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2・|迅速《スピード》

2・迅速(スピード)



「ボギー、あいかわらず不景気なツラしてやがんな。ちったあ愛想よくしろよ」


 寒い季節だった。しかし、まっ昼間から(ビン)ビール片手に、うすら赤い顔をして、カウンターの向こうからそう言ってくるのは、俺の店…正確には、女房と・その母親が営む定食屋の、常連客だ。


(病気で入院中の「義理の母(オフクロさん)」は、なかば隠居しており、現在は俺と女房が切り盛りしているのだが…)。


 五十がらみのその男は、建設関係の会社を経営しているというウワサだが…最近、急に白髪が目立ってきた針毛は、伸びてくるとハリネズミのようだ。


(実のところ、口下手(ベタ)な俺は…「無関心」というわけでは無く…「世間話」などというものとは、無用で無縁な存在。この男のフル・ネームすら知らなかった。それで心の中では、『アメリカン山嵐(ヘッジホッグ)』にちなんで、「ヘッジ」とか「ホッグ」とか呼んでいた)。


 スラッとデカく、腕力はありそうだ。いつも(エリ)付きの上着に…夏はポロ・シャツ、冬はアウト・ドア風のシャツ…Gパンと、先のとがったハーフ・ブーツという出で立ちで、旧い田舎街なら、どこにでも・いつの時代にでも、一人はいるであろう大男。単語や抑揚(イントネーション)など、このあたりの(なま)りが染みついているところを見ると、代々この土地の生まれ・育ちなのだろう。


『きっと先祖は馬に打ちまたがり、この一帯を駆け回っていた野武士か豪族だったに違いない』


 そんなふうに思わせる男だが…「いったい、いつ仕事をしているのだろう?」といったくらいに、ちょくちょく向かいのパチンコ屋に入りびたっては、昼飯(ランチ)晩飯(サパー)を食いに来る。


「しかたないでしょ、愛想が悪いのは生まれつきみたいだし、それに…」


 そう言いながら奥から出て来たのが、俺の奥方…つまり女房だ。歳は俺と同じ三十チョイ。長いストレートの黒髪に…もちろん、仕事の最中は後ろで(たば)ねているが…肌理(きめ)の細かい白い肌。


(俺に言わせれば、「肌の綺麗な女は、三割増し」だ)。


 ヒールをはけば、男としては決して高いとは言えない身長の俺と、ほぼ同じ(ドッコイ)くらいで…俺が言うのも何だが、若い頃はイイ女だった。


(もちろん今でも、面影は充分残っている)。


「事実、ウチの店は不景気なんだから…」


 彼女はできあがった料理を運び、カウンターの正面に座る男の前に並べる。


(左前方に見える入口から入って…正面の窓際に、四人掛けのテーブル席が二組。左側の窓際には、一段高くなった畳敷きのスペースに、四人掛けの座卓が二組。俺が立つ厨房から右手に伸びるのが、今この男が座るカウンター。そのさらに奥に、トイレのドアがある)。


『不景気だから…まったくその通りだぜ』


 中途半端に高級指向な飲食店は、開店してほどなく、店をたたむ事が多いご時世だった。


『フン!』


 俺はいつぞや読んだ、とある経営者の回顧録を思い出した。


(その昔、経営危機に(おちい)っていた、北米の大手自動車メーカーの立て直しに成功した人物の話だ)。


 その祖父は、イタリア系アメリカ移民で、低所得者向けの屋台で生計を立てていたらしい。曰く…


「人はメシを食わなくては、生きていけない」


 たしかにそうだ。つまり…本当の金持ち相手の店と、俺の店のような大衆食堂は、多少景気が悪くなっても、何とかやっていけてるわけだ。


「そんなこたーねーだろー、この店に限って…」


 男はそう言いながら、割り箸を割る。


(いつだったか、「割り箸なんて、資源の無駄遣いだ!」と、騒ぎ立てた奴らがいたらしい。それに同調した企業などが、社員食堂のハシの使い捨てを止めたりしたんだそうだが…「使い道の無いハンパ材を有効活用している」という事実が明らかになると、『正道の使者』(ヅラ)していた連中は、すっかりナリをひそめたらしい)。


「ま、亭主はイマイチ愛想が無いけど、料理の腕はなかなかのもんだし、美人の奥様がいて…ついつい足を運んじまうんだよな」


 そう語りながら、皿にカブリつく。


「な〜に言ってるのよ。どうせ、向かいのパチンコ屋に通うついででしょ」


 昼の客も、一息ついた時間。二人のやり取りを横目で見ながら、カウンターの裏の厨房でニボシをくわえる。


(体重の増加に神経を使っている競馬学校でも、カルシウム分が多く、カロリーが少ないコイツは、おやつとして公認されているそうだ)。


「フ~ッ!」


 仕事の間はいつもかぶっている、濃(こん)色のバンダナを脱いで、ため息をつく。短くもないが、長いとも言えなくらいに伸びた髪の毛を、指先部のカットされたタイプの、黒革のドライビング・グローブをはめた右手でかき上げ、無言で椅子(チェアー)に腰掛ける。


「…」


 油の染みついた天井…壁に掲げられた、(すす)けた献立表(メニュー)…乱雑に積み上げられたマンガ本の山…。


『フン!』


 この店は、「大衆食堂」というには、ちょっと変わった造りをしている。

 狭いが重厚なドアを入ると、坑道(トンネル)のような形の長めのエントランス。低い天井に、(イキ)な壁紙。凝ったカットの大きい窓ガラス。

 もともとは、女房とオフクロさんがスナックをやっていたのだが…義母が体調を崩したのを機に、「定食屋」に鞍替(くらが)えしたのだ。

 俺は酒が飲めなかったし、夜の仕事なんて、まっぴらだったからだ。


(もっとも一時期、そのおかげで生きていく事ができたのだが…)。


 カウンターの裏にあった酒棚をすっかり取り払い…申し訳程度だった厨房を広げ…畳敷きの場所(スペース)を増築した。

 薄暗い店内は、お世辞にも綺麗とは言えなかったが…昔からの常連客がいたこともあり、そこそこには食っていけていた。


「フ~ッ!」


 俺は店内を見回しながら、ふたたび、ため息をつく。

 厨房からカウンター越しに見える、出入り口の右側の壁には、季節はずれの「生ビール」のポスター。何年も前から一年中、ビキニ・スタイルの女の子が、ジョッキを片手に、こちらに微笑みかけている。


「…」


 ナゼだか俺は、その()が気に入っていた。たぶん、生まれたままのような、その無邪気な笑顔に、()かれていたからなのだろうが…それにしたって、わかったものではない。それは単なる、俺の思い込みだけだ。


『本当は、造り物かもしれないぜ』


 俺は、いつもそう思うのだが…世の中で一番「形成美容」の発達に感謝しなくてはいけないのは、この俺みたいな人間だった。


「犬顔・猫顔、タヌキ顔にキツネ顔、馬(ヅラ)・サル(ヅラ)…いろいろタイプがあって、どんなものでもお好みしだい。ぜんぜん別人になれますよ」


 白衣に身を包んだ男は、そんなふうに語った。そして…


「新しい人生を」


 鏡に向かってコケた頬を撫でまわす俺に、奴はそう声を掛けて送り出してくれた。


「フン!」


 いったい今の時代、どれほどの数の人間が、生まれたままの素顔で歩いているというのだろう? 本職(プロ)一般人(アマ)も、テレビやネットなどの映像媒体で露出したがるのは…好みの違いはあれど…美男と美女ばかりの世の中だった。


『どいつも・こいつも、化けの皮をかぶってやがる!』


 金さえあれば、どんな容姿でも手に入れることができた。


(そういった点においては、何も悩まなくてよい時代だった)。


「さあ、はたして夢の6秒代が出るか?」


 正面のボックス席の右の(ハシ)。壁際に置かれた、壊れたカラオケ用の大画面テレビ。その上に載せられた小ぶりなテレビから、がなり立てるようなアナウンサーの声が響く。


『最近は、この手のやかましい実況ばかりで、ウンザリするぜ』


 そう思いながらも俺は、ボンヤリとした視線を画面に向ける。

 そこでは、今日のメイン・イベント、「陸上男子ー短距離走」の決勝が行われていたが…「6秒代」とは言っても、「50メートル走」ではない。「100メートル」だ。


「ピー・ピー・ピー・ド〜ン!」


 号砲をマネた電子音を合図に、現代の最先端を駆使した短距離走者(スプリンター)たちが一斉にスタートする。俺と、俺の女房、そして先ほどの男。俺たち三人の視線は、画面に釘付けだ。


