序章: 影の王
嵐が近づいていた。
海から偏西風が吹きつけるこの地方では、防風のため家々の西側に木が植えてある。長年の風雪におしまげられた木々は、ねじれた黒い腕を伸ばし、うめき声をあげていた。
刈りいれ前の麦畑は、夕日を浴びて金紫色に輝いている。まるく肥った実をつけた穂が、風にあおられて一斉に波うつ。大麦はザワザワ、小麦はサワサワと。うちよせる光の波間を、むらびとたちは飛ばされぬよう腰を屈め、ある者は鍬をかつぎ、ある者は牛を連れて家路をいそぐ。
畑の間の小道を、男がひとり歩いていた。
農村には似合わぬ華奢な男だ。濃い褐色の毛織の外衣に覆われた身体は、少年と見まごうほど。腰の後ろでマントが剣におされて盛り上がっている。しめった西風がその裾をはためかせ、赤い縁飾りのついた革の長靴をあらわにする。縁飾りは襟にもあり、彼のわかい面差しに視線を集めた。洒落者だ。胸には木の葉を象った黄金の留め具がきらめき、ちらちら覗くマントの内張には金糸でからみあう蔦が刺繍されている。顎の下で切りそろえられたまっすぐな黒髪が、さらさらと風になびく。前髪のすきまからのぞく切れ長の眸は鮮やかな紫紅色。鼻梁はほそく顎もほそく、色白ではないが日焼けしていない肌は戸外で働く階級ではない証だった。
道を護るために植えられた櫟の大木が、ゆたかな葉で夏の日差しを遮っている。木漏れ日のななめに降る道を、男はのんびり歩いていた。北西、麦畑の向こうにある村を目指している。今年は豊作だ――もうじき村の共同の釜にパンを焼く煙が昇る。葡萄酒の仕込みが終われば、収穫祭がやってくる。香ばしい麦の匂い、焼いた鹿肉からしたたる脂、甘酸っぱいベリーソースをかけたヤマウズラの肉の味などを想像し、男の口の中に唾液があふれた。
風は警告の叫び声をあげながら、灰色の雨雲を運んできた。雲は陽光をさえぎり、次から次へと畑に巨大な影を落としていく。慌てて戸締りをするむらびと達を尻目に、男はうすい唇に微笑をうかべ、鼻歌でもうたいそうな気楽さで歩きつづけた。
風がごうと吼え、たてつけの悪い牛小屋の扉が悲鳴をあげた。農夫がつっかい棒をかませている。怯えた山羊が鳴き、鶏の羽ばたく音がした。さあっと潮の紗幕がとおりすぎたと思うと、ついに雨が降りはじめた。大粒のしずくが襟を打ち、焼けた土を叩いて埃をたてる。それまで悠然と歩いていた男だが、暗紫色の霧が流れてきて畑をおおうと、足を止めた。
西海からわき起こった雨雲が、ひくく雷鳴を轟かせながらやってきた。男の外衣を裏返し、腰にさげた護身用の剣をむきだしにする。雲のなかから烈しい犬の吼え声と、鞭のしなう音、車輪の軋む音が聞こえた。かぼそい啼泣を聴きとり、男は息を呑んだ。
男は背をのばし、風に負けじと声をはりあげた。
「王よ! いまだ狩の季節にあらず。その子を何処へ連れて行くおつもりか?」
渦まく雲から、二頭の白馬のひく黄金の戦車と、幼な子を脇にかかえた〈影の王〉が姿をあらわした。魔犬の群れを従えている。王の体の輪郭は闇におおわれていたが、琥珀色の双眸がぎろりと男をにらんだ。
「レイヴンよ、王の狩を呼び止めるとは何事か」
「お待ち下さい。その子は〈白の御方〉の甥子ではありませんか。犠牲になさるおつもりか?」
「いかにも」
遠雷のごとく、王は答えた。
「我らが忍従のときは永く過ぎた。もはや耐え忍ぶこと能わず。この者を贄とし、母なる神に捧げ、もって我が民を救うべし」
黒い影が、はるかにそびえる雪峰を仰いだ。〈聖なる炎の岳〉の女神は、この千年ねむり続けている。
レイヴンと呼ばれた男は濡れ羽色の外衣をひるがえし、いそいで戦車の高さへ舞いあがった。
