第一章 犠牲の子(5)
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振り返りざま身構えようとしたライアンは、お茶をこぼしかけて狼狽えた。むせる彼の足下で、たしなめる女性の声がした。
「もう、父さんったら。びっくりしているじゃない」
「何を言っとる。わしは挨拶をしただけじゃ」
「大丈夫ですか、グレイヴ卿。驚かせてごめんなさい」
ティアナに気遣われ、ライアンは口元をぬぐって坐りなおした。普段ほそい眼をこぼれ落ちんばかりに見開くと、ティアナの影に溶けるように佇む二匹がみえた。
まるい頭とまるい体は、もこもこした茶色い毛に包まれている。耳もまるく短く、つぶらな瞳は真っ黒だ。後脚で立つと背丈は人の幼児くらいで、小さな手を胸の前で組み合わせている姿には、なんとも言えない愛嬌があった。
ライアンはごくりと唾を飲み、掠れた声でささやいた。
「マ、マオール……ですか」
「おうよ。久しぶりじゃな、〈鷲の子〉。わしを忘れたか? どうせ、ティアナに見惚れておったんじゃろう。大仰に驚きおって」
「忘れたも何も、うちら、初対面でしょ。父さん」
「そうだったか? わしはよく知っておるんじゃがの」
先住民が〈山の民〉と呼ぶ山岳天竺鼠は、〈聖なる炎の岳〉と〈三姉妹の岳〉を含む〈曙山脈〉に生息する野鼠の一種だ。地下に迷路のような巣を造って暮らし、時折地上に現われては人のように立って日光浴をする(注*)。アイホルム大公家の守護獣であり、戦さの時は領民を彼らの住まいにかくまった。故に、この地の人々は彼らを狩らず、大切に保護している。
ティアナと二人きりだと思いこんでいたライアンは、見惚れていたという指摘に顔から火の出る心地がしたが、ティアナは冷静だった。
「初対面ですよ、ジョッソ。グレイヴ卿、ご紹介しますわ。〈山の民〉の長ジョッソと、娘のグウィンです。私にとっては家族のような存在です」
「……はあ」
「よろしくね、鷲のお兄さん」
よく観ると、ジョッソの毛皮は黒っぽくところどころ擦れて年齢を感じさせ、娘のグウィンは小柄で全体的に白っぽかった。グウィンの声が悪戯めいて聞こえたのは、笑っているかららしい。ジョッソはひくひく髭を揺らした。
「いい加減に呆けるのはよせ、〈鷲の子〉。おのれとて〈とりかえ子〉の片割れであろうが。ティアナはわしらにとって娘も同然ゆえ、相談にのっているのじゃ」
「〈影の王〉の件ですか」
ライアンが真顔に戻って訊ねると、ティアナは頷いた。ライアンは居ずまいを正し、冷めたお茶を口に運んだ。
ティアナは自分の茶器を両手でもち、長いまつ毛を伏せた。
「ウリンの最後の王ヴェルトリクスが〈影の王〉の前身です。クルトを地母神に捧げるというかの者の動機が、アイホルム一族への恨みなら……子孫が絶えるまでこの復讐は続くのでしょう。クルトだけでなく、クレアも危険です」
「わしらとて、ただでは済まぬ」
ジョッソが重々しく首を振った。表情は読みにくいが、先ほどより真剣な眼差しをライアンに向けている。
「〈闇の魔物〉とエウィン(ティアナの母)が戦を起こしたときは、人同士の問題だった。〈影の王〉はおのが立場を超え、地母神を巻きこもうとしている。認めるわけにはゆかぬ」
「グレイヴ卿。お願いしたいことがあります」
ティアナが抑えた声できりだし、ライアンは背筋をのばした。
「何ですか? 改まって」
「クルトを貴方の小姓にして頂きたいのです」
ライアンは、一瞬、何を言われたのか分からなかった。ティアナは思いつめた様子で続けた。
「騎士にして欲しいのです。ご指導下さいませんか?」
「はい。しかし……よいのですか?」
「私は、あの子を囲いすぎてしまいました」
ティアナは悲し気に眼を伏せた。
「怪我や病気を惧れるあまり行動を制限してきたことを反省しているのです。クルトには、もっといろいろな経験をさせるべきでした。同年代の子ども達とハーリング(フィールドホッケーに似た球技)や木登り、乗馬、鷹狩りなどを」
「…………」
「それが出来ていれば、〈影の王〉に捕らわれなかったかもしれません。なにより、クルトは私の顔色を窺うようになってしまいました。私が心配してはいないか、『駄目』と言いはしないかと」
「ティアナ様――御名を呼ぶおゆるしを。貴女はよくやっておられます。あの子達の母親として」
