4・質実剛健(スパルタン)
4・質実剛健
 
その日の午後。俺は店の厨房のコンロの火で、スルメをあぶっていた。
特別それが好物というわけではなく、たまたま・もらった物だったが…少々腹が減っていたし、落ちた顎の筋肉を回復させられる。
 
「これで少しはマトモに、しゃべれるようになるかな?」
 
自分で自分を、そう皮肉ってみる。
 
「フン!」
 
俺は…さも・もっともらしい事を語る、医者や学者なんかが登場する…食品メーカーのCMに踊らされて、ガムをかむほど愚か者じゃない。
それに後始末。昔の知り合いの中には、最後に飲み込んでしまうヤツもいたが…ツバ同様、あたりかまわず吐き出す連中よりはマシだろう。だいたい、年中クチャクチャやっているあの姿が、「ツバを吐く」という行為と共に、大嫌いだった。
「フン…」
 
炎にあおられたスルメは、キューッと両端を上側に反らしはじめる。水分が抜けて、収縮しているからだが…それは、人間も同様だと言う。
たとえば、衝突で火のついてしまったマシン。燃え盛る炎の中で、そのドライバーは…すでに絶命しているか、意識を失った状態なのに…まるで助けを求めるかのように、手を振るのだそうだ。
 
「パチン!」
 
音を立てて、あぶっていたスルメから、小さな火の粉が弾ける。
 
「…」
 
今日も午後の空き時間、カウンターの目の前に座る男といっしょに、「打ちっ放し」に行って来たのだが…けっきょく俺の『コース・デビュー』は、棚上げになっていた。
「何か新しいことを始めるには、利口になりすぎちまったよ」
 
それが、俺の言い訳だった。だが、実のところは…
 
『バカバカしくて、やってられないぜ!』
 
たしかに最初のうちは、それなりに上達はしたが…
 
(それは、そうだろう。今まで・やったことが無い事を始めれば…向き・不向きや、程度の差こそあれ…「伸び代」は、たっぷり有る。何事も初めは・回を重ねるごとに、著しく向上したりするものだが…限界点に近くなると「余地」が減ったぶん、進歩の度合いが鈍るのは当然のことだ)。
俺の「成長」は、ここのところ、さっそくの「頭打ち」。
 
(なるほど、『限界効用逓減の法則』あるいは『限界生産力逓減の法則』…もっとかみ砕いた言い方をすれば『収穫逓減の法則』によれば、初期は「手間ひまかけて・金かければ」飛躍的な効果・結果が得られる。だが、頂点や上限が近づくにつれ、「費用」対「効果」の率は低くなっていく。同じ内容では、効力が足らなくなり・進歩の度合も減ってくるからだが…これは、モーター・スポーツを例にとれば、至極わかりやすい。たとえば、レーシング・カーの開発などには、ピタリとあてはまる。開発の初期の段階では、「やったら・やっただけ」の効果が上がるものだが…最初は、1秒タイムを縮めるのに数千万円と数十日で足りたのに、限界域に近づくにつれ、同じ資金と人員と時間をかけても、コンマ数秒の短縮しかかなわなくなり…それどころか万が一、方向性を一歩間違えば、逆に後戻りしてしまう事だってある。また、「難しいものになるほど、差が出る」という現実もある。たしかに、誰が乗っても全開で一周できる・遊園地のゴーカートなら、世界チャンピオンより、体重の軽い子供の方が速いことだって、あり得ない話じゃないが…本物のレーシング・カーなら、そういう訳には行かないだろう)。
 
コーチについてトレーニングを受けていた「例の男」は、そこそこに上達していたが…俺は相変わらず、ただ闇雲にクラブを振り回すだけ。『運動不足解消のため』が表向き、自分で自分に言い聞かせていた継続理由だったが…不向きな事・やりたくもない事を無理にやっていたのでは、いずれほころびが出る。
『こんなことができたからって、いったい・それが何だっていうんだよ』
だがむしろ、好機だったのかもしれない。
 
『ジイサンに怒られちまうぜ』
 
祖父は、工夫や細工が大好きな人だった。氷の質によっては、タイヤのブロックにカミソリを入れ、「切れ目」を増やしてみたり…剛性が低下するので、ゴムがちぎれやすくなるが、追従性が良くなりグリップが増す。
 