群れの先頭の犬が彼の前にすすみでた。二歳の牛なみに巨大な犬だ。純白の毛は長く、尾は牛をつなぐ柱のごとく、大槍の穂のような耳の内は深紅で、瞳も燃える緋色をしている。たてがみには蒼白い焔がまといつき、ぼうと浮かびあがって見えた。
魔犬の長〈モーザ・ドゥーグ〉は牙をむいて威嚇した。
「どけ! 卑しいカラスめ」
「ちょお待ち! お待ち下さい。王よ、この十年、人間どもは平和を保っています。村人たちの暮らしは、いい感じに落ち着いています。彼らも貴方の民ではありませんか」
王は黙っていた。ふつふつと泡立つ闇から、少年の白い腕と金髪がのぞく。気を失っているのか、泣き声は聞こえない。レイヴンはごくりと唾を飲み、犬の吐く息の生臭さにひるみつつ訴えた。
「もう少しお待ち頂けませんか。わたしは今の人間どもとの暮らしを気に入っているんです。〈白の御方〉とその子にも、備えが必要です。どうか、お願いします」
〈影の王〉が不満げに思案している間、魔犬たちは牙を噛み鳴らし、よだれと鼻息を吹き散らした。レイヴンは顔をそむけたいと思いながら、我慢して待っていた。やがて、王はいまいましげな舌打ちとともに少年を投げてよこした。
痩せた子どもの体をうけとめきれず、レイヴンはよろめき、櫟の梢に背をぶつけた。
「三年だ。そちらの時間で三年、待ってやる」
王はわれ鐘のような声で宣言して鞭をふった。レイヴンは少年を抱えて抗議の声をあげた。
「三年? ちょっ、短すぎやしませんか。せめて五年、いや十年」
とたんに魔犬の長が吼えかかったので、彼は少年もろとも木の根元にまろび落ちた。
王は戦車の向きをかえ、冷ややかに二人を見下ろした。
「三年経ったら迎えに行く。待っておれ」
ぴしりと鞭がひらめき、戦車は騒がしい音をたてて走り去った。魔犬たちがあとを追う。残されたレイヴンは、少年を膝にのせたまま呆然とそのさまを見送った。
雨はいまや鈍色の空から滝のような勢いで降っていた。男はわれにかえり、少年を揺さぶった。
「クルト! 大丈夫か?」
少年は裸足で、白金色の髪も毛織の上衣と脚衣もぐっしょり濡れそぼり、白い顔は蒼ざめていた。風にさらされて体温が下がり、唇が紫色になっている。レイヴンは大いに慌て、少年の頬をぺちぺち叩いた。
「しっかりしてくれ。わたしの翼ではおまえを運べないんだぞ」
雨と風の叫びをぬって、馬蹄の音が近づいてきた。夜霧のなかでまたたく灯のごとく、澄んだ少女の声が響いた。
「クルト! どこ?」
「クレア! ここだ! 助けてくれ!」
レイヴンがはっとして呼ぶと、蹄音が迫って鼻息と泥を跳ねあげた。少女の悲鳴に、変声したばかりの少年のかすれた声が重なった。
「クルト! レイヴン卿!」
「アゲイト! 良かった。手を貸してくれ」
葦毛の牝馬にはクルトそっくりの金髪の少女が騎り、栗毛の去勢馬には浅黒い肌の黒髪の少年が騎っていた。アゲイトは手綱をひき、二人のそばに降りて来た。レイヴンと力を合わせ、クルトを栗毛の鞍に押しあげる。
「クルトの馬か?」
問われて、アゲイトはこくんと頷いた。一瞬、唇の端をゆがめたのは、クルトがひとりではうまく馬に騎れないことを知っているからだ。黒曜石の瞳でレイヴンをみつめ、短く訊いた。
「あんたは?」
「この風では飛べない。騎せてくれ」
レイヴンは葦毛に駆けより、クレアの後ろに跨った。アゲイトはクルトを左手で支え、右手で手綱をひいた。栗毛がいなないて走り出す。クレアも葦毛を励ましてあとを追った。
四人を騎せた二頭の馬は、森のなかをひきかえした。鬱蒼としげるブナや杉の根元に領民たちが石畳を敷いた道を、二頭は雷鳴に追われてとぶように馳せた。
