第三章 盾の騎士(3)
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高原の秋はみじかい。
林檎とナナカマドの実が赤く色づくと、〈マオールブルク〉の周辺では冷たい風が吹きはじめた。水楢やブナの実を食べさせるため、農夫たちが豚の群れを連れて大公家の森にやってくるようになった。麓のむらでは、牛を放牧していた畑を耕して秋まき麦にそなえ、藁を干して飼料をつくっている。城の男たちは、内郭の日当たりのよい場所に蜜蜂の巣箱をおさめる冬越え用の小屋を建てた。ティアナ女大公は侍女たちとともに菜園のリーキ(西洋ネギ)とチャード(ほうれん草)を収穫し、冬に食べる蕪とルッコラの種をまき、ラベンダーとローズマリー、フェンネルの葉を剪定した。
クレアは修行を続け、簡単な文様なら刺繍できるようになった。花や小鳥や動物の模様も描けるようになった。それで、〈マオールブルク〉の人々の間では――家令のウォードから侍女頭のゲルデ、料理長、調教師、門番の老兵士にいたるまで――公女の刺繍した飾り帯を髪や袖に結び、ひらひらさせることが流行した。いずれも当人の名前と《健康》や《長寿》といった縁起のよい言葉を刺したものだ。
山岳天竺鼠のグウィンは、クレアが『チビ』を連れていないときをみはからって現われ、魔法について教えてくれた。
『魔力をこめないときは、ひと針のこすのよ』
『ひと針?』
『全ての刺繍に魔力をこめていたら、体がもたないわ。文様を完成させず、ひと針縫いのこしてちからを逸らすの。織りも同じよ』
『魔法はどれくらいの期間、効くの?』
『うちらの冬毛が生えかわるまでね』
〈山の民〉独特の表現にとまどっていると、ティアナが微笑んで言いかえた。
『ほぼ一年よ』
『そんなに短いの?』
『刺繍はね。時間をかけて力を織りこめば、数年は保てるわ』
布だから仕方がないのだろうと、クレアは納得した。思いついて問う。
『ねえ、おばさま。好きな人に自分を好きになるよう、魔法をかけられる?』
ティアナは意外なことを問われたように軽く瞬きをして姪をみつめた。
『できるわ……。でも、それは善き魔法とはいえない。呪いになる考えよ』
『呪い? どうして?』
少女の邪気のない青玉の瞳に、グウィンは説いた。
『想像してみて。魔法で好きになってくれたら嬉しいでしょうけど、それは相手の本心かしら? 魔法はいつか必ず褪めるわ。その時どうなると思う? それとも、一生魔法をかけ続ける?』
『そう、か……そうよね』
『逆もあるわよ、クレア。あなたのだいっ嫌いな人を、魔法で無理やり好きにさせられたら、どう?』
ぞっとして蒼ざめる姪を、ティアナ女大公は優しく諭した。
『ひとの心はそのひとのもの、〈山の民〉もね。魔法で変えようなんて思ってはいけないわ』
『わかったわ、おばさま』
(だからおばさまは、怪我や病気をしないように、と織るのね。)
クレアは、ちかごろティアナがライアンのために外衣を織っていることを知っていた。黒地に金糸と赤糸で大鷲と薙刀をえがいた華麗な外衣には、彼の身の安全をねがう語句が豊富に織りこまれている。ライアン自身の生い立ちやグレイヴ一族の業績が、植物や組み紐もようにちりばめられていると知り、クレアは溜息を呑んだ。『織りは物語を必要とする』 とは、そういう意味なのだ。
(わたしは、アゲイトの《物語》を織れるほど、かれのことを知らないわ……。)
グウィンは欠伸をかみころした。
『クレアには、まだ織布は無理ね。春になったら教えてあげる』
『春?』
『うちら、冬は眠るの。サウィン(新年の祭り)が終われば来られなくなる。暖かくなったら、あなたに名付けて欲しい子ども達を連れてくるわ』
(冬眠……。)クレアはうなずき、念のために訊いた。
『名前、たくさん用意しておいた方がいい?』
『いいえ』
グウィンは白い髭をふるわせて笑った。
『ひと春に産まれるうちらの子は、数百匹よ。そんなにいらないわ。魔力を継ぐ子は数匹だから、その子たちのためにいい名を考えておいてね』
『はい』
クレアの返事が良かったので、グウィンは満足そうに頷いた。クレアは、小さな赤ちゃんマオールたちの首に飾り帯を結ぶところを想像して楽しくなった。
――クレアは林檎の収穫を手伝ったあと、『チビ』を連れて城の前の野原へ出た。ひとまわり大きくなった『チビ』が金色の草むらから跳びだすバッタを追いかける。クレアはグウィンとの会話を想いだし、年上の従兄のことを考えた。
(アゲイトはどうしているかしら。)
収穫祭に来ると約束していたアゲイトは、結局来られなかった。連絡がないまま一か月が過ぎている。『チビ』とグウィンがいても、クルトとアゲイトのいない日々はやはり寂しい。
(サウィンには来てくれるかしら。クルトも……)
『チビ』が古い革靴をくわえて戻ってきた。クレアは彼を好きなように遊ばせておき、門の上の旗を仰いだ。一角鯨と山岳天竺鼠の絵のまわりに織りこまれた詞を読もうと目を凝らす。
「われ――われら、ね。アイホルム、氷の海より来たりて、この地に住む……〈山の民〉と、絆を結び――結びて、平和をきずかん。かしら?」