「スゲーな!」


 男が、感嘆の声を上げる。わずか数秒の決戦の後、ゴールした選手を映し出しているテレビ画面の下側のテロップには、10年前には想像もつかなかった数字が並んでいる。


「人間はどこまで、記録を塗り替えることができるのか?」

 だいたいの目安は…「速さ」などを競うものなら2/3。「距離」や「重さ」など、量を競うものなら1・5倍といったところだ。


「人類はどこまで、その肉体を進化させることができるのか?」

「そうである人間」と「そうでない人間」の間には、いちべつしただけで、大人と子供ほどの違いがあった。


「医学はどこまで、人体を改造できるのか?」

 善人ヅラして倫理を並べたてたところで、多くの観衆の目は、その究極の姿に向けられていた。


 今では「人類最強」を(うた)った私設のスポーツ団体が、あらゆる競技を席捲していた。


(そこでは、つまらない規則や・くだらない判定が無く、また、写真や映像・センサーで判断するので、どこからも文句や苦情が出ず、単純明快で誰にでも判りやすかった)。


…たとえば「野球」だ。そこではセンサーとカメラがすべてを管理している。ストライク・ゾーンだって、タッチの瞬間だって、その判定に不服を唱える者は、誰一人としていなかった。

(ゆえに、こちらの公式戦では、主審や副審などというものは、フィルードに立っていない)。


…たとえば「スキー」の「モーグル」だ。たとえジャンプの着地で転倒しても減点されることはなく、モーターサイクル競技などと同様に、純粋にタイムで決着がついた。

(「ジャンプ」種目にしても、どんな格好で飛ぼうが、飛距離で順位がつく。『飛形点』などというものは、「フリー・スタイル」の分野だ)。


…たとえば「サッカー」だ。そこには『オフサイド』なんて、素人にわかりづらい規制はなかった。

(また・こちらには、勝負を終わらせるための『PK(ペナルティー・キック)戦』などという、「いったい、ここまでの試合は何だったのだろう?」と言いたくなるような結末もなかった)。


 あらゆる競技において、「引き分け」は「引き分け」、そうでなければ結果が出るまで、延々と延長が続いた。


(それにはTVの多チャンネル化による、放送局の増加があった。今では、スポーツ専門チャンネルどころではなく…その人気にもよるが…分野や競技ごとの専用チャンネルがあった)。


 視聴率獲得のためには、局側としても「生き残り策」が必要だ。演出ばかりでなく、競技そのものが面白くなくてはならない。


…たとえば「陸上競技」だ。「走り幅跳び」や「三段跳び」などにおいては、踏切のゾーンが大幅に拡大され、踏み切った場所から正確に飛距離が測られた。『ファール』のプレッシャーから解放されたジャンパーたちは、伸び伸びと自己の限界に挑むことができた。


…たとえば「技術種目」だ。「体操」や「フィギュア・スケート」など、その技を競うものでは、技の難易度に応じて細かく得点が決められており、得点に上限は無かった。だから、5点の技を持ち時間の中で10回行えば50点となるし、まだ誰も行ったことのない技を行えば、近似の技を参考にボーナス・ポイントが付く。もちろん、失敗すれば0点で点数は付かないが、こういった採点法に異議を申し立てる者はいなかった。


(どだい、こういったフリーの演技において、「満点(フル・マーク)」が出る方がおかしかったのだ。与えられた課題を完璧にこなせたかどうかの、「試験問題」ではない。こういった類いのものにおける「満点」とは、「全宇宙の中で、唯一のもの」「万物の中で、最高のもの」でなくてはならないはずだ。別の人間が・別の大会で・別の事を行って「満点」を取るなんて、あってはならない事なのだ。でなければ、前回の「満点」は嘘だったという事になってしまうのだから…)。


 今では限りない高得点を目指して、目にもとまらぬ速さでクルクルと、持ち時間の中で、いかに難易度の高い技を・いかにたくさんこなせるかが競われていた。

 ただし、選手の身体に大きな負担をかける「着地静止」は、高得点の対象からはずされていた。「あんなものは、いたずらに選手生命を縮めるだけだ」との「正統的」な批判が相次いだのが理由だ。


(体操選手の、高く・素早い動きは、すさまじい運動エネルギーを生み出している。それを一瞬で停止するとなると、選手の身体に多大な負担を強いる事になる)。


 次々と塗り替えられる記録(レコード)に、人々は熱狂していたが…その風潮は、「格闘技」などにおいても、またしかり。

 たとえば「ボクシング」などは…体重により、グローブ内の衝撃吸収材の量・重さ・サイズが区分けされており…「大人と子供」ほどに大きさに違いのあるグローブをはめて、大男と小男が、あいまみえて・同じリングで打ち合っている


(それと似たような事は、20世紀の(すえ)の頃から、モーター・スポーツの世界で行われていた。例を()げれは、公道走行用の市販車ベースの車両を改造した自動車レースで使われている、『性能調整=バランス()オブ()パフォーマンス()』。意図的に、車重や出力を調整することによって…スポーツ・カーからスーパー・カーまで…排気量や車格の違うクルマ同士が、「異種格闘技戦」のような様相(ようそう)(てい)して、同じ土俵で盃を競っている。また、純粋なレーシング・カーのレースでも、コストの高騰を防ぐため、車体やエンジンの単一(ワン・メイク)化・共通パーツの使用などが(はか)られている場合もあったり…『技術均衡(EoT)Equivalenc()e・of()Technology()』という、採用技術による「性能格差・是正」規則により、ターボorノン・ターボ、ハイブリッド搭載・未搭載などの車が、混走しているカテゴリーもあった)。


 そして派手な演出と驚異的な記録が…既存の組織や、旧来の団体を差し置いて…その新興勢力を、「世界最大・最強」へと押し上げていったわけだ。


「それにしても、あのカラダ見てみろよ。まるで彫刻みたいだな。あそこまでいくと芸術品だよ」


 男は、そう(うな)が…10年ほど前、初めて奴らが旗揚げした頃には、賛否両論が渦巻いた。なにしろ…


「イタチごっこは、もういらない」


 そんなキャッチ・フレーズのPRのもと、公然と「筋肉増強剤アナボリック・ステロイド」などの薬物の使用が認められていたからだ。

 今では種目や個人ごとに理想の体型が解析され、バランスや効率が悪いとなれば、骨格にまで改造の手がおよんでいた。骨に人為的・医学的に手を加え、長さや形を変えてしまうのだ。

 しかし・それは、昔から行われていた外科・整形外科技術の応用だった。たとえば、成長期の子供が骨折した場合、その成長分を見越して、折れた箇所をあらかじめ少し離して固定する。すると、折れた骨の先端部分が伸びてきて、最終的には結合してしまう。


(中には、足の骨を伸ばすために、こういった骨の特性を利用して肉体改造をした役者もいたそうだが…)。


 そういった処置を(ほどこ)さないと、成長期の子供は左右で長さがチグハグとなってしまうからだ。


(それに、一度折れた骨は、その部分が他よりも太くなり、丈夫に補強される事になる)。


 また、骨が粉々に砕けてしまうような「粉砕骨折」の場合、たとえば腰の骨などから、その一部を移植する事がある。自分の身体同士なら、他の部分でも、ちゃんと再生するのだ。


(さらに、皮膚や肉までが削げ落ちてしまった場合は…その後、下腹部などに患部を突っ込んで固定し、「肉盛り」する事になる)。


 それらは皆、自然が人間に与えてくれた無意識の恩恵なのだが…現在、スポーツ界で意図的に行われているのは、それらの応用みたいなものだ。そんな「自然の摂理」に人間は今、大衆娯楽(エンタテイメント)の段階で踏み込もうとしているわけだ。


(最近では、もう一歩進んで、非鉄金属やプラスチック系の素材で、補強や剛性アップまでが図られているという)。


「アイツも、今年限りで引退するそうだぜ」


 男は、画面でヒーロー・インタビューを受けている勝者を見たまま続ける。


「なんでもウワサによると、ドーピングのやり過ぎで、オツムの方に来ているそうだ。しゃべってることが、なんかヘンだろ。最初は、興奮してるから、あんななのかと思ってたけど…最近、ひどくなってきてるよな」


