6・快楽主義者(エピキュリアン)
6・快楽主義者
「イテテテ…」
女性の場合、指が細いので、一点にばかり力がかかる。『指圧』には良いかもしれないが、俺は「もむ」「さする」といった施術の方が好きだった。だから本当は『マッサージ』は、面圧の下がる男の手に限るのだが…
「お客さま、どこかカユイところがございますか?」
上から声がかかる。
「なに…フザケてんだよ」
俺はうつぶせになって、彼女のマッサージを受けていた。
「痛いなんて言ってるからよ!」
不満を口にする。
(実のところ、『まな板の上の鯉』と言うほどでは無いにしろ…つまり、「相手のなすがままで、逃げ場のない状態」という意味だ…俺は彼女の「練習台」。お互い『試行錯誤』する中での、「モルモット第一号」だった)。
「マジメにやれよ」
俺が、そう返すと…
「ギューッだ!」
背中側の両肩の下…「肩甲骨」の内側に、両手の親指をねじ込んでくる。
「テテテ…ッ!」
まあ、筋や筋肉を痛めないよう、手加減はしてあったが…
「はい、おしまい!」
そう言って彼女は、俺の頭に、ポンッとタオルをたたきつける。
「フン!」
あの一件以来、「運命共同体」というか「一蓮托生」というか、男女の枠を越えた「仲間意識」みたいなものが芽生えていた。
『そういえば、血液型は何型だろう?』
いつも、そう思うのだが…
「仕切りたがりの親分肌」で「独立心旺盛」なところは『O型』っぽいし…
『B型』っぽい「大らかさ」や「ズボラ」なところがあるかと思えば…
『A型』のような「几帳面さ」や「神経質さ」もあり…
『AB型ってことはないよな』と考えつつも…
(よく『ものの本』には、「AB型は、AとB、ふたつの型を持つから『二重人格』だ」などと書かれてあるが…少なくとも俺が知る限り『AB型』の人間は、「A型以上にA型っぽい」…つまり『きまじめ』か、「B型以下のB型」…ようするに『お気楽』かの、どちらか両極端だ)。
基本は寡黙な俺だ。毎回、言い出すタイミングを失してしまい、そのままになっていた。ちなみに俺は、ジプシーや遊牧民に多いとされる「自由奔放」な『B』だ。
(「ブラッド・タイプ」などと言うと、血液のみを対象としている感じがするが、それは免疫系をも含めたものらしい。たとえば「アメリカ・インディアンは本来、O型しかいなかったろう」と言われるように、人類の血液型の基本は「O型」だが…原初の狩猟・採取の生活から移行していく過程で、それに適した酵素が結びついた。定住・農耕の暮らしの中で、穀物主体の食生活を送ってきた農耕の民は、それに適した抗原「A」を。一方で、移動しながら牧畜を営み、肉や乳製品メインの暮らしを続けてきた放牧の民が、やがて身につけたのが・それに適応した抗原「B」…と、それぞれの環境の違いから、各々の免疫を獲得したのだそうだ。ちなみに、3000年以上前の人類の痕跡からは発見されない「AB」は、「新しく誕生した血液型だろう」と言われている)。
もちろん、二人と同じ人間がいないのと同様、それですべてが決まるわけではないが…傾向を示す指標にはなるので、客商売という関係上、参考にはなっている。
(近頃では、逆に・何の根拠も無いクセに、『血液型懐疑論』を唱える奴もいるが…もっとも、ごくマレに、まったく当てはまらない場合もあるので、要注意だ)。
「たいしたものね」
白と橙色のスポーツ・クラブの制服姿の彼女は、ベッドの脇に置かれた・背もたれの無い・丸い折りたたみ椅子に腰かけ、俺の「トレッド・ミル検査」の評価表を、ページをめくり上げながら眺めていた。
(「トレッド・ミル」とは、早い話、いつも使っている「ランニング・マシン」の事だ。ただし医療検査などに使われる物は、「心電図」や「血圧計」・酸素マスクのような物をつけての「最大酸素摂取量」などが、測定できるようになっている)。
「ポンプみたいな心臓」
病室のような、白がまぶしい部屋。薄い青色がかったガウンに腕を通しながら、マッサージ用のベッドから起き上がった俺に、ソイツを手渡しながら感嘆する。
「フン!」
鍛え上げられた運動選手の脈拍数は、「スポーツ心臓」あるいは「スポーツ徐脈」と呼ばれ、安静時は通常の人間より遅い「毎分60回」以下だ。
