3・神話《ミス》
3・神話
「パコッ!」
俺のたたいた当たりそこねの白球は、俺の思惑とは裏腹に、とんでもない方向に飛んで行った。
「下手だな~。下手なことに関しちゃ、俺以上だな」
「パコッ!」
先の失敗から計算して打ったはずなのに、ボールは見事に同じ軌跡を描く。
「こんなにセンスがないとは思わなかったぜ。どうりで、やりたがらなかったわけだ」
「パコッ!」
上体と下半身、それに腕の振りがバラバラだ。腕のスイング・バックの動きから、腰のひねりにかけて…動作がスムースにつながらない。ギクシャクと、途中で何度も動きが止まるような感じだ。これなら、腕の振りだけで打ったほうが、まだマシかもしれない。
「何て言うかな、もっとこう…」
「パコッ!」
左隣りから、俺が球を打つたびに、いちいち感想が入るが…自分でもわかっているのだが、どうにもならない。
「チョット休憩したほうがいいんじゃないか?」
隣りのブーズから、俺にアレヤ・コレヤと声をかけてくるのは、例の男だ。
『フン!』
今日は午後の閉店時間帯に、「例の男」と一緒に、「ゴルフ」の『打ちっ放し』に来ていたのだか…俺がこんな所を訪れるのは、生まれて初めての事だ。
『フン!』
午後の「仕込み」の方は、女房が自ら買って出て…むしろ積極的に…俺を送り出してくれていた。
(まあ彼女の「下心」は、だいたい読めていたが…)。
『こんなに近くに、こんなモノがあったなんて…』
まったく気づかなかったが…俺の店からそう遠くない、「雑木林」と呼ぶには背の高い木々に囲まれた森を切り開いた一角に、ネットを張りめぐらした「ゴルフ練習場」があった。
(このあたり、冬には北からの・強くて冷たい季節風が吹き降ろす。おまけに平地だから、風の抜けが良い。何代も続いていそうな大きな農家などは、背後の北側に、代々育ってきた背の高い「屋敷森」を背負っている土地柄だ)。
まあ・もっとも、『興味が無いものは、まったく知らなくてよい』と思っている俺なので、今日この時まで…「パチンコ屋」同様…そんな所在など、どうでもいい事だったわけだ。
「フ~!」
大きく息をついて、ベンチに座り込む。
俺は「ゴルフ」に関しては、才能のかけらも感じられなかった。頭の中で思い浮かべた理想形が、まったく具現化できないのだ。ようするに「まったくタイプじゃない」ってわけだ。もっとも、球技全般が苦手だった俺にしてみれば、あらかじめ予想できた事だったが…。
それはたとえば、「ボーリング」にも当てはまる。重たいボールを持った腕をバック・スイングしながら、ステップを踏み出し、腰を落としながらボールを転がす…のだが、ひとつ・ひとつの動作が、別個で独立している。『これなら、レーンの手前から転がしても同じ』な俺のテクニックは、見ての通りの低スコア。ただ唯一の取り柄は…
「フン!」
いつだったか娘同伴で、たまたま近くを訪れていた・同年代の女房の親族と数人で、店の向かいのボーリング場に行った事がある。「出稼ぎ外人さん」が、近隣の工場に大勢いた頃だ。
偶然となりのレーンで、そんな男性が一人、続けて何ゲームも投げていた。仕事の後の「ヒマつぶし」なのだろうが、ちょくちょく来ていると見えて…俺からすれば…なかなかの腕前だった。
『?』
しかし、やがて気がついた。俺が悪戦苦闘していた時、ボールを拭く(ふりをしていた)両肩が…『クッ・クッ・クッ!』と、小刻みに震えているのに…。
つまり、吹き出しそうな笑いを、必死でかみ殺していたのだろう。俺は、ひとり異国の地で孤独に過ごす彼の心に、笑いのネタを提供できたわけだ。
(もちろん、そんなつもりは皆目なかったわけだが…)。
そういえば小学生の時にも、そんな「笑い」を取った事がある。
体育の時間。フライで飛んで来たソフトボールを、万歳しそうになって、顔面で打ち返した時だ。
飛球の弾道を読むには、多少の経験が必要なのだが…もともと、物を投げるという行為自体が苦手だったし、「親父とキャッチボール」なんて記憶が、まったく無い俺だ。その時まで、ついぞそんな体験をした事がなかったんだと思う。
「しっかし、体力だけはすごいな。ほんと、打ちっ放しだもんな!」
缶ビールのプル・トップのタブを引きながら、隣りに腰掛けた男が言う。
「やっぱり、プロにコーチしてもらったほうが、いいんじゃないか?」
男は缶ビールを飲みながら、ポツリとこぼす。
『コーチ?』
俺は、かたわらに置かれたスポーツ・ドリンクの入ったペット・ボトルを口に運びながら、顔をしかめる。
アドバイスならともかく…イチから人に教えを乞うなんて、俺はまっぴら御免だった。苦手とかそういう以前に…たとえ得意分野であったとしても、こんな俺が人様にものを教えるなんて、おこがましい行為だと思っていたし、それ以上に…他人にとやかく言われるのが、大嫌いだった。
『俺は誰にも教わらずに、ここまでやってきた・今まで生きてきた』
そう思っていた。
「冗談じゃない!」
俺は小声でつぶやき、ふたたびクラブを握る。
「もうやるのかよ! まったく、ヤル気とパワーだけは、人十倍だな!」
例の男は俺の背中に、そう・あきれた声を浴びせる。
『誰かの後追いでは、トップにたてない』
それが俺の持っている自論だった。「自己流」を貫いて、それでダメなら才能が足りなかったということで…それなら・それで、結構だ。
※ ※
その日の晩。仕事も終わった後で、俺は自宅の風呂につかりながら、身体のあちこちをもんでいた。
かつては「ストレッチ」と「セルフ・マッサージ」なんて、まだアマチュアだった頃から、毎日の日課のようなものだったが…
「もう歳かな?」
俺はつぶやく。
歳を取ると、筋肉痛が一日遅れで出るという。たしかに・あの頃は、下手をすれば、その日のうちに出たものだ。
(もっとも、慣れない事をやったのだ。以前、向かいのボーリング場で、連続で何ゲームも投げた翌日…普段、そんな所の筋肉は使わないからだろう…股の間の、脚の付け根あたりが筋肉痛になった事がある)。
