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5・|両性具有《アンドロギュノス 》

5・両性具有(アンドロギュノス )



 薄い灰色のジャージの上下に身を包んだ俺は、春の陽気に、少々「暑苦しさ」をおぼえていたが…ロング・スリーブのトレーニング・ウェアーは手放せない。手だって「カッコつけている」わけでなく、いつも通り・指先だけがカットされた手袋(グローブ)を着用している。


(今日はドライビング・グローブではなく、ゴルフ用の物だが…仕事の時など日常においても、コイツは人前に出る時の必需品だった)。


 その他の部位だって…全身に刺青(タトゥー)が入っているわけではないが、もちろん「スイム」など、もってのほかだ。


「プロテインくらい、飲んでると思ってたけど…」


 インストラクターの着る、白とオレンジのトレーニング・ウェアー姿…上は小さな(エリ)付きの半ソデ、下は短パン…の彼女は、トレーニング・マシンの上に座って、(重たいウエイトとワイヤーでつながれた)グリップを上げ下げしている俺に向かって、そう声をかけてくる。


「フ・ン!」


 前にも言ったように、「白」は『膨張色』だ。線の細い奴には良いが、肉付きのよい人間は「小太り」に見えてしまう。


(だから俺は、自分の好みもあり…スポンサーがらみの制約がないかぎり…青のレーシングスーツを、好んで着用したものだ)。


「今は…ただのデブな…だけさ…ゼイ肉の…つき方が…筋肉っぽいんだよ…だから…勘違いされる!」


 俺は力を入れる時に、息を吐くかわりに、返事をしながらグリップを引く。


『ふふん』


 彼女は鼻先で笑うような仕草をしながら、重りの量を確認している。まあ俺にすれば、中強度といったところだ。


「フンッ! フンッ!」


 自分の先天的な能力だけで走ってきた俺だ。自己流のトレーニングは行っていたが、計画的に・専門的に肉体を鍛える事など、今までになかった。


(その運動に必要な筋力は、その動きの中で(つちか)われる…が自説だ。つまり、「車の運転に必要な筋肉は、車の運転の中で鍛えられる」と信じていた。それに・だいたい、好きでやっている事だ。今だって、鉛を上げ下げしているくらいなら、本当はハンドルを握っていたいのだが…かつて大陸にいた頃は、ヒマさえあれば、飽きずにクルマを転がしていたものだ。しかし・あいにく今は、そんな環境にない。それで渋々ながらも、ここで・こうして汗を流しているわけだ)。


 だが以前、「筋肉の付きやすい体質だ」と言われた事がある。プロのスポーツ・マンなら、筋力維持のための「必要最低限」程度のトレーニング量でも、俺はどんどん筋力が付いていくというのだ。


「どうして、そんな所の筋肉をつけたがるのかしら?」


 続いて俺は、彼女のアドバイスを受け、バーベル用の円形のウエイトを使った「側筋(そっきん)」の筋力アップにいそしんでいた。


(ハンドルに見立てた重りを両手で握り、両腕を突き出すようにして・左右に回転させる反復運動だ)。


「変わりモンなんだろ」


 俺は・そう言って、はぐらかしていたのだが…レーシング・カーの運転には、首や腕はもちろんだが、ハンドルを切るという動きには、身体の両サイドの筋肉を使う。それに最近では、トップ・カテゴリーに乗車するレーサーは、「戦闘機乗り」のような『Gスーツ』を着用するが、血液の片寄り防止にはなるものの…空中戦時の「9G」とまではいかないが…強烈な『横G』にあらがって、正確なステアリング操作をするには、それなりの筋力と持久力が必要だ。


(『(ジー)』とは『重力加速度(グラビティー)』=9・8m/s2を意味し、地球上においては『万有引力』とイコールで「1・0ワン・ジー」などと表記される。つまり「9G」とは、重力の9倍の力が()かっているという事だ)。


「フンッ! フンッ! フンッ!」


 ここに通う事は、女房も公認だった。そこで週に3日ほど、娘を養護学校に送って行ったついでに…方角的にも同じなので…午前中の早い時間。ここで・こうして、なまってしまった身体にムチを入れていた。