 そう言って、コップに残ったビールを飲み干した。


一攫千金(いっかくせんきん)」を狙う改造人間(サイボーグ)どもが、しのぎを削っているのだ。毎年・毎年、理想の姿を追及した新型が登場する。旧型は、「時代遅れ」になり「お払い箱」にならないよう、さらなる「改修&改善(アップ・グレード)」をして迎え撃つ。それが今、人間の身体で行われているのだ。


「奴ら、普通の人間が20年近い年月をかけて成長して、それから何十年もかかって小出しにしていく生命力を、一時(いっとき)に、爆発的に燃やしちまうのさ」


 俺の横で女房は、そんな話にも・テレビにも目もくれず、黙々と後片づけを始めている。


『たしかに…』


 薬物による筋力のアップは、何年分もの生命力を奪っていく事だろう。だいたい、「筋肉のつけ過ぎ」は「太り過ぎ」と同じくらい、身体に悪い事なのだ。しかし、進歩&前進をし続けなければ、蹴落とされる厳しい世界だが…


「でももう、じゅうぶん稼いだんだろうな」


 男は(うらや)ましそうに語る。


『才能の無い人間には、いい時代かもしれない』


 プロが努力するなんて、当たり前の事だ。つまり、けっきょく最後は、持っている素質の質や量の違い…「才能」くらべとなる。そして「持たざる者」では、どんなにがんばっても到達できない領域があったのだが…


『勝利のためなら、カラダを売る奴など、いくらでもいる』


 しかし今の時代なら、「持って生まれた才能の劣る奴でも勝つ」。それも可能かもしれない。


『一瞬だって輝けるなら、魂だって売るだろう』


 口には出さなかったが、それが俺の意見だ。


「家政婦を一生雇えるくらいは、儲けただろうな」


 男はそう言って、グラスにビールをつぎ足しながら…


「そうそうボギー…」


 そう続ける。「ボギー」というのは、古い映画好きなこの男が、勝手につけた俺のアダ名だ。

 俺は観た事が無いのだが、その昔、無表情で・唇をあまり動かさない・ぶっきら棒なしゃべり方が特徴的な、ニヒルな白人俳優がいたそうだ。映画界に入る以前、軍隊にいた時の顔のケガがもとで、そんなしゃべり方になったという話だが…その俳優のニック・ネーム「ボギー」。俺は彼にちなんで、そう呼ばれるようになったのだ。

 でも別に、見た目が似ているというわけではない。似ていたのは、そのしゃべり方。俺は、下の唇だけを上下に動かして話す。でも、好き・好んで、そんなしゃべり方をしているわけではなかった。顔の皮膚が突っ張るし、表情を造る筋肉が、うまく動かないだけなのだ。でも「ボギー」なら、まだマシだ。


『サンダーバードじゃなくて良かったぜ』


 俺は子供の頃に観た、20世紀に造られた「SF特撮人形劇」を思い出しては、いつもそう思っていた。


「次の休み、いっしょにゴルフに行かないか?」


『ハア?』


「手始めに、まずは『打ちっ放し』だけどな」


 男は続ける。


『ゴルフ?』


 俺は、他人の身体にでも触れているような、無感覚な自分の顔を指先で撫でながら、生欠伸(アクビ)をする。

 たとえば、怪我の跡や手術後の切り口は…神経が切れているからだろう…過敏でありながら無感覚で、自分の身体という感触が薄い。触られるとムズムズとして、気持ちが悪いものだ。そんな違和感が消え去るまでには、かなりの年月を必要とする。


『最近になって、やっとだよ』


「自分の身体」という感覚が戻ってきたのは。


「あなたも何か、趣味でもあったほうがイイんじゃない?」


 女房はそう言いながら、着替えを済ませ…と言っても、エプロンを脱いで、上着を羽織った程度だが…奥から出て来た。そろそろ、昼間の営業は終了の時刻。夕方まで、店は閉店だ。


「そうそう」


 男は相槌を打ちながら…


「俺も付き合いとかあるだろ。あちこちから誘われてるんだけどさ、実はこの歳まで、まったく縁が無かったからよ。今さら一人で始めるのも心細いし…」


 よほど俺がヒマだと思っているのか、最近この男は、しきりに誘いをかけてくる。


「ああ、考えとくよ」


 俺はこの日はじめて、この男に向かって声を発した。しかし・そんな気は、ハナから無かった。


「そろそろ迎えに行ってくるから」


 女房は俺にそう言い残して、店を出る。俺たちには、中学生になる一人娘がいた。


「それじゃ俺も、もうひと勝負してくるかな」


 男はそう言って、女房の後について店を出る。


「フン!」


 俺は水道の蛇口をひねって、「流し(シンク)」にたまった食器に水をかける。


『?』


 フトおもてに目をやれば、暖機する車の白い煙の向こうで、女房があの男と、なにやら大笑いをしている。俺の前では、ついぞ見せた事のないような笑顔だ。少なくとも、もうここ数年…だが別に、どうってことはない。


『…』


 俺は黙って「流し」に視線を戻し、両の手にはめていたドライビング・グローブを脱ぐ。



     *     *


心頭滅却(しんとうめっきゃく)すれば、火もまた(すず)し…か」


 ボソッと、独り言をつぶやく。秋も深まり、どちらかと言えば日本の北寄りに位置するこのあたりには、もう初冬という空気が漂っている。


(ただし、『地球温暖化』が叫ばれるようになる以前から、積もるほどの降雪は、せいぜい年に2〜3回。たとえ降っても、「根雪」になるほどの土地でもなく…近頃では、「北部・山沿い」にあったスキー場も、減少した雪と客足のために…「人工降雪機」をフル回転させていたのでは、採算が合わない…軒並み、閉鎖に追い込まれてしまったような土地柄だ)。


 俺は、仕事の時のお決まりの「長袖TシャツにGパン」の上に、黒いジャンパーを引っかけただけで、店の裏の空き地でゴミを燃やしていた。

「発電」から「ゴミ処理」まで、『家庭内でも廃棄物0(ゼロ・エミッション)運動』が実践されはじめた時代。「完全燃焼型」「触媒(キャタライザー)機構付き」なんて焼却炉も出回っていたし、どちらにしろ「野焼き」は、どこの自治体でも、厳しく取り締まられていたが…こんな「イナカの焚き火」程度なら、別にどうって事はない。


(わざわざ「焚き火」や「花火」を楽しむために、キャンプ場に出向く御時世だ)。


「フン!」


 南向きの店の前には東西に、500番代の国道が走っている、小さな町の街はずれ。

 このあたりには、この店と、向かいの敷地に並んで建つ・左のボーリング場と右のパチンコ屋、それに国道沿いに民家や商店が点在している以外、田んぼや畑が広がる田園風景だ。

 背後の北西・遠方には、山々が連なっているが…平地なので、見通しは良い。


『…』


『あの年』の後、俺と女房、そして生まれたばかりの娘は、女房のオフクロさんを頼って、この地に逃れて来た。


(『あの(シーズン)』は、人気の回復を意図し・さらなる「観客(ファン)獲得」を狙って…よりシンプルに、しかし、よりパワフルに…大幅な「技術規則」変更が行われた元年(がんねん)だった)。


 ここは、かつて人間が、まだ徒歩や馬で移動していた時代には、ちょっとした宿場町だったそうだが…


 かの有名な漂泊の俳人「芭蕉」先生も、江戸の頃に、このあたりを(かち)歩きで通過したはずだし…さらに・それ以前、『判官(ほうがん) 義経』公も、北方に落ちのびる際、この近辺を通ったという云い伝えもある。また、少し北に上った県境には、江戸期には所在地不明となっていた関所跡の比定地もある)。


 すぐ先から「道の奥(みちのく)」となる・北国(ほっこく)へと続くメインの街道が、引かれた鉄道に沿うように、ずっと西方に移ってからニ百数十年ほど。今では、何の取り柄も無いような街だ。

 だが『安息の地』を求める「逃亡者」が、身をひそめるようにして暮らすには、最適の場所だった。


「てんぼう」


(だん)を取るため」にかざした自分の()の両手を見つめていると、フトそんな言葉が浮かんできた。


(「炭素繊維(カーボン・ファイバー)」製のボディーが、いかに頑丈だとはいえ、「(ホコ)(タテ)」だ。同じ素材同士が激突すれば、弱い部分が破断する。そこに、規則が緩くなり、使用が許可されたばかりの、揮発性が高く・充填効率の良い、いわばガスのような特殊燃料が漏れ出し、火が着いた)。


