第三章 盾の騎士(1)
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〈聖なる炎の岳〉の稜線が曙色に染まると、家畜小屋のなかの鶏たちが朝の気配をさっして動きはじめた。くるくるという雌鶏の優しい喉声に、仔豚たちのキーキー声が重なる。雄鶏が羽ばたき、胸を膨らませてときを告げる準備をはじめた。
小屋に隣接する建物の二階で、クルトは寝返りをうった。目元をこすって身を起こし、隣で眠るカーバッド少年の肩をゆすって声をかける。
「起きろよ、朝だぞ」
クルトと同じ小姓の少年はうなったものの、毛布をかぶり直してしまった。仕方なく、クルトは靴を履いて先に部屋をでた。欠伸をかみころしつつ木製の階段を下りると、ちょうど雄鶏がしわがれ声をはりあげているところだった。
「おはようございます」
厩舎係の男たちが家畜小屋の扉をあけて豚の群れを外にだす。クルトの挨拶に眠たげな声がかえってきた。クルトは犬小屋をのぞき、巨大な灰色の毛玉に声をかけた。
「ブラン、ネルト!」
ネルトがばふっと吼え、とびついて少年の頬を舐める。ブランはひかえめに尾をふり、彼の膝に額をこすりつけた。クルトは二匹を両腕にかかえて視線をあげた。
「おはようございます、レイヴン卿!」
小姓たちの隣の部屋で寝泊りしているレイヴンは、窓をひらいて顔をのぞかせたものの、むにゃむにゃ口の中で呟いてまた引っ込んでしまった。クルトは肩をすくめ、遅れてきた二人の少年とともに井戸へ向かった。家畜と人のための水汲みが、一日の最初の仕事だ。顔をあらい重い水桶をひとつずつ提げて戻ってくると、ライアンとトレナルが愛馬をひいてやって来た。
ライアンは笑顔で少年たちをねぎらった。
「マハス(「善良な者」の意味)、カーバッド(「戦う者」の意味)、クルト。精が出るな」
「おはようございます、グレイヴ卿」
応えながら、クルトは(せいがでるのはグレイヴ卿の方だ)と思った。〈アドラーブルク〉へ来てからというもの、どんなに早く起きてもライアンに勝てたことがない。城主は山頂の本丸に居住しているが、日の出前には下りて来て〈夜の風〉号の世話をするのが日課だ。今朝も既にひと駆けしてきたのだろう、軍馬たちの息は弾み毛皮は汗ばみ、朝日を浴びて艶やかに波うっていた。
*
クルトの同僚のマハスは十二歳、ダルジェン大公家に仕える騎士の次男だ。刈りいれ前の大麦色の髪に空色の瞳をもち、色白で痩身だが、ねばりづよい努力家だ。十歳のカーバッドは、ヒューゲル大公領の伯爵家の三男。日焼けした肌に煉瓦色の髪、濃い青の瞳はいつも何か楽しいことを探している。二人ともクルトと年齢はそう変わらないが、小姓としての経歴は先輩だ。
最初に紹介されたとき、彼らはクルトの身分を知って呆気にとられた。
『公子が小姓をする必要ないだろ』
『ほかの大公家に行った方がいいんじゃないか? グレイヴ伯爵は格下だろ』
遠慮なく言われ、クルトは言葉に詰まった。モルラが笑って説明してくれた。
『ティアナ女大公さまは、公子に強い大公になって欲しいとお望みなのです。ここでは遠慮は無用、仲良くするように』
叔母からは何も聞かされていないがそういう意図があったのかと、クルトは理解した。
クルトが初めて知ったことは他にもある。彼が栗毛の去勢馬のもち主と聞き、二人は露骨にうらやましがった。
『いいなあ、ボクも自分の馬が欲しい』
『え……』
『馬は高価なんだ。マハスん家は苦しくて、兄貴の馬と甲冑をそろえるだけで大変なんだと。オレも従者になるまでには一頭欲しいけど、無理かもしれない』
『……そうなんだ』
叔母はクルトに本格的な乗馬の訓練はさせてくれなかったが、去勢馬なら与えてくれた。〈夜の風〉号のような軍馬に憧れるクルトは物足りなく感じていたのだが、考えてみれば、一般の騎士は自力で馬も馬具も手に入れなければならないのだ。