(最近では、増加する「早起き」な高齢者や・不規則な就業時間者のニーズに応え、こういった場所も「早朝開店」や「終日営業」する所が増えてきた)。


 どちらにしろ「ウエイト・トレーニング」は、毎日行うものではない。筋肉をいためつけ、能力が低下したところで、次に充分な休養を入れる事が大切だ。すると『超回復』といって、以前より、少し上の段階まで筋力がアップする。その期間を狙って、さらなる「バルク・アップ」をはかるのがコツなのだ。


(ただ、気分や外見で、そのタイミングを判断する事は難しかった。しかし最近では、疲労の指針となる「乳酸値」などを、手軽に測れるようになり…ここには、その装置が完備していたので、期を誤る確率は減っていた)。


 だが、「人間」などという、不確定要素だらけの生き物を相手にしているのだ。『絶対』なんて事はありえない。

 たとえば…多くの人が「駅伝」などの中継で、「カーボローディング」に失敗したランナーの姿を、見た事があるだろう。ゴール直前で、足元すらおぼつかなくなり、倒れてしまう光景だ。


(「カーボローディング」とは…肉体を動かすエネルギー源となる「グリコーゲン」は、先ほど述べた筋トレの『超回復』のように、カラカラに枯渇した状態にした後に「炭水化物」として補給すると、通常以上に肝臓や筋肉内に蓄えられる。そんな身体の特性を利用したものだが…レーシング・カーも、燃料を冷却して体積を小さくし、より多くの量を搭載したりするが…不思議な事に・この理屈は、充電式の電池やバッテリーにも当てはまる。カラカラにしてから充電した方が、より多くの量を蓄える事ができる。ただし、消費量が少ない段階で頻繁に充電を繰り返すと、充電効率が落ちるばかりか、電池やバッテリーの寿命自体を縮める事があるので、要注意だ)。


 まだ世の中が貧しかった頃に、(不要な「人口増加」を防ぐ目的で)避妊のために提唱された「オギノ式」ではないが…


(次の「生理日」から、「安全日」を予想する避妊方法だが…『生理不順』でなくとも、次の日程を確定することなど困難だ。避妊具が普及するにつれ、その言葉すら死語になったようだ)。


 もちろん自分の個体差を考慮に入れて、大会の日付から逆算して実行するのだが…自分のカラダとはいえ、計算通りにいかない事もある。そんな時は、ゴールを目前に、にっちも・さっちもいかないほどの「ガス欠」状態になってしまうわけだ。


「フイ〜ッ!」


 予定のメニューを一通りこなした俺は、首からタオルを()げて、深呼吸とともにベンチに座り込む。


『後は、どうやって「渡り」をつけるかだ』


 俺は毎日、そう思案していたのだが…それは案外、意外なところから訪れた。


     *     *


 暖かい季節が過ぎ、夏と呼べる気候になっていた。ここに通うようになって、半年が過ぎた頃だ。


「フンッ! フンッ! フンッ!」


 初夏の朝の景色を眺めながら、「ランニング・マシン」でウォーム・アップのジョギングが、ひと段落すると…


(以前の俺なら「なんでわざわざ屋内で、そんなもの使わなくちゃいけないんだ」と批判を口にした事だろう。つまり「外で走れば、そんな道具、いらないだろ」というわけだが…特に、陽の短い季節。俺が住んでいるようなイナカ街では、街灯も無く、夜明け前・日没後は、あたり一面真っ暗になってしまう。おまけに、歩道も無いような道ばかりでは、ウォーキングだって安全には行えない。冬は雪で閉ざされるような土地や、俺が暮らしているような「地方の田舎」には、ありがたい一品だ…という事に、ここに来るようになってから気がついた。また一方で、この季節。真夏の真昼の炎天下では、散歩だって、事と次第によっては自殺行為になりかねない。エアコンの効いた室内での効果的な「鍛練」と、『日射病』『熱中症』のおそれのある屋外での、非効率的で無謀な「根性」は別物だ。勘違いしてはいけない)。


「ムービング・ベルト」の前側に立つ、身体保持用のグリップ・バーに、右側から「ポンッ!」と右手が掛かり…


「タラ〜ン」


 アメリカ人が、いまだに使う常套句。


(続々と新語が生まれては・次々と死語になって行く日本語は、おそらく『世界で一番変化の激しい言語なのではないか?』と、俺は思っている)。


「ランニング・マシン」上というのは…かえってペースが落ちている時は、特に…意外にバランスを取るのが難しい。その前部のバーに両手をかけ、首だけを右にひねると…


『?』


 今日はこれから、『エアロビ教室』があるのだろう…ポニー・テールにしばった、ピンクのレオタード姿の彼女がいた。


『フン!』


 小顔なので、よりいっそう小柄な印象を与えるのだろうが…はっきり言って、スタイルは抜群だった。「二の腕」だって、今では元「75キロ級」だとは思えないほどに、スラッとしている。


