第二章 誓いの継承(3)
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クルトとグレイヴ伯爵の一行は、〈聖なる炎の岳〉の裾野にひろがる森を抜けて西を目指した。囚人を乗せた檻車を牽いているので、集落を避けている。レイヴンは退屈そうに馬車の荷台で揺られていたが、クルトは産まれて初めての野営にわくわくしていた。
陽がかたむくと、一行は街道沿いの空き地に荷車を停めた。レイヴンは荷台からとびおり、伸びをしたり首を左右に振ったりして凝りをほぐし、鼻歌をうたいながら散策に出かけた。騎士と従者たちが天幕を建てはじめる。ライアンは〈夜の風〉号を空き地の隅の泉へと連れて行き、クルトは栗毛の手綱をひいて彼に従った。
「よく頑張ったな、クルト。腰は大丈夫か?」
ライアンは灯芯草をまるく輪にして結んだものを泉に捧げ、〈夜の風〉号に水を飲ませた。黒馬の鬣は夕日を浴びて銅色に輝いている。ほぼ一日中騎乗していた少年は内股がひりひりしていたが、上達したという実感があった。
「大丈夫です。それ、何ですか?」
「水をもらう礼を泉の妖精に贈っているんだ」
「ヤリーネス? グレイヴ卿は妖精が観えるんですか?」
「いんや」
ライアンは駆けてきたブラン(牝犬)の頭をなでて立ち上がり、炎色の髯におおわれた頬をくしゃっとゆがめた。
「万物にやどる精霊には敬意をはらえと、子どもの頃から祖母に言われてきたからな。習慣になっているんだ」
「ふうん?」
「戻って食事にしよう」
二人が馬をつれて荷車のそばへ戻ると、入れ違いに騎士たちが各自の馬をひいてきた。順番に水を飲ませ、草を喰ませる。その間に従者たちは石を集めて即席の炉を築いた。少年とはいえ、伯爵家の従者たちは全員クルトより年上だ。クルトは見よう見まねで彼らを手伝い、薪を集めた。傍らにはネルトとブランがいて、公子を護っていた。
ライアンの二頭の猟犬は、すぐクルトに馴れた。牝のブランは慎重で優しく、牡のネルトはやんちゃで遊び好きだ。もしゃもしゃの灰褐色の毛におおわれた巨体に挟まれていると気分が落ち着き、家を離れた寂しさは感じない。
ライアンは火を熾すと、鉄製の鍋を炉にかけて鹿肉のスープを作った。それに小麦粉とオート麦の粉を入れ、たっぷりの蜂蜜とアーモンドミルクを注いで煮詰めていく。ふつふつと甘い香りがたちはじめると、牛酪と鶏卵をくわえて水分をとばし、こってりとした麦粥を仕上げた。他の騎士たちは持参してきた鹿の腿肉をあぶり焼き、葡萄酒に干し無花果と蜂蜜とローズマリーをいれて温める。檻車の囚人にもパンと葡萄酒が与えられたので、クルトは少し驚いた。グレイヴ卿は裁かれた罪人をさらに苛むつもりはないらしい。
料理ができると男たちは火をかこみ、食事をはじめた。クルトはライアンの隣にすわり、二頭の猟犬は少年の足下にねそべってすじ肉を齧った。散策からのんびり帰ってきたレイヴンは、料理の分け前と葡萄酒をもらうと再び荷車に腰をおろし、少年に片手を振ってみせた。
ライアンの部下の騎士たちは、いずれも筋骨隆々とした男たちで、髪と目と肌の色はさまざまだ。クルトに最も近い場所に坐った騎士は、まっすぐな黒髪と青灰色の穏やかな瞳をもつ青年だ。クルトは彼に話しかけた。
「先住民出身の方ですか?」
「はい。トレナル(「勇敢な者」の意)といいます、クルト公子。宜しくお願いいたします」
「あっ、こちらこそ。宜しくお願いします」
耳触りの好いなめらかな声だ。丁寧に一礼されてクルトがわたわた応えていると、ライアンは笑った。
「ネルダエだろうと征服民だろうと混血だろうと、俺の城では関係ない。俺の祖母はネルダエだった。乳母もだ」
「……ぼくの父もネルダエです」
クルトがそっと付け加えると、ライアンは片手を少年の頭にのせ、わしわしと撫でた。トレナルは微笑んだ。
「存じております。ラダトィイ族の王、アルトリクス様ですね」
「ご存じですか。……良ければ、父のことを教えていただけませんか?」
男たちは会話を中断し、場は急に静かになった。風はやみ、馬たちさえ動きを止めた。荷台の上でレイヴンがこちらを振り返り、ライアンとトレナルは顔を見合わせた。
ひと呼吸ののち、ライアンが問い返した。
「〈白の御方(ティアナ女大公)〉とウォード(家令)から、聴いていないのか?」
クルトは首を横に振った。従者と騎士たちは食事を再開したが、彼らの会話に耳を傾けていた。
「詳しい話は、何も。叔母上もウォードも、『立派な人だった』とか『優しい方でした』とは答えてくれるんですが……」
「〈白の御方〉には答えづらいでしょうねえ」
荷台の端で脚をくんだレイヴンが、くすくす笑って口を挿んできた。葡萄酒をひとくち飲み、
「アルトリクス殿と一番ながく一緒にいたのは、グレイヴ卿ではありませんか?」
クルトが期待に満ちた眼差しをむけたので、ライアンはよわって首の後ろを掻いた。少年が実の両親のことをティアナに訊ねにくいのは、赤ん坊の頃から育ててくれた叔母に遠慮しているのだろうと推測する。
