第二章 誓いの継承(2)
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どこかでロン(クロウタドリ)が鳴いている。
アゲイトは声の主を探して首をめぐらせたが、姿は見えなかった。うすい乳白色の霧に、木々の紫の影が映っている。息子の仕草に気づいたフェルテジルは、足を止めて哂った。
「もう少しだ。足下に気をつけろよ」
アゲイトはうなずき、背中の荷を負いなおした。
風が葦の葉をゆらし、浅い水面にさざ波をたてた。水草におおわれた湿原のところどころに細い木の枝が刺さっている。人が歩いて通れる場所を示しているのだ。フェルテジルは慎重にそこをたどり、腐ったり折れたりした目印をみつけると新しい枝に刺しかえた。アゲイトは父を手伝った。
ふと少年は面をあげ、ぎくりとして立ち止まった。霧のなかに人影をみつけたのだ。剣の柄に片手をそえて眼を凝らし、妙なことに気づく。影が全く動かない。
恐る恐る近づいてみると、それは若い男のほぼ等身大の立像だった。白雲石とおぼしき灰白色の岩で、外衣の襞も上衣の襟の刺繍も、本物とみまごうほど精巧に彫られている。短い髪は風をうけて横へなびき、口髭にかこまれた唇はわずかに開いている。今にも声が聞こえそうだ。長い年月ここに建っているのか、頬はひびわれ長靴は苔むし、左腕は肘のところで折れてなくなっていた。
「親父」
アゲイトが小声で呼ぶと、先を歩いていた父は引き返してきた。目を眇めて像を眺め、こともなげに答える。
「水竜に石にされた北方民の男だ。許可なく湿地に入ると、こういう目に遭う」
「えっ?」
「ほかにもいるぞ。それ」
フェルテジルは杖を振った。そちらを見遣り、アゲイトは息を呑んだ。
霧が風に流れ、葦の間に、ぽつり、ぽつりとたたずむ石像が現われた。湿地に迷いこんだ先住民の商人、鎖帷子を着た戦士、驢馬に鹿に山岳天竺鼠、四枚のうすい翅を背に生やした大気の妖精らしき者も――生前の姿そのままに、灰色や褐色や縞模様の石像と化している。今にも動きだしそうな彼らを観ていると、時が止まった空間に迷いこんだように思われた。
一体ずつ像を眺めていたアゲイトは、あるフォルクメレの男に目をとめた。波うつ髪を首の後ろでまとめ、貂の毛皮の外衣を羽織り、長剣を佩いた立派ないでたちの中年の男性だ。眼と口を大きくあけた端正な顔は、どこか見覚えがある。
フェルテジルが、ほうと口髭をゆらして息を吐いた。
「『大公の岩』、先代のアイホルム公だ」
アゲイトはふりむき、父の横顔を凝視した。
「アイホルム公? じゃあ、クルトの、」
「祖父君だ……。アルトリクスを追ってこの地に入り、水竜の怒りに触れた」
フェルテジルは樫の杖を足元に刺し、それにもたれて続けた。
「北方民のなかには、われわれが地下に財宝を隠していると思いこんでいる者がいる。或いは、聖地のどこかに〈黄金郷〉か〈約束の国〉へ通ずる道があるとな……。欲にとらわれたアイホルム公は、隣国を攻めるだけでは飽き足らず、アルトリクスを追って来た。シルヴィア(水竜の名)は、禁を犯した偽大公を許さなかった」
アゲイトは、父と石像を交互にみやった。『偽大公』、『嘘つき王』――盟約をやぶって近隣諸国を侵略した前大公に、領民たちがつけた渾名だ。クルトとティアナ女大公は、十年前に行方不明になった彼がこんなところで石になっていると知っているのだろうか。そして、クルトとクレアの父アルトリクス――先代の大公に追放された彼が、水竜のすみかへ戻って来たのは偶然だろうか。
息子が考えこんでいるさまをみて、フェルテジルは微笑んだ。
「怒らせると慄ろしいが、シルヴィアは情のふかい、いい女だ。大丈夫、お前はきっと気に入られるよ」
「う、うん」