それ以上は文様が小さくて読めない。『チビ』が垂れた耳の片方をあげて聴いていたが、クレアは気づかなかった。読めるようになると今まで知らなかったことが分かる一方、新たな疑問が湧いてくる。
「クレア」
叔母に声をかけられて、クレアは背筋を伸ばした。『チビ』は耳を垂らし、ずっとそうしていたように靴かじりに集中する。ティアナ女大公は仔犬をちらりと一瞥してから姪に向きなおった。
「旗の文様は読めた?」
「はい。ねえ、おばさま。〈山の民〉との契約は、昔からなの?」
アイホルム家が代々継いできた契約かと思ったのだが、ティアナはかぶりを振って否定した。
「いいえ、貴女のおじい様の代からよ。あの旗は三年前、私が織ったの」
「えっ?」
(そんなに最近?) クレアが拍子抜けしていると、ティアナは姪の隣に腰をおろした。葡萄色の毛織の胴着につつまれた脚を曲げ、秋の野原のうえで少女のように膝を抱える。
「……私が貴女くらいの頃、〈山の民〉の長がおじい様のところへ来て、契約を申しでたの。最初は〈とりかえ子〉だったわ」
「とりかえ子?」
「私かセルマ……双子のうち片方を、〈山の民〉の長の子と交換して育てようという話よ。妖精と大地の民のあいだでは、よく行われていたの。お互いを知ることが出来て、魔法の加護も受けられる。両親は承諾したわ。」
ティアナの脳裡では、在りし日の母の声が響いていた。契約の内容におびえて抱き合う姉妹の前で、得意げに夫に提案する――
『ティアナをやりましょうよ。この子はネルダエの血が強くて、セルマより色が濃い。セルマの方が将来つかい道があるわ』
エウィンは事あるごとに娘たちを比較し、否定した。少女たちは幼い頃から母の顔色をうかがい、気に入られようと必死だった。双子はそっくりだが、ティアナはセルマよりほんの少し髪の色が赤みをおび、ほんの少し瞳の色が深かった。
『みにくい方の娘を、地底の国に』
――母の言葉には触れず、ティアナは続けた。
「私が〈山の民〉のところへ行き、代わりに、私と同じ名を与えられた真っ白な山岳天竺鼠の仔が城へ来たわ。魔法の鎖帷子と一緒にね」
「〈山の民〉の国へ、たったひとりで? おばさま、怖くなかった?」
クレアは話を聞くだけで辛くなり、声を湿らせた。ティアナはあわく微笑んだ。
「最初は怖かったし、悲しかったわ。でも、〈山の民〉は優しいの。彼らは〈聖なる炎の岳〉の地下に、大きな街を造って暮らしている。通路をたどれば、森へも野原へも行ける。私をいろいろなところへ連れて行って、美味しい花や木の実を食べさせてくれたわ。泣くとみんな集まって、あたたかい毛皮で包んで慰めてくれた。……だから、私は不幸ではなかったわ」
クレアは安堵して、ほうと息を吐いた。黒い仔犬も熱心に話を聴いている。ティアナは柳眉をくもらせた。
「辛かったのは、セルマ――貴女のお母様の方だと思うわ。大気の妖精の銀の矢とマオールの鎖帷子を手に入れたおじい様は、セルマにそれを与えて出陣させたの。兵を率いてネルダエの集落を襲わせ、多くの人を殺し、金品を略奪し、家畜を奪った……」
「待って。おかあさまが戦さを起こしたの? おばあさまは先住民出身でしょ。それなのに、ネルダエを襲ったの?」
過去に戦争があったことは知っていても、アイホルム家が仕掛けたとは聞かされていなかったクレアは、蒼ざめた。ティアナは悲し気にうなずいた。
「おばあ様は混血の孤児で、ネルダエの血を憎んでおられた。彼らを根絶やしにしたいと考えていたの……。グレイヴ卿や聖王さまに諫められても戦いをやめず、ヒューゲル大公領とダルジェン大公領へも攻めこんだ。セルマの魔法の力に率いられた軍は強くて、ネルダエ側は祭司たちが〈闇の魔物〉を召喚して対抗したわ」
「ネルダエの人々が、〈闇の魔物〉を呼び出したの」
「仕方なく、ね」
衝撃が幼い少女の瞳をゆらした。
『ワタシには幸せになる権利があるのよ!』――高らかに宣言する母の声が、今もティアナの耳を叩く。
『もっと豊かに! 幸せに! 娘が親の希望をかなえるのは当然よ。産んでやって、育ててやっているんだから、恩を返しなさい!』
ティアナは瞼を伏せ、ふるえそうになる声を抑えた。
「……お母様とグレイヴ卿は、辛かったでしょうね。戦いたくなくても、おじい様とおばあ様の命令がそれを許さない。お母様にとっての幸せは、お父様に愛されて貴女たちを授かったことだけれど、お父様はおじい様に追放されてしまった」
「どうして?」
「双子を産むのは大変なの……。お産で弱っていたお母様に、おじい様とおばあ様は戦いを強いた。貴女のお父様は、魔法の盾とラダトィイ族の鉄を提供することを条件に結婚していたのだけれど、お母様をかばって追放された。セルマは弱った体で戦場に出て、死んでしまったわ。私に、貴女とクルトを託してね……」
クレアはうなだれた。黒犬は、今にも泣き出しそうな少女と沈痛なティアナの表情を交互にみて、くうんと鼻を鳴らした。
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