第二章 誓いの継承(5)
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チリチリと音がする。
河原の砂をふむような、樅の緑枝がすれあうような幽き音は、アゲイトの意識を浅くひっかいた。岩の寝台に寝かされていた少年は、まぶたを小さく引き攣らせて覚醒した。咄嗟に空気をもとめて喘ぎ、水の中にいるのではないと気づく。おもむろに身を起こし、あたりを見まわした。
チリチリと微かな音が鳴っている。
そこは岩に囲まれた洞窟のような空間だった。天井は高く威圧感はないが、人の手で加工された痕跡はない。窓も灯もないのに見えるのは、岩全体がぼんやり蒼白く輝いているからだ。表面は滑らかな鍾乳石におおわれている。アゲイトは体の下に敷かれていた毛皮にふれ、狼のものだと判断した。
竜の巣につれて来られたのだろうか。
(湿地の底にこんな場所が――)考えかけて、アゲイトは躊躇った。ここは本当に湿地の底だろうか? あれからどれくらい時間が経ったのだろう。父と長老たちはどうしているだろうか。
チリリ……という音が途絶えた。アゲイトは耳をすまして余韻を聴き取ろうとした。
少女がひとり、岩壁に片手を触れて佇んでいた。岩と同じくらい蒼白な肌をしている。銀色の髪は額の半ばで分かれ、痩せた体の輪郭にそって流れおち、地面に達している。エフェメラ(カゲロウ)の透明な翅を重ねたような衣をまとい、片方の足首には小さな鈴をつなげた金の環が巻きついている。彼女の動きに合わせて鈴がリリ、と鳴った。
(スズだ)
先刻から聞こえていた音のみなもとを理解するとともに、アゲイトの職人の目は、それが山をきりくずして得る真砂砂鉄からつくられたものではなく、湿地の葦の根に自成するスズ――褐鉄鉱からつくられたことを観てとった(注*)。かなり古いものだ。少女は鈴以外の音をたてず、静かに彼に近づいてきた。
「シルヴィア?」
アゲイトは慎重に、それしか知らない名を呼んでみた。すると、少女は身をかがめ、彼の顔に顔を寄せてささやいた。
「ナガ……ツグ、カ?」
「え?」
アゲイトはまばたいた。少女は永いあいだ人と話していなかったものが言葉をさがすたどたどしさで、くりかえした。
「汝ガ……我ガ……つグ、か?」
なんと答えるべきか分からず、アゲイトは唾を飲んだ。少女の顔は今やほとんど触れる距離にある。白銀のまつげにふちどられた瞳は澄んだ紫紅色で、頬はうすく血管が透けていた。まっすぐな髪からのぞく耳は先が尖り、その上に雄羊のごとく巻いた角が生えている。――確かにあの水竜らしいが、あの時は妖艶な美女の貌だったのに、今はあどけないほど幼く見える。
アゲイトは、彼女が呼吸をしていないことに気づいた。
少女は首をかしげて驚きのあまり言葉を失っている少年を眺め、それから彼の頬を両手ではさんだ。氷のような冷たさにアゲイトの全身の毛が逆立つ。少女は構わず、彼の額に額をおしあてた。
竜の意図がわからず、アゲイトは身をこわばらせていた。氷の彫像のような相貌を観ていると、視界がぼやけ、灰色の靄におおわれた。
――アゲイトは再び湿原の岸に立っていた。葦原に新しい湖上家屋が建っている。澄んだ竪琴の音がロン(クロウタドリ)の唄とともに風にのる。晴れた空を映す鏡のような水面に、風はさざ波をたてて通り過ぎた。
水のなかに竜がいた。真珠色の鱗におおわれた体をくねらせ、ゆったりと泳いでいる。クラノーグの柱の下をめぐるその動きから視線を上げた少年は、竪琴の弾き手をみつけた。長い黒髪を背中でひとつに結わえた若い男が、窓辺に腰をおろしている。
竜と竪琴弾きの間には特別な絆があるようだった。竜が水中から身をおこし――人型ではない、耳の生えた蜥蜴のごとき巨大な頭を近づけると、男は親しげに額を撫でた。
(これは過去? 竜の記憶?)