「ティアナは〈山の民〉に預けられていたからな……。お前たち姉弟が産まれるまで、アルトリクスは城にいたんだ」
「どんな人ですか? ぼくに似ていた?」
「無論だ」
アルトリクスがクルトに似ていたのではなく、クルトが年々父に似てくるのだ。ライアンは、幼い日の親友の面影を少年にみて眼を細めた。トレナルが補足する。
「黒目黒髪ですから、アゲイト君が似ていますよ。甥ですし。私がお目にかかった頃は、ちょうど彼くらいの御年でした」
「そうなんですか」
自分が産まれて間もなく城を去った父のことを、クルトは憶えていない。その父に自分やアゲイトのような少年時代があったと考えると、不思議な心地がした。
「父も騎士だったんですか?」
「いや」
あっさり否定しながら、ライアンは、父親に関するどんな小さなことでも知りたがる少年の熱意を切なく想った。
「〈鉄の民〉の鍛冶の長が剣技に秀でる必要はない。アルトリクスは剣をふるう者ではなく、創る者だ」
ライアンは肉をひときれ食べて視線をそらし、記憶をたどる口調になった。
「〈聖なる炎の岳〉の麓に、シャムロックの空き地があるだろう。アルトリクスはあの樫の輪でセルマ公女に出会った」
当時十五歳のライアンは、アイホルム大公に仕える従者だった。双子の公女セルマとティアナは、彼が護衛すべき姫君たちだ。――初夏の木漏れ日が花びらのようにふりそそぐ空き地で、胴着の裾と長い袖を緑の絨毯のうえに敷き、笑いさざめいていた少女たち。冴えた白金色の髪と青玉の瞳をもつセルマは朗らかで活発で、あたたかな蜂蜜色の髪と紫紺の瞳をもつティアナは淑やかで聡明だ。彼女たちが他愛もないおしゃべりをしながらシャムロックの花輪を編み、歌ったり踊ったりしている姿は美しい森の妖精のようで、見慣れたライアンたちさえ見惚れるほどだった。
ライアンは、彼女たちが幼い頃からティアナを愛していた。アルトリクスもまた、セルマを一目みて恋におちた。しかし、その後、姉妹はひき離され、戦争が始まった。騎士になったばかりのライアンと従者だったトレナルも、戦いに赴いたのだ。
ライアンは溜息を呑んで続けた。
「……大公に仕えるわけにいかないアルトリクスは、盾持ちに志願した」
「盾持ちに?」
「そうだ。セルマ公女は大気の妖精に授けられた銀の矢と、〈山の民〉の編んだ鎖帷子を身に着けていた。だが、完全ではなかった……」
ライアンが珍しく言い淀んだので、クルトは怪訝に思った。レイヴンが言葉を継ぎ、少年の理解をたすける。
「マオールの鎖帷子は、人の作ったあらゆる武器を防ぎます。しかし、〈闇の魔物〉の魔力をおびた矢には対抗できず、セルマ公女は傷を負ってしまわれました。アルトリクス殿は自ら盾を鍛え、公女の傍についたのです」
「父上の盾……」
呟くクルトに、レイヴンは荷台の盾を撫でて頷いた。
「ラダトィイ族にしかつくれない特殊な鋼の盾です。スピナのような魔物に対抗するには、ラティエ鋼製の武器が必要なのですよ」
「グレイヴ卿の剣ではだめなのですか?」
「残念だが、こいつはラティエ鋼ではない」
ライアンは傍らの〈輝ける鉤爪〉に触れて苦笑した。グレイヴ家に伝わる名剣は、今はティアナ女大公の織った濃い葡萄色と金の剣帯に包まれている。
「由来はいずれ話してやるが、魔物を斬れる代物でないことは確かだ。……クルト、お前にはお前の武器が必要だ。盾を〈鉄の民〉の里へもって行き、フェルテジル親方に打ちなおしてもらおう」
「はい」
「もちろん、どんな立派な武器も技量がなければ使えないぞ。しっかり鍛えてやるから、楽しみにしておけよ」
少年の不安を見透かしたようにライアンは言い、呵々と笑った。トレナルと他の騎士たちの反応も温かく、クルトは照れ笑いをうかべた。改めて、これから彼らとともに暮らしていくのだという実感がわき、新しい環境への期待に体の芯が熱くなった。
食事が終わると男たちは食器を片付け、従者たちは従者たちの、騎士は騎士たち用の天幕へ入った。檻車の囚人たちには毛布と便器がさしいれられ、風よけの覆いがかぶせられた。トレナルともう一人の騎士が寝ずの番をつとめる。ライアンの天幕に招かれたクルトがレイヴン卿を誘うと、魔法使いは馬車の荷台にごろりと寝そべり、外衣に身をくるんだ。
「わたしはここで結構ですよ。暖かいですし、この星空を楽しまないのは損です」
「梟に襲われても知らんぞ」
「……ご一緒させてください」
夜目の効かない鴉にとって梟は天敵だ。ライアンに低く脅され、レイヴンは肩をすくめて立ち上がった。彼の代わりにブランとネルトが荷台にのぼり、アルトリクスの盾を護って寝る体勢をとった。クルトはその様子をみて安心し、二人について天幕に向かった。
レイヴンは両腕をひろげて滑空の真似をすると、天幕の入り口の布をからげてひざまずき、ライアンとクルトを入れてから中へ入った。
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