第五章 魔犬と少年(1)
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クルトとレイヴン、ライアンとアゲイトの四人は、夜明け前、波ひとつない静かなウリン湾に戻ってきた。無言で水から出て、岸で待つフェルテジルとシルヴィアの許へ戻る。フェルテジルは火を大きくし、シルヴィアは体をのばして彼らの周りをぐるりと囲み、風を防いだ。
四人は下着や革靴のなかまで濡れそぼり、骨の芯まで冷え切っていた。さらに、体験した出来事の衝撃からすぐには気持ちを立て直せず、黙りこんでいた。フェルテジルは彼らに各々の乾いた外衣を手渡し、葡萄酒に蜂蜜を入れて温めた。クルト達は濡れた衣服を脱いで干し、体を拭いて毛織の外衣に身をつつみ、葡萄酒と、香草と鶏肉のスープで体を温め、ようやく人心地がついた。
クルトは叔母が織ってくれた外衣のぬくもりを感じ、しんそこ帰りたいと思った。そうして、レイヴンには慰めてくれる家族も帰る故郷もない、という事実をかみしめる。
「すまぬ、頭が混乱している。情報の整理をさせてくれ」
しばらくして、ライアンが口火を切った。乾きはじめた髭が焚火に照らされて緋色に輝いている。伯爵は両手でつつんだ杯の中の葡萄酒をみつめ、小声で語った。
「我々が観てきた場所……あの出来事は、過去、なのだな」
「そうです。四百年前のことです」
レイヴンが、ずずっと洟をすすって答えた。顔色はまだ蒼白いが、表情は穏やかで冷静だ。
アゲイトは盾を傍らに立てて黙っている。ライアンは、一語一語をかみしめるように続けた。
「つまり、ウリンの住人は、全員、既に死んでいるのだな。〈影の王〉とレイヴン卿のほかは」
「あの場で死ななくても、どこかで死んでいますよ。四百年も生きているのは、魔物くらいです」
レイヴンは苦笑まじりに答え、自嘲気味に肩をすくめた。ライアンはじろりと彼を睨んだものの、淡々とした口調は変えなかった。
「ウリンの王城は、現世と幽世の狭間に閉ざされている。そこでは、滅びの日が繰り返されている」
「はい」
「死者たちは、あそこに閉じこめられている。閉じこめたのは、〈影の王〉の呪いだ。……自ら閉じこめた民を救うためにクルトを狙うとは、どういう料簡だ?」
「…………」
レイヴンの顔から表情が消えた。ただ黙って、夜目にも煌めく紫水晶の瞳でライアンをみつめ返す。焚火の焔が瞳に宿り、くるおしく揺れた。
ライアンはじっとレイヴンを凝視め、慎重に繰り返した。
「ヴェルトリクス王は 『我が復讐のとき来たるまで』 と言っていた。クルトを生贄にしてウリンを地上に戻すと、何が起こるのだ?」
レイヴンは黙している。クルトはライアンの問いの意味が分からず、二人を見比べた。仮面をかぶったようにぴくりともしない魔術師の貌をみすえ、ライアンは眼を細めた。
「……禁呪か? 貴公はアリル公に呪いをかけられた。〈影の王〉も、貴公に呪いをかけたのか?」
レイヴンは肯定も否定もせずに瞼を閉じた。ライアンはふっと口髭を吹いて眼差しをゆるめ、クルトは交互に二人を見た。
「レイヴン卿? グレイヴ卿、どういう意味ですか?」
「レイヴン卿がもとヴェルトリクス王の臣なら、真の名を知られている可能性がある。真の名の下に、〈影の王〉の思惑について直接かたれぬ呪をかけられているなら、回りくどくもなるだろう」
「えっ……」
「……聞いたことがある」
フェルテジルが口を挿んできた。けむり草を詰めた煙管に火を入れ、ふかく吸い、うす紫の煙とともに言葉を吐いた。
「昔、ネルダエが部族同士であらそっていた頃。ある王が、地母神の〈豊穣の釜〉に、戦で死んだ兵士たちを投げ入れた。すると、兵士たちは蘇り、再び戦場で戦えるようになった。しかし、彼らには心がなく、生きていた頃の記憶を失くし、命じられるまま人を殺す道具となり果てたので、遺族は嘆き悲しんだという」
フェルテジルは言葉を切り、クルトとライアンが話の内容を理解するまで待った。それから、無表情のレイヴンに視線をあて、ゆっくり述べた。
