみ出してはならないので、フロントはタイヤハウスに渡したウイング。リヤは、大パワー・マシンを押さえつけるための、大型で、かなり立った物が装着される。
(しかし、どちらにしろ「ダウン・フォース」は得にくい構造だ。オマケに、後方に乱気流が発生しにくい造りなので、「スリップ・ストリーム」は効くが、コーナーの手前では、スピードの低下とともに一気にグリップが抜けてしまう)。
しかも、既存組織の車両規定とは逆に、最低寸法が決められており、車格は大きい。
(たしかに、広いコースを疾走する対象物には、ある程度の大きさが必要だ。小さな「フォーミュラー・カー」では、「サーキット映え」しないものだ)。
全長✕全幅のサイズが小型トラックほどもある、様々なメーカーのマシンが入り乱れ…時速400キロ・オーバーで、「ドラフティング」を使いあいながら直線を駆け抜け…そこからタイヤ・スモークの白煙を上げながら一気にフル・ブレーキングしての、カウンター合戦。向きが変わる前からのアクセル・ワイド・オープンで、ドリフトで加速しながらコーナーを立ちあがって行くさまは、かなりの弩迫力。想像しただけでも、興奮して鳥肌が立ってくるが…それが、こちらの団体の人気の秘密だった。
「20世紀の、アメリカの著名なノーベル文学賞作家が語ったところによれば…真の『冒険』と呼べるのは、登山と闘牛、そしてカー・レースだそうだが…」
男は、顔をしかめながら…
「しかし21世紀に入る頃には、モーター・スポーツにおける・その権威も、いったんは失われてしまったわけだ」
『安全性の向上』と、『万人向けする優等生』を指しているのだろう。
『「死」への恐怖を身近に感じる事もない、安全で健全な「スポーツ」に成り下がってしまった・あちらの団体に対する皮肉?』
俺には、そう聞こえた。
「私は、真のカー・レース…『冒険』の復権を願っている」
そう言いながら、デスクの上の黒表紙のファイルに目を走らす。
「きみの経歴は見せてもらったよ」
その資料に視線を落としたまま…
「神話の世界から来た男…か」
ささやくように、つぶやくが…
『フン!』
今さら、昔の俺のキャッチ・コピーなんて、引っ張り出さないでほしいものだが…
「いい響きだ」
男はポツリと一言、そう・もらしてから…
『?』
一瞬、こちらに眼をむけるが…
「それでは1週間のテスト、がんばってくれたまえ」
すぐに、イスに深々と座り直して…
「良い結果を期待しているよ」
最後にそう言われた俺たちは、部屋を辞した。
「フン!」
ガラス張りだが・北側のせいで薄暗い、人気の無い廊下を歩いていると…
「黒幕って感じで、政治家向きじゃないわね」
それが、彼女の印象のようだ。
『なるほど』
たしかに…「成金」「拝金主義者」など…彼ら上層部の人間を、良く言わない人間も大勢いる。
(特に、「ゴシップねた」を求めている、質の悪いマスコミ関係者に多いのだが…)。
だが俺は、この世界にいる・あの手の連中が、嫌いではなかった。
『フン!』
どちらかと言えば、体制には無条件で反発や反感を覚えるような人間だったが…ことモーター・スポーツに関しては、そうでもなかった。ナゼなら…この業界には、「主義・主張」や「好き・嫌い」、そして「やり方の違い」等はあれど…根底には「レースが好き」という共通の感情が流れているからだ。
「好き」でなければ…「金もうけ」だけが目的ならば…もっと効率の良い商売など、いくらでもある。だから、この世界にかかわっている人間の多くが、過去にレーサーを夢見た事があったり、メカニックの経験があったりするものだ。
さっきの男がモーター・スポーツと出会ったのは、後年になってからのようだが…「レースは麻薬」。どちらにしろ、この世界・その魔力に、ドップリと感化された一人に違いない。
「選手なんて・商品くらいにしか思ってない、ドライに割り切った・ビジネスライクな応対だし…」
彼女は、そう言葉をつぐが、しかし俺は…
『それは・おそらく、威厳を保つためと…』