(もっとも俺は、かつて「現役」だった頃の彼女の姿を、知っているわけではないのだが)。


 腰には…何と言うのだろう? 白いシルクのような輝きを放つ、スカーフみたいな布を右しばりで巻き、左手に持った、A4サイズほどの紙切れをヒラヒラさせている。パソコンからでもプリント・アウトしたような印刷物だ。


「かわった名前だから、すぐにヒットしたわ」


 ここで中国人なら「あいや〜!」、イタリアンなら「マンマミ〜ア!」と叫ぶところだろうが…


(俺は、『日本人は「米」と「日本語」を失ったらお(しま)いだ』と思っている。なにしろ「米」を食わせておけば、いつまでも働き続けるし、また、「日本人は図形認識能力に優れる」と言われるが、それは…「平仮名」&「カタカナ」の…「仮名まじり」の日本語のおかげだ。漢字ばかりで・学ぶのに苦労する中国語と違い、難しい言語体系を用いているからといって、全体の文化レベルが上がるわけではないそうだ。たとえば、アフリカの先住民族で使われていた言語には、文明圏以上に複雑な文法を持つものがあるそうだが…一方で、韓国の教養レベルが高いのは、汎用性のある「ハングル文字」のおかげだという。だいたい…「ひらがな」ばかりの絵本が、とても読みにくいのと同様…アルファベットなどを使う「表音文字」と違い、「表意文字」である漢字がちりばめられているので、分量からして節約できる。さらに一方で、11から20までの数学力の発達は、「11(イレブン)」から「20(トゥウェンティー)」まで・規則性の無い英語圏の子供より、規則的な日本語&中国語圏の子供の方が早いらしい。しかし、連星系で進化した知的生命体がいるとすれば、太陽がひとつしかない「太陽系」育ちの地球人より、はるかに高度な数学を駆使するだろうとも言われている。)。


「フン!」


 俺はマシンの上から彼女を見下ろして、鼻を鳴らす。


「同姓同名なんて、そうそういないと思うんだけど…」


 両眼で俺を見上げた彼女は、質問ともつかない言い方をしてきたので…


「顔が違う…って思ったんだろ?」


 そう言ってやると…


「…(無言)…」


 そこで俺は、ランニング・マシンの上に乗ったまま、クール・ダウンのための歩みを止めずに、放した左手で右の腕をまくって見せた。


「たぶん、そこに書いてあったろ、『焼け死んだ』って…」


     ※     ※


『フン!』


「汗をかく」という仕事柄か、化粧っ気がなかったが…


『初めて会った雪の日は、どうだったろう?』


 あまりよく憶えていないが…色が白く・『文化系』の俺の女房とは対照的に、『体育会系』で・「カフェオレ色」とでも呼べばいいのだろうか? まあこういった職種の、ましてやエアロビのインストラクターなら、健康的な感じがして良いだろうが、とにかく…


『なにか一枚くらい、羽織ってくればよかったのに』


「ひと汗かいた」後の、レオタード姿の女性と(ツラ)突き合わせているなんて、こういった場所でなかったら、何かの『罰ゲーム』以外、考えられないが…俺たちは、夏の午前中の日差しを浴びて、中二階の、半屋外に造られたカフェ・テラスにいた。


「よく言うでしょ。選手時代は二流だったくらいの方が、良い指導者になれる…って」


 なんでも、海外に遠征した経験もあるらしいが…


(たしかに『天才』とは…「凡人」とまでは、いかなくとも…「並の一流」程度とは、出発点からして違うのだろう。そんな人間からしてみれば、「どうして、そんな事もできないんだ」となる。はっきり言って、人には三つのタイプがある。「言えばできる人間」と「言わなくてもできる人間」。そして、「言ってもできない人間」だ)。