(オフロード走行の経験からだそうだ)。
 
雪の状態によっては、わざと指定の回転方向とは逆向きにタイヤを装着してみたり…雪も雨の日の排水性と同じで、排雪性を高めた方が良いような気になるだろうが、新雪・深雪など、柔らかい状況の時は、雪をかき集めるようにした方が駆動力が増す場合もある。
 
(これは、スノー・モービルの「駆動ベルト」からの応用だそうだ)。
 
そんな祖父だったが…「定年」や「嘱託」なんて制度が無くなった現在。人並みに仕事をした上に、俺の『おもり』と、無理がたたったのか? 俺が日本に来る直前に、突然、他界してしまった。
(しかし…一番の理解者だった祖父を失った事が、彼の望みでもあった「日本行き」を俺に決心させた、最大の理由だった)。
 
「フン!」
 
それに俺は、『生まれつき』なのか? それとも、そんな『育ち』のせいなのか? もともと…
「アブナイくらいじゃないと…」
本気になれない!
「ドキドキするくらいじゃないと…」
生きてる気がしない!
 
「気持ちのイイこと」が大好きな、そんな人間だった。
『自己破滅型?』
 
たしかに、有り余るほどの生命力を発散させながら、「脆さ」や「儚さ」を併せ持ち、早逝を感じさせるタイプの人間もいる。
 
(そして案外、そういった人種は…それゆえ・かえって「生き急ぎる」せいか…実際に夭折してしまうものだが)。
 
俺も、『長生きしたい』とか『命が惜しい』と思った事は無いが…
 
『自暴自棄?』
 
そんな事はない。
(ましてや一度、「三途の川」を渡り損ねた今となっては、アレコレこだわる必要もなさそうだが…)。
 
ただ俺は、「夢がなくては生きていけない」だけだ。それで・そろそろ…
 
『再生と復活?』
 
とにかく、そんな気分になっていた。
 
『もうリハビリは終わりだ!』
 
俺は、皿に盛ったスルメを差し出しながら、男に声をかける。
「例のスポーツ・クラブ。行ってみようかと思うんだが…」
 
今日もビールで赤ら顔の男は…
 
「そうだな。なんだか俺も、罪悪感、感じててさ…俺が無理に誘っちまったワケだからな」
俺の無様な醜態ぶりに、「失笑」や「呆れ」を通り越して、同情の念が浮かんでいたのだろう。
 
「聞いといてみるよ」
 
男はそう言って立ち上がり…
 
「さて! もうひと打ちしてくるか」
 
ちょいと勘違いしているようだが…そんな言葉を残して、店を出て行く。
 
『?』
 
ちょうど女房が、午後の仕入れを終えて戻ってきたところだった。二人は笑顔で二言・三言かわしてから、男はいつものなりでポケットに手を突っこんだまま、前の道路を横断して向かいのパチンコ屋に向かう。
 
「フン!」
 
俺はそんな光景を…握力回復と指先のリハビリのために…クルミの代わりに握っていた二つのゴルフ・ボールを、手の平で転がしながら眺めていた。
 
『その前に…』
 
俺には、確かめておく事があった。
* *
「フン!」
店が休みの、平日の午前中。俺は女房の遠い親戚にあたる、街はずれにあるクルマ屋に乗り着けた。
「店長! ちょっと早いけど、エンジン・オイル交換したいんだ」
俺は、自分の車に関する・ほとんどすべてを、この店でまかなっていた。いま乗っている車を、中古で購入したのも、この店での事だった。
(オイルやフィルター交換くらいなら、自分でもできたが…カー用品店で必要量のオイルを買うより、工賃込みでも安く上がるので…近頃は、すっかり・まかせっ切りになっていた)。
「あいよ!」
六十を越えた、白髪まじりの小柄な店主が経営するこの店は…かつて「フォーミュラー・カー」が『葉巻型』なんて呼ばれる、さらに以前。まだレーシング・カーでも、車体の前方にエンジンを積んだ「フロント・エンジン&リヤ・ドライブ車」だった頃の、イタリアの名レーサーの名前にちなんだ店名を持ち…整備の腕前にも、「イナカのクルマ屋」以上のものがあった。
 
