1・|導入部《プレリュード》
走―いつか そう遠くない未来
1・導入部
2・迅速
3・神話
4・質実剛健
5・両性具有
6・快楽主義者
7・無機質
8・怪人
9・情炎
1・導入部
横一列に並んだ・円い3個のシグナルが、左側から順に赤に変わっていく。
「ズキュ〜ン! ズキュ〜ン!」
空吹かしの爆音が、激しく繰り返され…最後の1個が、赤に変わった。
「キーンッ…!」
20万回転で回るツイン・ターボのヒステリックな高周波音が、一段と高まったところでキープされる。わずかコンマ数秒後には、全灯火が、一斉にグリーンのライトに変化するはずだ。
『グッ!』
タイミングを取るために俺は…アクセル最適開度で…息を止めてジッと待つ。
『…』
前方の光景は、ズラリと並んだレーシング・マシンが上げる熱気で陽炎が立ち、景色がゆがんで見える。
[コイツは…]
四つのタイヤがむき出しの、「フォーミュラー・カー」と呼ばれる形のレーシング・カー。
[でも…]
先頭のクルマは、『遥か彼方』で、ここからでは、その後ろ姿を確認する事すらできない。
『チェッ!』
「完璧主義」の・この俺が、こんな状態でレースに出走するのは、久しぶりの事だ。
『不確定なレースという行為の中で、いかに確実な要素を増やすか』
それが勝利に近づくための、最善の方策だと信じていた…なのに「出走24台中21位」。
『クソッ!』
たしかに、まだ「駆け出し」の頃。資金も体制も十分でなかった時には、納得のいく状況が得られなくても、走り出さねばならなかった事もある。
しかし、そんな場面でも、己の才能を信じ・はるかなる闘志で乗り切ってきたものだが…下級クラスならともかく、「国内最高峰」まで昇ってきた今となっては、この位置から上位を狙うのは、かなり厳しい。ましてや、ここから「頂上」を目指すのは至難の技だ。
『早くしろよ!』
止めていた息が漏れ出す。今日は、レッド・シグナルが点灯してからの時間が、やけに長く感じられた。
『まだかよ!』
俺は、気が急いていた。マシンがズルズルと動き出す。センサーで管理された現代のスポーツは、規則を外れれば、一発で反則が科せられる。それに、公式計時と連動した車載カメラの画像を見せられれば、反論の余地は無い。
『このままでは、フライングを取られる』
そう思った瞬間だ。
『しまった!』
信号がグリーンに変わる。
「ガックン! ガク・ガクッ!」
「操り手の技量を競う」ことを名目に、スタート用補助機構が、大幅に制限された今シーズン。「ジャンプ・スタート」をおそれて、一瞬アクセルを緩めてしまった俺のマシンは、よろめき・エンジンが失速しそうになる。
『やばい!』
スタートの時には、ピット・インの際に使う「エンスト防止機構」は働かない構造になっている。
『!!!!』
間髪を入れず、アクセルをあおる。大パワーを誇るレーシング・マシンだ。エンジン・ストップは免れたが…大きくテールを左右に振ったそのスキに、さらに後方のライバルたちにまで先行されてしまう。
『ちっくしょう!』
あわててアクセルを踏み直す。後輪が激しく空転し、白煙が上がる。
『2…3…4…』
ステアリング・ホイール右裏側のパドル・スイッチを操作し…シフト・アップのタイミングを知らせるブルーのランプの点滅に合わせ…たて続けにシフト・アップ。
強烈な加速で、身体がシートに押しつけられる。スタート・ダッシュ専用の「エアー・シフター」を使えば、「0~400メートル」5~6秒台の加速を記録する現代の最上位区分レーシング・マシン。見る見る第1コーナーが迫ってきた。
『落ち着け!』
俺は気を取り直そうと、自分で自分に・そう言い聞かせる。
後方からのスタートともなれば、1コーナーの進入には、いつも以上に神経質にならざるをえない。それは他のマシンとダンゴ状態になっているという事もあるし、後方からのスタートになればなるほど、カーブに到達するまでの距離が長くなり、当然スピードも出ている…という事になるからだ。