また・現役の頃は、トレーニングのために、ほとんど毎日ジョギングしていたが…レース当日の朝だって、ウォーミング・アップのための「ジョギング」は欠かせない。ナゼなら、通常でも、朝いち・起きぬけの状態で車に乗り込むと、バック・ミラーの位置調整が必要だが…
(つまり睡眠している間に、身体全体が、硬く・伸び切っているからだ。「靴を買うのは夕方にしろ」とは、逆の理屈だ)。
発泡ウレタン・フォームを使って、キチキチに形取りしたレーシング・カーのバケット・シートは、ひとり・ひとりに合わせて作られた特注品。準備が整った状態でなければ、その狭い運転席にもぐり込む事もできないほどだからだ。
(それに、競技規則定められた「最低重量」の中で、ドライバーをも含めてシビアにバランスの取られた競技用車両。わずか1キロ/グラムの体重の増減は、体形ばかりでなく、セッティングにまで影響をおよぼす要素となり…「ボクサー」の減量とは意味合いが違い、減り過ぎてもいけないのだが…少なくともシーズン中の自己管理は、相当厳しいものとなる)。
たまに気分を変えて、「ハイキング」程度の「登山」に行った翌日に、臀部(腰からお尻にかけてだ)が痛くなるのは、普段は使わない「登り降り」の動作が加わるからだし…「散歩」程度の「ウォーキング」でも、長時間にわたると、膝下の前側『弁慶の泣き所』部分が痛むのは、「走る」という行為では使わない筋肉を使うからだ。もちろん「自転車」は太股、「水泳」は主に上半身の筋力が必要だ。
「ふう~」
久しぶりの長風呂で、ノボせてきた。最後の仕上げに、手の平から前腕にかけてをもみ始める。俺の身体の中で、唯一あの頃の面影を残しているのは、そこの部分だけだった。
(一流の料理人を目指して、フライパンに砂を入れてトレーニングする…なんて事はなかったが、重たい中華鍋を振り回していたせいか、左手の・握力と前腕の筋肉だけは、かろうじて現役並みの筋力を維持していた)。
レーサーというものは、レースのあいだ中、ハンドルを保持しなくてはならない。大昔と違い、20世紀の後半以降は、レーシング・マシンにも「パワー・ステアリング」が装備されるようになった。それで、絶対的な腕力は必要なくなったのだが…長時間、確実な操作が要求される事に変わりはない。握力に限った事ではないが、モーター・スポーツに求められるのは…ある程度の筋力と、ある程度の持久力…「中距離走」的体力だ。
「そう言えば…」
だが、まだ駆け出しの頃は、うまく力を抜くことができず…特に、ライバルと競っている時などには…ついつい力んでしまい、直線でも全力でステアリング・ホイールを握り締めていたりしたものだ。それで現役だった間は、つぶれたマメの下にまたマメができるほどだった。
「もう昔のことさ」
俺はそんな感慨にひたりながら、硬くなった掌をなでる。
どちらにしろ、「マメ」とまでいかなくとも、長時間握っていれば、「ライダー」や「ゴルファー」なら『グリップだこ』、「ドライバー」なら『ハンドルだこ』とよばれる『タコ』ができるものだ。
「だったら俺のは『フライパンだこ』? それとも『中華鍋だこ』?」
思い通りに事は運ばなかったが、久しぶりに身体を動かしたので心地好い疲労感があった。それに、「ボールをたたく」という行為は…上手くいかなかったという精神的フラストレーションはあったが…肉体的なストレス解消にはなった。
でも、俺が・かつて望んでいたものは…本当に欲しいもの・欲しているものは…こんな小市民的な満足感ではないはずだ。
「さて、出るか!」
俺は掛け声をかけて、湯船のふちに両手をかける。
「最近、ひとりごとが多いな」
そうつぶやきながら、立ち上がる。
※ ※
朝からどんよりと・寒々とした雲が、空一面をおおっている日だった。
俺は車のヒーター全開で、「連れ」の到着を待っていた。
「…」
今日は店の定休日。俺が待っているのは、例の男だ。まだ『打ちっ放し』に数回しか行った事のない俺なのに…ショート・コースだったが…いきなりコースに出ることになったのだ。
なにしろ・このあたりは、「ゴルフ好き」の間では、ゴルフ場が多い事で有名な土地だったらしいが…
(今の今まで…もっとも今だって…「ゴルフ」なんてものに、まったく興味の無かった俺だ。知っているはずがなかったが…それは・つまり、土地があまっているという事なのか? この近辺は、別の「通」の間では、本格的なレーシング・コースをはじめ、ミニ・サーキットやレーシングカート・コース、自動車やタイヤ・メーカーのテスト・コースが、いくつもある事で知られていた)。
彼に言わせれば…
「どうせ、しょせん『球たたき』。それも、置いてあるボールをたたくだけだろ。野球なんかと違って、100キロを越えるようなスピードでボールが飛んで来るわけじゃない。練習不足・技量不足だって、死ぬわけじゃないさ」
たしかに、そうだ。だから自分の子供がプロ・スポーツ選手になるなら、「ゴルフ」は大歓迎だ。これなら、せいぜい他の選手が打ったボールが当たる以外、ケガをする事はないだろうし、ましてや競技中の事故で死ぬなんて…「落雷」等の自然災害以外…絶対にないだろうから…。
「降ってきたな」
しかし…あまり『乗り気』じゃなかった俺は…内心、ホッとしていた。朝からチラチラしていた白い物が、先ほどから急に激しさを増し、あたりは・どんどん白色に染まっていったからだ。
「これじゃダメだな」
とある高級外車メーカーのスポーティー・バージョンで現れた男は…
「サマー・タイヤだろ。これ以上降ったら、自信ないからな」
と、自分と俺用に用意してくれたゴルフ・バッグを、無理矢理オレの車の後部座席に押し込む。
(夏と冬で、タイヤを履き替える人間も多いのだろう…このあたりでは、「標準タイヤ」の事を、「夏タイヤ」と表現する者がいる)。
「とりあえず、行ってみっか。向こうで、落ち合う約束だから…」
そう言われて俺は、店の前をいったん左。東の方角に出る。
今日はこの後、最終的には北西の山間部側に向かう事になるが…アスファルトの上にまで、雪が積もり始めていた。俺だって、スノー・タイヤをはいていたわけではないが、この程度なら何とかなるだろう。