しかしレーサーの心臓は、心拍数の限界とされる「180回/分」を、レースのあいだ中、打ち続ける。
おまけに興奮すると、体内で『アドレナリン』という物質が合成され、血液はドロッとした感じになるそうだ。粘度が上がると、それだけ抵抗が増えるわけだから、心臓は血液を循環させるため、よりいっそうの働きをしなくてはならない。
つまり…興奮することばかりしていると、さらなる負担が心臓にかかる事になる。
ゆえにレーサーは、事故死しないで引退しても、晩年、心臓疾患で早逝する確率が高い。
(「寿命と心拍数」の関連を唱える学者もいる。たとえば電気製品だ。その寿命は、稼働する時間や・オン&オフの操作回数で、おおよその見当がついたりする。心臓もそれと同様『一生に打てる回数が定まっている』とするものだ。それゆえ、脈拍の速い小動物は、概して寿命が短いわけだ)。
「あたしは不整脈が出ちゃってるから…保険もマトモに入れないのよ」
次々と新しい記録が生まれ、どんどん世界が変わっていったが…昔からひとつだけ、変わらないものがあった。
「二つある物は、ひとつ取っても大丈夫だったりするけど…なんで心臓は、ひとつしかないんでしょうね?」
いずれは「人工弁」、ひいては「ピストン」や「タービン」でも組み込まれた「人工心臓」が登場し、さらに進んで、「2気筒」「3気筒」と、エンジンの多気筒化のような事になるかもしれないが…今のところは・まだ、そこまでは手をつけられていなかった。
(心臓は、下等生物ほど単純だ。人間に備わった物は、血液をためる「心房」と、送り出す「心室」に分かれ、それが動脈系の「左」と、静脈系の「右」とに分かれた、合計4室構造だ。左右に分かれていない魚などとくらべると、かなり上等な造りをしている)。
「でも心臓って、案外、ナマケ者なのよ」
他の種目では、もう生身の人間の出る幕じゃなかったが…しかし改造人間ばかりが覇を競う他の競技と違って、皮肉なことに、機械を介しているがゆえに「モーター・スポーツ」は、一番人間らしさを残している事になった。
「打った後、次に打つまでは休んでいるんですって」
彼女の勤務時間が終了するのに合わせて、こっそり「スポーツ・マッサージ」を受けていたのだが…
『返事もしないのに、よくしゃべるぜ』
そちら方面の実務経験は、ほぼ0だったので…先にも述べたように…俺が被験者第一号というわけだが、そろそろ潮時かもしれない。なにしろ…
『?』
俺は、左隣りから何か話しかけられたような気がしたので、両耳にかけていた左側のイヤー・フォンだけをはずして、左を向く。俺と並んで「エアロ・バイク」を漕ぐのは、例の男。
「最近、なにやってるんだ?」
そう問いかけてくる。
『なにって?』
俺は、聞いていた無線ステレオのスイッチをオフにする。音大に通っていた女房を持つ俺だったが、音楽はジャンルを問わず、あまり興味がなかった。
(そのくらいだから、もちろん「やる方」は、まったくダメだ)。
流行りの曲も・ミュージシャンも、まったくわからず、「そんなことも知らないの!」と最近では、娘に呆れられる事もしばしばだったが…まあ仕方ない。興味が無いものは、興味が無いのだから…。
(関心があるものはトコトンだか、関心が持てないものは、『まったく知らなくていい』と思っている俺だ)。
そんな俺が、今日、聞いていたのは…文学作品の朗読だった。
「師、のたまわく…」
中卒の学歴しかない俺だが…祖父は、レーサーにとっての命である眼が悪くならないように…しかし、最低限の教養くらい身に着くようにと、こういった物を用意してくれた。
だから「世界の名作」なんてものは、およそ一通り、耳を通した事があったし…英会話だって、「聞く耳」だけは持っていた。
(博識だった祖父は、レース会場への移動の車の中でなど…俺の走りについて、いちいち口出しすることは無かったが…科学や哲学に歴史・はては政治や経済まで、まだ小・中学生だった俺に、いろんな話を語って聞かせてくれた。どちらにしろ俺は、もともと早熟なマセ餓鬼だったのだろう。大人の中に混じって・チョコンとはじっこに座っては、その話を聞いている…そんな子供だった。「この子は座布団を出せば、ちゃんとそこに座る子なんだよ」。ジイサンはそう言って、嬉しそうに俺の頭を撫でている…そんな記憶がある)。