乗用の去勢馬の値段は、一頭あたり金貨六枚。軍馬なら最安でも金貨二十六枚と、騎士の年収の二年分に相当する。――そう聞いて、クルトは栗毛を大切にしようと決意した。今では〈天睛〉号と名づけ、喜んで世話をしている。不思議なことに、クルトが心を入れかえると栗毛にも伝わるのか、以前より素直にいうことをきいてくれるようになった。ライアンが自ら〈夜の風〉号の世話をするのは、その為だろう。馬だって、自分を大切にしてくれる主の方がよいに決まっている。
貴族の間にも家格があり、経済力の差が子の将来に影響する。困惑するクルトに、ライアンは説明した。
『あの二人は次男と三男だ。家督は長男が襲ぐから、主君から領地をあたえられない限り、どこかの伯爵か男爵家の城付き騎士になるしかない。おまけに彼らは混血だ。俺にはそういう拘りはないが、騎士になれない国もある』
『ぼく、知らなかったです……』
『二人から学べることは多い。励みなさい。アイホルム公と知己になるのは、彼らにとっても損ではない』
『はい』
トレナルが微笑んでつけ加えた。
『心配しなくても、グレイヴ卿はご自分が叙任する騎士には、必ず馬と武器をひとそろい支給されていますよ。〈夜の風〉号の子どもや兄弟の仔馬です。楽しみにしていなさい』
『本当? ありがとうございます!』
『すごいや! 〈夜の風〉号の子どもだって!』
歓声をあげるマハスとカーバッドをみて、クルトも嬉しくなった。ライアンは照れくさそうに頬髯の生え際を掻いていた。
――こうしてクルトの小姓生活が始まった。
少年たちは同じ部屋で寝起きし、同じ仕事をし、同じ食事をして、すぐ打ち解けた。仕事の合間にモルラから読み書き計算を教わり、トレナルから弓矢と剣技を教わる。子ども同士で独楽まわしや石蹴りやフィヘル(チェスに似たボードゲーム)をして遊ぶ。〈マオールブルク〉にも小姓はいるが、親しく話したことのなかったクルトには、毎日が新鮮な驚きの連続だった。
*
厩舎係の男たちが家畜を連れ出すと、少年たちは小屋の掃除をはじめた。熊手をつかって敷き藁をあつめ、水をまく。食べ残しの飼料と藁は、畑の隅の板がこいに入れて堆肥にする。クルトが馬房の敷き藁をかいていると、額に汗が浮いてきた。
〈夜の風〉号の毛皮を梳きおえたライアンが、クルトの仕事ぶりをながめて声をかけた。
「小姓になったばかりの子は、仕事が辛かったり要領がわからず落ちこんだりするものだが、クルトは手際がよいな。城でもやっていたのか?」
「はい。ときどき」
クルトは頬をわずかに染めてうなずいた。馬たちの餌箱に大麦とオート麦をまぜた飼料をいれながら、
「叔母上が手伝わせてくれました。……『城の生活は、多くの人がそれぞれの仕事を果たすことで成り立っています。彼らに敬意をはらい、よく観て学びなさい。みなが仕事をし易いようはからいなさい。気持ちよく働いてもらえるようにするのが、城主のつとめですよ』って」
「そうか」
何度も言われてきたのだろう、クルトはすらすら暗唱した。ティアナらしい気遣いにあふれた言葉に、ライアンは深くうなずいた。
ライアンはクルトを特別あつかいせず、マハスとカーバッドにも、厩舎係と馬の調教係にも声をかけた。体調はどうか、仕事で困っていることはないか、必要なものは足りているか、など。――(これが『はからう』ということなんだな。)とクルトは思う。
家畜の世話がひととおり終わると、一同は当番の厩舎係をのこして本丸へ向かった。〈野鼠の城〉に比べ、〈鷲の巣城〉はより軍事に特化している。堅固な土塁と堀と石垣が三重に山をかこみ、曲がりくねった道と起伏のある地形が侵入者を迷わせる。馬場から本丸へつづく石段の間には吊り橋があり、いざというときには落とせるようになっている。そして、本丸は高さ二百ヤール(約百八十メートル)の崖の上だ。
城にきた初日、クルトは自力で石段を登りきれず、最後はトレナルに背負ってもらい、恥ずかしい思いをした。ひと月が過ぎた今ではそんなことはないが、やはり息はあがる。