(先にも述べたが…このあたり、北部・山沿いにはスキー場もあったが…平野部では、積もるほどの雪は、多くても年に1~2回。それに天気さえ回復すれば、翌日には溶けてしまい、根雪になるような事はない)。
そして、現地で落ち合う事になっているメンバーが一人。なんでも…
「女性が一人くらいいないと、ツマらないだろ」
そんなの「初耳」だった。
『どこで、そんな話つけてきたんだよ?』
男は、勝手に話を続ける。
「いやなに、週2回、スポーツ・クラブ行ってるだろ…」
それも「初耳」だった。
「女の子ってほどは、若くないんだけど…そこのスポーツ・ジムで、エアロビのインストラクターやってる娘なんだよ」
…という話だった。
「フン!」
この季節なら、葉の落ちた茶色い木々の森と、黒土があらわになった田畑…そんな、寒々とした田園風景が広がっているのだが…平地から少し入った、「里山」程度の山の中腹にある門をくぐる頃には、そんな景色を白くおおい隠すように、あたり一面、雪が降り積もっていた。
「キュッ! キュッ! キュッ…」
雪を踏みしめる音を立てながら、緩くカーブを描くエントランスの道を上って、クラブ・ハウス下の駐車場へ。
『?』
そこそこの台数が駐車しているが…宿泊施設もあるカントリー・クラブ。雪の上にタイヤの跡が残っている車は、数台のみ。ほとんどは、前日からの客だろう。
「あそこだ、あそこ!」
そういって男が指し示したのは、入って一番右奥。
(その先の、数メートル高い所にクラブ・ハウスが建つ)。
広い駐車場の、一番麓寄りの列に…こちらに前部を向けて、後部から水蒸気混じりの白煙を上げている車。
『?』
四駆の軽。おまけに幌仕様。狭い日本の「四駆大会」などでは、一番参加台数の多い車種だが…
『あれかい?』
俺が無言で、確認の視線を男に送ると…
「ああ…」
もう駐車帯の白線もわからない状態だったので、適当な間隔を開けて、その車の・むかって左隣りに、バックで並べて駐車する。
手前にタイヤ痕が無いところや、車の下に雪が積もっていないところを見ると、降りだす前に到着していたのだろう。
「ちょっと変わったところがあってな…」
男はそう言いながら、助手席側のウインドウを開けて、軽く右手を上げる。
『?』
内側から、白く曇った窓越しに見える人影の動きから、パワー・ウインドウではないのだろう、コクン・コクンと下がった右窓から現われたのは…女子のプロ・ゴルファーがかぶっているような白いキャップを深々とかぶった、髪の長そうな…一人あいだに置いた車越しでは、顔もよく見えない…女性だった。
『女のくせに…こんなクルマ』
偏見たっぷりの言葉だが…表面上は紳士ヅラしてみたところで、男の腹の中なんて、だいたい・そんなものだ。
しかし…女性の男性化が叫ばれて久しいが、たしかに最近は、「女みたいな運転」というのを見かけなくなった。そのかわり…
「男のくせに…」
俺に言わせれば「男のくせに、満足にクルマを転がすこともできない連中」ばかりが増えている。
『そんな運転してて、楽しいのかよ?』
なにも、「カッ飛べ」と言ってるわけじゃない。男のくせにダラダラと、「目的地まで、たどり着ければいい」的運転。
(「ユックリ走る」のと、「ユックリしか走れない」のは別物だ)。
『フン!』
「若者のクルマ離れ」以降、車がステイタス足りえなくなった。それにつれ…ひと言で表現するなら…「運転にプライドが無くなった」わけだ。それに…
「ドライビング・イズ・ア・シリアスビジネス!」
かつて「ドライブ・レコーダー」が普及し始めた当初、「あおり運転」が問題になったと云うが…「あおられるような運転」をしている連中が、増えただけの事だろう。
(増加する一方の高齢ドライバーが、ヨタヨタ走っているのは仕方ないとしても…スマホの画面に見入ってしまい、信号が変わっても動き出さない、あるいは、「ながら運転」でフラフラ・ノロノロ走っている…そんな連中)。
あるカリスマ・シェフが、弟子にむかって語っていた。
「ゆっくりやるのが、丁寧にやるってことじゃない!」
『たしかに、そうだ!』
そして・それは、機械の整備や車の運転も同様だ。
リズムに乗った「匠の技」は、まったく無駄がないが…「流れ」に乗れない運転は、特に・それを生業とする人間(つまり、トラックやタクシーなどの運送業者だ)に嫌われる。ましてや・それが、ドライビングに集中していない行為によるものなら、なおさらだ。なのに…
「不マジメな運転をする奴らばかりだぜ!」
残念ながら、そういった連中が、増殖した・これからの時代。「自動停止」や「自動運転」などの補助装置は、必須の装備となっていくのだろう。
(小魚は、大型の捕食者から身を守るため…自然界の不文律。「(少なくとも単独では)自らより大きな者には手を出さない」により、群れをなして自分たちを大きく見せる。その大勢で・一糸乱れず舞い泳ぐ仕組みを、高速道路の自動運転化に応用する研究が行われており…最近になって、その実証のための・実走試験が始まっている。前後・左右、わずか数センチの車間で、時速100キロ超のスピードで整斉と流れて行く様を、テレビの画面で見たことがあった)。
「とりあえず、手ブラで行こうか?」
男のその提案で、一同・クルマから降り立つと…長いツバの帽子に、寒い時期に開催される、「マラソン」や「サッカー」の大会で、選手が試合前に着ていそうな、白いロングのウォーム・アップ・ジャケット。歳の頃は、俺とさほど変わらないくらいだが…
『少し年下か?』
まあ、普通の体格の・普通の女性に見えたのだが…
『フン!』
雨ではないので俺たちは、傘も差さずにサクサクと雪を踏みしめながら、建物のちょうど正面あたりに設けられた階段を登って、玄関へ。入口前で、身体の雪を払い・足元の雪をはじき飛ばしてから、ロビーに入る。
「ちょっと待っててくれ」
男はそう言って、受付のカウンターへ向かう。雪が止んでいるならともかく、俺たちはカラー・ボールを使ってまで、コースに出ようとは思わないし…どちらにしろ、雪はどんどん降り続いている。そのうち、コースはクローズドになるだろうが…
『フ…ン』