「フン!」
まさか、眼の見えない娘が生まれてくる事を、予想していたわけではないが…俺が、そうしたように…俺の「秘蔵ディスク」の数々は、娘の教育にも、多少は役に立っているのではないかと思っている。
(人は、心の中で考える時も、言葉を使って考える。だから、耳が聞こえないで生まれてきた人間より、目が見えずに生まれ出てきた人間の方が、知能の発達は早いそうだ)。
怪我の療養中…特に「寝たきり」の期間には、気をまぎらわす意味もあって…それらは、片時も手放せなかった。
「フン!」
俺自身は、ここ数年、とんと御無沙汰だったわけだが…今は、退屈な「ランニング・マシン」や、特に動作の単調な「エアロ・バイク」にまたがっている時の必需品になっていた。
(どの器具の前面にも、飛行機の座席のような・小型のモニター画面と、持ち込みの電子機器設置用ホルダーがセットされていたが…もっとも普段から、プライベート・タイムには映画はおろか、テレビだって見ない生活を送っている俺だった)。
「かみさんが心配しているぜ、なんだか最近おかしいって…」
男は、「女房が、俺と彼女とのことを疑っている」とでも言いたげな口ぶりだが…
『そういうことじゃないんだ』
俺の身体は、そういう事ができない肉体だ。それは女房が、一番わかっている。余談だが…こんな話がある。
モーター・スポーツは「フランスで生まれ、イギリスで発展した」というが…その英国では、「男が下手では済まされないものが二つある」と言われているそうだ。
(原典は、かつて『無冠の帝王』と呼ばれた・高名な往年の名レーサー…「プレイ・ボーイ」でもあったらしい…の『言』とされるが、今では・なかば「格言」化して語られている)。
それは…「クルマの運転とメイク・ラブ」。
(「メイク・ラブ」とは、男女の愛情表現の実践的な行為…つまり、「アレ」のことだ)。
『なるほど!』
たしかに、『ドライビング』と『メイク・ラブ』は似ている。なぜなら「上手な運転」とは…ハンドルやシートを通して伝わってくる、路面からのフィード・バックを敏感に感じ取り、「その時・その場・その状況」に臨機応変に応じた、「適切な反応」かつ「的確な操作」を加えて行く…という行為だからだ。
(ましてやレーシング・スピード下での、未熟な判断・操縦では、簡単にスピンやコース・アウトを喫してしまうだろう)。
それは、相手の反応に応じて対処していく、「愛の営み」と共通したものだ。
(とある著名なレーサーが・かつて、「運転に肝心なモノは何か?」と訊かれ、「尻と脳ミソのつながり具合だ」と答えたそうだが…自分勝手な操作ばかりしていたのでは、車ばかりでなく、相手を満足させる事もできないだろう)。
ゆえに『ドライビング』と『メイク・ラブ』…たしかに、似ているところがあるわけだ。
(つまり「男が下手では済まされない二つのもの」という意味は、裏を返せば「ドライビングが下手な奴は、メイク・ラブも下手だ」という事だと、俺は解釈している。それに、そこまでいかなくとも、「ソイツがどんな運転をするか」を見れば…緩急自在・オンオフ型・途中で集中力が途切れる、などといった…『どういった行為をするか?』も、だいたい想像する事ができるし、『上手いか・下手かまで、わかってしまうに違いない』とも思っている)。
もっとも今の俺に、後者は無縁な話だが…事情を知らないこの男は、何か勘違いをしているようだ。
『フン!』
女房の心配事とは、俺の『危険な企』についてなのだが…でも考えてみれば、かわいそうな女だ。俺なんかと・かかわりを持ったばかりに、大学も中退せざるをえなくなり、二十歳で子供を産んで10年間、ハンディキャップを背負った子供と亭主を背負わされ、人生の一番良い時期「20代」を棒に振ったのだから…
(そして、この先のアテだって…?)。
「あんまり、かみさんに心配かけるなよ!」
『フン!』
前をむいて、イヤー・フォンを元に戻す。
『ここにも、よくしゃべるヤツがいるぜ』
しかし…それでなくとも、館内でヘンな噂が立つと、彼女も・ここの従業員という立場上、まずい事になるだろう。