辺りはすっかり闇におおわれている。時折はしる稲妻が濡れた石畳に反射し、木々の姿を幽霊のように描きだす。クレアは葦毛の首にしがみつき、そのたびに悲鳴をあげた。
アイホルム大公家の城〈マオールブルク〉は、〈聖なる炎の岳〉の中腹にある。元は先住民が山の女神を祀るために建てた神殿を、北から来た征服者が居城として整備したのだ。〈炎の岳〉から北西にのびる丘陵のうえに、周囲を堀に、背面をきりたった崖に護られた石造りの城壁と塔がそびえている。そこに至る道は、旧い神殿の参道だ。二頭が木立を抜けると、灰紫色の雨雲におおわれた空を背景に、嵐に耐える狼のようにうずくまる城が現われた。
外出したまま帰ってこない公子たちを心配していたのだろう。跳ね橋はおろされ、門には松明が燃えていた。彼らをみとめた衛兵たちが口々に声をあげるなか、レイヴンとアゲイトは乗馬を内郭に騎り入れた。
家令のウォードが松明を手に出迎えた。白髪まじりの褐色の髪、灰色の瞳と銀の口髭をもつ謹厳な壮年の男だ。数人の侍女と下男を従えている。
「クレア様、クルト様! どうなさいました?」
「詳しい話は後だ。御方さまにとりつぎを。〈影の王〉が現われた!」
レイヴンが叫ぶと、ウォードは蒼ざめつつも下男を報告に走らせた。侍女頭のゲルデがおおきな亜麻布をひろげ、葦毛から降りるクレア公女を抱きとめる。アゲイトは栗毛から降りると、炭袋のように軽々とクルトを背負い、ウォードについて大広間への階段を昇っていった。
クルトの意識は戻らない。血の気のない頬を従兄の肩にのせ、白い腕をだらりと垂らしている。
新鮮な藺草の敷かれた大広間では、暖炉に火が燃え、あかあかと燈火がゆれていた。ここちよいぬくもりの中心に、城のあるじは佇んでいた。――雪白の肌に映える黄金の髪は、波をうって腰まで流れている。湖水のごとき青い瞳をもち、すらりとした姿は森の仙女と称えられる。わかき女大公は、しなやかな手指を胸のまえで絡ませ、細い声をふるわせた。
「クルト! クレア!」
「おばさま!」
クレアは侍女頭の腕をはなれ、彼女にしがみついた。母代わりとなって双子の姉弟を育ててきた女大公は、少女の凍えた頬を掌につつんだ。
「こんなに冷えて。何があったの? ……そっとおろしてね、アゲイト。ありがとう」
家令と侍女たちが樫の木のテーブルの上に乾いた藁と亜麻布を重ね、アゲイトはそこにクルトを寝かせた。女大公が甥の顔をのぞきこむ。アゲイトは少年の傍をはなれ、部屋の入口にさがった。
ティアナ女大公はクルトの髪を撫で、レイヴンに向き直った。
「貴方がついていながら。どういうことですの、レイヴン卿」
(ついていたんじゃありませんー。通りがかっただけですー) 胸のなかでぼやきつつ、レイヴンは説明を試みた。
「〈影の王〉が魔犬の群れを率いてあらわれ、クルト坊を攫おうとしたのです」
「〈影の王〉?」
ティアナ女大公は柳眉を寄せてつぶやいた。嵐とともに現われる幽霊の狩猟隊、魂を狩る〈夜の騎行〉は、真冬が多い。季節外れなだけでなく、クルトひとりを狙う理由が分からない。
レイヴンが続ける言葉を探していると、クルトの体を拭こうとした侍女が悲鳴をあげた。意識のない少年の上衣の脇腹がふくらみ、もごもご蠢いている。
一同は息をのんだ。さては悪霊かと身構える大人たちの眼前で、上衣の襟を押しあげて、クンクン鳴くとがった鼻が現われた。
真っ黒な毛はぬれて痩せた体にはりついている。耳は木の葉のように垂れ、黒い瞳はおびえきっている。少年の衣から這いだした仔犬は、震えながら彼の肩によじのぼり、くしゅんと小さなくしゃみをした。
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