そして…
『レーサー個人に対して、過度の感情移入を避けるためさ』
目線が合った瞬間の、彼の瞳の奥に感じたもの…それが俺の感想だ。
(なにしろ、こちらの団体での「レーサーの事故死亡率」は、モノコックにカーボン・ファイバーが使われるようになり、安全性が飛躍的に高まった1980年代以前のレベルだ。今すぐにだって、「不意の別れ」…突然の『訃報』が届くかもしれない)。
「フン!」
そして、「時差ボケ対策 その2」は、適度に身体を動かす事だが…
(だが・できれば、危険をともなうような作業は、充分に「現地慣れ」してからの方が良い)。
その日は・その後、おおまかなスケジュールの確認などの「要旨説明」が行われてから『身体検査』。
「いい汗かいたぜ!」
続いて『体力測定』だが…子供の遊びではない。いちおうプロ・スポーツマン向けの、かなりハードな内容だった。
「ふう〜!」
そんな一日が終わり、宿に戻って…まずは内側からカギがかかる、共同の「シャワー・ルーム」へ。
(と言っても、廊下に面した・横にスライドするドアを開ければ「バス・タブ」があり、靴を脱いで、そのまま・またいで入る事になる。日本のビジネス・ホテルの浴槽より、広いが・浅い金属製の風呂桶。シルバーの輝きが…「風呂場」というより…台所の「流し」を連想させる。栓が無いので、お湯をためられないし…どちらにしろ、「ぬるい」というより、この季節では「冷たい」と感じる程度の湯温。サッサと済ませないと、かえって冷えてしまう)。
その後、マッサージを受け、彼女がシャワーを浴びている間に夕食の準備。
電気ポットと冷蔵庫はあったので、経費節約。レンタカーでの帰り道、途中の食料雑貨店に立ち寄り…パンにマスタード、野菜やハムなどの食材を買い込み「サンドイッチ」。調理担当は俺だ。
「生まれは、どこなんだい?」
初日が終わってホッとしたせいだろうか? 夕食の席で…俺にしては、珍しく…世間話みたいなものを始めた。
「愛媛」
彼女は、俺が作ったブ厚いサンドイッチを、両手でつかんで頬張っていた。
「愛媛…?」
俺は、いまだに日本の地理には…特に西日本は…不案内だ。
「四国よ」
彼女はいったん食べるのを中断して、クリッとした眼差しを上げて、俺の方を見る。
「ああ…」
俺の反応に、『わかっているの?』といった顔をして…
「四国の左上」
俺は四国を、タテ・ヨコの線で区切った絵を思い浮かべる。
「あったかそうだ。老後にはいいかもな」
わかりもしないくせに、俺がそう言うと…
「冬には雪だって降るし、スキー場だってあるわよ」
そう答えて、ふたたび口を動かし始める。
「そうなのかい?」
わざわざ海外まで来て、こんな話をするのも何だが…もっとも思い起せば、彼女と・こうして膝を交えて、プライベートな話をする機会も、そうそうなかった事だ。
それに、どちらかと言えば孤独を愛する俺だ。四六時中、誰かと面突き合わせているくらいなら、一人でいた方がマシな人間だった。唯一、例外中の例外が、女房と娘だったが…
『なるほど』
今回の事で、自分について、新たな発見があった。
『むしろ、異性で良かったのかもしれない』
同性に接するより…男同士に対するがゆえの、「見栄」や「構え」が必要なく…かえって気を遣わなくてよい「気楽さ」があった。
『フン!』
どうやら俺は、そういう人間のようだ。たしかに女房と娘も、異性には違いなかったし…
(それに俺たちは…ご存知のように…「男女の関係」抜きの間柄だというのが、一番の理由だろうが…)。
「二人目の主人がね…『見合い』みたいな感じで結婚したんだけど…転勤でこっちに来てね」
『こっち』とは言っても、もちろん俺たちの「地元」の事だ。
「彼が単身赴任で、海外に行ってる間に別れたんだけど…」
それに彼女は、どうやら「寂しがり屋」のようだ。
「実家にも帰りづらいし、そのままいついちゃって…」
初めて、雪の降るゴルフ場で出会った時のクールな印象と違い…案外、よくしゃべる。でも、「おしゃべりな男は嫌いなの」だそうだ。