(今では、乗用車なら「前輪駆動」、レーサーなら「|ミッドシップ・エンジン《M》&リヤ・ドライブ」が主流だが…なんでも、工業技術が格段に未熟だった時代。当時の「か細い」タイヤでは…重量配分的に…「FR」という配置にしなければ、タイヤがもたなかったんだそうだ)。
 
「ちょっと、これ貸してくんないかな?」
オイル交換が済み、タイヤのエアー・チェックを終えた俺は…店の隅の棚の上で、ホコリをかぶっていた、白いフル・フェイスのヘルメットを手に取る。
「どうしたんだい? 今日は…」
黒の作業服を着て顔を出した「店長」は、色白の短髪で、口ヒゲをたくわえている。若い頃は、それなりに「走り屋」だったようだが、「乗るよりイジルほうが好き」といったタイプだ。
 
「いやチョット、付き合いで…」
俺が、そう口ごもると…
「ニヤッ!」
そんな笑みを浮かべて、それ以上は語らなかった。
(おそらく、義母あたりから言い含められているのだろう…車両登録の名義を見れば、「俺が何者なのか?」…そちらの世界に関心のある人間なら、わからないはずは無い)。
『そう…』
たしかに俺は今日、『昔の自分』に会いに行くつもりだった。
 
「フン!」
 
「やるよ!」とウインクされて、助手席の座席の上にヘルメットを載せた俺は…クルマで1時間もかからない所にある、ミニ・サーキットにやって来た。
(女房には、「打ちっ放しに行ってくる」とだけ、ボソッと告げて家を出た)。
里山に囲まれた1周1・3キロ。左右が奥に反った、キュウリかヘチマみたいなレイアウトのコースだ。
「ちょうどいいか」
 
昼休みの時間が終わり、午後の走行時間になったところだ。3階建てのコントロール・タワーの下にある受付へ。
かつては、それなりに・にぎわっていた時代もあったようだが…今では施設のあちこちに、老朽化が目立つ。
 
(モーター・スポーツは、景気に左右されやすい。経済の落ち込みとともに人気が衰退し、おまけに若者の『自動車離れ』。それに最近では、高度にプロフェッショナル化されて、一段と「敷居が高くなった」ぶん…モーター・レーシングは、参加するものではなく、『観て楽しむもの』という、エンタテイメント的要素が強くなっていた)。
それでも…
「物好きな連中もいるものだ」
 
平日だというのに、ほかに3組ほどのグループがいた。
 
「フン!」
 
普段は近くの畑で農作業でもしていそうな、細身で・日焼けが染みついたような、初老の女性に料金を払う。一度アスファルトを敷いてしまえば、しばらくの間、手間はいらない。年寄りが一人で店番していても、まったく問題ないわけだ。
(オフロード・コース経営の方が、安上がりな感じがするかもしれない。しかし、いったん雨でも降れば、タイヤで路面をかき回される。荒れ放題のコースでは、客足も遠のくというものだ。つまり、ブルドーザーやパワー・シャベルなどの重機で、頻繁な整地が必要になるし…騒音は、ノーマル・マフラー程度の装着で解消できても、晴れれば今度はホコリがたつ。近隣に住民がいれば、軋轢は避けられない)。
 
それに、俺がここを選んだ理由は…「サーキット・ライセンス」だの・「ロールバー」だの・「4点式以上のシート・ベルト」だのと、面倒な事がないからだ。
 
(今どき、そんな事を言っていたのでは、客が集まらないからだろう)。
 
一通りの点検チェックは済ませてあったので、ライトやウインカーに飛散防止用のテープを貼り、ヘルメットをかぶって、ピット・ロードへ。
(いちおうフル・フェイス型のヘルメット。風防は付いていたが、傷だらけ。もっとも、オープン・ボディーではないので、上げたままでも問題ない。グローブの方は、ゴルフにも使っている・作業服屋で売っているような物だが、フィット感は良い。足元だけは、レース用ではないものの、靴底が硬くて薄いドライビング・シューズ。「ロック・クライミング」などに使用する靴と同様、靴底からのフィードバックを敏感に感じ取れながらも・力を掛けやすい代物だ)。
 