『早いとこ、なんとかしてくれよ』
そろそろ冬になっていた。
『フン!』
そして・その知らせは、年明けとともに届いた。
※ ※
その日・俺は、夜の営業時間を前に、店内で本日・四食目の食事を摂っていた。
『一日四食にするか? それとも五食にするか?』
「理学療法士」の彼女と、検討中の時期だった。
「フン!」
「新陳代謝」や「仕事量」「吸収効率」など…おのおの個々人によって違いがある上に、人それぞれに一日に必要なエネルギー量がある。ただし・それを一気に摂取しても、一度に消費できる量には限度がある。あまった分は「脂肪」となって、蓄えられてしまうだけだ。
(これは、「狩猟採取」という不確定な要素の多い暮らしを生業として進化してきた動物に、共通する機構・構造だ。食べられる時に食べて、余剰分は体内に蓄えておくわけだが…いったん貯蔵した物を、エネルギーとして使える状態に再変換するには、『運動』が必要だ。それも、有酸素系の運動を・一定時間以上つづけないと、体内で燃えはじめない。だから、「運動嫌い」な人間が、一日の必要量を一回で摂取してしまうと、「かえって太ってしまう」という結果になりかねない)。
だから猫のように…腹が減ったら、その度ごとに・ちびちび食べる…必要なカロリーを・細かく取った方が、吸収効率が良い事になる。
(そんな事は、スポーツ界では今や常識だが…「個人差」を考慮しなくてはいけない。俺たちは・俺の身体を検体に、「現在進行形」でテスト中だった)。
『?』
そんな時、店の電話が鳴る。
(俺は、「常時・肌身はなさず」ケータイやスマホを持ち歩くような人間ではなかった)。
「もしもし…」
受話器の向こうに、彼女の声が聞こえると…一気に頭に血が昇り、心拍数が上がるのを感じる。
「フン!」
俺の身体は基本的に、どちらかと言えば「持久」型だが…ことモーター・スポーツに関してだけは、超「瞬発」型。幼い頃から・そんな訓練を積んできたせいか、一発目の一周目から、全速・全開で走り出せるのだが…
(「アドレナリン」とは先に言ったように、興奮すると「副腎」から分泌されるホルモンで、一種の「興奮剤」みたいなものらしい。おそらく・これも太古の昔、『弱肉強食』の環境の中での暮らしを営んでいた頃、非日常的な場面に出くわした際などに、即、戦闘状態に入れるように、あるいは脱兎のごとく逃走行動に移れるために、自然に備わったものなのだろう)。
『フン!』
俺が思うに…競技や選手には、二つの種類がある。まずは今述べた、「短距離走」ような『瞬発』型。そしてもうひとつが、「長距離走」的『持久』型。
(「エンドルフィン」とは、「脳内麻薬」などと呼ばれ、現在では、「躁鬱病」の原因や治療に、その存在が認められている脳内物質。「ランナーズ・ハイ」や「クライマーズ・ハイ」の言葉で知られるように、苦痛の中にあって苦痛を打ち消す…いやむしろ「恍惚感」をもたらす物質だ。一日6キロ以上、自分の足で走らなくては満足できない人間は、完全にこの「エンドルフィン中毒」だといわれる)。
なんでも、「長距離走ができる」というのは…『有蹄類』の中の「奇蹄類ウマ目」も同様だろうが…人間の特徴だという。動物界では多くの場合、獲物を仕留めるため、短距離型のハンターが多い。つまり、「速筋」型だが、やはり狩猟民だった時代、人類が使った狩りの手段は…
(自分で自分たちの事を、「農耕民族」だと卑下する日本人も多いが…どこの種族だろうと、最初は木の実などの採取をメインに・狩りを行っていたはずで、「定住」「農耕」は、かなり進んだ文化形態のはずだ。それを過小評価する必要など、まったく無いが…「狩猟・採集民族」は、多くの人間が夢想するような「貧しい、その日暮らし」と違い、「裏山に入れば、木の実やバナナがなっている」ような、「案外、豊かな生活を送っていただろう」と語る研究者もいる。もっとも…かならずしも「安定した」とは言えない…耕作・定住生活を送るうちに、「野生のカン」が鈍り・やがては失われてしまったのも事実だろう)。
手負いになり・逃げ疲れた「弱った獲物を追い詰める」という、「遅筋」型の手段。手間や時間はかかるが、一番安全で堅実な方法だった事だろう。
