第三章 盾の騎士(4)
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クレアとクルトは、母が戦争で死んだことは知っていても、父が自分たちを置いて城を去った理由については知らされていなかった。初めてきく祖父母と両親の確執は、多感な少女の胸に刺されるような痛みを与えた。ウォードやゲルデが話してくれなかったのは無理もない、と思う。
〈聖なる炎の岳〉から滑りおりてきた風が、草原にゆるやかな黄金色の波を立てた。泡のない優しい波だ。城の厨房で夕食のパンを焼く香ばしいかおりが、その風にのって流れてきた。ベリーソースの匂いに気づいた仔犬が、ひくりと鼻を動かす。
穏やかな時のなかで、ティアナは姉の最期を想いだしていた。〈聖なる炎の岳〉の中腹、〈青の湖〉のほとりで、死期を悟ったセルマは妹を召喚した。〈山の民〉とライアンとトレナル達が見守るなか、セルマは妹の手をとり、涙ながらにゆるしをこうた。
『ごめんなさい、ティアナ。私は、貴女が〈とりかえ子〉に選ばれたときほっとしたの……私が選ばれなくて良かったって。本当に、ごめんなさい』
母の言葉は残酷だったが、考えてみれば、娘を道具あつかいする親の許にいたところで幸福になれるはずがない。セルマの方が苦しかったろうと、ティアナは思う。
『アルトリクスに伝えて……誓約をやぶってごめんなさい、と。真実の敵は、私が倒すから……。ティアナ、ライアン。あの子達を、お願い』
『わかったわ、セルマ』
(起きたことをすべてこの子達に説明するのは無理ね……。)
ティアナはそっと息を吐いた。どう話せばよいかも分からない。前大公が白い山岳天竺鼠の『ティアナ』とアルトリクスを斬り、負傷した彼らを追ってネルダエの聖地を犯し、竜の怒りに触れたこと。セルマが最後の魔力をふりしぼって幽霊となり、母を〈マオールブルク〉の主塔から突き落としたこと……。
エウィン(セルマとティアナの母)はネルダエを憎み、結果的にアイホルム家を滅亡のふちに追いこんだ。
(何故?)と、ティアナは想う。――何故、母はあれほど富と幸福に執着したのだろう。大公妃ともなれば、人並み以上の生活は約束されていただろうに。言うなりになる夫と娘たちに無償の奉仕を要求する一方、誰も愛していなかったのではないか。自分のほかは。
二人しかいない娘のひとりを地底に閉じこめ、もうひとりを死に追いやってまで求めた幸福とは。
『どんな親でも、親は親なのよ! 子どもなら従いなさい!』
……エウィンの前世は、四百年前の『失われしウリン』のヴェルトリクス王の娘で、己を裏切ったアイホルムの男をうらみ、己を殺したネルダエの民衆をにくんでいた。たましいに刻まれた怨讐が、彼女と周囲の人々の人生をゆがめたのだと――水鏡に人の運命をみる〈森の賢者〉から聞いたとき、ティアナはふかく、ふかく嘆息した。
現世の生きものにとって四百年は途方もない時間だが、異界の住人にとっては一世代に満たない。エウィンが果て、今度は〈影の王〉が現われた。彼も身の置きどころのない嘆きと怨嗟にかられているのだろう。どうすればこの連鎖を断てるのか……。
ふと足にぬくもりを覚え、ティアナは物思いを中断した。黒い仔犬が彼女の長靴に顎をのせ、上目遣いにこちらを見ている。ぱふぱふ遠慮がちに揺れる尾をながめ、女大公は微笑んだ。
(優しいのね……。どういう風の吹きまわし?)