『さて!』
 
冬の寒い時期なので、窓はすべて閉めてあるが…夏場でも、こういった場所では、運転席の窓は閉めておくのが決まりだ。
(なぜなら、車が転倒などの事故を起こした際、衝撃でハンドルから離れてしまった手が車外に出て、ケガをするおそれがあるからだ。レース用に改造されたツーリング・カーの窓部に、目の大きなネットが張られているのは、そのためだ)。
 
ゆるく左にカーブしたメイン・ストレート中ほどの右側に、ピット・レーン出口がある。
横に引かれた白線の前で、一旦停止。最終コーナーを振り返り、走行車がいないのを確認してから動き出す。
ステアリング・ホイールの右・裏側にある、加速用のパドルをたたいてシフト・アップ。直線が、大きく左に孤を描いて上りにかかる所で、本コースに合流する。
 
『フン!』
 
左回りの簡単なレイアウト。コースを憶えるには、2周も走れば充分だ。それに俺は、自分の車が限界の状況で、どんな挙動を示すかは熟知していた。
3周目の直線から、全開走行に移る。
 
『!!!』
 
どこまでを直線と呼んでいいのかわからないが、ゆるく左に上りながら、だんだんカーブの半径がきつくなっていくレイアウト。
フル・スロットルのまま左に舵角を与え続けていれば、徐々にアウト側となる右のタイヤに荷重が載ってくる。
「キュ〜」
 
カーブに合わせて、さらにハンドルを切り足していけば、やがてサスペンションのストロークいっぱいまで沈みきった外側のタイヤが、滑りはじめる。進入の角度にもよるが、このあたりが、この車の限界だ。
 
「パン!」
 
そこで俺は、ステアリング左側のパドルをたたいて1速シフト・ダウンするついでに、一瞬さらに切り込んで「4輪ドリフト」状態に持って行く。
(「ドリフト」と一口に言っても、大きく分けて三種類のタイプがある。まず、動力を使い、駆動輪を空転させる『パワー・ドリフト』。次に、制動力を利用して、わざと車輪をロックさせて滑らせる『ブレーキング・ドリフト』。そして、ここで俺が行なっているのは…そこまでの「勢い」で付加された運動エネルギーで、タイヤを強制的にスライドさせる『慣性ドリフト』。しかし、この「勢いの力学」…つまり『慣性力』というモノに人類が気づいたのは、「中世」の『宗教革命』以降の出来事。その後の『文芸復興』によって、当時のヨーロッパより優れていた・古代ギリシャやローマの思想や哲学が掘り起こされ…そして「近世」の『近代科学改革』になって・やっと、惑星の「楕円軌道」などの理論が確立されたワケだ)。
 
この態勢に入れば、ステアリングは微調整のために切る程度で、ほとんど直進状態。あとはアクセルとブレーキ、ギヤ・チェンジで車を操る事になる。
(多くの人が誤解している事だが…「カウンター・ステア」とは、進路の外向きにハンドルを切る事ではない。前輪は、常に進行方向に向けていなくてはならない。それよりも多く、テールが外側に流れている体勢…つまり、車体のスライド方向に合わせて、見かけ上、反対向きにステアリングを切った状態になっているから『反対』なわけだ。それでも間に合わないくらいに・大きくリヤーが振れてしまった場合は、「回転」する事になるワケだが…さらに・たとえば、強い「横風」の吹いている高速道路などでも・そうなのだが、常にステアリングを進路にむけ続けるのがコツだ。プラス、強風に流されないため、逆に風力に抗するスピードをキープ。しかし「カウンター・ステアとは、ごく自然に出るもので、わざわざ練習するものではない」が、俺の持・自論。はじめから俺は、『逆ハン』が当てられたが…残念ながら「反射神経」とは、生まれながらに持った要素が大きく、訓練で大幅に改善できるモノではないらしい。ただし、複雑な幾何学を持つ二輪車の「スライド走法」は、四輪車とは・まったくの別物。こちらは「四ツ輪」以上に、天分・天性のモノの占める割合が大きい。なんでも、「人間は『横G』には鈍感」だそうで…そのへんが、「二輪は才能・四輪は経験」と言われる所以なのだろう)。
上り切った先にある一番奥の、「ヘアピン・カーブ」と呼べるくらいのきつい左コーナーに向かって、ほぼ真横を向いて突っこんで行く。
 