「この話をふまえて考えるに……〈影の王〉は、クルトを生贄にしてウリンを地上に復活させ、閉じこめていた死者たちを地母神の釜に入れて蘇らせ、不死の軍団をつくるつもりではないか。狩り集めた死者たちとともに、自分だけの戦士の集団を率い、改めてフォルクメレに戦いを挑むのでは。――而して 『ネルダエの民を救う』 と」
レイヴンは無言のまま、ふうーっと長い息を吐き出した。ライアンとアゲイトがすばやく視線を交わす。
クルトは衝撃を受け、ぱくぱくと空気を喰んだ。
「それが〈影の王〉の真の目的なら、ウリンの人々は、」
四百年間も恐ろしい滅びの日に閉じこめられた挙句、記憶をもたない不死の兵として使われる。――クルトは想像の残酷さに眉を曇らせた。まだ若かったレイヴンの両親と幼い少女を、そんな目に遭わせるわけにはいかない。
いつも無口なアゲイトが、ぼそりと呟いた。闇色の瞳が、黒曜石のように輝いている。
「ネルダエの王は、部族の者が死んだときはその魂を鎮め、〈約束の国〉へ送るのがつとめだ。かの王とヴェルトリクスは、王たる者の義務を果たしていない。……シルヴィア、何とかならぬか?」
急に話を向けられても水竜は驚かず、しとやかにまばたきをして答えた。
〈ヴぇるとりくすハ、己ガ娘を贄ニ捧ゲ、地母神ヲ束縛シタ。神トテ、誓約ヲやぶるコトハ出来ヌ〉
「そんな……」
呟くクルトを、シルヴィアは静かに見詰めた。竜の表情は分からないが、クルトには常に彼女は優しく見える。
〈くるとヨ。地母神ハ死ヲ尊ブ。其ハ死ガ生ヲはぐぐみ、生ガ死へ還ル、循環ノうちニ在レバコソなり。現在ノうりんノ在りさまヲ、地母神ガ嘉スルハズハなし〉
クルトはうなずいた。『地母神は現在のウリンの状態を望んではいない』 と言ってもらえたことは嬉しいが、なおさら、何とかしなければならないと思う。どうすればよいのだろう……。
アゲイトとライアン、フェルテジルも考えこんでいる。
やがて、クルトはレイヴンに話かけた。
「レイヴン卿」
「何ですか? クルト坊」
「ありがとうございました」
いきなり礼を言われたレイヴンは、きょとんと瞬きをくりかえした。クルトは彼に頭を下げた。
「最初に〈影の王〉が現われたとき、ぼくを助けてくれて、ありがとうございました。三年の猶予を交渉して下さったことも、ウリンを案内して下さったことも、感謝しています」
特に、ウリンの滅亡を体験することはレイヴンには辛かったろう、と思う。しかし、お陰で分かったことが沢山ある。
「えっ? ああ、ええと……はい」
レイヴンは当惑気味にうなずき、目を逸らしてぽりぽり首の後を掻いた。クルトは己が両手に視線を落とした。
「ぼく、以前は〈影の王〉に同情していました。ウリンの人たちに……。ぼくひとりの犠牲であの人たちを助けられるならと、ちょっと考えていました」
「クルト。それは、生贄にされてもよいという意味か?」
ライアンが眉をひそめて問い返す。クルトはうなずき、くすりと哂った。
「だって、〈マオールブルク〉にはクレアがいますから、ぼくが大公を襲がなくても大丈夫です。……体の弱いぼくより、クレアが大公になった方が、アイホルム家にとってはいいかもしれない。クレアなら、叔母上のような良い領主になれるでしょう」
反論しかけるライアンを頭を振って制し、クルトはレイヴンに向き直った。
「でも、それは駄目だと分かりました。ぼくには果たさなければならないつとめがある。グレイヴ卿とアゲイトと、マハスとカーバットと一緒に、平和な公国を築かなければならない。何より、ぼくが犠牲になっても、ウリンの人たちは救われない」
クルトは頬をひきしめ、決然と面をあげた。
「亡くなられたウリンの人たちを解放して、〈約束の国〉へ送りましょう。そのために、ぼくは〈影の王〉を説得したい……。レイヴン卿、力を貸して下さい」
「はい。分かりました……」
