第五章 魔犬と少年(3)
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グレイヴ伯爵は、クルト公子とレイヴン卿、アゲイトとトレナルと、数人の従者を連れて〈マオールブルク〉城に到着した。途中の森で猪を数頭しとめて来たので、城内は歓迎の声でわきたった。今回は、クルトの小姓仲間マハスを連れている。麗しい女大公と可憐な公女の出迎えをうけたマハスは、頬を紅く染めて挨拶した。
ティアナ女大公と家令のウォードは、つとめて平静に伯爵一行を迎えた。いつものように挨拶を交わし、いつものように労をねぎらい、宴の席へ案内する。新鮮な猪の肉が料理され、伯爵の好みに混合された葡萄酒が人々にふるまわれた。ライアンの二匹の猟犬も一緒だ。ブランとネルトが成長した 『チビ』 を威嚇し、『チビ』 がクレアの椅子の上に逃げる一幕もあった。
ティアナはクルトの成長を大いに喜んだ。病弱だった甥が健康になり、鷹狩りについて得意げに語るのを、眼をほそめて聴いている。ライアンに向ける眼差しには、これまで以上の親しみと感謝がこもっていた。
クレアは、久しぶりに会う弟の姿に戸惑っていた。日焼けしたクルトは、急に大人びて見えたのだ。声が少し低くなった……眼の高さと肩幅も、城をでたときとは違う。アゲイトはいっそう逞しくなり、少女は近寄りがたく感じてしまった。
食事を終えると、人々は食卓を片付け、着替えて祭りの準備をととのえた。ティアナ女大公とクレア公女は、白地に金糸で組紐模様を刺繍した揃いの胴着に身を包み、レース編みのヴェールをかぶり、蝋燭をもって城を出た。クルト公子とライアン、アゲイトとトレナルが続く。侍女頭のゲルデとウォ―ドも、マハスと他の人々も、手に手に火の点いた蝋燭や松明をかかげ、二列にならんで城門を出た。
アゲイトは水竜の盾を背負い、クルトは革紐でむすんだ鱗を胸にさげている。夕陽は雲のむこうへ隠れたものの辺りはまだ明るく、空は紫と紅の縞模様に染まっていた。
彼らは村の人々とともに、樫の木に囲まれた野原の真ん中に円を描いてならんだ。
ティアナ女大公は、積まれた薪の山の前に立ち、澄んだ声で歌った。
夏の昼が終わり、冬の夜が始まる。
リンボク(ヒイラギガシ)の木の精霊の夜、月の環がとじる。
今宵、焚火のまわりで妖精たちは踊り、星ぼしは歌う。
我らが朋友よ、兄弟姉妹よ。
蝋燭に火をともし、歌の炉辺に、いとしき者を導け。
霊界の扉がひらき、去りし人々が帰ってくる。
懐かしき日々を語り、明日の糧とするために。
…………
クレアと人々が唱和するなか、クルトとライアンが薪に火を点した。金色の炎が大きく立ちのぼって夕空を焦がすと、人々は手を叩いて歓声をあげた。広場のそこかしこで歌がはじまり、なかには踊りだす者もいる。親しい者同士が手をとり合い、家族が集まって、先祖を迎えるための火を角灯にうつしとった。
西の空を緋色に染めて夕陽が去り、群青の宵闇が森の木々をひたしはじめると、村人たちは家路についた。角灯を提げ、ティアナ女大公に挨拶をして、三三五五帰っていく。城の建つ丘の斜面をくだっていく人々の灯火が、地母神の黄金の首飾りのごとく、温かな光の列を描いた。
ライアンは、領民を見送るティアナに近づいて囁いた。
「どうかなさいましたか? 緊張しておられるようだ」
ティアナは小さく息を呑んで彼を見上げた。ライアンは赤い髭に埋もれた顔に気づかわしげな表情をうかべ、彼女を見下ろしている。ティアナは曖昧に微笑んで首を振った。
「のちほど、お話いたします……」