アゲイトが考えていると、じゃぶじゃぶ水をかきわけて数人の男が踏みこんできた。ネルダエの民だ。手に手に鋤や鍬、山刀を持っている。彼らが乱暴に葦を刈り、根を掘って水を濁らせたので、竜は吼えた。
彼女が紫水晶の眸を怒りに燃やして吹雪のような息を吐きかけると、無礼をはたらいた男たちは逃げる間もなく石像と化した。生き残った者のうちある者は腰を抜かして坐りこみ、ある者は悲鳴をあげて逃げ惑う。追ってとどめを刺そうとする竜の首に、竪琴弾きはしがみついた。
『やめてくれ! 竜よ、怒りを鎮めてくれ!』
彼は同朋たちを顧みた。
『何故、こんなことをする? ここを聖地と知ってのことか』
『我らには褐鉄鉱が必要です、王』
男たちは竜に怯えつつ訴えた。アゲイトは彼らの言葉から自分と同じ部族だと知った。
『里に近い水場のスズは、もう採りつくしてしまいました。手つかずなのは、ここだけです』
水に溶けた鉄が葦などの植物の根に吸着した天然の錆――褐鉄鉱は、永い時間をかけて塊になる。大量に採ってしまうと他の場所を探さなければならない。鉄づくりを生業とする彼らは常に原料の入手に苦労していた。
竪琴弾き――彼らの王は、困って竜を見上げた。眼を細めて彼らの会話を聴いていた水竜は、ついと首をもちあげた。
『我ガ、山カラ真砂砂鉄を採り、鋼ツクルわざヲ、オシエヨウ』
『竜よ……』
王は安堵の息を吐き、男たちは浅瀬の泥のなかにひざまずいた。
『木ヲ植エ森ヲマモリ、水ヲ汚サズ……湿地ニ手ヲツケヌト誓ウナラ。汝ガ誓イヲ守ルカギリ、繁栄ヲ約シヨウ』
『誓います。天が落ちようとも』
王が竪琴を胸に抱いて答えると、他の男たちも口々に誓いを唱和した。竜は感情のうかがえない眼でそのさまを眺めたのち、長い首を優雅に振った。
『デハ、疾ク去ネ(「早く帰れ」の意)。王ハ竪琴ヲ奏デヨ。汝ガ音ハ心地ヨイ……』
クラノーグへ向かう竪琴弾きと竜を、濃い乳白色の霧がしっとりと包んだ。
(どれくらい昔のことだ?) ラダトィイ族の鉄つくりの起源に関わる出来事だ。アゲイトの内心の問いに、竜が答えた。
〈五百年。モット前カモシレヌ〉
人語を思い出したらしく、先ほどよりは滑らかな口調だった。
〈彼ラハ誓イヲ守ッタ。シカシ、ひとノ子ノ生ハ短イ……〉
つぎに霧が流れると、湿地には少し古くなった湖上家屋と、皮舟を囲む男たちの姿があった。アゲイトは舟のなかを覗き、すっかり年老いた竪琴弾きが横たわっているのを観た。女性の姿をとった竜が現れると、人々はひざまずいて彼女を迎えた。
竜は舟のうえに身をかがめ、息絶えた王の額をいとおしげに撫でた。感情のうかがえない凍ったような美貌でありながら、彼女の悲しみは凛と空気をふるわせた。王の胸には弦の切れた竪琴が置かれていた。竜はその竪琴を抱きとり、舟の縁に腰かけて人々をみた。
『我ハ誓イヲ守ロウ。彼ノ子孫ノつづくカギリ……。汝ラノ栄ト、コノ地ノ平和ヲ見守ロウ』
ラダトィイ族の祖先にあたる人々は、深々と頭を下げた。アゲイトは、彼らの先頭にいる若い男の首にみおぼえのある黄金のねじり頸環がはまっていることに気づいた。
王の遺体をのせた皮舟は岸をはなれ、ゆっくり沖の小島へ向かった。竜はもとの姿に戻り、彼に付き添って行った。
――アゲイトは我に返った。紫水晶の瞳がこちらを凝視めている。少年は、かすれた声で訊いた。
「五百年。ずっと……?」
竜はわずかに顎を引いた。
「あるとりくすガ去リ、ふぇるてじるガ目二星ヤドリシいま、汝ガ、我ガ誓イヲつグ者ゾ」
「アルトリクスは――」
竜は眼を閉じた。表情はほとんど変わらないが、抑えた悲嘆が伝わった。
「哀レナリ。あるとりくすハ傷ツイタ。裏切ラレ、せるまヲ喪イ、己ガ怒リト憎シミヲ、消スすべガナイ……。彼ハ去リ、イマダ戻ラヌ」
竜はまた大人に見えた。可憐な少女であったり臈長けた女性であったり、角度を変えると変化する水晶の中の幻影のようだった。
「我ガ誓イヲつグカ? あげいと……ふぇるてじるノ息子、あるとりくすノ意ヲつグ者ヨ」
「誓います」
アゲイトは迷いなく答えた。つよい意志を宿す黒い瞳を、シルヴィアはみつめた。
「おれはラダトィイの鍛冶の長になります。貴女の誓約を継ぎ、ラティエ鋼を守ります」
これを聞くと、シルヴィアはわずかに唇の端をつりあげた。瞳に笑みはないが、象る形からは満足がうかがえた。彼女は細い腕をのばし、アゲイトの首に巻きつけた。息を呑む少年の唇を唇でふさぎ、しなやかな身を胸にもたせかける。
〈汝ハ彼ニ似テイルナ。同ジたましいノ匂イガする……〉
リリ……という鈴の音を最後に、アゲイトの意識は霧に呑まれた。
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(注*)水中の鉄が酸化して(錆びて)沈殿したものを湖沼鉄といい、古代の欧州・日本各地で鉄の原料として用いられました。鉄バクテリアにより酸化をうけたものは赤く、ベンガラとして使われます。湖沼鉄が葦などの根に塊状に付着して石化したものが褐鉄鉱です。このとき内部の石灰質が溶けて空洞になり、天然の鈴ができます。「すずなり」の語源と言われます。