(体毛が無いというのは…この点でも、「馬」もまた『然り』だ…防御的には手薄になるが、発汗や発熱など、持久走には有利な造りなのだそうだ。人間に体毛が無いのは、沼に棲むカバや、海に帰ったクジラのように…両者は、共通の祖先を持つそうだが…「水中生活に戻った事があるからだ」という説があるが、こういったものに適応していった結果かもしれない)。
また、「エンドルフィン」が多量に出る人間は、「ケガに強い」とも言われている。
(少し意味合いは違うが…20世紀の初頭。最期はオートバイで事故死してしまった、映画の主人公としても描かれた『アラブ独立戦争』の英国の英雄は、鞭で「ムチで打たれる」性癖があったという噂がある。捕虜になった際、自分の嗜好に気づいてしまい、以後、何かと理由をつけては…「戦死させてしまった部下たちへの償いのため」とか称して…部下たちに、「自らの身体を鞭打たせていた」という言い伝えもある)。
そしてそれは、『筋肉の質』のところで述べた事と同様、持って生まれたものによるところが大きいのだろうが…
「自分の向いてるものに魅かれるのは、当然だろう」
正確に言えば俺の身体は、筋肉的には中間のピンク系のどこか…つまり、俺が最もモーター・スポーツに適していると思っている…「中距離」型のどこかに、位置しているはずだ。
(これは「サディスティック」と「マゾヒスティック」にも対応する…というのが俺の意見だ。完全なる「S」と、完璧な「M」があったとして…筋肉の「白」から「赤」への途中に、様々な濃さの「ピンク」があるように…たいていの人間は、その間のどこかに位置するものだろう。その上おそらく、折衷度合いは、相手や状況によって変化する。部下や女房の前では「いかつい」上司が、愛人といる時に「幼児返り」するみたいに)。
「案外、『最初の一撃』は瞬発力のある者、『とどめの一突き』は持久力のある者…と、当時の人類には、役割分担があったのではないか?」
俺は何の学識も無いが、そんな意見を持っていた。
(「投擲」は、特に動いている対象に命中させるには、かなり高度な脳の機能が必要なのだそうだが…「球技」全般が苦手な俺みたいな人間は、『適者生存の法則』に従えば、生き残れなかったはずだ。きっと俺の祖先の役目は、追撃者だったのだろう。それが代々受け継がれ、やがて競走者の血となったのだ)。
「返事が来たわ」
おおよその内容を聞く。
「メールかファックスで送りましょうか?」
彼女は・そう言うが、俺は即答で…
「いや、都合がつく時でいいから…なるべく早く、来てくれないか?」
「いよいよ」だが、『ためらい』が無いとは言えなかった。でも…
『行かなきゃ何も始まらない』
しかし、その前に…
『家族会議が必要だ』
※ ※
俺の家は…正確には、ここも女房と、その義母さんの家だが…街はずれに建つ、古いが一軒家だ。
『今夜は冷えるぜ』
冬の夜の、もう遅い時間。この土地特有なのか? 今宵も、まとわりつくような寒さだ。
(冬は「太平洋高気圧」におおわれ、『放射冷却』で気温の下がる晴天が続く土地柄だ)。
「フン!」
俺の育った土地では、0度まで気温が上がると、暖かく感じられたものなのだが…
(さすがに、マイナス10度以下になると、昼間、陽が差していても「底冷え」するが…)。
この近辺は、氷点下まで気温が下がると、とても寒く感じる。
『きっと湿度の関係だ』
そう思っていた。
『雪が積もる土地は、湿気が雪になっているから暖かく感じるんだ』
たとえば、昼間の気温が50度近くなる砂漠でも、何とかガマンできるのは…ジメジメしている日本の『梅雨』などと違い…空気が乾燥しているからだ。
(それに大陸では、床下暖房が完備された家が当たり前で、屋内にいればTシャツ一枚で充分だったが…なんでも、日本のような「炬燵」の文化は、他には、わずかにアジアの少数地域にみられるだけで、珍しい存在なのだそうだ)。
「まだ決まったわけじゃない」
俺は皆を前に、ボソッと切り出す。
「それに…」
青い畳に、白木に白壁の和室。質素だが、材料には良い物が使ってあるようだ。初めてここを訪れた時、俺は「神社」を連想し…見かけも・中身も不自由な頃だったせいか、余計に…「厳か」な気分にさせられた事を憶えている。
