第二章 誓いの継承(1)
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大陸には、地母神ネイを奉じる民が暮らしている。
浅黒い肌に黒曜石のごとき瞳と髪をもつ人々は、自分たちを〈母なる大地の民〉ネルダエと呼んでいた。山と森や、広々とした草原や、海に面した平野に、部族ごとに別れて棲み、それぞれ王(部族長)をいただいていた。生業と細かな習慣の違いから衝突をくりかえしたのち、上王を立てて同盟を結んだ。
約四百年前、冬でも凍らない港を求めて南下してきた北の民が上陸し、この地の平和は破られた。〈湖のウリン〉のように抵抗した部族は戦いに敗れると散り散りになり、他部族や征服者たちに吸収された。上王が斃された後、ネルダエの諸部族が一致団結して抵抗することはなかった。北方からの来訪者〈フォルクメレ〉は、戦で功績のあった五人の貴族が大公となって国を建て、〈五公国〉を称した。領地や資源をめぐる争いはあったが、最終的に聖王を擁立してひとつの国となった。先住民のうち彼らと和睦した部族は自治を許され、事実上、ふたつの民族が同じ土地に国を建てている。
人と異なるすがたをもつ生きもの――山岳天竺鼠や鷲や海豹、竜や水馬や妖精たち――は、昔から先住民に魂を与えてもらう代わりに彼らを援助する契約を結んでいたが、征服民とも同様の契約を結び、戦うことなく彼らを受け入れた。
数百年が過ぎ、幾度か戦乱はあったものの、二つの民族は交じり合い、言葉も、人の血と信仰も雑ざっていった。
話は、数日さかのぼる。
フォルクメレとの共存をえらんだネルダエ部族のひとつ、〈鉄の民〉ラダトィイは、アイホルム大公領内に集落をつくっている。製鉄をなりわいとし、良質の鋼をつくる技術はネルダエだけでなく〈五公国〉でも一目置かれている。部族長の息子アゲイトは、アイホルム次期大公クルトの従兄であり、今年も大公領の収穫祭に参加するつもりでいた。
「アゲイト。親父どのがお呼びだ」
倉庫の前に鍋や刃物をならべて市に持っていく物を選んでいた少年は、部族の男に声をかけられた。首をかしげると、雑に切った前髪が右目にかかる。
「親方が?」
「早く行けよ」
男はくいと顎を振り、自分の仕事に戻っていった。アゲイトは迷った。〈マオールブルク〉へ出かけることは前もって報告している。休みも貰っているが、親方の命令は絶対だ。
アゲイトは道具えらびを中断し、高殿へ向かった。
ラダトィイ族の集落はアイホルム大公領の西端、〈中央山脈〉にある。カロン(曲がり流れる)川の上流、深い緑の森に囲まれた谷のなかだ。鋼を鋳造する炉をすえた高殿が丘の上にあり、そのまわりにむらびとの家が集まっている。ネルダエの家は、土を四角く掘って入り口と屋根を支える柱を立て、木の枝と土を重ねた屋根に草を植えた半地下式の住居だ。入り口は狭いが中は広く、藺草や毛皮を敷き、夏は涼しく冬は暖かい。家族ごとに住む家とは別に、むらの共同の炊事場や食糧庫、できた鋼を冷やす水場、鉧(注*)を分割するどう場、鉄を加工する鍛冶場がある。
アゲイトの父は王であり、製鉄業を仕切る親方だ。炉を沸かしはじめる(製鉄をおこなう)と三日三晩は現場をはなれられない父が、息子を呼びだすのは珍しかった。
アゲイトは、建物の東南――炭焼きや見習いの職人がつかう入り口から、中へ入った。
高殿は、縦横十ヤール(約九メートル)、屋根の高さ十五ヤール(約十四メートル)もある巨大な建物だ。壁は石と土を重ねてつくられ、樫の板と葦で葺いた屋根をひとかかえもある四本の木の柱で支えている。中心に鉄を熔かす炉があり、地下には排水溝と炉床を乾燥させる仕組みがある。屋根の頂上に天窓があり、炉の熱を外へ逃がせるようになっていた。
明け方 鉧を運び出した高殿には、まだ熱がこもっていた。下手の壁際で、夜通し鞴を踏んでいた番子たちが疲れ果てて横たわっている。上手の親方の座に長老たちが腰をおろし、父とともにアゲイトを待っていた。
アゲイトは炉を迂回して近づき、父の前に片膝をついた。
「お呼びですか、親方」