レイヴンは、クルトがさし出した手を握り、もう一方の手を添えて両手で包んだ。魔術師は項垂れ、泣くように笑っていた。ライアンとアゲイトは、安堵の笑みを浮かべた。
ライアンが口を開く。
「もうひとつ、俺は気になっていることがある。レイヴン卿」
「はい。何でしょう?」
レイヴンはぐずっと洟をすすり、左腕の袖で鼻をこすった。
「エウィン妃の魂はどこだ? アーエン王女が転生してエウィン妃になった。そのエウィン妃が死んだのに貴公がここにいるということは、魂をアリル公の許へ連れて行っていないのだろう。何故だ?」
「エウィン妃は――」
答えかけて、レイヴンはぐっと喉を詰まらせた。クルトは気遣った。
「大丈夫ですか? レイヴン卿」
「大丈夫、です。……これは、話せます」
レイヴンは軽く咳ばらいをして答えた。
「エウィン妃の魂は、今も〈マオールブルク〉におられます。セルマ様と一緒に」
「母上と?」
意外な答えに、クルトとライアンは顔を見合わせた。レイヴンは、にこりと微笑んだ。
「はい。セルマ様が封じておられるのです。二度と転生しないように」
「待て。セルマ殿は、エウィン妃がアーエン王女の転生だとご存じだったのか?」
「いいえ。けれども、死してなお子ども達に害を及ぼすかもしれないと、考えておられたようです。実際、長年のクルト坊の体調の悪さは、エウィン妃の呪いの影響でした。〈マオールブルク〉を離れたら、途端に元気になったでしょう」
「母上……」
クルトは胸の奥が温かくなるような、同時にきゅっと締めつけられるような心地がした。顔も憶えていない母が、死んだ後も自分を守ってくれている……。
フェルテジルがこほんと咳払いをした。
「公子達を見守っていたのは、セルマ殿だけではないぞ。アルトリクスも気に懸けていた。貴公らがウリンへ行っている間に、ここへ来た」
「父上が?」
「アルトリクスが、ここへ?」
クルトとライアンの声が重なった。フェルテジルは重々しくうなずいた。
「二人に伝言だ。〈影の王〉が狩りをはじめる、サウィン(新年の祭り)に気をつけるように、と――。地母神の〈豊穣の釜〉の魔法について教えてくれたのも、アルトリクスだ」
*
翌朝、身支度をととのえて馬に鞍を置いた五人は、水竜シルヴィアの前に並んで立った。空はよく晴れ、清々しい秋の風が吹いている。シルヴィアは長い首をもたげ、真珠色の鱗を朝日にきらめかせて言った。
〈らだとぃいガ里マデ、こりがんニ送ラセルガ……。我ト行カナクテ良イノカ、あげいとりくす〉
「ありがとう、シルヴィア。クルトと一緒にのんびり帰るから、いいよ」
アゲイトが答えると、シルヴィアは静かに瞬いた。
〈くると公子。心優シキ、あいほるむガ頭領ヨ〉
竜は大きな頭をクルトに近づけた。クルトが何だろうと思って見上げると、彼女の額がきらきらと輝き、そこから拳大の光の塊が現われた。
〈汝ニ、我ガうろこヲ授ケル。ウケトレ〉
「あっ、ありがとうございます。シルヴィア」
クルトが慌てて両手をさしだすと、鱗は重さのないもののように、ふわりと飛んで掌内に収まった。予想以上の軽さに、クルトは眼をしばたいた。魚の鱗のように平ではなく、斜めに切った箱形をしている。ひとつの角が鋭く尖り、雫型のようにも見える。虹色の光沢を帯びるそれを、クルトは息を呑んで見詰めた。
「綺麗だ……。大切にします」
〈武器デアレ、知恵デアレ、好きニ使フガよい〉
水竜は述べたが、(きっと武器にはしないだろうな) とクルトは考えた。(ぼくには似合いそうにない……。)それより、平和で豊かな国をつくるための知恵の源にしたいと思う。
竜の鱗を懐におさめるクルトの肩を、ライアンとアゲイトが叩いて祝福する。シルヴィアはひとりひとりに一言ずつ挨拶を述べると、ふわりと翼をひろげて空へ舞い上がった。
朝日を浴びて金色に輝く竜のすがたが観えなくなるまで、一行はそこに佇んで見送った。
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