〈儂らにも心はある。理不尽な主にふりまわされる苦労は理解できる〉
(まあ)
「それで、おばさまはどうなさったの?」
記憶のなかの姉と同じ声で呼びかけられ、ティアナははっとした。クレアが晴れた空色の瞳で見詰めている。
「え?」
「いくさよ。おかあさまが亡くなって、おとうさまが追放されても、戦争は続いていたのでしょう?」
「ええ。……おじい様とおばあ様も、すぐに死んでしまったわ。私は、赤ん坊の貴女とクルトを守らなければならなかった」
クレアは両手を草原につき、叔母の方に身をのりだした。少女の真剣なまなざしに、ティアナは微笑をかえした。
「でも、私はひとりではなかった。ゲルデ(侍女頭)とウォード(家令)がいてくれたわ。グレイヴ卿と〈山の民〉も、力を貸してくれたのよ」
ティアナは面をあげ、城の門にかかる旗を眺めた。跳ね橋を支える石塔を。
「グレイヴ卿は、ヒューゲル大公とダルジェン大公の軍を防いで時間を稼いでくれた。その間、〈山の民〉は彼らの街にむらの人々を匿ってくれた。ゲルデは貴女たちを守って、私とウォードは聖王さまと交渉したの。大公夫婦は亡くなり、セルマも死んでしまった。もう戦争はしないから赦して下さい、と」
「謝ったの?」
驚く少女をみて、ティアナはくすりと哂った。
「謝るしかなかったわ……。奪った物を返して死者を弔い、賠償をして、ようやく赦していただいたのよ。聖王さまが仲裁して下さり、アイホルム大公家は残された。一時的に貧しくなって領地も半分に減ってしまったけれど、私には、これでじゅうぶん」
ティアナの脳裡には再び当時の光景がよみがえっていた。山岳天竺鼠の長ジョッソは、契約をやぶられ愛娘を殺されていたが、涙ながらに宣言した。
『ティアナはわしの娘じゃ、殺すなど出来るか! わしは偽大公とは違う。ティアナのために戦うぞ!』
そして、姉と母の遺体を前に途方にくれる彼女を、ライアンが激励する。
『公女よ、どうか立ってください。あなたが守るべき民がいるのです、兵士たちが』
自分はセルマではない、どうすればよいか分からないと嘆く彼女に、甲冑をまとったライアンは告げた。
『では、セルマ殿になって下さい、ティアナ様。遠目なら、あなたは姉君と見分けがつきません。城門に立ち、兵士に呼びかけて下さい。私は生きている、アイホルムは滅びていないと。それだけで、私たちは闘えます』
実際にティアナがそうすると、ライアンと騎士たちは雄叫びをあげて突撃し、〈マオールブルク〉を包囲していた他家の軍を退けた。完全な負け戦にならなかったおかげで、後の交渉が有利になったのだ。
ティアナは二十代のライアンの雄姿を想いだして頬を赤らめた。
「貴女とクルトが無事に成長して、このところ豊作が続いているのも、地母神が認めて下さっているからだと思うわ。私たちはこれで良いのだと……」
ふいにクレアがしがみついてきたので、ティアナは言葉を切った。少女は叔母の胸に顔をうずめ、ぎゅうっと抱きしめてから、澄んだ青玉の瞳に彼女を映した。
「おばさま、すっごく頑張って下さったのね! わたし達のために」
「私だけではないわ。皆のおかげよ」
「ううん、おばさまがいて下さったからよ……大好き……。このこと、クルトにも教えなくっちゃ!」
瞳をかがやかせるクレア。ティアナは曖昧に苦笑した。
「そうね……貴女たちが大人になったら話そうと思っていたけれど、私では上手く話せないわ。次のサウィンに吟遊詩人を呼んで、お願いしようかしらね」
「吟遊詩人! 素敵だわ。とっても楽しみ!」
クレアは手を叩いて歓声をあげた。少女は蜂蜜色のおさげと胴着の裾をひるがえし、陽光のたわむれる野原をくるくると舞った。仔犬が彼女のまわりを跳ねまわる。女大公はその様子を微笑んで見守った。
ティアナが立って胴着の裾についた草の葉をはらっていると、少女は息をはずませながら戻ってきて歌うように言った。
「そういえば、収穫祭の前にお会いした吟遊詩人、まだ帰って来ていないわ。〈幻影の湖〉を探していると言っていたけれど、見つけられたかしら」
「え?」
ティアナは息を呑んだ。クレアは『チビ』を抱き上げ、想いだしながら語った。
「この辺りでは見かけない人だったわ。背が高くて、古い外衣を着て、目隠しをしていたの。傷があるから覆っているんだと言っていたけれど、危ないでしょ。わたし達、道を教えてあげたの」
ティアナは白い頬をこわばらせた。クレアは叔母の表情の変化には気づかず、立ち尽くす彼女をおいて城へと戻り始めた。
「たしか、名前は追放者といったわ。大気の妖精に用があると言っていたから、戻ってきたらお話を聞かせてねってお願いしたの。サウィンには逢えるといいなあ」
クレアに抱かれた仔犬が、少女の肩越しに女大公を見つめている。闇色のまなざしを受けとめ、ティアナは呆然とつぶやいた。
「ディブレア……。アルトリクス、帰って来ていたのね……」
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