『二流だったのかい?』


 俺は目の前に「バナナ・ミルク」、彼女は「オレンジ・ジュース(らしき物)」を置いていたのだが…


「あいかわらず、無口なのね」


 彼女は汗ばんだ身体で…飲み物も飲まず…俺のドリンクが入ったカップを横に押しのけ、こちらに身を乗り出して来る。


『最近じゃ、ずいぶん馴れ馴れしい口のきき方するようになったもんだ』


 そう思いつつも…


「聞かれもしないこと…ベラベラしゃべるような人間じゃないだけさ」


 迫ってくる彼女に…後ろに反り返り気味になりながら…重い口を開いてやった。


「どう? わたしをトレーナーに雇わない?」


 今度は「単刀直入」に、そう切り出してくる。


『?』


 思ってもみなかった提案だった。


「スポーツ・マッサージの資格も持ってるし、スポーツ医学の勉強もしているわ」


 そう言って、自分をアピールしてくるが…


「けっこう野心家なんだな。もっと若いの、探せばいいだろ」


 新しい才能なんて、後から後から・どんどん出て来るものだ。ありもしない幻影に、いつまでもしがみついているなど、愚かなことだ。


「じゃあどうして、あんなトコ、鍛えてるのかしら?」


 あのあと俺は、レーシング・スピードでの走行時に、首に()かる強烈な「横G」に耐えるためのトレーニングを行った。


(「ベンチ・プレス」用の長イスに横向きに寝て、ボクシング用の「頭部保護具(ヘッド・ギヤー)」から吊り下げたウエイトを、首の力だけで左右に上げ・下げするトーレニングだ)。


『バレバレか…』


 俺は、目の前に引き戻したコップを、一気に飲み干しながら…


「それなら早く結婚して、子供に夢を託せばいいじゃないか?」


 この世界にだって、「ステージ・パパ&ママ」同様の「サーキット・パパ&ママ」は大勢いる。かく言う俺だって、あそこまで行けたのは「サーキット・グランパ」のおかげだ。祖父なくして、あの時・あの頃の俺は、ありえなかっただろう。


「できればいいんだけど…」


 彼女は一瞬、言葉を詰まらせたように見えたが…


「とにかく! わたしは、こうと思ったら気が短いの。即戦力になるような人を探してたの。ジャンルを問わずにね」


 まくし立ててくるが、だいいち…


「そんな金、あるわけないだろ」


 たしかに今どき、専属トレーナー(フィジオ)がいないプロのスポーツ・マンなどいなかったが…


「お金は、ある所から出させればいいのよ」


 彼女は、そう言い切る。


「ある所? それとも、とある所?」


 とにかく…そんな(つて)があるのだろうか?


「いい人を紹介してあげるわ。『金の成る木』に目のない人」


 なるほど今どき、専任のマネージャーがいないプロのアスリートもいなかった。


(現在、どのプロ・スポーツ分野でも、商品の「先物取引」みたいな事が行われている。若いうちからの『青田(あおた)買い』は「早い者勝ち」的要素があるから…近頃では、いっそうの低年齢化が進み、チョットでも見込みのありそうな子供とは、本格的に頭角を現わす以前に、片っぱしからマネジャー契約が交わされているようだ。マネージメント料の相場は、だいたいスポンサー収入の5〜10%。マネジャー側の力量不足では、自分の収益につながらないし、最初は○十万・○百万でも、億の額を稼げるようにでもなれば、○百・○千万単位の儲けになる。だから、代理・交渉にも力が入る。特にモーター・スポーツのように、多くの資金が必要になり、また、多額の金が動く世界では、お互いにメリットがある訳だ。それに、選手の能力不足・ヤル気(モチベーション)の欠如が露呈して、途中で挫折しても、マネージメント側には、失う物はあまりないが…もし運良く、本当の「才能(ホンモノ)」に巡り会えたら、(フトコロ)に転がり込んでくる金額は、「天井知らず」。もっとも、若いうちから身分不相応の大金を手にして、競技の結果で真の成功を収める以前に、身を持ち崩す若者や保護者も、後を絶たないようだが…まあ俺みたいな「老人(ロートル)」に、向こうから・そんな「お呼び」が掛かるはずもないから、こちらから動かなくては、何も始まらないだろう)。