「意見されると、こっちも・つい反論しちゃうし…」
『なるほど。二番目の亭主が、そうだったわけだ。それで…』
―Bogie the hardboiled―
思い出した。
「ハードボイルドのボギー…か」
俺が声に出してそう言うと…
「ふふ…怒った?」
そう言って、またまた上目づかい。
「無口だからって、なにも考えてないと思ったら、大間違いだぜ」
しかめっ面を作った気になって、そう言ったのだが…
「でも・あなたは、ちゃんと聞いてくれてるわ」
そんな時はいつも、八重歯が目立つ左顔だ。
「フン!」
俺は、そっぽを向く。
※ ※
夜が明けた。
『さて!』
いよいよだ。
早朝の「ジョギング」を済ませてから「ストレッチ」。「日の出」の遅い、この季節。明け方は、かなり寒いので…無理せず徐々に、入念にアップ。その後、朝メシを済ませてから、研修センターに向かう。
「フン!」
こちらの団体では、2輪&4輪のレーサーや、飛行機の「アクロバット大会」および「スピード競技」のパイロットなどは、「模擬実験・操縦装置」で選抜し・訓練する。これなら、事故でケガをしたり、最悪の事態になる事はない。
(ようするに、訴訟や保障などの問題が発生するおそれを、回避できるわけだ)。
それに、実機を使う場合は、機械を壊してしまえば…たとえ、ドライバーやパイロットが無傷だったとしても…修理・修繕費がかかる。そうでなくとも、試験や錬成に供するための、メンテナンスの手間や出費が必要になる。
「それが、仮想現実の世界の中で実行できるなら」
ゆえに、こういったシステムを最初に取り入れたのは、当然「軍部」だ。
(だいたい、時間・人出・予算など、多大なコストがかかりそうな、戦闘機の「脱出用・射出装置」。それが、わざわざ開発・実用化されたのは…「一人前になるまでの費用」を鑑みれば、それでも「元が取れる」からだ。つまり、『太平洋戦争』時の日本軍は、優秀な「飛行機乗り」を…無駄で無益に…浪費してしまった事になる)。
「フン!」
それで、以前だったら、テストを受けるだけでも、「目の玉が飛び出る」ような、超高額の受験料が必要だったが…今では、カラダひとつ用意すれば充分だ。
(つまりは、採用側・被採用側、双方にメリットのある制度で、最近は受験希望者が殺到し、あんがい盛況なようだが…そのぶん、倍率は・かなり高い「難関」でもあった)。
あと合格に必要なのは、群れから飛び抜けた・本人の『才能』だけだが…もちろん俺には、「過信」ではない「自信」があった。
「フン!」
また、その他の競技は…全分野・各部門・諸種目とも、賞金だけで食っていけたので、既存の・権威も歴史もある組織や団体から、移ってくる有力選手も多かった。
(一応こちらの団体では…旧体制に敬意を表し…『世界チャンピオン』あるいは「世界記録」などといった表現は、使っていなかったが…そんな「肩書き」を持つ、元王者や・かつてのメダリストがゴロゴロしていた)。
そんなわけで…モーター・スポーツの場合も同様に…初心者・初級者・中級者などの中間カテゴリーは不要だった。
(4輪より、庶民的な資金でも始められる2輪のライダーの場合は、だいたいが転向組だが…「振興」ではなく「興行」が目的の営利団体。それも当然だ)。
たしかに、安全性を重視した既成の団体では、「レーサー」は安定した職業となっていたが…プロとしてやっていけるのは、頂点まで登りつめた・ごくごく限られた人間だけで、選手生命が伸びた分、上がつかえた状態になっていた。
(メジャー・デビューしたばかりのミュージシャンが、はじめからプロ並みの腕前を持つのと同様、「持参金」付きの若手といえど、そうそう能力的に劣るものではないが…それゆえ相変わらず、財力や政治力も実力のうちだった。もっとも、この不景気な御時世。超お金持ちのボンボンでもないかぎり、「並みの才能」にスポンサーがつくはずもない)。