しばし、気まずい時間が流れる。取り残された俺たちは、まだ正式に紹介されたわけではない。
キャップとコートを羽織ったままの彼女は、帽子の下で、両手に息を吹きかけるような仕草をしながら…
俺は突っ立ったまま、無言で男と受付の黒服の男のやり取りを眺めていたが…
『フン!』
戻って来た男が告げるには、案の定、俺が予想していたような内容だった。
「ま、せっかくだ。ちょいとそこで…」
男は、左奥に見えるレストランの入口に視線を向けて…
「初顔合わせなんだから、一杯やってから帰るとすっか!」
そう提案してくる。
「フン!」
客もまばらな店内。暖房は入っているが、こんな日だ。部屋の隅々など、ひんやりとした冷気が漂っている。
(ここの施設は、シックな雰囲気を狙ってか、全体的にトーンをおさえ気味。外観にしろ・インテリアや内装にしろ、濃い茶色を基調にしているが…こんな天気の日には、陰気臭くていけない…というのが、俺の感想だ)。
入って右奥の、窓際の席に着く。テーブル右側の通路側に男、左の奥の窓際に彼女。
『?』
そうなると、一番最後について行った俺は、必然的に彼女の右隣りという配置になる。初めて会ったのに、「隣り同士」というのも何だが…むしろ「対面」よりはマシだった。
「おね〜さん、ナマひとつに…」
さっそく通路側から男は、この寒いのに生ビールをオーダーしている。
(彼が言うには、「冬は乾燥しているから旨い」のだそうだ)。
俺たち二人はコーヒー。
(もちろんホットだ)。
『?』
この時になって、初めてコートとキャップを脱いだ彼女は、まあ、いわゆる「ゴルフ・ウェアー」って物に身を包み…
(上は紺色をベースに、腕の部分はホワイト。下は濃い緑色に、タータン・チェックのような柄のスラックス…だったと思う)。
「鳶色」(つまり、茶褐色)の瞳を持ち…「亜麻色」(つまり、灰色がかった茶色)で長めの髪は、「ソバージュ」…と言うのだろうか、緩いウェーブがかかっていた。
(なるほど、20世紀末頃を舞台にした映画で、ピンクの「レオタード」に、白い「ルーズ・ソックス」、そしてこんな髪型の女性が「エアロビクス」をやっている場面があった)。
ちょっと色は黒いが、それが左上にある八重歯の白さを、いっそう引き立たせている。
(「地黒」なのか、「日焼けマシーン」なのかはわからないが)。
インストラクターをやっているだけあって、スタイルは良さそうだが、わりと小柄だ。
(『スタイル隠し』には、「ワンピース」の水着より、「ビキニ」の方が良いと言うが…それと同じ理由で、案外「スカート」より「ズボン」の方が、『からだの線』はわかりやすいものだ)。
「美人」かどうかは、それぞれ人の好みがあるだろうから、このさい明言はしないでおくが…黒い瞳に黒髪で・色の白い俺の女房とは、まったく違うタイプだ。
ちなみに俺たちは…男の方は、上は白、下は茶色系の専用ウェアーでまとめてあったが、俺は、数少ない手持ちの服の中から、『それっぽい造り』の物を選んできただけだ。
(色は、あまり『ちぐはぐ』にならないよう、灰から黒でまとめてはあったが…「着る物」に頓着しない俺の事。『コーディネート・センス』の方は「?」だ)。
「さて!」
最初に半分ほど、「生中」のジョッキを開けてから男は…俺をアダ名の「ボギー」で、向こうは姓だけで紹介する。
(このあたりでは、聞きなれない名字だ。どこか西の方だろうか?)。
俺はこの男に、本名など、プライベートな情報は、ほとんど提供していない。
(「ゴルフ」と言っても、ショート・コースだし…特に「ゴルフ保険」に入る必要も感じなかったので、正確な住所・氏名・年齢などは、不詳のままのはずだ。ここの「申し込み」にしたって、代表者ではないのだから、「その他二名」の一人なのだろう)。
べつに、隠しているわけではない。聞かれなかったから、答えなかったまでだが…
「それよりも、帰り道の方が心配だわ」
窓の外を眺めていた彼女は、そんな話には興味なさそうだ。雪はまだ、しんしんと降り続いている。
『四駆だろ?』
俺は言葉には出さなかったが、胸の内でそうつぶやく。そんな俺の心を見透かしたかのように、すかさず男が続ける。
「彼女はまだ、マニュアル・デビューしたばかりなんだよ」
その言葉を受けて…
「まだクラッチ操作が苦手で、坂道発進とか…」
そう言いながら、視線を戻して、コーヒーを口に運ぶ。
『条件解除したばかりの、それも女が乗るようなクルマじゃないよな』
いちおう、客商売をしていた俺だが…気の利いた受け答えができない人間だという自覚はあったので、思いを口に出す事は、めったになかった。それに、顔の「表情筋」は、ほとんどない俺だ。黙っていれば、「象嵌」のような・造り物の『ポーカー・フェイス』。心の内を読まれる事はない。
「そのかわり、1200ccの、こんなにでっかい燃料タンクのオフロード・バイクに乗ってるんだぜ!」
そう言って男は、身ぶり・手ぶりで大きさを示す。ラリー・レイド用の競技マシンを模したものだろう。
もっとも、「市販車改造クラス」なら、その手のバイクをベース車両に使うのだが…通常の大型バイクですら、ガス・タンクの容量は20リッター前後だが、その手のビッグ・タンクは30~40リッターもある。
「そのカラダで?」
先に述べたように、無口なこの俺だったが…おもわず声に出してしまう。
そんな俺でも、思わずそんなセリフが出てしまうくらい、見た目の印象と、かけ離れていたからだ。身長は、どう見ても160センチもない。
『足が届くのかよ?』
車高の高いオフロード・タイプのバイクに、この背丈。むしろ当然な、素朴な疑問だろう。
(俺はモーター・サイクルには、ほとんど縁が無かった。乗った事はあるが、あまり興味もわかなかった。それに同じモーター・スポーツでも、2輪と4輪は、まったくの別物だと思っている。オートバイや自転車など、ひとりで自立していることもできない物で競技するなんて…俺に言わせれば、「あんな物で競争するなんて、正気の沙汰じゃない」って事になる)。
「シートだけは、すこし落としてあるんで…」