アゲイトの父フェルテジル(「資格を与えられた者」の意)は、引き締まった体をもつ剽悍な男だ。齢は三十歳になったばかりだが、落ち着いた風貌と鋭い眼光は、野生の狼を思わせる。かたい黒髪を首の後ろでひとつにまとめ、黄金のねじり頸環をはめた父は、岩から削りだしたような頬にひと仕事終えた疲労と満足をたたえ、息子を見下ろした。
「アイホルム大公家の収穫祭へ行くのだな。アゲイト」
「はい」
「悪いが、日延べしてくれないか。湿地へ行かなければならなくなった」
アゲイトははっと息を呑んで顔をあげ、父を凝視めた。長老たちはしんと黙りこんでいる。
ネルダエは長子相続だ。フェルテジルは、ほんらい王を襲ぐ者ではなかった。兄のアルトリクスがアイホルム大公の公女セルマと結婚して部族を去ったために、彼が王となって親方を襲いだのだ。
鋼つくりは過酷な労働だ。炉にあけた穴から熔けた鉄の色をみて作業工程を決める親方は、炎の熱によって片目の視力をうしなうさだめにある。ネイ神は五体満足な者しか王として認めないので、完全に失明する前に次の王をたてなければならない。アゲイトはフェルテジルの一人息子であり、次の王に定められていた。
アゲイトは膝の上で拳を握り、父の左右の瞳をみくらべた。傍目には分からないが、奥で変化が始まっているのだろうか。わずかに声の底がふるえた。
「早いのではありませんか? 父上」
フェルテジルは、己の人生を受け入れた者が浮かべる穏やかな微笑みとともに応えた。
「まだ仕事は続けられるが、お前の修業をはじめる前に、挨拶に行く。一緒に来なさい」
アゲイトは、(あとでクレアに謝らないといけないな)と思いながら頭をさげた。
*
ネルダエの王は地母神の、親方は水竜の庇護下にある。代替わりの報告はどちらにも行わなければならない。竜の聖地へは許された者しか立ち入れない決まりだ。
アゲイトとフェルテジルは、数人の長老たちとともに村を発ち、カロン川沿いの道を進んだ。三日分の水と食糧を積んだ驢馬をつれている。森の木々は蝋燭の炎のように縁から紅く色づき、ナナカマドの枝には赤い実が、羊歯の葉の上では黄金の木漏れ日がたわむれはじめていた。
カロン川は〈中央山脈〉を南から北へ、その名の通り曲がりくねって流れている。ラダトィイ族の集落の北にそびえるモールラー(大きな尾根)を迂回すると、川幅はひろがり湿原へと姿をかえる。杜松とハリエニシダの灌木が茂り、つめたい霧が立ちこめる湿地は、ネルダエの聖地のひとつだ。朽ちかけた湖上家屋の柱と桟橋と、やぶれた革舟が置き去りにされた岸辺に到着すると、彼らは火を熾し天幕をはって一夜を過ごした。
アゲイトが湿地を訪れるのは二度目だ。前回は先代の王、彼の祖父の葬儀だった。しかし、幼かったので詳細は憶えていない。翌朝、古い記憶のごとき灰色の霧におおわれた水面を、少年は眺めた。
「祖父さまが渡った島は、向こうだ」
フェルテジルが朝食の干し肉をかじりながら日焼けした腕をのばし、南西を指した。口髭の端をもちあげ、微かに笑う。
「歴代の王たちが暮らしている。私も、いずれ赴く。だが、今行くのはそちらではない」
そういうと、フェルテジルは荷を小さくまとめ、革の長靴の紐を締めて立ち上がった。愛用の緑の格子縞の毛織の外衣を羽織り、太い樫の杖を手にする。革舟を使うと思っていたアゲイトは、瞬きをした。
「歩くのですか?」
「道がある。私の通ったあとをついて来い」
少年は、母方の伯父のさしだすトネリコの杖を手にとった。
「気をつけて行けよ」
「ここで待っているからな」
大叔父(祖父の弟)にも励まされ、アゲイトは浅瀬に足を踏みいれた。葦と水草が重なる湿地は、踏むと泥まじりの暗い水がせり上がって靴底を浸したが、それ以上しずむことはなかった。陽が昇ったばかりの北東の尾根を目指し、父子は霧のなかへ入っていった。
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(注*)鉧: 砂鉄からつくられる海綿状の粗鋼。良質の鋼だけでなく不均質な鋼や銑鉄、木炭、鉄滓などを含んでいるため、分割して加熱・鍛錬して不純物を除き、道具に加工されます。