「どんな奴なんだい?」


 本当の事なら、願ってもない話だが…


「わたしの最初の亭主よ」


 アッサリそう答える。


『最初の…?』


 彼女は自分のカップを引き寄せ、中身をひとくち口に含んでから続ける。


「よくある話でしょ、選手とマネージャー」


『そうか〜?』


『選手とコーチなら、聞いた事があるけど』と考えながらも…


「だいたい・それ以前に、俺が『使える人間』だって保証が、どこにある?」


 俺は、自分の『野望』とは裏腹に、否定的な意見ばかりを述べていた。


「過去の経歴だけでも、充分あたりがつくわ!」


『フン!』


「消去法」からすれば…ひとまず乗ってみても、悪い話ではなさそうだ。


「アポイントメントが取れたら、連絡するわ」


『まあいいだろう』


 俺は、あいまいにうなずいた。


「それに、磨けば光りそうな玉じゃなくちゃ、つまらないものね」


 彼女は、最後にそう言いながら立ち上がる。


「フン!」


 口には出さなかったが、その点に関しては自信があるが…


『自分でわかってるのかよ?』


 かつて、「後ろ姿美人(バック・シャン)」という表現があったそうだ。


(「後ろ姿(バック)」が「シャン」という意味で…「シャン」とは『美しい』というドイツ語で、『昭和』の時代の初期の頃、よく使われた表現らしい)。


『いいケツしてるぜ!』


 小柄だが、見事なプロポーションを見せながら去って行くが…


「フン!」


 もっとも俺にすれば、そんな事はどうでもいい事だった。


     ※     ※


 そうこうするうちに、秋になった。

「スポーツ日和(びより)」というには暑すぎたが、店が休日の平日の午前中、県内にいくつかある「レーシング・カート」コースの一つに来ていた。


(「レーシング・カート」とは、早い話、競技用「ゴーカート」の事だ)。


 なにしろ、もともとガタのきはじめていた俺の愛車は、数回のサーキット走行で…サスペンションはダンパーが抜け気味だし、エンジンも、潤滑油が燃焼室の方に回ってしまっているのだろう、白煙が混じり、オイルの焼ける臭いが漂いはじめている。たとえタイヤが調達できたところで、そろそろ本体の方が限界だった。


「フン!」


 そこで、「レンタル・カート」があるここを訪れたわけだ。


(トップ・レーサーの中にだって、手間とお金のかからないカートを…と言っても、レーシング・カーと比較してという意味だが…トレーニングに使っている選手は多い。だいたい今どき、カート・レースの経験無しに4輪レースにステップ・アップした俺などは、例外中の例外だ)。


「おもしろそうね」


 俺の腕を確かめておこうとでも思ったのか?

 四駆の軽でやって来ていた彼女も関心を示し、いっしょにチャレンジする気になっていた。


「フン!」


 いちおう初めてなので、簡単な講習を受け、初心者向けのカートに乗り込む。


(4サイクル150ccほどの小型のエンジンを載せた、「遠心クラッチ」仕様だが…タイヤや車体(フレーム)は、けっこう本格的な造りをしている)。


 コースの方は…本コースとは別に、アスファルト敷きの広い駐車場の奥に、重ねた古タイヤと、三角コーン形の赤白のパイロンや、防水シートをかぶせた硬質スポンジで仕切られた、1周2~300メーターほどの簡単なものだ。ここで基準以上のタイムをマークすれば、本コースで上級カートに乗車できるというシステムだ。


(もちろん、それぞれ有料だが…「ぱたくれ」てきた車を整備したり、違う車に乗り換える事を考えれば、はるかに安上がりだ。実際、最近は、自分で高価なカートを所有するのではなく、レンタルで楽しむ人間が増えてきた。それで、レンタル・カートを使った大会などが、盛んに催されているような状況らしい)。


 最大6台までのようだが…前の若者3人組が終わったところで、俺と彼女が、2人で出番を待つ。すぐ先に見える左コーナーに対して、俺が左、右隣りに彼女。


「3…2…1…」


 横に並んだシグナルが、カウント・ダウンを始める。左から赤が三つ、順番に点灯し…最後に右端の緑でスタートだ。


「ブロロロロッ…」


 俺は、左足のブレーキを・いっぱいに踏んで、右足のアクセルを全開にして待つ。シグナル・グリーンでブレーキを解除(リリース)。このカートにしては精一杯の加速で、最初の左コーナーへ。


(小型で軽量。そして高いグリップ力を持つタイヤを装備したカートは、運動性が良い。ハイ・スピードを保ったまま、コーナーのインめがけて飛び込むような軌跡(ライン)がベストだ)。