だが、こちらの世界では、世代交代は簡単だった。こちら側で「長く続ける」ということは、それだけ事故死の確率が高くなるという事を意味していた。稼いだ額を天秤にかけて、「引きぎわ」を見極めないと…日本人的な表現を使えば…「畳の上で死ねない」という事態になりかねない。
(昨シーズンも、テストや実戦で、数人が命を落としている)。
『フン!』
白衣を着たスタッフに、「心拍数」を測る電極や・「血圧計」を身体にセットしてもらい、耐火機能も備えた本番用「Gスーツ」を着て、準備を整える。
『さてと』
左の小脇にヘルメットをかかえ…
(今では、『横G』のかかる4輪レース用ヘルメットには、戦闘機パイロットの物と同様の「衝撃緩衝機構」併用『耐G』装置が備わっている。もちろん、シールドの内側に、各種モニターが映し出される『ヘルメット・マウント・ディスプレイ』は標準装備だ)。
『フン!』
これから俺が入る、油圧シリンダーが張り巡らされた箱を見上げる。
中身を変えれば、アクロバット飛行機用にも使える大型の装置全体の大きさは、二階建て住宅一軒ぶんくらいはあるだろう。
(自動車用には「宙返り」などの動きはないが…地面に接している分、「飛行機などより、車の空気力学の方が、複雑で難しい」と言われるのと同じく…「実走」を忠実に再現するプログラミングは、意外に難解なようだ)。
視覚と重力を利用し、擬似的に仮想の世界を造り出すのだが…最近では、あながち馬鹿にできない状況になっていた。実際、精巧な超高性能「シミュレーター」の登場により…ゲームの世界から、即…現実のレースで活躍する選手も、生まれていた。
『宇宙飛行士みたいだぜ』
急な階段を登り、後部のハッチ型出入口から箱の中に入る。操縦席部分のみだが、忠実に再現された模型が設置されるだけあって、中は意外と広い。
(当然ながら…自動車メーカーが所有する、風洞に入った大々的な実車試験用実験装置は、実物のクルマを使って、ありと・あらゆるテストをシミュレートする事ができる)。
正面には、上下左右に180度以上の広がりのある「スリー・ディメンションスクリーン」。
(特殊メガネ不要の最新型だ)。
ここに、三次元立体映像の走行シーンが映し出されるわけだ。
『せーの!』
狭い運転席に、もぐり込む。ここからは、黒い作業服を着たスタッフの仕事のようだ。彼らに手伝ってもらいながら、シート・ベルトを締める。
(レーシング・マシンのシート・ベルトというものは、もちろん「事故の際に身を守る」という点が第一義だが…『加速G』に『減速G』、バンクの付いたコーナーでは、『横G』ばかりでなく、『縦G』だって加わる。今のレーシング・ドライバーは、ありと・あらゆる方向から強烈な重力を受ける。だから「安全性うんぬん」以前に、ドライバーの身体をマシンに固定するという働きが重要なのだが…うなぎ上りのエンジン・パワーに、急速なタイヤ性能の進歩は、ドライバーにさらなる負担を強いていた。ベルト・タイプのシート・ベルトだけでは、身体の固定が不十分で、用をなさないのだ)。
『まあまあだな』
おおまかな「シート合わせ」はしてあった。ベルト装着後に、腕やつま先などの可動箇所以外は、エアー・アシスト機構が働くので…最初から空気の入った「エアー・バッグ」のようなものだ…ホールド感は問題ない。
(足首の動きを読んでくれる電気式ペダルは、自転車のペダルのように、クイック脱着機構の付いた固定型。ギャップで跳ねた時などに、爪先が浮いて離れてしまう事がない上に、ストローク量は無段階調整式なので…たとえばスロットル側は、ON・OFF多用のコースではストロークを短く、テクニカル・コースや雨の日は、ストロークを増やしたりと…微調整できるようになっている。もちろん、ペダルの踏み換えの必要が無い「フル・オートマチック変速機」搭載ゆえの機構だ)。
それでもシート・ベルトが装備されているのは、万が一、エアーが抜けてしまった場合や、二次災害防止の意味合いが大きい。