(スピード的には大した事はない乗用車だ。タイヤが横滑りする抵抗だけでも、充分なくらい減速していくが…足りない分は、チョコン・チョコンと左足ブレーキで付け足してやる)。
 
こういった半径のきついコーナーの場合、カーブの頂点より奥に「最接近点」を持っていくのが定石だ。そこに到達した時には、車の鼻先がまっすぐ出口を向いているようにしてやれば、後は全力で加速に移る事ができる。
(『速く走るコツ』とは単純に、「いかにたくさん・いかに長い時間、スロットルを開け続けていられるか」だ。ゆえに『燃費走行のコツ』はその逆で、「いかにアクセルを踏まないで前に進むか」という事になる)。
 
次は、右回りに若干下って行った先にある「シケイン」。ゆるいコーナーなので、乗用車程度のスピードでは減速の必要はないが、右・左・右と切り返さなくてはならない。
 
(最初の右は、手前の右コーナーからの流れで、外側となる左のタイヤに車重を載せてやる。そうすれば右側のタイヤは、イン側に盛りあがったゼブラ・ゾーンの上を越えて行ける)。
そして、ゼブラをまたいだ所で、瞬間アクセル・オフ。後ろから前に荷重を移してやり、着地した右前輪を左にこじって、思い切り車重をあずければ、今度は左側が浮いて、段差の上をかすめる事ができる。
 
(あとはスロットル・フル・オープンで、右回りに立ち上がって行けばいい)。
 
続く右コーナーは、アールも大きなうえに、軽く上り勾配でもあるため、全開のまま行けるが…最後の左の「ヘアピン」は、手前で路面が平坦になっており、四輪とも荷重が抜けるため、ブレーキングが難しい。
 
(手前の右を、多少大回りする感じで・まっすぐに入って行き、上り坂がフラットになった所でフル・ブレーキング)。
ロック寸前をキープしたまま左に切り込んで行くのだが、ロックさせてしまっては、ハンドルが効かなくなるので要注意。
 
(どちらにしろ、オーバー・スピードなのだが…それを逆手に取って、最後に強くブレーキを踏んで「ブレーキング・ドリフト」。ステアリングを左に切った状態になっていれば、簡単に左に巻き込んでくれるが…もちろん、まっすぐコーナー出口を向ける位置で行う事が大切だ。
 
そこを過ぎれば、下りの先にコントロール・タワーが見えるが…最後にきつい左・右の「シケイン」が控えている。走っているとそれほどには感じないが、けっこうな急坂。突っこみ過ぎに注意だ。
 
(要領は先の「シケイン」と同じだが…アールがきつい分、充分に減速して、動きを大きくしてやる必要がある)。
最終の左コーナーをアウト側いっぱいに立ち上がって、タワーの前を通過。1周約50秒ほどのはずだが…車の限界は極めている。すべてのコーナーで外側のサスペンションがボトミングしており、これ以上攻めても、コントロールを失ってスピン・アウトするだけだ。1周のタイムを気にする事はないだろう。あとは今の走りを、何度でも正確にトレースする事だ。
『フン!』
 
リミッター・カットすれば、実測200キロ・オーバーするようなクルマだったが…しょせんは公道走行用の市販車。だが、そんな環境でも、いつでも・どこでも鍛練&修練は可能だ。たとえば…四つのタイヤの動きを、それぞれ個別に感じられるような訓練は、一般道で・通常の速度の範囲でもできる。
 
(だから俺は、「運転しながら、ラジオや音楽を聴く」なんて行為は、ほとんどした事がなかった。ドライビングする時は・いつでも、自然と100パーセントに近い集中を保って車を転がしていた)。
 
「赤ん坊がハイハイをしているような感覚」とでも表現すれば良いのだろうか?
 