 大き目の半径(アール)を持った、左ヘアピン・カーブを立ち上がると、すぐに右直角コーナー。全開のまま抜け、短い直線(ストレート)の先に、先ほどと同じような左ヘアピン。そこをグルッと回って、このコースで一番長い裏直線(バック・ストレッチ)

 その先でシケイン風の左・右をやり過ごし、左に回り込んだスプーン型のカーブを回って、右に切り返せば、スタート地点に戻って1周が終わる。そして…


『フン!』


 3周目に入った奥のコーナーへの入口で、そこを立ち上がってきた彼女と目が合う。


『…!』


 目を見開いて、驚いているような表情が読み取れる。短いコースとはいえ…3周目が終わったところで、俺は彼女に追いついていた。でも、まあ仕方ない。これでも・かつては、「プロ・レーサー」のはしくれだったのだから。


『…』


 後ろから走りを眺めていると、彼女も初めてにしてはソツなく乗っているようだが…「上手く乗る」ことと、「速く走る」ことには、ちょっとした…しかし大きな…違いがある。「上手さ」は、ある程度まで訓練で身に付くが…「速さ」のほとんどは、『生来のもの』。残念ながら、練習量だけでは(おぎな)えない。


(野球で言われる「守備は練習・バッティングはセンス」と同義だ。だから下級クラスなどでは「練習が嫌い」などと言うヤツでも、先天的な「速さ」を持っていれば、そこそこ良い成績を収める事ができたりもするが…上のクラスに上がってくると、そんなに簡単にはいかなくなってくるものだ)。


 わずか4周で終了。ゴールした俺が乗るカートのエンジンを止めにきた係員も、興奮気味で驚いた顔をしているが…


『この短いコースで1秒落ちとは…』


 ここのコース・レコードにおよばず、俺にはむしろ不満が残ったが…


(おそらく…「心得(こころえ)」のある、小・中学生の出したタイムだろう。非力なエンジンに・俺の体重では、いくら走り込んでも、『あと1秒』は無理な相談だ)。


 しかし、上級(カート)をレンタルできる「基準タイム」は、楽々クリアーしている。


『いつまでも、コイツに乗っていても仕方ない』


 次は本コースで、上級者向けのカートに乗車するが…こちらも、難なく乗りこなせた。


『さて!』


 予算の中で走り込んだその後は、近くにある公営の公園に移って、園内をジョグ。もっとも、自分の足で走るランナーを目指しているわけではないので、体力トレーニングがメイン。


(持久力アップのメニューや、「身体に覚え込ませる」ことを目的とした反復運動などは、技術向上のための訓練の後に行なうのが定石だ。疲れ切っていたのでは、さらなる「高み」習得を目指した・集中力を要する学習に、支障をきたすからだ)。


 そして…


「案外かたいのね」


 芝生の上に敷いたマットの上で、「ストレッチ」の補助をする彼女の(げん)。「ストレッチ」に限らず、今のところ・すべてにおいて、基礎体力は彼女の方が上だった。


『フン!』


 最近では、「ストレッチ無用論」などもあるようだが…「やればできる」なんて、やってできた人間の言う言葉(セリフ)。身体の柔らかさにしても、柔らかい人間は、はじめから柔らかいものだ。


(もともと身体の硬い俺は、むしろ精神修養…心を落ち着かせる(すべ)を身に着けるための「瞑想(メディテーション)」くらいのつもりでいた。


 そんな・こんなで、たっぷり3時間ほど。本日のトレーニングの仕上げは…「温泉にでも、入っていきましょうよ」という彼女の提案で…これまた公営の、ここから車なら数分の所にある温泉施設へ。