すかさず返事が返ってくる。
『はあ?』
納得だが…例の男同様、人の心を読むのが上手いのかもしれない。口には出していない俺の質問に、自ら答えてくれた。
もっとも、この手の反応は「日常茶飯事」…慣れたものなのだろう。
「それに昔は、ボディービルやってたらしいぜ」
男の解説が入る。
「ボディービルじゃないですよ…」
すこし口ごもってから…
「ウエイト・リフティング」
尻つぼみ気味に、そう言う。
『重量挙げ?』
俺は、「絶句」と呼ぶに近い状態だったが…
「それも…」
さらに続けようとする男の言葉を、さえぎるように…
「75キロ級」
彼女は、どうせなら「言われる前に、自分で言う」といった感じで、そう答える。
「そのカラダで?」
またやってしまった。
「いや、失礼…」
男がいるせいか? 初対面の人間が苦手だった俺にしては珍しく、ついつい軽い口をたたいてしまう。
それに、今日はプライベート・タイムだという気楽さもあったのかもしれない。『口は災いのもと』というが、悪い印象を与えてしまっただろうか? 少なくとも、こんな態度の俺に、好意は抱かないだろう。
『まあいいさ。人付き合いなんて面倒くさい関係、本来、望まない人間だ』
俺は黙る事に決めたのだが…
「こっちのボギーは…」
そう振られて仕方なく…
「しがないコックだよ」
そう返事する。どちらにしろ、ぶっきらぼうな受け答えしかできない。
「ところでボギー」
男は、外の景色の色の変わり具合を眺めながら…
『ん?』
さっそくの赤ら顔で、尋ねてくる。
「まだ大丈夫かい?」
俺は窓の外を、チラッと一瞥しただけで返す。
「このまえ換えたばかりのタイヤだ。古くなったスタッド・レスよりはマシさ」
それを聞いた男はニヤリと笑い、生ビールをもう1杯、注文する。
* *
「地獄の底までつきあうぜ〜!」
ゴルフ・バッグ二つにはさまれて、酔いの回った男は、後部座席で上機嫌だ。
『フン!』
俺の隣りの助手席に座るのは、例の彼女。今では、とても・そんな風には見えないが…
『75キロって言ったら、今の俺より10キロ以上も重いぜ!』
現在の俺は、身長170センチ弱。体重は60強といったところだが…
(『二乗三乗の法則』というものがある。「筋肉」は、「脂肪」などとくらべ格段に重たくて、「その量が『2乗倍』になると、重さは『3乗倍』で増加する」というもので…中には、「恐竜は、今の地球の重力では、自分で自分の体重を支えられないだろう」と語る学者もいる。それからすれば、アリが巨大化して、人間並みの大きさになったとしたら…おそらく、あの脚の太さでは、動くことすらできないのだろう)。
なんでも「ウエイト・リフティング」というものも、「ボクシング」同様の体重による階級制があり…「減量して下のクラスに行くか?」。逆に「筋力をつけて上の階級に挑むか?」…やはり二つの選択肢があるようだ。
(もっとも、先にも述べた「ボクシング」のように…新興団体の競技会には、体重などによる階級が無かった。そんな差別的な区別をしない事を掲げて、「車イス・マラソン」などの種目も設けられているくらいだ。当然、男女のクラス分けも無い)。
中には「真の世界一」を目指し、伝統的な名誉を蹴って・実質的な富と栄誉を求め、あちらの大会に挑んでくる女性もいるらしいが…
(もちろん、生来の土台の段階から、ヤワな男なんかより逞しいのだろうが)。
そして、正統派団体に属していた彼女の場合は、後者を選んだ。
(日本では、ギャンブルのプロ「オート・レース」選手は、アマチュアリズムの延長である・一般のオートバイ競技会に参加することを認められていないが…それと同様に、権威主義的スポーツ運営組織の方も、同系列の派閥と無関係な団体に所属している選手の場合、出場を拒否しているものだ)。
そんな話が終わる頃、彼女の車は「後日、取りに来る」という事で、三人で俺の車に乗り込み、ゴルフ場をあとにした。
「ヒャッホ~!」
けっきょく、生ビールの中ジョッキを3杯を空にした男は、いい調子にできあがっていた。降り積もった雪に、轍を残しながら進む車の後部座席で、奇声を上げている。
「ボギー、滑ってるぜ~!」
まだアイス・バーンになったわけではないので、ノーマル・タイヤでも充分だ。それに…
『滑りそうな時は、ビクビクと探ってないで、先に滑らせちまえばいいのさ』
走り始めに、強めのアクセルにブレーキ、軽く左右にハンドルを切って、滑り出しの感じをつかんでおいた。
(俺の車はFR…フロント・エンジン&リヤ・ドライブだ。一般乗用車の場合、その重量配分から、雪道での走破性はFF車…フロント・エンジン&フロント・ドライブ…の方に分があるが、俺の好みの「テール・スライド」、それも「駆動がかかったパワー・スライド」を行うには、後輪駆動でなくてはならない)。
しばらく走って、県道に突き当たる。
(いつの間にか静かになった男は、ゴルフ・バッグにもたれかかって、寝入っているようだ)。
ここを左折なのだが…前には2台の乗用車が、道に出ようとしている。道路から一段低くなった田畑に囲まれた・ここは、ちょうど車一台分ほどの距離の、短いが急な登り坂になっている。雪さえ積もっていなければ、何と言う事はないのだが…手前は、緩いが左カーブで、道幅も狭くて加速もつけられない。
「フン!」
最初の1台は、車体全体が坂にかかったところで、駆動輪の前輪が空転しはじめ、ズルズルとバックでズリ落ちてきた。再度のアタックも、空しく空回り。スゴスゴとUターンをして、戻って行く。それを見ていた2台目は、挑む事もなく退散。どこか、別の場所を探すつもりなのだろう。
『さてと…』
彼女は当然、俺も「切り返し」をして、引き返すものだと思っていたのだろうが…上は見通しの良い道路。俺は左右を確認してから…
(登り切った所は、本来「一旦停止」なのだが…こんな状況だ。この際、そこのところは目をつぶってもらおう)。
ユルユルと左カーブを曲がって、そのまま登りへ。駆動輪である後輪が坂にかかったところで、空転を始めるが…そのままの回転数をキープしたまま、左側にある「サイド・ブレーキ」のレバーに手をかける。アクセル・ペダルはそのままに、レバーをチョコン・チョコンと引いて、後輪の回転を制御する。すると一瞬・一瞬グリップを取り戻し、車は坂を登って行き、上の道へ。