ライアンは、己を責める彼女の言葉をさえぎった。しかし、ティアナは静かにかぶりを振った。
「クルトに必要なのは、父親です」
ライアンは口を開け、閉じ、彼女の白い顔をみつめた。
「叱ったり冗談を言いあったり、遠慮なく相手をしてくれる大人の男性。尊敬できる同性の先輩が、クルトには必要なのです。私やウォードでは、その役目は果たせません。……グレイヴ卿、あの子に乗馬や鷹狩りを教えてやって下さい。剣と弓を。次に〈影の王〉とまみえたときには、戦えるように」
(クルト。叔母上は、ちゃんとお前の将来を考えて下さっている。お前の両親を虐げた祖母君(エウィン)より、はるかに賢明だ)――乗馬を習いたいと言っていた少年を胸のなかで祝福しつつ、ライアンは慎重に問い返した。
「よろしいのですか、本当に」
「三年間、城にとじこめておくわけにはいきません。それでは、あの子を守れない」
ライアンは頷き、深くこうべを垂れた。
「承りました。お預かりします。……こちらへ伺う際は、必ず連れて参りますよ」
ライアンが付け加えると、ティアナはほっと微笑んだ。
「よろしくお願いします、グレイヴ卿」
二人の話がひとだんらくついたところで、マオールの父娘が動いた。壁際の長櫃の陰から布におおわれた板のような物を引き出す。よほど重いらしく、途中まで引きずったところで諦めて布をほどいた。鋼鉄の盾が弱い蝋燭の明かりを反射してにぶい光を放つ。
ライアンは眼を瞠り、掠れた声をあげた。
「アルトリクスの盾ではありませんか!」
円とも雫型とも異なる独特の長楕円の中央には、太陽をかたどった盛り上げ飾りがある。金銀の象嵌の曲線が絡みながら周りを囲み、向かい合う竜の姿を描きだしている。琥珀、縞瑪瑙、黄玉に緑柱石といった飾りがきらめく。――クルトとクレアの父・アルトリクスが使っていた盾を目にして、ライアンの胸に懐かしさがこみ上げた。
ティアナはおもむろに頷いた。
「アルトリクスが魔物の矢からセルマを護るために鍛えた、ラティエ鋼の盾です。預かっていました」
「持ってみてよろしいか?」
ライアンはごくりと唾を飲んだ。許可を得て手を伸ばす彼に、ジョッソが注意を促す。
「竜の鱗を鋳熔かした鋼じゃ。魔力をおびておる故、気をつけろ。重いぞ」
『大人の男が三人でやっと持ち上げられる』と称えられた魔法の盾のことを、知らぬライアンではない。成長した自分ならと考えたが、盾は絨毯に貼りついたように動かなかった。ライアンは歯を食いしばり、肩から上腕、胸にかけての筋肉を膨らませ、縁をわずかに動かしたが、長くもちこたえることは出来なかった。
「ふう!……何という重さだ。アルトリクスは片手で使っていたのに」
ライアンは尻もちをついて坐りこみ、手の甲で額の汗をぬぐった。自嘲気味に息を吐く彼を、グウィンがなだめる。
「アルトリクスにしか使えない魔法がかかっているからよ。腕力は関係ないわ」
ティアナがしなやかな手を伸ばして、盾の盛り上げ飾りを撫でた。
「セルマの鎖帷子が彼女を護る魔法によって編まれていたように……あれは、セルマの生命が尽きると錆びてしまいました。ラティエ鋼とは、そういうものです」
「待って下さい。では、アルトリクスは生きている?」
行方不明の友の生存を知り、ライアンは息を呑んだ。ティアナとジョッソとグウィンは、そろって頷いた。
「ええ。しかし、この盾はもう使えません。クルトとともに預かって下さい」
「えっ、いいのですか?」
「クルトが成長したら相応しい武器に打ちなおすようにと、アルトリクスの伝言です。本当は、彼が自分でそうしたかったのでしょうけれど」
ティアナはいちど言葉を切り、盾の面を眺めた。
「祭りにアゲイトが来てくれたら、託すつもりでした。急用ができたようですね」
「分かりました。こちらもお預かりします」
ライアンが右手の拳を左胸にあてて頷くと、ティアナは頬をゆるめた。
「すみません、面倒なことばかりお願いして」
「どうか謝らないでください。命じて下さればよいのですよ」
ライアンは髯におおわれた顔をくしゃっと歪めて笑ったが、(三人どころか、五人連れてこないとこの盾は運べないな)と考えていた。アゲイトは鍛えた体をもつ少年だが、予告なしにこんな重いものを渡されたら困るだろう。〈夜の風〉号で運ぶのは難しそうだし、荷車に載せるしかないか……。と思案する彼の茶器に、ティアナは香草茶を淹れなおした。