(ハイ・レベルのヨガの行者になると、身体の・どこか一つの筋肉を、単独で動かす事もできると言う。それだけ自分のカラダを、感じ・使いこなす事ができているというワケだが…機械とだって「一心同体」になれば、そんな境地に達する事も不可能ではないはずだ)。
たとえ助手席に座っていたって、かえってタイヤの動きだけに集中できるくらいだ。
 
(音声ナビ付きラリー・カーでもあれば、初めて走る道だって、そこそこのタイムを刻める自信がある)。
 
『…?…』
 
気がつけば、コントロール・タワー手前のピット上の観覧席に、この場に居合わせたであろう十数人全員が、ギャラリーとなって俺の走りを眺めている。
 
『フン!』
 
俺は、とある大事故を経験したレーサーの談話を思い出していた。曰く…
「恐怖を克服するには、なるべく早くそこに戻ることだ」
しかし最近では、真っ赤な炎に焼かれる夢を見る事もない。あの事故は、もう遠い昔の出来事で、俺の記憶の中では現実味がなく、実際にあった事なのかどうか…思い返すことすら、困難になってきている。
だから俺に言わせれば…「恐怖を克服するには、なるべく早くそこに戻るか、あるいは十分な時間を置くことだ」という事になる。どっちにしたって、退屈な日常に埋没したままで朽ち果てて行くくらいなら、「花と散る」ほうを、俺は選ぶだろう。
 
「ふ~!」
 
ひとっ走り終え、コントロール・タワー脇の自販機で飲み物を買っていると、受付にいた初老の女性が顔を出す。
 
「あんた、素人じゃないね」
 
そう言って、俺に声を掛けてくる。さすがに・ここで毎日見ていれば、どの程度乗れる人間かくらいはわかるのだろう。
 
「フン!」
 
それにモーター・スポーツの場合、たしかに良いクルマに恵まれなくては、最初からお話にもならないが…たとえ性能の劣るクルマに乗っていたとしても、時として天才が放つ輝きは、凡人には到底まねのできるものではない。たとえ単独で走っていても、人に感動の念を抱かせる事すらあるものだ。
『バアさん、イイこと言うじゃね~か』
 
俺はニヤッと笑って…否、笑ったつもりになって…その場を立ち去る。
 
『もっとも…』
 
俺に、「才能」と呼べるほどのモノがあったかどうか? まあ「適正」くらいはあっただろうが…そんな俺の能力に気付いた祖父は、仕事そっちのけで、彼なりの「英才教育」を施してくれた。
『たしかに…』
 
一度身に付けたテクニックは、そう簡単には失われない。それが幼少期、いわゆる成長期に、身体の生育とともに染み着いたものなら、なおさらだ。少なくとも、その時点までのレベルには…それに適応できるだけの「若さ」や「体力」が、充分に残っていれば…すぐに戻ることができるものだ。
 
「フン!」
 
その日おれは、そこで時間いっぱい、そんな走りを楽しんだ。
だが、特別な『感慨』なんて無かった。「あるべき物」が「あるべき所」に帰ってきた。ただ、それだけだ。
※ ※
「おいでなすった!」
冬の早い西日が差し込む、平日の午後の時間。
轟く爆音に、チラリと窓の外に目をやった男は、そう言いながら、こちらに向き直る。
 
「フン!」
 
話に聞いていた通りの、1200ccのオフロード・タイプのオートバイ。しかし…
『?』
 
手足が長いのか? 実際の身長を知っている俺だったが、別人のように大きく見える。
 
(と言っても、限度がある。べつに「巨人」と言っているわけではないが…)。
 
バイクから降り立ちヘルメットを脱ぐと、まぎれもなく彼女だった。
 
(手足の長い人間が2輪車にまたがると、そうでない人間よりも大きく見えるそうだ)。
白い上下の防寒着の襟首を開き、長い髪をかき分けながら、店へと入って来る。
(「白」は『膨張色』だ。実際より大きく見えるらしい。そんなせいもあるのだろう。ダブダブのジャケットの上にのぞく褐色の小顔が、いっそう小さく見える)。
 
『フン!』
 
女房は、そのギャップに感心する事しきり。そして…
 
「おねえちゃん」
たまたま居合わせた娘は、馴れ馴れしく、そう呼んだ。
 
(同い年の俺たち夫婦より、5歳ほど年下らしい)。
 
前にも述べたように、俺たちがハタチの時の子供だから、娘と彼女は15ほど年が違うわけだが…「おばさん」というには語弊があった。女房の「おねえさん」という言葉を受けての事だろうが…初対面で(と言っても、見えているわけではないが)そう呼べるほどに、気は合うようだった。
 