『あの年』俺は、縛りつけられた病院のベッドの上で、ガキの頃に聞いた医学者の逸話を思い出していた。幼い時に、手に大ヤケドを負ったのがキッカケで、医学の道を(こころざ)し、後に高名な細菌学者となった事で知られる日本の偉人=「野口」博士の(ストーリー)だ。


(たぶん誰もが、小学生くらいの時に、何がしかの授業で耳にした事があるだろう。かつて、千円札の肖像画にもなった人物だ)。


「フン!」


 ケロイド状に溶け出した手の皮は、無理やり剥ぎ取られたレーシング・グローブに張り付き、本来あるべき所から泣き分かれとなった。さらに悪い事に、五本の指全部を、まとめて包帯でグルグル巻きにされてしまったのだ。溶けたプラスチック同士が、冷えるとくっついてしまうように、癒着(ゆちゃく)してしまった俺の手は、指の切り離しと・皮膚の移植手術が完了するまで、一本の棒のようになってしまった。

 本当なら、ハサミでグローブを切り開き、一本ずつ包帯を巻いてくれれば、皮膚の移植だけで済んだはずだ。そんな結果を招いたのは、現場の人間が、知識も経験も不足していたからだ。


(たとえば「狂犬病」だ。今では、長い事その発症例がなく、実際の症状を見た事がある医師が皆無となってしまった現在、どこかで発病した者がいても、すぐに・それが「それ」などとは、思いもつかないだろうという話だ)。


 なにしろ・もう何十年も、こんなにひどい火災事故は起きていなかった。対処法を心得た者がいなかったのだろう。


「フン!」


 不幸なことに…低迷していたモーター・スポーツ人気の打開策として、かなり過激な改革案が実行された初年度。まずは手っ取り早く、起爆剤のような成分の入った燃料が開発された。


『環境問題は、どうする?』

『時代に逆行するのでは?』


 なるほど正論だろう。しかし、なにしろ世の中は…

 19世紀の頃までは『暗黒大陸』などと卑下(ひげ)された、特に「サハラ砂漠」以南のアフリカでは、以前は希少金属ともてはやされた「リチウム」などの産出が相次ぎ、今では『最後の開拓地(ラスト・フロンティア)』などと呼ばれ、うかれるほどに潤っていたし…


(それゆえの経済水準(レベル)の向上は、世情(せじょう)の安定化につながり…これからの『市場(マーケット)』としての「伸び(しろ)」も、まだまだタップリある)。


 また、最先端(カッティング・エッジ)技術(テクノロジー)の開発は、力を取り戻した近東(ニアー・イースト)や、かつて「植民地」支配された・南から東南にかけてのアジア諸国の、空調の効いた・近代的なオフィスで粛々(しゅくしゅく)と行われ、今や世界の主導的役割を(にな)っていたし…


(経済成長が頂点まで達してしまうより、「右肩上がり」の時期の方が、社会には活気があるらしい)。


 その一方で…


栄枯盛衰(えいこせいすい)は世の(なら)い』


 現在では、その昔は「先進国」などと自称して・覇権を握っていた国家は、「後進国」と(さげす)んでいた国々の後塵(こうじん)を排し、そして・何より…

 大西洋を北上する「メキシコ湾流(ガルフス・トリーム)」の流れが変わり、もともと高緯度にあったヨーロッパの主要国や合衆国・北部の都市は、寒冷化の深刻な打撃を(こうむ)っており…


(特に、農作物の被害は甚大(じんだい)で…食糧不足や失業者の増加による経済の危機的の状態は、『世界大戦』前の『大恐慌』以上とさえ、言われていた)。


 そういった地域では、極端に右傾化した・過激な思想が台頭(たいとう)してきたうえに…実際、『一触即発(いっしょくそくはつ)』の緊張状態が続いている場所が、各地にあった。


(今や、「内燃機関インターナル・コンバスチョン・エンジンの全廃」・「EVエレクトリック・ビークル化の推進」どころの騒ぎではない。欧州や北米では、『地球温暖化』を歓迎する声さえ上がっている始末だった)。


『きっと「()(ぼう)」って書くんだ』


 その伝記には、そういってからかわれたというエピソードが書かれていたはずだが…その時になって初めて、「どんな意味なのか?」「どんな字を書くのか?」が飲み込めた。


『俺も・もっと早くこんなカラダになり、医学に目覚めていれば、後世に名を残せたかもしれないな…』


『あのとき』俺は、自分をそう皮肉った。


(もっとも俺の「最終学歴」は、レースに専念するための『高校中退』だったが…『除籍』と違い『中退』は、「学歴」になる)。


「パチン!」


 舞い上がる炎に、飛び散る火の粉。俺は「焚き火」をするのが好きだった。「焚き火」と言うより、炎を見るのが好きなのだ。子供の頃から、火炎の動きをジッと見つめていたものだ。


「…」


 きっと…メラメラと揺れ動く景色の向こう側で、何者かが俺に語り掛けてくる。そんな心持ちになるからだろう。


「パチ! パチ!」


 音を立て、小さな木片が崩れ落ち、熱気が顔にまで伝わってくる。

 人間は太古の昔から、火のある生活を送ってきた。二足歩行をするようになってからだろうが、言葉を話せるようになる以前かもしれない。そんな太古の記憶が(よみがえ)るのだろう。俺は、遺伝子レベルでの記憶の伝播(でんぱ)というものを信じている。


『…』


 こんな話を、近親者から聞いたことがある。俺の、何代か前のご先祖様が語っていたそうだが…まだ『東西冷戦』と呼ばれる世界体制だった時代。曾祖父(ひいジイサン)曾々祖父(ひいひいジイサン)が、ある日、綺麗な円錐形の・雪におおわれた島をバックに泳ぐ、白い二頭の親子クジラの夢を見たらしい。その後の「建て直し(ペレストロイカ)」政策によって、『ベルリンの壁』が崩壊し、『鉄のカーテン』が取り払われた「情報公開(グラスノスチ)」後に目にした、謎に包まれていた彼の地の・とある映像。そこに映し出された景色は…北の海に浮かぶ白い島と、それを背景に泳ぐ「ベルーガ」という白い親子鯨。夢の光景と、そっくりだったそうだ。


『きっと俺の祖先は、何代・何十代も以前、何世代あるいは何十世代にもわたって、そんな北の海を見続ける暮らしを送っていたのだろう』


 俺は、そんなふうに思っている。


「パチ! パチン!」


 炎に面している顔の部分が火照(ホテ)ってきた。

 手だけなら、まだマシだった。あの時、俺の頭上をかすめ飛ぶマシンがあった。その車の一部が当たったのだろう、俺がかぶっていたヘルメットは、どこかに飛び去っていた。耐火マスクは残っていたので、直接・火にさらされる事はなかったが、スーツにしろマスクにしろ、それで熱を遮断できるわけではない。


「パチン! パチ! パチ!」


 モクモクと湧き出すように立ち昇る、不完全燃焼の黒煙。「山火事」などと違い、大量の可燃物が一気に燃え上がり、酸素不足になると、黒い煙となる。


『…!…』


 チラチラと見え隠れする、外の世界。大方の人間は、火の中は、まっ赤な世界だと思うだろう。しかし景色というものは、大気を通して眼に映る。ほぼ満タン状態の数台のレーシング・マシンに火が着き、大気中から一気に大量の酸素を奪い、暗澹(あんたん)たる黒煙を噴き上げたその内部は、ほとんど暗闇に近い状態だった。


『…?…』


 前も後もわからない闇の中で、俺はシート・ベルトをはずそうと必死だった。解除(リリース)のボタンを押すが、たぶん衝突(クラッシュ)した際の衝撃で、変な力の加わってしまったベルトの尾錠(バックル)は、すぐには開かない。熱さを自覚している余裕など、もちろんなかったし、息が苦しいとも思わなかったが…。


(たとえヘルメットがあったとしても、非常用酸素ボンベの容量は、わずか数十秒だ)。


『…!…』


 やっとの思いでベルトをはずすが、今度は狭い操縦席(コックピット)から、はい出さなくてはならない。空力特性を考えて、規則(ルール)いっぱいまで狭められたその開口部は、ステアリングをはずさなくては乗り降りができないほどなのだ。


『…?…』


 クイック・レバーを操作し、はずしたステアリング・ホイールを投げ飛ばす。両肩をねじって、外に出ようともがいていると、右肩のストラップがグイッと引っ張られる。たぶん、レーシング・スーツ以上の高温にも耐えられる耐火(スーツ)を着た、救助員だったのだろう。