マハスが得意げに『新入り』に説明した。
「〈アドラーブルク〉は敵に落とされたことがないんだ。ダルジェン家ともヒューゲル大公家との戦いでも、びくともしなかったって」
「戦ったことがあるんですか?」
「そうだ」
ライアンは、両手に水を入れた桶を提げてクルトの後を登りながら、口髭をゆらして哂った。
「マハスが産まれる少し前だ。今は和睦している。ここは籠城戦に強いのだ」
(そうだろうなあ。)とクルトは思い、足を止めて辺りをみまわした。軍事には詳しくないが、〈アドラーブルク〉が攻めにくいのは理解できる。城壁、広い農場、クルトが知るだけで五つもある井戸。本丸からは平野がみわたせ、敵は隠れられない。三つの大公領の接する国境を護る、難攻不落の山城だ。
ライアンは肩をすくめ、うそぶいた。
「もっとも、最近の戦いでは民の避難所になっていたがな。……大丈夫か、クルト。押してやろうか?」
「あっ、いえ。平気です」
ライアンだけでなくトレナルと厩舎係の男たちも列を成して立ち止まっていたので、クルトは慌てて石段を登った。両手で膝頭をおさえつつ頂上へ達すると、寝過ごした鴉が一羽、ギャアギャア鳴きながら飛んできた。
石垣にかこまれた山頂は平らに整地され、緑の芝とシャムロックにおおわれている。見張りの塔と本丸は石造りだ。ここにも井戸があり、樫の大木がすずしげな影をおとしている。明るい朝の光がふりそぞぎ、葉が風にそよいでいる。へろへろとよろめきながらたどり着いたレイヴンは、人型にもどると大きく息を吐いた。
クルトは改めて挨拶した。
「レイヴン卿、おはようございます!」
「おはよう、クルト坊、若殿。みなさん、どうも~」
「大ガラス卿、少しは鍛えられたか」
ライアンが笑って問う。実際、クルトは毎日の登山で足腰が強くなっていた。ライアンとトレナルにいたっては、水桶というハンデがあっても平然としているのだ。
レイヴンはぷるぷる首を振った。
「足で登れば足が疲れ、翼で飛べば翼がしんどい。わたしは体力も魔力も使わず、舌先三寸で生きていくのが信条です」
「得意げに言うことではなかろう。ふむ?」
「うひゃひゃあぁ!」
ライアンが思案気に首をひねり、桶をおいてレイヴンをひょいと抱え上げたので、青年は悲鳴をあげた。
「ななな何をするんですか、若殿っ? わたしは美味しくないですよぉ!」
「そのようだな……。肉がうすくて、食べるところがなさそうだ。〈王の星〉の羽合せ(訓練)にも使えない」
「ぐっすん」
冗談か本気か判らない会話にクルトたちが笑っていると、モルラが本丸からやってきた。侍女を二人連れ、革手袋をはめたこぶしに鷹をとまらせている。長い黒髪を首のうしろでひとつにまとめ、山羊革の上衣の下に脚衣を穿いたすがたは、相変わらず凛々しい。
「おはようございます。食事の仕度ができていますよ」
モルラはクルトの挨拶に微笑で応えた。目くばせを交わす侍女たちを見て、クルトは我知らず頬を染めた。そろいのサフラン色の胴着に身をつつんだ侍女のうち、ひとりはカーバッドの異母姉で金髪碧眼のレジナ(「王女」の意)、もうひとりはトレナルの娘ミーノン(「美しい歌」の意)だ。藍色がかった黒髪をもつミーノンの、白い顔に映えるヴェロニカの花のような青い瞳が、クルトの眼を惹いた。
「ハヤブサですか?」
「いいえ。これは〈海の光(北極星)〉、大鷹です」
モルラはクルトに説明して、若き城主を見遣った。
「川岸に雁が来ていますよ。今日あたり、狩りにでましょう」
「そうか。クルト、一緒に行くか?」
「いいんですか?」
クルトの声が弾んだ。はしゃぐ少年たちを眺め、侍女たちはくすくす笑っている。ライアンはうなずき、桶を提げて踵を返した。
「まずは朝飯だ。仕事が終わったら城門へ来い。連れて行ってやろう」
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