父の言葉はアゲイトの思考の筋からは外れていたが、安心させようとする意図は察せられた。少年はうなずき、杖の先で水の深さをさぐりつつ先へ進んだ。(……竜は女なのか)と気づいたのは、時間が経ってからだ。
石像のならぶ一帯を抜けるころには、陽は高くのぼり、霧はほとんど消えかけていた。一方、目印の枝はめっきり減り、二人は道を探すのに苦労するようになった。アゲイトの足が深みにはまり、父の手で助けだされたのは一度ではない。葦の根元に死んだ狼の骨をみつけ、少年の背筋が冷たくなった。
岸を遠くはなれ森は青くかすみ、おのれの居場所は判らない。湿地の端にいるのか、中心なのか。アゲイトの不安は高まったが、フェルテジルは毅然と顔をあげ、背をのばして進んだ。
ピシャン、と水が跳ねた。
鳥の声はなく風もゆるんだ静かな湿原に、水音は高く響いた。フェルテジルは足を止め、アゲイトも立ち止まった。息を殺して耳をすませる父子のまえで、今度は葦の葉をゆらして水中を影が過ぎった。
フェルテジルは音をたてずに長い息を吐き、囁いた。
「来たぞ」
アゲイトは緊張して辺りをみまわし、父の視線の先を目で追いかけた。水草の間でなにかが動いている。ふくらはぎが浸かる程度の深さの水底から、真珠色の鱗をまとった竜体が音もなく浮上してきた。
(でかい)
アゲイトはおおきく目を瞠り、ごくりと唾を飲んだ。一枚一枚の鱗が少年の顔ほどある。浅い水の中にいるとは、とても思えない大きさだ。ひとかかえもある丸太のごとき胴に、透き通った背びれが並び、魚のような尾へと続いている。陽光を反射して虹色にきらめきながら少年の足下をくぐり、葦原へと消えていく。その先に、長髪をなびかせた女の背が見えた。
「本体は別のところにいる。われわれを迎えに来てくれたのだ」
父の声にふくまれる憧憬をききとり、少年は戸惑った。アゲイトの母は彼を産んで間もなく亡くなり、父は独身をとおしている。鉄つくりに関わる男は女性をしりぞける習わしなので、そういうものだと思っていたが……いい女だという言葉がにわかに艶をおび、少年の鼓動を速くした。
次の瞬間、アゲイトは息を呑んだ。
竜が、水中から彼を凝視めていた。五ヤール(約四、五メートル)はある巨大な女の貌は死人のごとき蒼白で、冷酷なほど整っている。切れ長の双眸に嵌めこまれた瞳は紫水晶、頬にかかる髪と睫毛は雪のような白銀で、先のとがった耳朶の上には雄羊の巻き角が生えていた。
アゲイトは石にされた気分だった。女の表情は硬く、感情はうかがえない。水面ごしにこちらを見上げる紫の瞳は底なしの闇に通じ、少年の魂をとらえて離さない。そろそろと後退りしかけた彼の背を、父の掌が止めた。
「親父」
「地母神と天空神が別れた頃から存在する竜だ。神々のことはもちろん、われらのことも、ウリン・ロッホについても識っている」
フェルテジルは息子の背をおして促した。
「代々の王と親方が逢ってきた。アルトリクスと私もだ。行け」
「うん……」
ぎこちなくうなずく少年の足下から、そのとき二本の白い腕が突き出した。アゲイトの身長より高く、高く、白樺のごとく伸びあがり、先端で爪がきらめく。ひるむアゲイトの肩をがしっとつかむと、爪がくいこむ痛みに少年が顔をしかめるのも構わず、力任せに引き寄せた。
「わあっ!」
勢いよく水に倒れこんだはずだが、水しぶきは上がらず、音も殆どしなかった。腕と少年は消え、後には円い波紋のみが残された。
フェルテジルは暗い水底をのぞきこみ、満足げに呟いた。
「頼んだぞ、シルヴィア。……われらのアゲイトリクスを(注*)」
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(注*)ネルダエの王には「~リクス(~rix)」という名がつきます。