(昔から付いている普遍の装備…レーシング・スーツの肩のストラップは、単なる飾り物ではない。こういう時のためにあるわけだ)。


 俺は外の世界に引っ張り出される。一瞬、光の差した俺の視界は、今度はまっ白な煙に包まれる。火の着いた俺の全身めがけて、一斉に消化器の粉が浴びせかけられたのだ。


「…!!!」


 眼をつぶって大地にヘタり込んだ俺は、肺に酸素を取り込もうと、あえいでいたはずだ。

 その後の記憶は途切れ・途切れで、よく憶えていないが…その事故(アクシデント)では、5台の車が巻き込まれ炎上した。いったん火が着いてしまったレーシング・マシンは、可燃物の(かたまり)みたいなものだ。


(大量のレース用燃料。エンジン・オイルなどの潤滑用の油脂類。プラスチックにゴム製品。金属とはいえ高温下では、「アルミニウム」も「マグネシウム」も、燃えてしまう物質だ)。


 そして、二人のドライバーが死亡した。


(折り重なるようになった下側のマシンから、彼らが引き出された時、ブスブスとクスぶる煙りをあげたレーシング・スーツは炭化してまっ黒になり、水分を抜き取られた彼らの身体は、その直前…つまりスタート前より…見るからに縮んでいたそうだ)。


 そのトラブルの「引き金」となった俺だけが、奇跡的に助かった。


『…』


 そして、競技中の事故とはいえ、死人が出たとなれば「事故調査委員会」が設置され、警察も登場する。

 激突し、燃え尽きてしまったマシンから原因を特定する事は難しく、俺に過失があったとも断言できなかった。それに、ピットに設置されたデータ・ロガーに、データーは記録されていたはずなのだが…いろんな奴の保身や権益を守るため、「生贄(スケープゴート)」が必要だったのだろう。非難は俺に集中した。


『…』


「技量不足」「経験不足」…「若さ」が災いした。果ては「傲慢(ごうまん)」「我儘(わがまま)」「身のほど知らず」…まで。ベッドに縛り付けられていた俺には、反論の機会すら与えられないまま、あそこから世界から…そして、この世の中からも…抹殺されたのだ。


(もっとも俺は、ヤケドばかりでなく、高温の熱気を吸い込んでしまった肺の治療のために、血液を入れ替える処置や、数か所に渡る骨折の治療など、到底すぐにレースにカムバックできる…否、社会に復帰できるような状態ではなかった。実際、死ななかったのが不思議なくらいだし、『あの時、死んでいたほうがマシだった』と、ずっと思っていた)。


「フン!」


 しかし…『イイ子ちゃん』たちの「かけっこ」には、飽き・飽きだ。誰もが「にせもの」でない刺激を欲していた。主催者の思惑通り…もちろん、事故は「想定外」だったろうが…翌年の観客動員数は、倍増したという。


『?』


 白い物が、フワフワと舞い降りて来る。


「雪か?」


 舞い散る灰と混じってまぎらわしいが、たしかに粉雪が落ちて来ている。でもおそらく、飛ばされてきた物なのだろう。


『!』


 ふり返り、北の方角を見ると…暗灰色に煙った雲が降りて来て、そこにあるはずの山々を覆い隠している。その雪雲の先端は、俺の頭上のあたりまで張り出して来ていたが、反対側は晴天だ。ひどい降りになる事はなさそうだ。


『…』


 俺は舞い落ちる雪粒を目で追いながら、あたりを見回す。「のどか」と言えば「のどか」な風景かもしれなかったが…「田んぼ」や「畑」がイコール『自然』ではなかった。そういった物は、人間が作り上げた人工物だ。


「フン!」


 この街でイコールするものがあるとすれば、それは「のどかさ=退屈」といったくらいのものだ。



     *     *


「ただいま!」


 短いが・(ツヤ)のある黒髪と、肌の白さは母親譲り。女房に手を引かれて、赤いコートを羽織った娘が店の中に入って来る。


「メリー・クリスマス! そしてハッピー・バースデイ!」


 昼間の男が、娘にそう声をかける。


「どうもありがとう」


 娘は声のする方を向き、礼を言う。

 今日は「クリスマス・イブ」。そして娘の誕生日だ。しかし、夕方から夜の閉店までは、店のかき入れ時。だから休日と重ならないかぎり、当日、娘のために特別な時間を取ってやったことは無い。まあ毎年の事だが、明日から娘は「冬休み」。今日は入院中の祖母を見舞った後、ここにやって来たわけだ。


「今夜はご馳走かな?」


 例の男が話しかける。


「わたし、お父さんのチャーハンが好きなの」


 娘が無邪気に、そう答えると…


「こりゃまた、安上がりな子だ」


 男はそう返しながら、空いていた右隣りに娘を座らせる。二人は…こんな表現を使えるのか、わからないが…すでに「顔見知り」だ。


「…」


 俺は無言で…合間を見て、娘のリクエストに応えるための準備に取りかかる。なんでも俺はガキの頃、コックになりたかった…そうだ。


(自分では、まったく憶えていないのだが…そう語っていたようだ)。


『どんな理由やキッカケがあったのか?』


 定かではないが、きっと…


「うまい物を食って、仏頂面になる奴など、いるわけがない」


 たぶん、みんなの喜ぶ顔を見るのが嬉しくて、俺はそんな風に思っていたのだと思う。


(幼い頃は、そんな俺だった…ようだ)。


 だから・いま現在の生活は、ある点では、自分の夢がかなった事になる。

 しかし・しばらくの間、俺自身は『調理師免許』すら持っていなかった。だいいち、不自由だった指先では、器用に包丁をさばくなんて事は無理だった。ただ俺はもともと、火を操るタイミングや勘だけは良かった。


「いい頃合いだぜ!」


 ジッと炎を見つめていると、ソイツが俺にささやきかけてくるのだ。だから俺は、「揚げ物」や「炒め物」、「麺をゆでる」なんて行為が、それでメシを食えるほどに・人前にそれを商品として出せるほどに、得意だったわけだ。


「フン!」


 でも、ここまで来るには、それなりの苦労もあった。

 娘が、まだ幼いというのに…女房のオフクロさんが病気になって、入退院を繰り返していたし…そして何より、まず第一に、この俺だ。数か月におよぶ入院生活。その後も、皮膚の移植など、数回にわたる手術。

 人並みの生活が送れるところまで回復してからは、昼の営業に鞍替えした店の手伝いを始めたが…しばらくの間、俺が店頭に立つ事はなかった。


(なにしろ…たとえ食い物商売でなくとも…あの頃の俺の顔だ。変わってしまった(みにく)い顔では…顔だけだったが、成形が終わるまで…家にこもる日々だった)。


 自分の人生に対して、投げやりになっていた時期もあったが、一番苦労したのは…あの頃、まだハタチになったばかりの、俺の女房だ。


(それなりに娘が成長した最近になって、やっと生活は安定してきたが…並の姿と形を取り戻すための借金が、まだかなりの額、残っている)。


「ごちそうさま!」


 娘はそう言って、レンゲを置く。俺は無駄な事とは知りつつも、顔の筋肉を引きつらせながら作った笑顔を、娘に投げかける。


『俺がここまで頑張れたのは、この子のおかげだ』


 俺は鏡に映る「(ろう)人形」のような今の自分の顔が、大嫌いだった。でも、この子にとっては、俺がどんな姿・形をしていようと、大して問題ではなかった。


『ナゼって…』


 娘は、生まれながらにして盲目だったからだ。


(眼球自体は正常で、光や音にも反応し、眼でそちらを追うのだが…視神経と、それにつながる脳のどこかに異常を持ったまま、生まれ落ちてしまったのだ)。


 オフクロさんが言っていた。昔から、「妊婦に火事と死人を見せるな」と言ったのだそうだ。お腹に子供がいる母体が精神的に大きなショックを受けると、アザのある子供が生まれたり…など、「胎児に影響が出ることがあるから」というのが理由らしい。


(俺があの大事故に遭った時、この子の命は、すでに女房のお腹の中に宿っていた。そして、実際に死人が出たあの火災事故と、まさに死体も同然だった俺)。


 火に焼かれる俺の姿を、現場で目撃してしまった女房の心中を…身体中に包帯を巻かれ、ミイラのようになって数か月…病院のベッドの上に横たわっていた俺には、知る由も無い。


(身体のある程度以上の面積を「火傷(ヤケド)」すると、「皮膚呼吸」ができなくなって絶命してしまう。幸い、そこまではいかなかったが、怖いのは「感染症」だ。弱った体表から、何がしかの菌に感染し、後で死亡してしまうケースも多い)。