(これは、運転技術を競う「トライアル競技」のテクニックの応用だ。ゴムという物は、「たわみ」の量の限界にまで達すると、一気にグリップ力を失う。そこで一瞬でも駆動力を抜いて、引き伸ばされてゴムを元に戻してやると、その粘着力を回復する。その原因が究明された20世紀末、高性能「原動機付き二輪車」の多くは…高出力だが・扱いの難しい…等間隔でモーターのようにスムースに回るエンジンに替えて、あえて「息つき」をするような特性を持たせた『位相同爆』エンジンを開発した訳だ。それゆえ現代の高性能電気自動車は、モーターの回転子にカウンター・ウエイトを取り付けて、わざと脈動が出るようにしたり…あるいはタイヤを、「ラジコン」や「スロット・カー」の物からヒントを得て、「ゴム」というより、「スポンジ」や「ウレタン」に近い材料を主原料に使っていたりする)。
「運転うまいんですね」
『ホッとした』といった口調で、左隣りから声がかかる。
後方確認のために、チラリとバック・ミラーに目を走らすと…男がウツロな表情で、左右を見ている。
『本当にうまけりゃ、こんなところにいないさ』
そう思ったが、口をついて出たのは…
「寒い所の生まれなもんで…冬になれば、雪で閉ざされるような所の…」
そんな言葉だった。
「フン!」
事実、俺は、国籍はこの国だったが、生まれも育ちも、別の国だった。それも、「冬になれば、雪で閉ざされるような所」の…。
『フン!』
俺につながる家系は、祖父の代に、大陸の某国に渡った。
なかば独裁的な権力を握って・あたり一帯を支配していた強権の指導者が、この世を去ると…「経済の完全なる資本主義化」ばかりでなく、「政治の正統なる民主主義化」が一気に進み…「各個・独立」の気運が高まり、それまで抑圧されていた民族同士の紛争が、落ちついた後だ。
(『理想の千年王国』という表現があるが…それは・むしろ、「実現不可能な大業」といった皮肉の言葉。かつて、とある帝国の皇帝は、閲兵式に臨んださい、居並ぶ自軍の精強な将兵を前に「この中に、百年後も生きている兵士は一人もいない」と嘆じたと云うが…人間の一生なんて、長くて・せいぜい百年前後。つまり、どんな善政も悪政も、永遠には続かないわけで…圧政から開放された彼の国が、混沌としてはいるが・活気にあふれていた時期。モーター・スポーツ熱も、高まりを見せていた頃だ)。
そこで俺の母方の祖父は、新規に立ち上げられた「半官・半民」の鉄道会社の技術者をやっていた。
(両親は、俺が幼い頃に別れてしまい、父親の記憶は・まったく無い)。
そんな祖父は、自分の血筋は「北方騎馬民族系」だと信じていたようだ。本国「日本」では、かつて「騎馬民族系」の王朝があったとの仮説が残る平野の、旧家の出身。
(「先祖の土地に帰る」というのが、祖父の言い分だった。日本の中枢民族は、先住の狩猟採集民族「縄文人」、大陸系の農耕民族「弥生人」、そして「南方海洋民族」に「北方騎馬民族」だが…古くは『白村江の戦い』、太閤「関白 豊臣秀吉」公の「朝鮮出兵」、「西郷隆盛」元帥の『征韓論』、そして先の「大東亜戦争」などなど。シャーマン「卑弥呼」の時代以前から…「実は朝鮮の系統」あるいは「漢民族」はては「ユダヤ系」と、さまざまに言われながらも、現在まで連綿と続くとされる皇族まで。時の権力者が大陸に目を向けるのは…「裏で、かつて太古の昔、戦争や政争で国を追われた記憶を持つ『陰の宰相』たちに操られているからだ」という陰謀論がある。その逆の理由から、「生地ヤマトを奪い返すため」、判官「源義経」こと『モンゴル帝国』初代君主「チンギス・ハーン」の孫、五代目皇帝「フビライ・ハーン」の『元』が襲来したのが『元寇』だ…なんて荒唐無稽な話を、小さい頃から祖父の膝の上で聞かされ続けて育った俺だ)。
広大な土地だった。運転免許が無くても走れる土地は、いくらでもあった。
(そこで俺はガキの頃から、動力付きの乗り物にいそしんだ)。
最初は、牧場の見回りなどに使う、バイクのようにまたがって乗る「四輪汎用バギー」。
(子供でも乗れる大きさの100ccの物に始まり、果ては350ccの大型の物まで)。
冬は「スノー・モービル」にも乗ったし…
(やはり初めは80ccの小型の物で始まり、最終的には550ccまで)。
その手の乗り物の解放感は好きだったが…前に言ったように、オートバイ同様…「この類い」で、競争しようと思った事は一度も無い。それに何より「寒いのは大嫌い」だった。
「フン!」
おそらく・たぶん、それは子供の頃の原体験によるところが、大きいのだろう。
北国の学校の冬の体育の授業は、スキーかスケートばかり。いつも鼻水をたらしながら、凍えていた記憶しかない。
(雪国から、「スキーヤー」「スケーター」の有力選手が出る確率が高いのは『当然の理』だろう。同様に、わざわざ波を求めて、海の近くに越して来る「サーファー」などがいる一方で…海の近くで育った人間に、ザラつく海砂や、ベタつく潮風が大嫌いな人間がいるように…「北の国」には、「寒さ」や「雪」に、憎悪に近い感情を持って育つ人間もいるわけだ)。
そして、小学校も高学年になり、ハンドルとペダルに難なく手足が届くようになると、当然のように4輪車を転がしはじめていた。
(当然、公道上ではなかったが)。
やがて、凍った湖の上などの氷上で行われる「アイス・レース」に出場するようになるのも、「自然な成り行き」だったのだろう。
(廃車になったナンバー無しの乗用車に、スパイク・タイヤをはかせた程度の代物だったけど…)。
今日みたいな、曇って灰色の景色を見ると思い出す。俺の「原風景」は…
「冬は雪に閉ざされるようなところの景色は、『白』だと思うかもしれないけど…」
この日の俺は、珍しくおしゃべりだった。
「いつも雲が垂れこめていて、『灰色』って感じで…」
後ろの席から臭ってくる、アルコールにでも酔ったのだろうか?