(以前、某国のヘルメットの安全基準は「衝撃を吸収して割れなくてはいけない」ものだったが…それで、長らく日本の規格に合致しなかったので、国内のレースで使用できなかったそうだ。なるほど、衝撃は一回だけとは限らない。最初の激突でヒビが入ってしまったのでは、続く衝撃には、意味を成さないおそれもある)。
『ついでに、マッサージ機能もつけてくれればいいのにな』
エアーが充填され、最後に、ヘルメットを衝撃緩衝装置につないで、準備完了だ。
(身体をシート・ベルトでガチガチに固定された状態で、頭をフリーなままにしておくと、事故の衝撃を受けた際…一般道路でなら「ムチウチ」程度ですむだろうが…レーシング・スピードともなれば、いとも簡単に首の骨を「圧迫骨折」する事になる)。
…アー・ユー・レディ?(準備はいいですか?)…
無線が入る。
…オーライ…
「相互同時通話」の無線機に返事する。
『さてと』
各種スイッチをオン。
「ズボボボン!」
スターター・ボタンを押して、エンジン始動。
排気音や、小刻みな振動までが再現されている。
セレクターを『走行モード』に切り替えてスロットルを踏めば、画面が動き出す…と、一連の、実車同様の一通りの操作が必要だが…「シミュレーター訓練」とは、その名の通り、擬似体験を通して、実践に即したトレーニングをするためのものだ。
(じゃなけりゃ、意味が無い)。
『こりゃイイぜ』
今日の「走行」は、ひと昔前の…俺が現役だった頃と、そう変わらない…「フォーミュラー・カー」のデーターがインプットされている。
(「最新」とは、常に変化を遂げているから「最新」なわけだ。ここで・それを追及しても始まらない)。
『行くぜ!』
イイ気分だ。俺はそれが何であれ、「走ること」が…たとえ、それが『仮想現実』の中だろうと…大好きだ。
※ ※
そんな感じで始まった俺の「入学試験」。最初の2日間は…
『こんなのは、まさに俺のためにあるようなものだ』
「エンジン回転数を守った走行ができるか?」
「安定したラップ・タイムを刻めるか?」
「その他、規定の走りができるか?」
そんなテストが続いた。そして3日目…「タイム・アタック」の指示が出た。
『フン!』
いま走っている仮想サーキットは、ここで所有するコースのひとつをトレースしたもので…緩い半径の最終コーナーは、メイン・ストレートに出る頃には、マックスまで速度が乗っているような超高速レイアウト。
(こちらの団体では、「シケイン」なんて、安易でケチなレイアウトは皆無だった。スピードをおさえたいなら、はじめからそういったものを考慮したコース設計をしていた)。
そこから長めのストレートを過ぎ、第1コーナーは、グルッと180度向きが変わる「ヘアピン・カーブ」といった形をしているが…大きな回転半径を持っている。
(それに、前に解説した通り、大き目の車体のレーシング・カーが、400キロを越える速度で走り回るコースだ。コース幅も広く造られている)。
『ちょいと試してみるか』
今までファースト・ターンは、セオリー通り…「アウト・イン・アウト」で「スロー・イン・ファースト・アウト」。必要な速度まで減速してから、コーナーに入っていたのだが…
(それでも、充分な「レコード・タイム」を、安定して記録していた)。
そこで「コーナー進入速度」を、目測で、1周ごとに10キロずつ上げてみる。
『フン!』
いま乗っている仮想レーサーは、空気の力を利用して、車体を地面に押しつける「グランド・エフェクト」全盛の頃のレーシング・カーが再現されているのだが…グランド・エフェクトが効いていれば、極端な話、100キロでは回れないコーナーが、200キロなら回れる…といった事もありえるわけだ。
『これなら、いけるな』
失敗したところで、シミュレーターだ…評価は下がるだろうが…痛くも・かゆくもない。
『アウトいっぱいから切り込んで、アウトいっぱいに立ち上がる』
そして…現実には、こんな事はありえないのだが…10周過ぎには全開のまま、380キロのスピードで、そこを駆け抜けていた。
『プログラムの変更が必要だな』