 俺が「無菌室」に入れられていた12月の24日に、この子は生まれてきた。たぶん、その時の母体のショックで、生まれる以前に光を失ってしまったまま…。


(「そんなの迷信だ」という人もいるだろう。もちろん確証は無いが、俺はそう思っていた)。


「ほら、あなた」


 そんな回想にふけっていた俺を、女房がうながす。


「ああ」


 俺は小声で返事をして、綺麗に包装された包みを取り出す。そして厨房から、カウンター越しに…


「お誕生日、おめでとう」


 俺はボソボソとそう言い、娘に、細長い小包ほどの大きさのプレゼントを手渡す。


(俺はテレ臭かった。自分の娘の誕生日とは言え、周りには他の人様だっているのだ。それに俺は、三人家族の中で唯一、音程に自信が無かった。だから俺は、いまだに…誰に対しても…大声で「バースデイ・ソング」を歌ってやった事がない。


「ありがとう!」


 娘は、包装紙を手探りで丁寧に開き、横長で・横割れのプラスチック製のケースを取り出して、中身を手にすると…


「やったー! ピッコロだ!」


 両手でその存在を確かめるように撫で回しながら、喜びの声を上げる。

「ピッコロ」とは、「フルート」を小型にしたような横笛だ。指が届くようになった頃から、フルート教室に通い始めていたのだが…前々から、それを欲しがっていた。


「ちょっと吹いてもいい?」


 身を乗り出すようにして訊いてくるが…


「ここではダメだ。ほかにお客さんだっているんだぞ」


 俺が仕事の手を休めずに、返事をすると…


「じゃ、おもてで吹いてくる」


『待ちきれない』といった感じで、娘が立ち上がると…


「どれどれ、おじさんにも聴かせてくれよ」


 そう言って例の男は、娘の手を引き外に出て行く。


「♪〜♪…」


 間もなく、「フルート」より短いぶん・音域が1オクターブ高い「ピッコロ」の、歯切れの良い音色(ねいろ)が聴こえてきた。


「♪〜♪…」


 テクニック的には・まだまだ半人前だが、彼女の(かな)でる横笛は…親の「ひいき目」を差し引いても…素晴らしい音の響きを持っていた。でも・それは…彼女以外、到底だれにも真似できるものではないのだ。


「♪〜♪…」


 なにしろ・そいつは、「持って生まれた」身体の造りによる『才能』…とまではいかなくても、『適正』と呼べるくらいのモノによっているのだから。


「♪…♪…」


 実は女房は、かつて音大で「フルート」を専攻している学生だった。

 その頃の学友に「あなたの唇は、フルート向きでうらやましい」と言われた事があるそうだ。つまりは、彼女の唇の形だ。唇の形が、「フルート」に最適というわけなのだ。

 なにしろ…「フルート」というのは、「(リード)」を持たない、分類の上では「木管(もっかん)」に分類(カテゴライズ)される楽器だ。


(現在では、すべて金や銀などの合金が使われているが…かつて木材で作られていた頃の、なごりなのだろう)。


 ただし…(リードを持たないゆえ)吹けば音が出るというわけではないので、音を出すだけでも、かなり難しい。俺などでは、いくら吹こうが・吸おうが、まったく音がでない。


(「ハーモニカ」ではないので、実際には「吸う」という行為はないが…)。


「誰でも、とりあえず音が出せるようにすれば、もっとポピュラーな楽器になるのにな」


 ずっと以前、俺はそう悪態(あくたい)をついて以来、二度と女房の「フルート」を手にした事が無い。

 しかし、生まれながらの肉体的特性や形状による「向き・不向き」、あるいは「遺伝的才能」というのは、あるものだ。


(遺伝なのか・訓練なのか? 「蛇舌(スプリット・タン)」ではないが、舌が中央から縦に上反(うわぞ)って・二つに割れるように、ペタンとくっついてしまうし…サクランボの()を、口の中で結ぶなんて、二人にとっては「朝メシ前」の行為だった)。


 たとえば『筋肉』だ。筋肉には、「持久力のある赤い筋肉」・「瞬発力のある白い筋肉」があるという。


(最近では、「その中間的なピンク色の筋肉がある」とも言われているが…絵具の配合と同様、「赤から白まで」無段階に、その中間に位置する・中間の特性をもった筋肉が存在すると考えた方が、ありえる事だろう)。


 どのタイプの筋肉を持って生まれるかは、遺伝などによって、先天的に決まってしまうという。

 だから、白色の速筋系の筋肉を持って生まれた人が、「ウエイト・リフティング」などではなく、遅筋系スポーツである「マラソン選手」を目指しても、多大な努力を必要とするどころか、無駄な徒労で終わってしまう確率の方が高いだろう。

 また、身長の低い者が「バレー」や「バスケット」をやるより、高い方が有利なのは、最初から明らかだし…大きく成長してしまった人間は、たとえ採用条件が無くとも、「競馬」の騎手や・「競艇」の選手に不利な事は、言うまでもない。


(つまり…「プロテインを飲んで・重たいバーベルを上げていれば、誰もが『ボディービルダー』になれるワケではない」という事だ)。


 だが…俺たちの娘には、その「持って生まれた身体の造りによる才能」があった。


「フン!」


 娘が、やっと物心がついた頃だったろうか? (たわむ)れに女房は、「フルート」のマウス・ピースの部分だけを、娘の口に当ててみた。

 娘は女房に言われるままに、生まれて初めて息を吹き込む。すると驚いた事に、最初のひと吹きから見事に音を発したのだ。

 女房は御機嫌だった。開花する事なく終わった女房の才能は、見事にその娘に受け継がれたわけだ。


(女房は、まだ若かりし頃…ウロ憶えだが、たしか中学か高校の時、ひょんな事からフルートに出会い、「可愛がってくれた音楽の女の先生に勧められた」と言っていたと思う…それに熱中したのだそうだ。しかし、一流の演奏家を目指すには遅すぎた。綺麗な音が出たからといって、それがすべてではない)。


「ただ吹いてるだけじゃなくて、もっとひとつ・ひとつの音を大切にしろよ」


 無礼にも俺は、そう批判した事がある。

 女房に連れられて…と言っても、結婚前だったが…正装して、ある有名な男性演奏家のクラッシック・コンサートを鑑賞しに行った後だ。

 巨匠は、かなりセーブして吹いているように見えた。音が「落っこちそう」になった時のために、かなり余裕を持って、タメを残しているように見えた。


(「落っこちる」とは業界用語で…先に述べたように、音を出すのが難しいフルートでは、慣れた人間でも時として、音が出ない事がある。そんな失敗(ミス)を「(音が)落ちる」という表現で表わす。ただ、肺活量の少ない女性の方が不利なのは確かだろうが…音色に起因するイメージや姿形など、やはりオペラ歌手のような大男より、女性の方が見栄えは良い)。


 道は違えど、何かを極めようと思って精進している者同士には、通じ合える共通の『何か』があるものだが…


「もっと一生懸命やったらどうだ?」


 それを見て以来、彼女のやり方に、不満が(つの)ったからだ。


『毎日・毎日、基礎の音出しから始めなくてもいいだろ?』


(下手をすれば、それだけで終わってしまう日もあった)。


 俺が思うに、「ピアノ」と二輪車の「トライアル」は…これは、「モーター・サイクル」でも「バイシクル」でも共通だが…幼い頃からの訓練が必要なものだと思っている。

「ピアノ」は…この俺なんかが言うまでもなく…幼い頃から教育が実施される。柔軟な指使いを習得(マスター)するためには、まだ身体のかたまっていない幼い頃からの鍛錬が必要になるからだ。それでなくとも、36個もある鍵盤の上を、自由自在に駆け巡るのだ。「将棋」や「碁」・「チェス」などと同じく…脳の方にだって、柔軟さが要求される。だから、まだ指が届かない時分からの練習が必要なのだろう。

 ひとくちに「英才教育」と言われるけれど…それは必ずしも、見栄やハッタリだけではない。それが必要だから行われるわけだ。


(「トライアル」も、またしかり。「体操競技」同様の『ウルトラC級』なみの動きは、一朝一夕で身につくものではない)。


 そして…先に「プロが努力するのは当たり前」と述べたが、それ以前の段階で…たゆまぬ努力した者の中から、「才能のある人間」だけが、プロになれるのだ。


(一方で…案外、『才能』だけで一気に駆け上がれるのが、「ボクシング」と「アスファルトの上のモーター・スポーツ」だ。子供と言えない年齢からでも、世界的選手が誕生する事がある。もちろん・それ以前に、何がしかの基礎体力があっての話だが…)。


