第五章 魔犬と少年(2)
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先住民の新年の祭り〈サウィン〉は、一年の終わりと始まりの節目の日だ。春から夏の『光の半年』である羊の季節が終わり、秋から冬の『闇の半年』、すなわち死の季節が始まる。狭間に当たる祭りの夜はどちらにも属さず、死者たちが霊界の扉を開けて現世に帰ってくると信じられている。その信仰を受け継いだ征服民の人々も、混血の民も、火を焚いて先祖の霊を家に迎える習慣だ。
〈マオールブルク〉城では、冬に備えて食料を蓄えていた。弱った家畜を屠り、干し肉や燻製や腸詰めにして保存する。城の前の広場では、家畜の骨と薪を積んで大篝火の準備をしながら、希望する民に焼きしめたパンと燻製肉を配っていた。
クレアはベリーと蜂蜜を入れたクッキーを大量に焼き、人々にふるまっていた。先祖の霊とともに食べるお菓子だ。城の厨房と広場を往復する少女の足下には、黒い仔犬『チビ』がつきまとっている。グレイヴ伯爵の二頭の猟犬、ブランとネルトほど大きくはないが、チビの脚は伸び鼻は尖り、すらりとした若犬に成長していた。
白い小菊の花を髪に飾り、鼻歌を歌いながら焼き菓子を運ぶ公女に、門番の老兵が声をかける。
「ご機嫌ですね、クレア姫さま」
「クルトが帰ってくるのよ。ライアンおじさまと、アゲイトも来てくれるって」
「そりゃあ、楽しみですな」
老兵は灰色の眉尻を下げて微笑んだ。クレアは自分で刺繍をほどこした橙色の胴着の裾をひるがえし、くすくす笑った。
昨夜、山岳天竺鼠のジョッソとグウィンが、ティアナとクレアのところに、冬眠前の挨拶に来た。これから約半年の間、彼らは〈聖なる炎の岳〉の地下の住居で眠って過ごす。ふかふかの毛に包まれた友達に会えなくなるのは寂しいが、春には赤ちゃん達を連れて来てくれると聞いて、クレアは楽しみに待つことにした。
ライアンとアゲイトに会うのは久しぶりだ。クルトは上手く乗馬できるようになっただろうか。三人とも、しばらく城に滞在してくれるなら、話したいことが沢山ある。――クレアの小さな胸は、期待でいっぱいだった。
城の人々が忙しく立ち働いている昼下がり、ティアナ女大公は菜園にいた。今夜の料理につかう蕪と西洋ネギとローズマリーを収穫し、レモンバームの種を蒔く。下男が届けてくれた広間の床に敷く樅の緑枝をたしかめていると、家令のウォードがそっと近づいて声をかけた。
「御方さま。…………」
小声で報告を聞いたティアナは、真顔になってウォードを見詰めた。収穫した野菜と樅の枝の束を侍女頭のゲルデに任せ、オリーブ色の胴着の裾をからげて歩き出す。ウォードが後に従う。二人は周囲の人の気配をうかがいつつ城の本丸を迂回し、主塔の影、城壁との間にある花畑へ向かった。
〈マオールブルク〉城でもっとも〈聖なる炎の岳〉に近いこの場所には、二人の人物の墓がある。ティアナの母エウィン大公妃と、双子の姉セルマだ。――セルマが主塔から突き落としたエウィン妃を、ティアナは先祖の墓に入れなかった。父親の前大公は行方不明であり、家族の墓はない。セルマを主塔の影に埋葬し、そこからすこし離れたところにエウィン妃を埋葬していた。
人々の生活圏から離れているため、普段はひとけがない。季節の花が一面に咲く花畑のなか、セルマの墓の前に人影が佇んでいた。
古い外衣は端がすりきれ、ところどころ跳ねた土と落ち葉がついている。肩幅は広く痩せていて、背はかるく曲がっている。左腕に大切に抱えた毛織の袋は、竪琴の形をしている。人影は、ティアナとウォードの柔らかな足音を聴きとり、首だけで振り向いた。
ティアナは溜息まじりに声をかけた。
「アルトリクス。帰ってきて下さったのですね……」
アルトリクスは、無精髭におおわれた頬をゆがめて苦笑した。
「ご無沙汰しています、ティアナ様。……帰って来た、などと言える立場ではありませんよ。私は追放者です」
頭巾をかぶったまま頭を下げると、目隠しされた顔に長い髪と影が落ちた。彼を追放したのは両親だ。ティアナは悲嘆をこめて囁いた。
「そんな風に仰らないで……。父に代わって謝罪いたします。ですから、どうか」
「ああ。そうではありません、ティアナ様。セルマと父上の死に、私は責任があるからです。さらに、子ども達の世話まで押しつけてしまった。貴女には、感謝してもしきれません」
アルトリクスは、ふっと哂って首を振った。若い頃の覇気が嘘のような儚さに、ティアナの胸は痛んだ。
「アルトリクス。クレアとクルトに会ってください」
これを聞くと、アルトリクスは困惑した。頭巾を脱ぎ、骨ばった手で頭を掻きながら、歯切れ悪く口ごもる。
「今さら父親面をして会えませんよ。あの子達も困るでしょう。こんな……盲目の吟遊詩人もどきが父だと言われても」
「貴方はお二人の父上ですよ、アルトリクス様」
ウォードが声をかけ、アルトリクスは黙した。男の声を警戒したのだ。数秒後、相手を思い出して囁いた。
「ウォード……?」
「はい、私です。ティアナ様、許可なく話すことをおゆるし下さい。――アルトリクス様、この十年、貴方がときどき城を訪れて、公子さま達の成長を気に懸けていらっしゃったことを、私達は知っています。私とゲルデ、〈山の民〉のひとびとは……。会えなくても、観えなくても、貴方はお二人の父上です」