(眼の見えない娘は、俺とは正反対で、「人見知り」するという事がなかったが…当然、外観にとらわれない「直観」で、『好き嫌い』を判断するようだ)。
 
「クルマの運転は、うまくなったかい?」
 
男が問いかける。
「練習してます」
 
まだ、つい先日の事だったが…あの雪を境に、むしろ春の気配が訪れていた。そして…
 
『フン!』
 
男は、店特製の「スタミナ定食」…肉のたっぷり入った野菜炒めの上に、半熟の卵を落とした物。
彼女は、その具材が載った「スタミナ・ラーメン」を、それぞれ平らげる。男の方はともかく…
『さすがに大した食欲だぜ!』
 
きょう彼女は、早番のシフト勤務が終わった後、こちら方面に来る用事があったとかで、勤務するスポーツ・クラブの入会案内を届けてくれたわけだが…帰りぎわ、店の前から出て行く際の、しなやかな「ハンドルさばき」を見ていると…運動神経も良いのだろう…腕力だけで乗っているわけではないようだ。
 
『フン!』
 
そんな日の晩だった。
風呂から上がってきた俺にむかって女房が…
 
「いまクルマ屋のおじさんから電話があって、タイヤ、いつ取りに来るんだって…」
 
と、探りを入れるように訊いてきた。
 
『しまった!』
 
サーキットに行く日は、「打ちっ放し」に行って来ると言って家を出ていた。
料金的には「月イチ」程度なら、燃料代も含めて大差なかったが…問題は、一番の消耗品のタイヤだった。程度の良い、中古のハイ・グリップ・タイヤの出物があったら…なるべく格安で…回してくれと頼んであった。
 
「ずいぶんキレイにタイヤを減らしてくるけど、最近なにやってるんだって…」
 
今度は、にらみを効かすように…こちらの顔をのぞき込む。
『チェッ! 少しは気をきかせてくれよ』
 
クルマ屋のオヤッサンくらいには、それとなく言っておくべきだったのかもしれないが…無駄口をたたくような俺ではない。
 
「なに考えてるの?」
 
そう問われても…
「…」
 
おまけに、小細工の苦手な俺だ。むしろ、バレてしまった方が、気が楽だったかもしれないが…
 
「おそろしいこと、考えてるんじゃないでしょうね?」
しかし…まだ何も決まっていなかった。今ここで、白状するわけにはいかない。
 
「そろそろ交換時期なだけさ」
 
俺は苦しい言い訳をした。表情には出なくとも…と言うより、「出したくても出せない」と言った方が正確だが…長年連れ添った仲だ。「空気の違い」を、敏感に読まれかねない。
 
「ヘンな気、起こさないでよ」
 
いまいち「納得がいかない」といった顔つきだ。
 
『フン!』
 
俺はサッサと、寝床に逃げ込む行動に出た。
 
『あれは「アクティブ・サス」のトラブルだ』
 
布団に入って、思い返していた。
 
『サスペンションの油圧系にトラブルがあって、いきなり油圧が抜けたんだ。でも…』
たとえば「パワー・ステアリング」だ。カーブの途中でステアリングを切っている時、「パワステ」が故障して、不意にパワー・アシストが無くなれば…「ハンドルが効かない」とまではいかなくとも…一気にハンドルが重たくなり、コントロールを失う事になりかねない。
 
『でも…たしかにアセッていたし、用心が足りなかった』
 
あの頃は、『無の境地で走る事が大切だ』くらいに思っていたが…
(マンガやドラマで語られる「無心」や「無欲」なんて、「インチキ」「でたらめ」「でまかせ」だ。何も考えずに・何でもできるなら、バカほど優れているはずだ!)。
 
『質実剛健で禁欲的に…できる限りの感性を使って、すべてを管理する』
 
でも今は、それが大事なことだと思えるようになった。
 
(もちろん、何も考えなくても、身体が勝手に反応し・誰よりも速く走れるほどに、運転技術を高める事は重要だ。その事に100パーセントの能力を割いているようでは、レース全体の流れや・自分が置かれている状況を、客観的に俯瞰する事ができないだろう。そんな状態では、何か不測の事態にさらされた時…あの事故の場合のように、対処ができなくなってしまう)。
 