 そんな俺たちだったが、そもそもの「なれそめ」は…同い年だった俺たちが、19の時。

 その頃すでに音大の学生だった彼女は、イベント派遣会社のアルバイトで、生演奏のあるクラブやバーで「フルート」を吹いていた。


「フン!」


 なにしろ・その世界、意外に金がかかるらしい。

 まず第一に楽器と、その補修代。時には、学校以外でのレッスン料。


(有名コンクールに参加(エントリー)するには、名の知れた先生の推薦状が必要になる。高い教習費を払いながら、半分以上が雑談で終わるという事もあるらしいが…それなりに、地位や権威のある教師や教授の方々。誰にでも推薦状を書いてくれるわけではなく、それが一つの「登竜門」となっているわけで…そこで「○○先生に師事」という肩書が付く)。


 そして、先輩などがコンサートを催す場合に回ってくるチケット代。


(名だたるコンクールでの入賞経験でもあればともかく、音大を卒業した程度のセミ・プロでは、大した観客動員数は見込めないからだが…さばき切れなくても、ノルマ分の料金は支払わなくてはならない。もっとも・これは、自分の場合もそうなのだから、「持ちつ・持たれつ」ではあるけれど…)。


 だから貧乏人の子弟でも通えるのは、カラダひとつで高価な楽器がいらない「声楽科」だけと言われている。


(だが・それは…たとえば「お笑い芸人」が比較的高学歴な理由も、ここにある。売れるまでのギャラは、子供の小遣いなみだが…突然、レギュラーの病欠などの降板で・空いた穴を埋めるための呼び出しに、「仕事があるから」では、チャンスもつかめない。要するに…子女を、一流私立大学へ通わせられるほどの余裕のある家庭でなければ続かないし・とっさに「おバカ」な返しができるほどの頭脳の持ち主でなければ、「ウケ」は取れない。そういうワケだが…でも、なにも・これは、芸能に限ったことではない。スポーツしかり・芸術しかり・学問しかり。「働きながら」なんて『中途半端な環境』では、通用しない・専念しなくては大成できない世界なのだ。もちろん、一発で好機をものにできるほどの・並はずれた才能でもあれば、話は違ってくるだろうが…)。


「フン!」


 あのころ彼女は、やはり同じ派遣会社の仕事で、レースの時などのイベントに…「レース・クイーン」というほどではないが…俺がスポンサードを受けていた、自動車の部品や用品を販売している会社の出店(ブース)に立っていた。

 そんな関係で俺たちは知り合い、ちょくちょく顔を合わせているうちに、「イイ仲」になったのだ。


「フン!」


 俺がまだ日本に来たばかりで、右も左もわからなかった頃。そして・まさに、昇り調子だった頃。

 たしかに今になって思い返せば、「イイ気」にもなっていたし、「思い上がって」もいただろう。しかし・あの頃は、すべてが順調だった。あの事故の直前、彼女に「妊娠」を告げらた時までは…。


『あのとき、別れときゃよかった』


 チャンスは何回かあったはずだ。でも、できなかった。


(誤解しないで欲しいのだが…「そうすれば、こんな苦労をかけることも無かった」という意味だ。当時すでに、「走ること」に関しては、傲慢(ごうまん)すぎるくらいの俺だったが…人間の感情の機微(きび)については、まだまだ(うと)く、はっきり言って「子供」だった)。


『それが超一流になれなかった、俺の甘いところだ』


 俺はそう信じ込んでいた。そうして迎えたのが、あの『運命のレース』だ。そして、その半年後に生まれたのが娘だった。


(今まで述べてきた事から、俺が外見にしても・中身にしても、「使われない器官は退化する」という『用不用説』を唱えたことで有名な「ラマルク」博士の諸説の信奉者だという事は、納得していただけると思う。「ダーウィン」先生に先立つこと50年。生物の進化を提唱した博士の『獲得形質遺伝説』とは…生物の進化は、『進化論』が言うような、「ひとつの『突然変異』から始まって、何代にも渡って受け継がれ・ユックリと徐々に広まっていく」というものでなく…「一代で獲得したものが、即・遺伝する」という説だ。この俺にしたって…これは、肉親に聞いた話だが…幼児用のまたいで乗る四輪車で俺は、誰に教わるでもなく、自然と切り返し(スイッチ・バック)後進(リバース)したり、コーナーリングのターン時に内側への体重移動をして、もの凄い勢いで・家の中を走り回っていたそうだが…自動車文明が開明して、まだ・たかだかニ〜三百年。俺は、その時代の「申し子」なのだろう)。


 だから俺たち…俺と女房…は、多少の無理をしてでも、娘を音楽教室に通わせていた。それは盲目の彼女にとっては、唯一の「生きる喜び」であり…


(いわゆる『健常者』という集団からすれば、「普通」から大きくはずれた人間を『障害者』と呼び、同情したり・(さげす)んだりするが…生まれながらの本人にとっては、それほど深刻な事ではないのかもしれないが)。


 そして・もしかすると…かつての「三味線(しゃみせん)弾き」や「琵琶法師(びわほうし)」ではないが…やがて「生きる(かて)」になるかもしれないと思っていたからだ。


(もっとも、あちらの団体には、「パラ競技」などという…「逆バリアー」を張るような…特別な区別は存在しない。バスケットやテニス、長距離走やモノ・スキー等の車イス的競技などは、各々ひとつの種目(ジャンル)として確立されており…健常者ともども(シノギ)を削る…「真のバリア・フリー」が実行されている)。


「お礼に、おじさんも何かプレゼントしなくちゃな」


 例の男が、娘にそう話しかけながら、二人で店内に戻って来た。


(人というのは…こんな俺でも…自分の子供やペットを可愛がってくれる者には、無条件で好感を持つものだ。人付き合いが苦手で、友人のいない俺だったが、ナゼかこの男とは、世代を越えて気楽に話ができた…と言っても、向こうが一方的に、しゃべりかけて来るだけだが…)。


 多少混雑してきたので、二人はカウンターの奥へ向かう。その先は、トイレの入口。娘を一番奥にして腰掛ける。


「じゃ、金のフルートがいいな」


 娘は無邪気に、そう答える。


「バカなこと、言ってるんじゃないの」


 女房は、そう言ってたしなめる。

 なんでも、「純金」のフルートというのは無いそうだ。造れないことはないのだろうが、純金の「24金」では柔らかすぎて、使い物にならないのだそうだ。一番純度が高いのが「18金」。そして・それ一本には、高級車とまではいかないが、ちょっとした上級車が買えるほどの値段が付いていた。


「よし! 世界コンクールにでも出られるようになったら、おじさんが買ってやる」


 男は、大見栄を切る。


「え~! ホント?」


 娘は当然、半信半疑な反応を見せるが…


「ホントだとも」


 まんざら、冗談でもなさそうな口ぶりだ。


「約束だよ!」


 娘たちがそう言ってはしゃいでいるところに、おもての冷気を引き連れて、常連の男が入って来る。


「う~、さぶ~」


 歳の頃は40代前後。細身の身体で、今どき珍しい「走り屋」風の、大きなリヤ・ウイングを立てたクルマに乗っている。


(文化が成熟しきってしまったのが原因なのか? かつて「先進国」と呼ばれた国々は、ひとつの例外も無く「少子・高齢化」が進み、20世紀が終わる頃を境に、「若者のクルマ離れ」が始まったと云う。だが今では、その頃「後進国」「発展途上国」などと・差別的な呼ばれ方をしていた地域が、右肩上がりの経済成長&経済発展を遂げ…それにともない、車の需要が増え・ステイタス化されている。在来の自動車メーカーのターゲットは今、それらのマーケットにむけられている)。


 近くの川むこうにある、中規模の発泡スチロール成型工場で働いているのだか…近隣の大きな家電工場が撤退し、関連した電気製品やプラスチック工場などが無くなってしまった現在。この街で唯一、工場と呼べるほどのサイズを持つ会社だった。


(海から遠い土地だが、この近辺は川魚漁で知られた場所だ。水産試験場に隣接された、淡水魚が「売り」の水族館もある。その「製品(サカナ)」を収める梱包材を製造しているらしい。その日・その日の需要に合わせて、製品が作られるのだろう。漁業が行われている土地・土地の各地に、同規模の工場が点在している企業だ)。