過去に、こんな航空機事故があった。
下から風にでも、あおられたのか? 着陸の際に、機首が上がりすぎてしまった旅客機。機長は体勢を立て直すため、推力を上げて再離陸しようとしたのだが…しかし通常の場合、機首が上を向いている時には、スロットルをオフにして、水平を保つようにプログラミングされている。想定以上の極限状態に、機長の操作はコンピューターに拒否されてしまい、胴体が折れてしまうほどの「しりもち事故」につながってしまったそうだ。
『フン!』
俺は無線を入れる。
…これ以上やっても、ムダじゃないか?…
そして翌日からは…1日早く、本試験とも言える「アルティメイト・カー」モードでのテストに切り替わる。
最高速度が450キロにも達するモンスター・マシンだが…俺にとって、速度の多寡は、そう大した問題ではない。手こずったのは、発生する強烈な『横G』だ。
『(イ)テテテ…』
血液の片寄りの方は、『Gスーツ』と強力な自前の心臓のおかげで何とかなったが…エアー・アシストが働いているとはいえ、「シート合わせ」は完璧ではなかった。そのうち、肩に食い込むシート・ベルトに閉口してきた俺は…
『横Gを逃がすには…』
車をスライドさせてしまうのが、てっとり早い方法だ。滑ってしまえば、荷重が抜けるからだ。しかし…
『プログラムの修正が必要だな』
おそらく、俺を乗せたシミュレーターの箱は、限界いっぱいの速度で真横を向き、荷かっている荷重を計る「Gメーター」は、現実にはありえない数字を示しているはずだ。なのに、まったく「ドリフト」しない。
『フン!』
どんな事物・事象・現象でも、ある物理的限界点や特異点を越えると、それまでの常識が一変。すべてが、逆転する事もある。
たとえば、よく言われる車の「低重心化」だが…それは、重心が車軸より上にある乗用車などの場合で、レース専用車両やレーシング・カートは、すでに重心は車軸より低い場所にある。そうなると、セッティングの方向性が、まったく反対になる。
高重心の場合、横方向の『ふんばり』を増すためには、「低重心」化や「ワイド・トレッド」化が有効だが…
(「トレッド」とは、左右のタイヤとタイヤの距離の事を指す)。
低重心の場合は、横方向への荷重移動量を増やすために、逆に、重心を上げたり・トレッドを狭める等の処置をする。
(相撲の「四股」を踏んだポーズを取ってもらえば、わかりやすいだろう。適度な股幅なら安定するが、開き切った状態で腰を落とすと、立ち上がるのにも苦労する)。
…まだ続けるかい?…
俺はテストの終了を促した。
『フン!』
その後の2日間、コースを変えて「タイム・トライアル」や「ロング・ラン」、さらに実戦を想定してのテストを行なったが…内容は、似たり・寄ったりのものとなった。
「フン!」
明けて、6日目。初日に訪れた部屋の中で…
「シミュレーターのデキは上々だ」
統括責任者の男は、クールに言い放った。
(「採用試験」にパスした若手などの場合は、教育のため、さらに数カ月、オンライン・ゲームのように、複数でのレース・シミュレーションも行われる。それが「下位カテゴリー」に相当するわけだが…俺の場合は「実戦経験有り」という事で、免除された)。
「実戦で使ってもらえるわけですか?」
俺にしては慇懃に、畏まって尋ねる。
「そんな事は簡単だが…その前に、ちょっとテスト・ドライバーとして走ってもらうことになる」
もちろん、接戦になった時など、「レース慣れ」や「長年の経験」がものを言う。しかし現在のように、マシンの差が如実に出る時代においては、「レース勘」より、マシン造りの知識や経験が重宝される時代だった。もちろん・どちらも、「どれほど多くの場数をこなしてきたか」が重要な事になるが…
『望むところだぜ!』
俺には、それらを補って余りある、人並みはずれたスピードへの適正があるとの自負があった。
『ヨシ!』
そんなワケで、『お墨付き』をもらった俺たちは、予定より1日早く切り上げる事になったが…
「勉強家なんだな」
