第5章:少女との再会
(光志郎は出席日数足りるのか……?)
予備校の帰り道。和哉はそんなことを思いながら、ひとりで夜道を歩いていた。
昼間に光志郎から釘を刺し直されたのもあって、さすがに今夜はどこに寄ることもなく、バス停から自宅までの道を歩いている。
(今日なんて、昼休みに一瞬現れただけだから、結局欠席扱いだし)
夜のとばりが降りた住宅街は、まれに野良猫を見かける程度で、人通りはなく静まりかえっていた。
(いつもサボってばっかり。テストだって点数が良くないし)
今、和哉の関心は、光志郎の出席日数にあった。
知り合ってからこの方、遅刻や早退は数知れず。丸1日こない日もまれにある。
このままでは、卒業はおろか、3年生へと進級できないのではないか?
(あれ?)
そこまで考えたところで、何かが心に引っかかった。
(何か、おかしくないか?)
和哉の胸に、正体不明の気持ち悪さがこみ上げてくる。
違和感がある。でも、それが何なのかが分からない。
「……」
和哉は思考に集中するために足を止めた。そうしないと、掴みかけた違和感をこぼしてしまいそうで。
(あんなにサボってばっかりで、どうして2年せ……)
原因を掴んだ、と思った瞬間。
グルル、という獣の低い声が聞こえてきた。
「え?」
和哉の視線の先。
宵闇からにじみ出すようにして、墨で描かれた巨大な犬のような「何か」が現れた。
獣のにおいを漂わせながら威嚇のうなり声をあげるそれは、一昨日の夜にも見た、あの化け物と同じ姿だった。
(アレは、夢じゃなかったのかよ!?)
まぼろしだと思い込もうにも、やたらにリアルな声とにおいが邪魔をする。
(これは、さすがに、まずくないか……?)
目をこらしてよく見れば、その化け物の口もとには、べったりと血がついていた。
『最近、野犬とかの変死が相次いでるって噂を聞いたんだよ』
光志郎の言葉が脳裏を過る。
(まさか、その噂の犯人がこいつ!?)
こいつは危険だと、このままでは殺されかねないと、すぐにでも逃げなければいけないと、本能が警鐘を鳴らしている。
だからといって、背を向けて逃げ出すのは愚の骨頂。相手の方が身体能力が優れているのは、あの夜に見た光景で理解している。
(どうすれば……)
和哉の背筋に冷たい汗が流れる。
和哉は視線を逸らさずに一歩下がってみるが、獣もまた一歩こちらに踏み出してきた。
逃げられない。万事休すか、と思ったその時。
「和哉くん!」
突如、背後から名前を呼ばれた。しかも、聞き覚えのない少女の声で。
和哉が反射的に振り返ろうとすると、視界の端を青い燐光がかすめた。
「頭下げて!」
鋭い声でそう言われ、思わず従ってしまう。
和哉が尻餅をつく形で頭を下げた直後。和哉の旋毛をかすめるようにして、背後から「冷たい何か」が通り過ぎた。
その「冷たい何か」は、和哉に飛びかかろうとしていた化け物を打ち抜き、頭部から徐々に凍り付かせていく。
ややあって、氷像と化した化け物がバンと音を立ててはじけ飛んだ。
幾つもの氷の破片が、きらきらと輝きながら、夜の闇にとけていく。
「……」
和哉はゆっくりと頭を巡らせて、声がした方向へと振り返る。
長い髪が印象的な、セーラー服姿の少女が、そこにいた。
腰まで伸ばされた、濡れ羽色の髪。理知的な光を宿した鳶色の瞳。目鼻立ちがしっかりした、気品のある顔立ちの少女。華奢な身体に、セーラー服をまとっている。
(青い燐光、氷の破片、そして、この子)
初めて化け物を見た夜の光景が、和哉の脳内で瞬時に蘇った。
「幻じゃなかったんだ……」
呆然と和哉が呟くと、少女は長いまつげに彩られた目を伏せた。
「見なかったことにして」
よく通る、澄んだ声。そこには、明確な拒絶の意志が含まれていた。
「ちょ、ちょっと待って! そもそも、僕には何がなんだか……」
今、何が起きた? 君は誰? 何で僕の名前を知っているの? どうしてここに? そもそもこの間、屋根の上で何をしていたの?
聞きたいことは山ほどある。けれど、少女は視線すら合わせてくれない。
「全部忘れてしまいなさい。それは、悪いことじゃないから」
何が起きているのか分からない。何を言わんとしているのかも分からない。
ただひとつだけハッキリしているのは、和哉の問いに対して、彼女が何ひとつ答えるつもりがないということ。
「でも!」
「これ以上踏み込んだら、戻れなくなるわよ」
ヒヤリと冷たい空気が和哉の頬をなでる。あの夜と同じように。
(この子のせいで、この辺の気温が下がってる……?)
この冷たさは自然のものじゃない。きっと、目の前の少女がそうさせている。
理由も理屈もなく、ただ直感的に和哉はそう思った。
「あなたは、何も見てない、気づいてない。
今日も、いつもと何も変わらなかった。
学校から予備校に直行して、寄り道もせずに家に帰って休んだ。
そういうことにしておきなさい」
手を伸ばせば届く距離。でも、腕を掴んで引き留めたところで、彼女は何も教えてはくれないのだろう。
「たちの悪い夢を見た、そう思っておきなさい」
「……それならせめて、これだけは言わせて」
少女は踵を返して、この場から去ろうとしている。
凜としたその背中に向かって、和哉は声をかけた。
「何かしら?」
和哉に背を向けたままで、それでも、少女は足を止めてくれた。
(これだけは、絶対に言っておかなきゃ)
和哉にとって分からないことだらけでも、ひとつだけ気づいたことがあった。
「君は僕のことを守ろうとしてくれたよね?」
彼女がこちらを見ていないことを分かっていても、それでも和哉は頭を下げる。
「どうして親切にしてくれるのかは分からないけど、君のおかげで命拾いした。
―――ありがとう。感謝してる」
少なくとも、和哉に襲いかかろうとしていた化け物を消してくれた。
多分、何ひとつ教えてくれないのも、和哉のことを慮ってのことなのだろう。
だから、踏み込むことは許されないのだとしても、せめてお礼くらいは言っておきたかった。
「私がこんなことを言うのもなんだけど……あなた、ちょっとくらいは他人を疑った方がいいわよ?」
彼女は和哉の方へと振り返ると、手厳しい言葉を投げてきた。
ただ、その顔には困ったような笑みが浮かんでいて、張り詰めていた空気がいくらか和らいだ気がした。
「肝に銘じておくよ」
和哉がそう答えると、彼女は今度こそ夜の街へ去っていった。
「……僕の行動パターンを把握してる人間なんて、そう多くないはずなんだけどな」
彼女の背を見送った後、和哉は誰に聞かせるでもなくそう呟いたのだった。