人々の笑いさざめく声と足音が遠ざかる。ティアナ達が城へ戻ろうとすると、夜風にのって竪琴の音が流れてきた。一同が物悲しい調べに耳をすませていると、クレアの足下にいた 『チビ』 が、ぴんと耳を立てた。
「チビ? どうしたの?」
突然、『チビ』 は唸り声をあげ、城へ向かって駆けだした。クレアが止める間はなかった。この仔犬には珍しい行動にクレアは戸惑い、後を追って走り出した。
「チビ! 待って、危ないわよ!」
「クレア!」
足下が危ないのはクレアも同じだ。クルトは姉を追い、アゲイトも駆けた。ライアンとレイヴンは顔を見合わせ、ティアナ女大公とともに城へ急いだ。
『チビ 』が駆けこんだのは内郭の東側、普段は人が立ち入らない神殿と主塔の背後だ。建物の影は闇にしずんでいるが、窓の灯火と一面に咲く白い花のおかげで、ぼんやり明るく見える。花畑にはいった 『チビ』 が急停止したので、クレアは危うく彼に躓きそうになった。
「追放者、来ていたの」
クレアはぐるぐると威嚇しつづける 『チビ』 の首を抱えて声をかけた。花園に佇んでいた盲目の吟遊詩人が振り返る。その向こうに、二人の女性が立っている。
ひとりはクレアの知らない女性だ。年齢はゲルデより少し若いくらいだろうか。栗色の髪の一部を三つ編みにして頭に巻きつけ、残りは背へ垂らしている。瞳はあざやかな翠色だ。真珠と金糸の刺繍で飾られた華麗な濃紅の胴着を着ている。顔立ちは美しく整い、鼻筋は細く、やわらかなクリーム色の肌に映える薔薇色の唇には、高雅さが感じられた。
彼女の腕を支えるようにして立つ若い女性は――クレアは思わず、後から来たティアナ叔母をかえりみた。黄金の髪は波をうってながれ、腰に届いている。憂いをおびた面差しはティアナとうりふたつで、見分けがつかない。瞳はクレアとクルトと同じ晴れた夏の空の色だ。彼女は頑丈な革製の鎧を身にまとい、細い腰に長剣を佩いていた。
二人は、どちらも全身あわい光にふちどられ、輪郭が透けてみえた。曙にみる夢のなかの幻影のようだと、クレアは思った。
チビの声が高くなり、獰猛な響きをおびる。
ティアナが、張りつめた声で呼んだ。
「セルマ。お母様」
「え? おかあさまと……おばあさま?」
クレアは眼をみひらき、ティアナと母が双子だったことを思い出した。
レイヴンとクルト、ライアン、アゲイトが到着し、この光景に愕然と立ち尽くす。
追放者は、竪琴を爪弾いていた手を止め、とまどいながら訊ねた。
「ティアナ様? ……クレア? そこにいるのか?」
「ええ、いますよ、アルトリクス。クレアとクルトです」
ティアナが答え、子ども達の肩に手をおいて自分の側に並ばせた。クレアとクルトは驚いて、叔母と両親の顔を順にながめた。何と言えばよいか分からない。
「アルトリクス? 追放者が、おとうさまなの?」
混乱するクレアに、ティアナはうなずいた。アルトリクスはうすく苦笑している。
ライアンが恭しく片方の膝を地につき、主家に対する忠誠をしめす。しかし、その表情は険しく、口調は硬かった。
「クレア、クルト、さがっていろ。……エウィン妃だ」
『大丈夫です、ライアン』
セルマが涼やかな声で話しかけ、ライアンははっと面を伏せた。セルマは、彼とティアナに説明した。
『この十年、私は母と話し合いました。もう、あの頃の憎しみは、母にはありません』
『ティアナ、アルトリクス。ワタシは、セルマを死なせるつもりなんて、なかったのよ。死ぬなんて、思っていなかった……!』
エウィン妃が口走り、クレアはびくりと肩を揺らした。ライアンは、こみあげた怒りを抑えるため、剣を握る手に力をこめた。
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