『フン!』
湯飲み茶碗と急須が並べられた、掘り炬燵に足を突っ込んで…無口な俺だが、今夜は黙っているわけにはいかなかった。
「それにシュミレーターだけで、実走テストはないんだ」
正確には「シミュレーター」と発音する。最近では、「パイロット」や「宇宙飛行士」ばかりでなく、「歩兵」の戦闘訓練などにも応用されるなど、さまざまなバージョンの模擬実験・操縦装置が登場していた。そして、現実と見まごう優れた仮想現実の世界は、各分野で評価・判定にも使われていた。
「とりあえず、テストを受けるだけでも…」
四角いコタツの・俺の左面に座る彼女は、英文の書状を差し出す。
「わたしたちは、どうなるの?」
俺の正面にいる女房が、反論する。
「ダメならダメで、また元の生活に戻るだけさ」
もちろん、そんな考えは、みじんもなかった。当然、合格するつもりだ。
「わたしが言ってるのは、そんなことじゃないわ」
言いたい事は、わかっている。
「もし、またなにかあったら…」
もっともだ。
「あなたの考えてることが、わからない」
そう言う女房に、俺は無言で返答する。
『誰もが、勝って自分の優越さを誇示したいと思っているのさ』
競技者の「名誉欲」ばかりではない。政治家の「権力欲」に、実業家の「財産欲」や、芸術家の「名声欲」。案外、宗教家だって、「権威」を振りかざし、人の上に立ちたいと欲しているに違いない。だから「格差社会」も、やむを得ない。いやなら勉強もスポーツも、順位付けなどしなければよいのだ。
(ゆえに、「格差」を是正するのは簡単だ。すべての競争・成績を否定すればよいだけだ)。
どちらにしろ俺は、ずっと以前から気付いている通り…
『アブナイくらいじゃないと、本気になれない』
『ドキドキするくらいじゃないと、生きてる気がしない』
「気持ちの良いこと」が大好きな『快楽主義者』。
『フン!』
だいたい、もともと愛に生きる人間ではないし…今さら・それを望んだところで、どうせ満たされない身体だ。それに…
『女は男の付属品?』
そんな『時代錯誤』な考えを持っているつもりはなかったが…かつてレース仲間に、そんなふうに言われた事があった。
「お前の『女は男の付属品』みたいな考え方、俺は好きだよ」
そんな事を語った事も、考えた事すら無かったが…俺の態度が、そんなふうに見えたのだろう。どちらにしろ、事実あの頃の俺にとっては、「恋愛」なんてニの次・三の次。「無くても構わない」とまでは言わないが、面倒を抱えてまでも、必要なものではなかった。それに…
『男の本懐は、別のところにある』
そんな台詞が頭に浮かぶ。時代小説に登場した言葉だ。
『男の本懐?』
国や経済を動かすというほど、大袈裟なものではないが…
『この10年で、ずいぶん頭デッカチになったもんだぜ!』
もっとも、そんな大そうな演説をぶてる俺ではない。
「契約金が入れば、借金だって返せるし、眼の方だって…」
もちろん、最初から大金が転がり込むわけではない事はわかっていたが…娘の眼の事…それが、俺が一番アテにしていた「言い訳」だった。しかし、そんな時…
「男には、どんなことがあっても止められない・あきらめきれないものがあるんだって…おばあちゃんが言ってたわ」
右横から口をはさんできたのは、娘だった。女房にしてみれば、俺を思いとどまらせるには一番効果的だと思ったのだろう、娘も同席していたのだが…
「それは、理屈じゃないんですって」
義母さんは若い頃、地方都市だが「ミス○○○」に選出された事もあるような女で…詳しく聞いた事はないが…その頃、地元の有力政治家と懇意になったそうだ。そして未婚のままに生まれてきたのが、女房らしい。
(その父親は、とっくの昔に…女房が、まだ小学校にも上がらない子供だった時に…他界しているようだが、どうやら店もこの家も、その「後ろ盾」のおかげらしかったが…)。
『さすがオフクロさんだぜ!』
もともと勘のいい人だ。うすうす気付いていたのだろう。
「そのくらいの男じゃないと、つまらないって」
娘の一言。それが結論となった。
『フン!』
上出来だぜ!