アルトリクスは気圧されたように黙りこんだ。左腕でしっかりと竪琴をかかえ、右手で目隠しの下の頬を掻き、気まずそうに呟いた。
「……私はセルマに逢いに来たのです、ティアナ様。エウィン妃を鎮め、ともに〈約束の国〉へ行くために」
「〈約束の国〉?」
「はい」
ティアナが首をかしげる。アルトリクスは袋から竪琴を取りだし、音をたてないよう弦をなでた。
「セルマはエウィン妃を封じています。このままでは、二人とも〈約束の国〉へ行けません。私は水竜の壊れた竪琴をもらいうけ、弦にする妖精の葦を探しました。幻影の湖に棲む大気の妖精が育てている、魔法の銀の葦です。しかし、心に怒りや憎しみを抱く者は、幻影の湖に近づけません。――辿り着くのに、十年かかってしまいました」
アルトリクスはふっと自嘲気味に息を吐き、囁き声で続けた。
「今の私は、燃え残った炭のようなものです。かつての烈しい瞋りは消えたものの、生きるために必要な意欲が残っていない……。セルマと、在るべきところへ還りたいのです」
ティアナとウォードは、言葉を失くして彼を見詰めた。光を失い、妻を喪い、帰るところを奪われたアルトリクスの十年間の孤独と苦悩は、想像できる範囲をこえている。目的のために山野を彷徨い、憤怒と嘆きを棄てた彼が、同時に生命を削ってしまったのは、無理もないと思われた。
二人の思いを察したのか、アルトリクスは微かに哂った。
「こんな風に言えるのは、子ども達が無事に育っていると知っているからです。ティアナ様。貴女のお陰で、クレアとクルトは健やかに、優しく聡明に育ってくれました。二人とも、自分の生きる道を自分でえらび、歩いて行ってくれるでしょう。……ウォードとゲルデにも、ライアンとアゲイトにも、お礼申し上げます」
「アルトリクス。あなた――」
その時、客人の到着を告げる角笛が鳴り響き、城内はにわかに騒がしくなった。グレイヴ伯爵と供の者たちがやってきたのだ。ティアナはそちらを振り返り、アルトリクスは微笑んだ。
「クルトが帰って来たようですね。ライアンとアゲイトも一緒だ」
「――どうすれば宜しいの?」
ティアナは覚悟を決め、硬い口調で訊ねた。吟遊詩人は一礼して答えた。
「いつも通りにお迎えください。サウィンの儀式も、例年どおりにお願いします。陽が沈んだら、村の人々を出来るだけ早く帰らせて下さい。〈影の王〉が現われる前に家に帰りつけるように」
「分かりました」
「私が来ていることは、クルト達には教えないでください。クレアとライアンにも。先手を打てなくなりますので……。その時まで、私は、セルマと話をしています」
ティアナはうなずき、胴着の裾をさばいて歩き出した。長い金髪がその背に従う。ウォードはアルトリクスに一礼して、彼女の後を追った。アルトリクスは二人の気配が去るのを見送り、セルマの墓に向き直った。
馬の蹄音と荷車の車輪の軋む音、犬の吼える声、人々の交わす親しげな挨拶が、風にのって聞こえた。それは闇の中でまたたく灯火のごとく、アルトリクスの心を照らした。亡き妻に話しかける言葉を探す彼を、足下から、しわがれ声が呼んだ。
「アルトリクス……アルト! わしじゃ、ジョッソじゃ!」
「ジョッソ殿?」
「うちもいるわよ。久しぶりね、アルトリクス」
アルトリクスが伸ばした手を両手でつかみ、ジョッソは頬をすり寄せた。もこもこの毛皮とざらざらした髭に触れ、アルトリクスは思わず微笑んだ。
「ジョッソ殿、グウィン殿。貴方がた、冬眠する時期では」
「そうよ。でも、あなたが帰って来たから」
「アルト~~~!」
ジョッソは半泣きだ。アルトリクスの膝にむぎゅっとしがみつき、おんおん鳴く。アルトリクスは、彼の柔らかな背を撫でた。
「ジョッソ殿、申し訳ない。貴方の娘の〈ティアナ〉は、私を庇って下さったばかりに」
「かまわぬ、仇はおぬしと水竜がとって下さった。アルトよ。こんなにやつれて、おぬし、ちゃんと喰っておるのか?」
「父さん。アルトリクスは……」
宥めかけるグウィンをアルトリクスは首を振って制し、黙ってふたりを抱きしめた。親子はふかふかの冬毛に包まれた体を寄せあい、アルトリクスの肩に小さな手をのせた。
グウィンはしゅんっと鼻を鳴らし、小声で告げた。
「アルトリクス。うち、クレアと契約を結んだのよ」
「それは……。まだ、アイホルムを見捨てないでいて下さるのですね」
「勿論じゃ」
ジョッソは黒い眸をすばやく瞬かせ、長いヒゲを立てた。
「人間どもは無礼で愚かだが、おぬしとティアナのように、他人の過ちをただし、善き世界を築こうとする者もいる。わしらは、そういう者たちと共に生きていく」
「クレアは素直でいい子よ、アルトリクス。クルトもね」
「宜しくお願いします……」
アルトリクスは、ふたりの毛の間に顔をうずめた。
「間もなくサウィンが始まります。〈影の王〉が現われたら危険ですから、隠れていて下さいね」
「承知した。わしらもセルマを見送るぞ」
頼もしい〈山の民〉の長の返事を聞き、アルトリクスは微笑んだ。
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