(たとえば、交差点の右折レーンだ。青い矢印の信号が出て、右折を始めるとする。先頭の車は、もうすでに交差点内に進入しているのだから、大して速度は出ていない。一方で後方の車は、意識していなければ、かなりの速度になっている。それと同じ理屈だ。先を急ごうとアセッていると、コーナーの進入にばかり気を取られて、減速ポイントを見失ったり、万が一の不測の事態に陥った時に、咄嗟の対応ができないものだ)。
右に曲がったファースト・ターンへのアプローチにかかる頃には、ほぼここのコースでの最高速まで達していた。時速で言うと320キロほどだ。
『クソッ!』
俺の周りには、他のライバルたちのクルマがひしめいていた。マシンのノーズを突っ込む隙間さえない。
一瞬、ミラーやメーターに眼を走らせる。自分の置かれている状況を把握するため、五感のすべてを使って情報を集める。
『いまだ!』
赤いテール・ランプが点灯する。前方の集団が一斉に減速を始めたのを見て取った俺は、すかさずブレーキングに移る。
単独で走っているわけではないのだから、レースでは臨機応変な対応が必要となる。
『!!!』
強烈なブレーキングと、急激なシフト・ダウン。
後方に引っ張られていた内臓が、今度は前方へと移動するかのようだ。
『ここだ!』
俺はほとんど最後尾から、周りのマシンの動きを探った。
前の集団は、牽制しあい、勢いあまってアウト側にはらみ、イン側に一台分のスペースができた。そこに自分のマシンの鼻先を、ねじ込んだ。
『よし!』
コーナーに侵入した俺は、探るように微妙なアクセル・ワークを繰り返す。
千数百馬力を誇るパワーは、ほんのわずかなアクセルの踏み過ぎにも敏感に反応し、マシンをコースの外に押しやろうとするからだ。しかし…
『?』
現在のレーシング・タイヤは、ここ数年の急激な馬力向上に遅れを取っており、役不足な感は否めなかった。だがそれ以上に、新型マシンの初期問題点の対処に追われ、ここのコースでの「満タン・テスト」を十分に行っている時間が無かったことが致命的だった。
グリッド後方からのスタートということもあって、給油のためのピット・ストップ回数を減らす、イチかバチかの作戦に出た俺のマシンは、ドラム缶一本分の燃料を抱えているようなものだ。コーナー進入初期の段階から、重たげな横滑りを始める。
『マシンの挙動がつかめない!』
フワフワと、つかみどころの無いスライドを始めたマシンに狼狽した、その時だった。
何の前触れも無く、マシンの外側がガクンと下がる。腹がこすれた火花が飛び散り、左回りに視界が渦巻く。あて舵を当てるヒマも無い。急激に理性を失ったマシンに、俺は成す術も無かった。
『…』
すべての動きがユックリと流れていく中、俺はこんな事を思い出していた。
「この世界に向いていない奴がいるとしたら、『危ない!』と思った瞬間に、目をつぶってしまう人間だ」
そんな話を聞いたのは、いつ・どこでの事だったろう?
そうたしか、「ボクサーは、相手のパンチで目をつぶらないよう、ピンポン球を投げつけられる訓練をする」といったトレーニング法から派生した話だった。
「目をつぶってしまうということは、その後の対処をすべて放棄するということだから、ケガをする確率も高くなる」
別の場所で知り合ったバイク・レーサーから、そんな話を聞かされた事もあった。
『少なくとも、俺には適正がある』
そのとき俺は、そう思っていたはずだ。
そして、とあるハードボイルド俳優が、劇中、拳銃発射のたびに「まばたき」するのを思い出し…『コイツ、本当は当たらないだろうな』と、想像していた事も思い返していた。
『?』
後ろ向きになったまま滑って行くマシンの中で、本能的にステアリング操作をするが、車体下面が路面に着いてしまった状態では、まったく言う事を聞かない。
そのうち、後方に衝撃を感じる。外側を走っていたマシンと接触したのだろう。急激に速度が落ちていく。こうなったからには、後は運を天にまかせるしかないのだが…右の視界の隅に見えるマシンの左後部に、右前輪を引っかけた後続のマシンが飛びあがり、先端をまっすぐこちらに向けて飛んで来る。
『!』
あの時の俺の記憶は、そこまでだ。