でも俺は、酒が飲めない人間だった。何でも、体質的にアルコールを受けつけない人間がいるのは「黄色人種」だけだそうだ。生まれながらに、アルコールを分解する・何がしかの酵素を持っていないらしい。
(基本的に、「白色人種」と「黒色人種」には存在しないという)。
それからほどなく、俺の店に着く。このあたりまで来ると、雪はまだ降り続いていたが、道路には積もっていなかった。
しかし…すっかり酔いが回った男は、店のトイレで用を済ませてから、「ここでひと眠りしてから帰っから…」と言って、自分の車の暖房をかけたまま、「高イビキ」をかきはじめる始末。
『しょうがね~な!』
さらに30~40キロほど走って彼女を送り届けるのは、どうやら俺の仕事らしい。雪は粒の大きな、「ボタ雪」になっていた。
「変な感じですね」
『?』
積もるような物ではないが、大粒の雪が乱舞し、フロント・ウインドウにむかって来る。
「景色が、こっちにむかって来るみたい」
『ハテ?』
俺にしてみれば、「フツーのこと」なのだが…彼女は続ける。
「以前、テレビの、スポーツを科学で分析する…みたいな番組で見たんですけど…」
なんでも、そこに登場した学者だか科学者だかの解説によると…スピードに対する景色というものは、「正面なら向かって来る」「背面なら遠ざかって見える」というものだったという。
「わたしには、フツーは絶対そんな風には見えないんです」
彼女は、そう語ったのだが…
『人によって、見え方に違いがあるのだろうか?』
俺は不思議に思った。
「自分がそこに向かって行く・そこから遠ざかっていく…っていうふうにしか、見えないんですけど」
俺は、その番組の解説者と同意見なのだが…たとえば本来、目に映ったものは「眼球」前面のレンズで交差し、「網膜」には逆さまに映っている。それを、脳で上下逆転・補正して再現しているそうだ。
「眼が見てるんじゃない。脳が見ているんだ」
そう、俺の娘だって、眼は見ているのだ。俺は娘のこともあり、「素人かじり」だったが、多少そういった知識を持っていた。
(ごくまれに、眼球に映ったままの景色を、脳で再生してしまう人間もいるそうだ。でも、普通の人間だって、『逆さメガネ』という物を掛けて、それを再現してみると…最初は気持ち悪いが、じき慣れてしまって、以前と同じように生活できるようになるという)。
「この景色を見ていると、なんだかわかった気がします」
彼女は、そう続けた。
『ふ~ん?』
どうやら「俺のフツー」は、「他人様の普通」とは違うらしい。それに…
『いま、時速76キロ、プラマイ3キロ』
俺はそう思って、スピード・メーターの針を見る。
(いまだに俺の好みは「スパイ針」のあるメーターだ。「回転計」にしろ「速度計」にしろ、求めているのは正確な数字ではない。「チラ見」で大まかな位置がわかれば良いのだから…それが、針を模したデジタル式でもよいから…丸い計器が好きだった)。
ピタリ「80」の数字を指し示しているが…市販車の速度計は、余裕を持って、高めに振ってある。実測なら、俺の予想(?)通り「76プラス・マイナス3」km/hだろう。
『持って生まれたものなのか? それとも、幼い頃から・速度や加速度に慣れ親しんでいたせいなのか?』
気づけば俺は…どういうワケか…そのくらいの精度で、速度を測れる眼を持っていた。しかも、周りの景色には、左右されないし…何かの目標物さえ、必要としない。
『その標的が、どのくらいの速さで俺の方に近づいてくるか?』
それを、時速5~6キロ以内の誤差で目測できた。
(だから、俺にとっての「マシン・セッティング」とは…「その目的地に、思った通りに向かってくれるかどうか?」という事になるわけだ)。
「単色や暗闇の世界の中で使えるか?」「上限はどのくらいか?」などは試した事はないが…
『絶対速度感?』
(身体の「向き」や「傾き」を知覚する『平衡感覚』は、「内耳」にある「三半規管」などが司っているが…リンパ液にひたされた器官の有毛細胞が、「重力」や「加速度」に対して、重要な働きをしているそうだ。その「毛」の傾き具合や・傾く速さで、自分の身体がおかれている状態を知覚するわけだが…フィギュアー・スケーターのスピンほどではないにしろ、グルグル回った後にヨロけるのは、一度ついてしまった有毛の動きが、すぐには元に戻らないからなんだそうだ。それが、「船酔い」や「車酔い」などの『乗り物酔い』の原因ともなるが…きっと俺の三半規管は、加速度に対する感度が、人並みはずれて鋭敏なのだろう。『絶対音感』を持つ人間が、一般に世間で使われている「ドレミ」でソレを表現するように、俺は「km/h」を用いているワケだ)。
俺はただ、そんな事を考えていただけなのに…気まずい雰囲気になったとでも、思ったのか?