「個室が取れたから、汗を流したらマッサージね」という事だが…


『個室?』


 もちろん・ここは、いかがわしい場所ではない。いわゆる「家族風呂」ってやつだ。多少は気がひけたが…


『人目に触れない場所なら…まあ、いいか』


 俺には…けっしてプールに入らないのと同様…別な事情があった。


「フン!」


 というわけで…先に身体を流した俺は、湯船につかって、暮れていく外の景色を眺めていた。


(と言っても、壁で仕切られた・庭園風の、小さな庭が見える程度だが…)。


「ふう~!」


 俺が、長い溜息をついたその時…後方で「スウッ!」と入口のドアがスライドする気配がした。


『?』


 振り返れば…一糸まとわぬ姿で、彼女が立っている。そして…


「はじめに断っておくけど…」


 そう言いながら、浴槽の(へり)まで来て…


「わたしには、『女』としての機能は残っていないから…」


 両腕を両腰に当てて、俺の真上に立ちはだかり…


「その手の期待は、しないでおいてね」


 そう言いながら、首をひねって・あおぎ見る俺を、見下ろしてきた。


『なるほど』


 先に述べたように、女子の「マラソン」選手は、「走り込んで、生理が止まるほどまで自分を追い込まなくては、一流ではない」と言われているそうだが…長距離走者でも、トップを目指すも無理がたたって、後年、「ペース・メーカー」のお世話になっていたりするのは、かえって名も無き選手の方だったりするものだ。

 まあ、そこまでいかなくとも、一種の職業病みたいなものだってあるし、それは、スポーツ界以外でも同様だ。

 たとえば「フルート」は、右側に構える。それで長年のうちに、右側の耳が『難聴』気味になってしまったり…歌い過ぎて、声の出なくなってしまった歌手など…音楽の仕事をしているがゆえに、耳の聴こえなくなった「ベートーヴェン」のような逸話は、いくらでもある。


(何でもそうだが、やたらと練習すればよいものでもないのだ。ある「トランペッター」の話によれば…「ギタリスト」の指先とは反対に…吹きすぎると唇が硬くなり、良い音が出なくなるそうだし…かつて『オリンピック』を連覇した、ある有名短距離走者(スプリンター)は、「練習のしすぎに注意していた」という。それゆえ、30歳を過ぎても世界選手権で優勝する事ができたのだろうが…それとて、あり余る才能が、あればこその話だ)。


「ならば才能の無い人間は、いったいどうしたらいい?」


筋肉増強剤アナボリックステロイド』を無秩序にやり過ぎると、ホルモンのバランスが崩れ、女性は生理が止まり、筋肉の上に乳房が生える男がいたりすると言う。


『まあ、そんなところなのだろう』


 詳しく聞く話でもないが…


『そういうことだったのか』


 思い出す。スポーツ・クラブのカフェ・テラスで、最初のアプローチを受けた時の会話だ。


「早く結婚して、子供に夢を託せばいいじゃないか?」


 俺は、そんなふうに語ったはずだ。


「できればいいんだけど…」


 そして彼女は、そんなふうに言いよどんだはずだが…それはどうやら、俺が思っていたのとは違う意味だったようだ。


「みんな最初は…『それでも構わない』って言うんだけど…けっきょくは、続かなくなって…」


 ボツリと、そうこぼすが…


『なるほど』


「最初の亭主」なんて表現を使ったところをみると、二度目もあるってことだろうが…


「案外、自信家なんだな」


 惜しげもなく・自分の裸体をさらしている彼女にそう言って、俺も立ち上がる。


「俺を試そうってんなら、ムダだぜ」


 人間の陰部は、もっと単純な生物だった頃の…まだ「両性具有生物(アンドロギュノス)」だった時の名残りをとどめていると言う。

 たしか、どこかで発掘されたミイラは、『永遠の淑女』といった、仮りの名前で呼ばれていたそうだが…よくよく調べてみれば、男性だったそうだ。骨格を持たない男の陰茎は、水分が抜けてしぼんでしまえば、パッと見では、男女の見分けがつかなくなるのだろう。


「座った姿勢で燃料をかぶったわけだ。このあたりに、たっぷり燃料がたまる。それも火が着いた燃料だ」


 そして・いまだ、完全なる女から男への性転換は成されていなかった。


『わかるだろ』


 つまり俺の股間は、ただの(バルブ)としての役目しか果たしていなかった。全身ケロイド状の俺の裸身を、上から下に視線を移して行った彼女は最後に…


「ごめんなさい」


 そう言って、顔を伏せた。


『フン!』


 俺は、いつだったか…たぶん入院中に観た、昼の時間のスパイ映画を思い出していた。

 その主人公の男は、敵に「捕われの身」になった時、脳に電気ショックを与えられ、「性的不能者」になってしまったという設定だった。そして最後は、プラトニックな関係にあったヒロインの前から姿を消す…という内容だったはずだ。


『まあいいさ』


 俺は、「両性具有(アンドロギュン)」の『人造人間(アンドロイド)』…否、「男にも女にもなれない」、ただの『改造人間(サイボーグ)』だ。


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