それに…
 
『子孫は残した。それに、まとまった金が入れば、娘の眼の事だって、何とかなるかもしれない』
 
つまり、「有欲」「有心」。そうも思っていた。
 
『子供ができたから、丸くなる? 冗談じゃない。子供ができたからこそ、過激になるべきだ。だって、カッコイイとこ、見せたいじゃないか…できることなら~表彰台の~てっぺんで…』
 
そんな事を考えているうちに、俺は寝入ってしまったようだ。
「フ…ン」
 
俺は、「寝つきの良さ」にかけては、『天下一品』だった。レースの前日だって、いつの間にか寝てしまうし…走行の合間・合間に、昼寝だってはさむ。
 
「いつだったか? どこでだったか?」
 
「スポーツマン・タイプ」と「芸術家タイプ」といった比較の話を聞いた事がある。
それによると…「スポーツマン型」の人間というのは、細かい事にはクヨクヨせず、寝つきが良いという。一方で「芸術家肌」の人物は、あれこれと思案をめぐらし、なかなか寝つけないそうだ。俺と女房が…「水と油?」…まさにそうだった。
 
(まあ俺に言わせれば「それほど単純じゃない!」と言いたいのだが…)。
 
「あなたの考えてることが、わからない」
 
女房は隣りから、そんなふうに小言を言っていたようだが…
 
『今度はうまくやるさ!』
 
俺は最後に、そう思ったはずだが…その晩、俺は珍しく、夢を見た。「夢」とも「回想」ともつかないものだったが…。
 
(先に挙げた「スポーツマン・タイプ」は、夢も見ないと言うが…もっとも「夢」は、誰でも必ず見ているそうだ。憶えているか・いないかだけの違いらしい。憶えていられなくなったら、老化やボケの始まりとも言うが…中には、もともと憶えていない人間だっているのだろう。俺は…特に顕著になったのは、成人した頃からだが…そういうタイプだった)。
 
「あの娘が滑ると、ギャラリーができたもんだ」
 
夢の中でそう語るのは、死んだ祖父だ。そして「あの娘」とは、ジイサンの娘…つまり、俺の母親だ。
学生の頃、スピード・スケートをやっていたオフクロは、かなりの滑り手だったらしいが…その他にも、何かと情熱的だったらしく、若くして子供を産んで(つまり俺の事だ)、競技から退いたそうだ。
 
「あの娘が滑り出すと、小学生くらいの子供が、列を作って後ろに着いて回ってな…」
ジイサンが、俺が幼い頃から頻繁に、そんなふうに語って聞かせていたからだろう。そして…
『?』
 
真冬の屋外スケート・リンク。
そこに登場するのは、黒っぽい・ピッタリした服装姿でスピード・スケートをはき、低いフォームで滑走する、顔の無いオフクロ…たまに見る夢に、時どき出てくる彼女は、いつもそうだった。わずかにあった写真も、日本には持ってきていないし…だいたい俺は、実際に母親が滑っている姿を、見た事があったのだろうか?
 
(物心もつかない時期の記憶は、大人たちから聞かされた話を元に、後に空想の中で造り上げられたものが多いというが…前にも述べたように、オヤジの記憶はまったく無い)。
 
早逝してしまったというのが一番の理由だが…もともと俺は、好きとか嫌い以前に、あまりオフクロになつかない子供だったようだ。きっとB型の子供なんて、親になつかなくてつまらないに違いない。
 
(幸い女房と娘は、『B型の俺と一番相性が良い』と思っているA型…それも、「大人し目のA」だ)。
 
そんな環境の中で育っていった俺は、いつしか産みの母親の顔も思い出せない人間になっていたが…
 
『今さら後戻りなんて、できないぜ!』
 
そういうわけだ。
 
(ちなみに、盲目の俺の娘も、夢を見るようだ。ただし、それはサウンド・オンリー…「音声のみ」だから、「夢を聴く」と言ったほうが正確か?)。