「なにか…」
彼女のかけて来た言葉に、この場に引き戻される。
「スポーツをなさったこととか…」
『「なさった」なんてほどのもんじゃないが』と思いつつ、つい口をついて出たのは…
「どうして…ウエイト・リフティングをやろうなんて思ったのかな?」
俺は本人を前にして、まるで第三者の事を問いかけるかのように質問した。
「単なる偶然」
彼女はそう答えると、正面に向き直り、シートに深々と座り直す。
『単なる偶然?』
運転している俺だ。たとえ『絶対速度感』みたいなものがあったって、あいにく『心眼』は持ち合わせていなかった。
ただ、トップ・レーサーの多くが持ち合わせているという、「広角レンズ」みたいな視野の広さは、身に着いている。その気になれば一般道でのドライビングくらい、ほとんど真横を向いたって、正確に路面をトレースできた。
しかし遠慮して、そんなマネはしなかったので、隣りに座る彼女の表情をうかがう事はできなかったが…
「偶然、ウエイト・リフティングをやっていた親の元に生まれたってだけです」
少し不満そうに、付け加えてきた。
『ふうん…』
「人類最強」を謳う・あちらの団体に、男女の区別が無いことは、すでに述べた。
しかし、改造制限が無いとはいえ、素材の違いは大きい。女性の場合、基本的な骨格の強度や剛性は、細くて弱いし、もともとの筋力だって、一般的には劣っている。ましてや、『女性を女性たらしめている器官』は、性能追及のためには、無駄な物でしかない。
中には、それを取り去ってまで挑む女子選手もいたが…たとえば「女子マラソン」のトップ・ランナーは、男子と比較してもトップ・クラスのタイムだが、けっしてベストではない。男子に混じってしまえば、平凡な順位に終わるだろう。
(「男女平等」を否定するつもりなどないが、どだい、生まれ持ったものが違うのだ。それはなにも、体力面ばかりではない。「男は生まれながらにして男」。棒を持たせれば振り回し、動く物に関心を示す。一方で、「女も生まれながらに女」。たとえ歳の近い男の兄弟と一緒に野山を駆け回っても、着物を着せれば『しゃなり』として・紅でも塗ろうものなら『科』を造る。「男女同権」は当然だが…『本質を無視することの方が、むしろナンセンス』。それが俺の意見だ)。
それに多くの場合、やはり根底には、『女性は子供を産むもの』という意識が流れている。
(先の「女子マラソン」。「走り込んで、生理が止まるほどまで追い込まなくては、一流になれない」との俗説があるそうだが…)。
それはドーピングとは、相容れない思想だ。それゆえ、『正統』を自認する旧主流派は、女子の種目で威厳を守っていた。
(たしかに見栄えなど、女子種目には、女性ならではの魅力があるものだ。それは・また、「男性ファン獲得」には、大いに貢献していることだろう)。
男子とくらべ、体力もスピードも劣る「女子サッカー」などは、ふた回りほど小さなグラウンドが標準化されていたし…様々なジャンルで、成績によって個々に課される『サクセス・ハンディキャップ』制度が採られていた。
(自動車競走の場合なら、『BOP』と同様の「ウエイト・ハンディ」や「燃料流量・搭載量」調整、「吸入口径規制」導入や「ターボ・チャージャ ブースト圧」制限などによって、大会毎など頻繁に、その基準が見直される。『逆順位スタート』と同じく、その公平性に異論もあるが…多彩な車両が入り乱れる光景は、素人の目を愉しませるには、効果充分なのだろう。参加車数にしろ・観客動員数にしろ、それで命脈を保っていた)。
しかしアチラでは、「真に強い者が勝つ」との理念と信念のもと…そんな「後づけ」的な…ハンディ制の競技などは、いっさい実施されていなかった。
「フツーの人には、わからないでしょうけど…」
さらに間を置いてから、彼女は口を開く。
『俺がフツー? どうして、そんなことがわかる?』
そう反論が浮かんだが…
「否応なしに…」
そこで、ひと段落。
『フン!』
まあ、余計な事は言うまい。
しかし…やっぱり人間、「かつて何かに打ち込んだことがある」とか「人生、紆余曲折はあったが、ガンバッて生きてきた」なんて方が、ノホホンと生きてきたような連中より、味があって面白いものだ。ましてや、そんな事を感じさせないような女性なら…
(「ウエイト・リフティング」といい、「大型バイク」の件といい)。
なおのことミステリアスで…
『(興味を)魅かれてしまう?』
「そんな女性」だった。
『フン…』
柄にもなく、そんな事を考えていた俺だったが…
「ここまでで、いいですから…」
そう言われて、彼女を降ろしたのは…
(最近になって、大々的に再開発がなされた「旧市街地」の一角)。
勤務するというスポーツ・クラブの敷地前。
(もともと、「シャッター銀座」となっていた『商業過疎地帯』だった場所。長い時間をかけて『公示地価』の制度の見直しが行われた後、長い年月をかけて区画整理が実施され、現在では…どこぞの海外の大都市の中心にある「中央公園」のように、自然を模した大規模な人工の公園が造られたり・官公庁ばかりでなく、国立の大学を筆頭に、公立の普通科・工業・商業・農業の各高校などが集約的に集められ、機能的な近代都市に生まれ変わっていた)。
一階は大きなミラー・グラスで、中の様子はうかがえないが…二階は『お決まり』の「ランニング・マシン」や「エアロ・バイク」が、こちらに鼻先を向けて並んでいる。もちろん奥には、屋内温水プールがあるのだろう。
「もしよろしかったら、いらして下さい」
そう言って最後に手渡されたのは、彼女の名刺。
『体のいい勧誘?』
そう思いながら、名前に目を走らす。名字はともかく…
「古風な名前だ」
つい出てしまったのだが…
「父の好みで…」
彼女は一瞬・笑みを浮かべてから、きびすを返す。
『案外、ファザコン?』
そんな思いを噛み殺し、後ろ姿を見送る事もなく、俺は車を走らす。
「スポーツ・クラブに通うヤツなんて、カラダを鍛えるということ以上に、『出会い』を求めているんだ」
一人になって「ひとり言」。
(俺は、そう断定していた。べつに、そんな考えを否定しているわけではないが…俺は「下心」なんてものが、あっても仕方のない人間だった)。
「フン!」
雪はとりあえず、上がったようだ。
「あの時も、こんな灰色の天気だったな」
以下、回想…
『ちっきしょ~!』
「ホワイト・アウト」しそうな真っ白な景色の中で、眼がチカチカしてきた俺は、歯を食いしばって、ステアリングを左右に振りながら…心の中で…大声でわめいていた。まだ中学のガキだった頃だ。
『あとチョイ!』
あの時は、スパイクが氷の状態に合っていなかっただけだ。長いスタッドでグリップが良かったぶん、負担がかかって、どんどん抜け落ちて行った。
『ク〜!!!』
最終ラップの最後のコーナーを立ち上がり、ストレートを加速する途中で、どんどんトラクションが抜けていたのだが…
『やっり〜!』
ほとんど真横を向きながらも、何とか先頭でゴール・ラインを横切った時には、ほとんどすべてのスパイクが抜け落ちていた。
『ざま〜みろ!』
並み居る大人どもを全員ブチ抜いた俺は、得意満面! 左側の運転席の窓を開け、コブシを突き出す。
『どうだ、見たか!』
そして…『噂話』というのは、ふくらむものだ。そんな俺のクルマのタイヤを見たギャラリーが、勘違いしたのだろう。いつしか「ノーマル・タイヤで勝つ少年」という『神話』が生まれ、やがてスポンサーもついた。
「フン!」
それで俺は、自分の腕を試すため、「日本」にやって来た。あのとき俺は、まだ15だった。