 しかし基幹産業の無くなったこの街は、もう「町」と呼べるレベルではなくなっていた。


「なあボギー。夕べ『ちんこ峠』を、あのラジコンで走ってただろう?」


 頂上に…今では立派なお堂に収められた…男根の形をした道祖神(どうそじん)が立つ峠の俗称だ。


「スゲー勢いで…」


 俺より10歳ほどは年上だが、独り身のせいか若く見えるソイツは、両手を黒いジャケットのポケットに突っ込んだまま、カウンターのま向いに座るなり、そう話しかけてくる。


『?』


 俺は、チラリと一瞥(いちべつ)をくれる。

「ラジコン」とは、俺が乗っているオンボロ車の事だ。元々は素性の良い…つまり、性能的に優れているという意味だ…スポーティー・カーなのだが、かなりの型遅れだ。

 法規に触れない窓ガラス(ウインドウ)全部に貼られた濃いスモークと…俺の手元に回ってきた時、すでにそうなっていたが…屋根(ルーフ)の前面センターに小さく立つ、カー・ラジオのアンテナから、コイツには「ラジコン」と呼ばれていた。


(しかし、車好きのワン・オーナー車だったせいか、手入れは行き届いていた)。


 ただし「ラジコン」とは言っても、エンジン車だ。けっきょく「電気自動車エレクトリック・ビークル」は、都市部以外ではイマイチ普及していなかった。


(法令で、電動車以外の立ち入りが禁じられた地区が、世界のあちこちに誕生したが…不評をかこって、廃止になる所が相次いでいるのが現状だ)。


「電気ステーションや水素スタンドの配備の遅れ」「電力消費量をトータルでみた場合、あまり効率的ではない」などが原因と言われていたが…実際のところ、「電気」とは言っても、その動力の(みなもと)になるのは電力だ。

 21世紀に入る頃に盛り上がった、『地球温暖化』対策のための「脱原発」「脱炭素カーボン・ニュートラル」の声。しかし、増え続ける需要を満たすだけの供給を、従来の火力・原子力にたよっていたのでは本末転倒だし…不足分を補うのに、水力・風力・地熱・太陽光では役不足だった。


(法律で、電動以外の自動車の販売が禁止された国でも、もちろん、「即、全面切り替え」というわけにも行かず…このままいけば、いずれ現行のエンジン車は、寿命が来て姿を消す事になるのだろうが…すでに、「化石燃料」仕様の新車は出荷されていないものの、中古車や輸入車などが、まだまだ走り続けている。完全に無くすなら、燃料の販売を停止すればよいのだが…現状では、社会の混乱は必至。実のところ、当の政府も、手をこまねいているのが実情のようで…すでに廃案に踏み切った国もあるし、まだ・そこまで行かなくとも、「時期尚早(しょうそう)」の(そし)りは(まぬが)れそうにない)。


「そんなものは、開発が遅れているEV後発のメーカーや、オイル・メジャーが最後のひと儲けのために流したデマだ」という陰謀説もあったが…


(事実、21世紀の前半。欧州で勃発した大国による大規模紛争…と言うより「戦争」だ…の、あおりもあって、「全面電動化」発動時期の大幅な方向修正も必要となった。後になって振り返ってみれば、石油輸出大国でもあった・その某国の、石油利権がらみという側面もあったようだ)。


 しかし、エレクトリック()ビークル()がイマイチ普及しない一番の理由は…政治家などの為政者も含め…エンジンの効率が飛躍的に改善された事が、広く一般に知れ渡ったせいもある。

 実のところ、20世紀末頃の『インターナル()コンバスチョン()エンジン()(内燃(ないねん)機関)』の熱効率は、レーシング・カーで、やっと50パーセントが達成されたくらいだった。もちろん、駆動系でさらなる損失(ロス)が出る。流体式のオートマチック車にいたっては、駆動輪に伝わる動力は、使ったエネルギーの2〜3割ほどでしかなかった。


(ちなみに、機関車(ロコモーティブ)などのボイラーを用いた蒸気機関(スティーム・エンジン)は、『エクスターナル()コンバスチョン()エンジン()(外燃(がいねん)機関)』と呼ばれ、その熱効率は、わずか10%だ)。


 それが『地球温暖化』対策の一環として、ガソリン・エンジンの二酸化炭素(CO2)やディーゼル・エンジンの窒素酸化物(NOx)削減のため、ハイブリッド機構などが採用され…さらに21世紀の初頭のには、「スーパー・リーンバーン」技術によって、市販車でも熱効率3〜40パーセントを達成。

「空気」対「燃料」の理想の『空燃比』15:1を、空気の量を倍の30:1にする低温燃焼が実現したからだ。


(空気の量が増えれば、それだけ温度の上昇を押さえられる訳だ)。


 その後さらに、低〜中速度域までをも包括(カバー)した「ハイパー・リーンバーン・エンジン」の登場により、燃費の向上ばかりでなく、排気ガスなどの廃棄物(エミッション)の劇的な低減が実現していた。


(もともと少なくなった燃料を、100パーセントとまではいかないが、効率良く燃やしているのだから当然だが…最高出力を取り出せるのは、完全燃焼の少し手前の領域だそうだ)。


 それに、「再生可能エネルギー」として、植物などが由来の燃料が続々と出回っているし…さらに低排出物の「液体水素燃料」なども、いずれ普及するだろう

 それで・いまだに、主流は「ガソリン・エンジン」などだったが…どちらにしても・まだまだ当分のあいだ、『内燃機関』が完全に姿を消すことは無いだろう。


「ああ。峠の駐車帯んトコで、立ちションしてたな」


 俺はたまの気晴らしに、人気(ひとけ)の無い時間、あそこに走りに行く。そこはバイパスとつながっているトンネルが完成してからは、夜ともなれば地元の「走り屋」以外…といっても最近では、この街には若者自体がいなくなりつつあるのだが…まず、車とスレ違うことも無いような場所だ。


「気づいてたのかよ。目がイイんだな」


 女房はその男に、熱いオシボリを手渡す。


『?』


 カウンターの後片づけを始めた女房は、苦虫を噛みつぶしたような顔をしている。俺はハッキリ言ったことはないのだが…俺のそんな「秘かな楽しみ」に、うすうすは気付いているのだろう。


「ちょっと急ぎの用があってな」


 女房から顔をそむけるようにして、そう返事する。


「それにしても、ハンパなスピードじゃなかったぜ~、あ、ニラレバね」


 レースを身近で・自分で体験した事の無い人間の判断基準なんて、大したことはない。べつにモーター・スポーツに限らないが、頂点の世界で繰り広げられる極限の戦いは、異次元のレベルなのだ。


「だいたい、急ぎの用があるなら、あそこ通らね~だろ」


 俺は・それには答えず、コンロに火を入れると…


「店の名前見てみろよ。なにか『いわくつき』なんだよ」


 例の男が、奥からそう解説を入れる。


「へ? 店の名前?」


 人間には、どんな目に遭っても、やめられないものがある。


「レースは麻薬」


 一度足を踏み入れたら、二度とは抜け出せない。形は違えど、何らかの形で、かかわってしまうものだ。


(ましてや、一度でも「勝利の美酒」を味わった事がある人間なら、なおさらだ)。


「料理が出て来るのが早いって意味だろ? なあボギー」


 彼らの会話は、俺の耳に届いていたが…グローブをはめた手で、フライパンを握ったまま無心で火を見つめ、額に浮かんだ汗を拭う。


「むかし、おんなじ名前のドラッグがあったていうけど…まさか売人じゃないよな?」


 おしゃべりな・その男は、そんなふうに続けるが…


「…」


 俺は無言のまま、炒め終わった料理をカウンターに出す。


 店の名前は「SPEED(スピード)」。

 店のマッチに、レーシング・カーのイラストをあしらってあったが…


(「グランドエフェクト・カー」が登場する直前の、まだ「ドリフト走法」が使われていた時期。もちろん同じ時代を生きた事はないが、俺が好きなカナダ人ドライバーは、一段と豪快なカウンターを当てながら疾駆していた伝説の存在。白黒だが、その往年の名レーサーが駆る「赤い跳ね馬」)。


 別人になった俺は、新たな付き合いの中で、自分の過去を語った事はなかった。


(物理学的に『速度(ベロシティー)』とは、「速力の向き(ベクトル)」までをも加味したもので…『速力(スピード)』とは、単に「速さ」を定義したものだ)。


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