彼女は毎日、俺のトレーニング内容や実績を記録している。
「鉄は飲んだの?」
一瞬、小型ハンディー・パソコンのキーを打つ手を止めて…しかし、モニター画面から視線をそらさずに…後からのぞき込む俺に、指令が飛ぶ。
『これからだよ』
俺は、声に出さずに返事する。
(「カルシウム」と「鉄分」は、同時に摂ると「鉄」の吸収が阻害され、効果が上がらない。だから、時間をおいて摂取する必要があるのだが…夕食時は、牛乳を飲むついでに持参のサプリメントで「カルシウム」を補給している。それで「鉄分」は、就寝前と決めてあった)。
『まるで「世話女房」だな』
(かつて、野球のピッチャーと気の合うキャッチャーの事や、レーサーと相性ピッタリのメカニックの事などを、「女房役」と呼んだ時代もあったようだが)。
『こんなこと、女房には言えないよな』
そんな、『アクティブ・スポーツ・ソサエティー』での最終晩を終えた翌日。俺たちは鷲鼻の男と・その顧問弁護士を交えて、契約書にサインをしてから、数日早く帰国したのだが…
※ ※
『チェッ!』
「臨時休業」と張り紙をした店の前。店舗の右脇に放置してあった俺の車は、キーを回しても…「スン」どころか、「ウン」とも言わない。
「フン!」
この寒い季節に、10日間ほど。そろそろ交換時期だったバッテリーが、完全に上がってしまったようで…
『まいったな…』
家に電話を入れてみても、誰も出ない。
(元来、無口な俺だ。当然、電話なんて物は大嫌いだが…ケータイだけは、持たされていた。しかし今回、「海外ローミング」の勉強をするヒマも無しに出かけていたので、移動電話は家に置いたままになっていた)。
『?』
どういうわけか店前に、女房の車が置いてあるのだが…
『ブースター・コードがあったはずだ』
家と店のカギ。それと、俺と女房の車のキーの四つは、常にセットで持ち歩いていた。
『さてと』
接続ケーブルを、つなぎやすいように…女房の車を、俺の車の真向かいに移動する。
それから…一張羅のブラック・スーツの両袖をたくし上げ、店の厨房の奥にある戸棚を探り、目的の物を見つけ出す。
「フン!」
大きな「ワニ口クリップ」の両端を、それぞれ両手で持ち、左開きのドアを・左ひじで押し開け、おもてに出ると…
『?』
いつの間にか、店の前に、男の車が乗り着けてあった。
『!』
俺が外に出るのと、車のドアが開いて、両側から二人の人影が降りてくるのは、ほぼ同時だった。
「ボギー…」
「あなた…」
向こうの二人の唇が、そう動くのが見えた。
『…』
俺は無言で、そのまま・その場から動こうともしない2人には目もくれず、2台の車のボンネットを開け、コードをつなぎ、自分の車のセルを回す。
『フン!』
感情表現は苦手だ。
(もっとも、感情をおもてに出せるほどの『表情筋』は残っていなかったが…)。
とある有名スポーツ選手が、役者に転身した時の苦労話を聞いた事がある。
役者なんてものは、多少・大げさなくらいでなくては勤まらないものだが…長年、感情を表に出さない訓練を積んできた勝負師。今さら「さらけ出せ」と言われても…といったところだろう。
(特に舞台芸なんてものは、わざとらしすぎて・むしろ「鼻につく」から、あまり好きになれない俺だった)。
それに俺は…こんな時、いったいどんなリアクションを取ったらいいのか、皆目、見当がつかなかった。
(だいたい俺は、子供の頃の、恋愛とも呼べないような淡い恋心を除けば、女房以外の女を知らなかったし…その上、俺が「男」としての役目を果たせていたのは、その最初期の、2年にも満たない期間だけだ。
『…』
そんな俺にも、この気まずい空気が何を意味するのかくらいは、察しがついた。
『…』
俺は、心を乱されたくなかった。
『…』
無機質で事務的に…後片づけをして…女房の車を元の位置に戻し…店のドアをロックして…立ち尽くしたままのニ人には目もくれず…エンジンが始動した車を出す。
『…』
この後の行き先は…ひとつしか思い浮かばなかった。