「実はもうひとつ、お願いしたいことがあります。グレイヴ卿」
「どうぞ、なんなりと」
「クレアを娶っていただけませんか?」
「はあっ?」
ライアンは茶器を盆にもどすことを忘れ、まじまじとティアナを凝視した。女大公は動じなかった。
「クレアを貴方の妻にしていただきたいのです」
「……どうしてそういう話になるんですか。クレアはまだ十一歳ですよ」
「もちろん、実際の結婚はあの子が大人になってからです。今は婚約して下されば」
ティアナはライアンが動揺していることには気づいたが、その理由には思い至らなかった。
「クレアはあの通り気の強い娘です。よく知らない男性とは、うまくやっていけないでしょう。しかし貴方のことは慕っています」
「『おじさま』ですよ」
ライアンはぎこちなく唇をゆがめ、額にかかる髪をかきあげた。
「言葉どおりの意味で、結婚相手と思っているわけではない。むしろ、叔父のように信頼してくれているものを、裏切ることになりかねません」
ライアンは項垂れた。今度はティアナが口を閉じる番だった。
「僭越ながら……私は、自分をアルトリクスの子ども達の親代わりと思ってきました。クルトを騎士にするのはともかく、クレアの将来にそういう立場で関わるべきではないと存じます。――いえ、無理です。どうかご寛恕ください」
ライアンは普段の快活さとはうって変わった苦い声音で語り、ひろい肩を落としていた。心なしか体も小さくなったように見える。ティアナはほっと息を吐いた。
「『無理』ですか、グレイヴ卿」
「…………」
「そうですね、貴方にもクレアにも失礼でしたね。ごめんなさい。私の配慮が足りませんでした。クレアには、ほかの相手を探しましょう」
ライアンは首を振ったが、顔をあげることはなかった。沈黙が部屋をひたした。
グウィンは隣の父の肩にふれ、注意をひいた。ジョッソは娘の意図が分からなかったが、ぐいぐい押されて仕方なく体の向きをかえた。柱の影にある小さな扉をくぐり、二人を残して部屋を出る。
ティアナは二匹の動きに気づいていたが、それ以上にライアンの様子が気になった。彼はすっかり沈んだ口調で切りだした。
「……貴女はどうするおつもりなのですか? クルトを騎士にして大公を襲がせ、クレアを結婚させて。それから」
「私は、セルマに呼ばれて戻ったのです。子ども達を育てるために。役目が終われば、彼らの許へ帰ります」
ティアナが囁き声で答えると、ライアンは面をあげた。濃い緑の瞳が、蝋燭の明かりをうけて金色にきらめく。すうっと息を吸い、ありったけの勇気をかきあつめた。
「私は――」
*
城壁の地下を通る〈山の民〉専用の道を歩きながら、ジョッソはぶつぶつ文句を言いつづけていた。
「気に入らん。まったく気に入らんぞ。あの雛鳥め、ティアナに色目を使いおって」
「マオールはマオールと、人は人と番うのが普通なんだから、しようがないわよ」
父をなだめるグウィンの声には、あたたかな理解の響きがあった。
「うちは好きよ。あのひと、いい人だもの。マオールを狩ったことないわ」
「鷲は鷲じゃ。この先どうだか、分かるものか」
「あら。ティアナと番えば、もっとうちらを守ってくれるようになるじゃない。狐や狼や、猟犬からも。分からず屋の人間と、どっちがいい?」
「どっちも気に入らん! わしは認めんぞ!」
ジョッソは鼻息あらく宣言すると四つ足に戻り、短い尾をぷりぷり振って歩き出した。グウィンは軽く息を吐き、短い首をめぐらせて来た道をかえりみた。――彼女たちはティアナを赤ん坊の頃から知っていた。セルマとアルトリクスも、幼いころのライアンも。〈山の民〉の盟友たるかれらの幸福を願ってやまない。
(うちは好きよ、ライアン。頑張ってね。)
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(注*)マオール=マーモット。日本語では山岳天竺鼠ですが、南米産のモルモット(天竺鼠、齧歯目テンジクネズミ科テンジクネズミ属)ではなく、齧歯目リス科マーモット属でリスの仲間です。体長五十センチメートル前後、体重三~七キログラム前後で、アルプスやヒマラヤなどの山岳地帯に棲み、冬期は冬眠します(半年~九か月間)。
作品中では実際より大型に描写しています。