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バイオリン二重奏「讃歌」  作者: 最中亜梨香
8/11

六日目 side Gray and Ann

「おーい、早く朝ごはん食べて準備しろー」

 父親に揺さぶられ、兄妹はうーんとうなる。

「準備って何の?」

「ノックベリーに行く準備だよ。作ったジャムを売りにいくんだ。忘れたのか? 早くしないと置いてくぞ」

 二人の目がぱちくりと開く。

「行く!」

 二人は小さなベッドから飛びだし、慌てて着替え始める。

 すっかり忘れていた。そうだった。月に一度、父と母は作ったジャムを売りにノックベリーへ行く。それが今日だ。手伝いとして子ども達も駆りだされる。

 よそ行きの服を着ると、兄妹はテーブルに駆け寄る。すでに四人分のスープが置かれている。

「おはよう。早く食べてしまいなさい」

 兄妹は競い合うようにして、スープを一息で飲み干す。

「ねえ、パパ、ママ。ノックベリーに着いて、お店の準備ができたら、兄ちゃんとふねを行ってもいい?」

 一足先に飲み終えたアンが母に尋ねる。アンはふねという乗り物が好きだった。村には川がなく、町に行かないと見られないものだからだ。

「ダメに決まってるでしょ。子どもだけでは危ないよ」

「すぐ帰ってくるからさあ」

「母ちゃん、俺も行きたい」

「ダメよ。わがまま言わない!」

 母は頑として首を縦に振らない。そこへ、馬車の準備をしていた父が入ってきた。

「どうした? 早く食べないと出発できないぞ」

「それが貴方、この子達遊びに行きたいって言ってるの。二人だけで」

 グレイとアンは素早くお父さんの元へ行き、手を握る。

「お願い! ふねを見たらすぐ帰ってくるから!」

「ちゃんとお店の手伝いもする!」

 ありったけの力をこめて父の顔を見つめる。

 父は長いこと黙っていた。だけど、

「まあいいだろう。少しだけだぞ」

「やったー!」

 歓声をあげるグレイとアン。母は父を睨んだ。

「貴方……」

「少しくらいならいいと思うぜ。俺も小さい頃一人で町を歩いていたし。お前は心配しすぎだよ」

 兄妹は夜明け前の外に駆け出した。薄明かりの中、せっせと荷馬車にジャムを積む。

「仕方ない子達だね。今回だけだよ」

 子供達の後ろで、母は額に指を当て、ため息をついたのだった。

 全ての準備が整うと、荷馬車が出発する。お父さんが前に座って馬に鞭を打ち、お母さんと兄妹は後ろの荷台でジャムの隣に座る。

 村を出て、森の中のうねうねとした一本道を走る。空はようやく明るくなり始め、森の暗闇が少しずつ消えていく。

 グレイとアンはくっついて荷台の端に座っていた。荷台はよく揺れて、座っているとお尻が痛くなる。しかし、今の二人にはどうでも良いことであった。ふねのことで頭がいっぱいだ。

 日がすっかり昇った頃、荷馬車はようやく森を抜けた。抜けた先は荒地だ。幹がやけに細い、ひょろっとした木がぽつりぽつりと生えているだけの何にもない所である。日差しが照りつけ、額に汗がにじむ。

「父ちゃん、まだ? もっと速く走らせろよー」

「まだだ。辛抱しろ!」

 しばらくすると、城壁が見えてきた。町に近づくにつれて道が舗装され、荷台の揺れが少なくなる。城門に着くと、お父さんが兵士に記号が書かれた木の板を見せた。これが通行証だ。

 兵士は板を見るとすぐに門を開けた。何もない外から一転、人とものでひしめき合った場所に出る。道は石畳で馬車がすれ違えるようになっており、多くの荷馬車が走っている。そのすぐ横を、荷物を持った人が大声をあげながら歩いている。

 兄妹を乗せた馬車はゆっくりと町の中央市場へ向かった。この市場は大河にほど近い場所にあり、一番賑わっている。父は時計台の裏に馬車を止めた。ここでいつもお店を開くのだ。

 兄妹はお父さんと一緒にお店の準備をした。布を広げ、その上に机代わりの木箱を置く。木箱の上にジャムを置く。雨が降っている時は屋根も作るが、今日は綺麗に晴れているので必要がない。

「ねえ、ふね見にいってもいい?」

「いいぞ。気をつけてな」

 アンとグレイは駆け出した。人やものの間をうまくすり抜け、坂を登って堤防の上に出る。そして、二人揃って「わあ!」と歓声をあげた。

 丸太を組み合わせた舟が、川面にひしめきあって浮かんでいる。支柱に大きな布を張り、今まさに川下へ下ろうとする舟もあれば、岸に止まっているふねもある。どのふねにも人がたくさん乗っていて、大声で怒鳴りあっている。

「お姉ちゃんはどのふねに乗ってきたのかな?」

 グレイは適当に指差した。

「んー、あの赤いヤツとか」

「あの箱、赤いね。何が入ってるの?」

「野菜とか肉なんじゃないの」

「あっちのおっきいのは?」

「知らん」

 グレイは返事をするのが面倒くさくなってきた。しかしアンはそのことに気づかない。

「あそこにたくさん人がいるよ。何かあるのかな」

 アンが指差す先、川辺の小さな小屋の前で、人だかりができている。

「何やってんのかな。見にいってみようぜ」

 二人は堤防の急な坂を下り、ボート置き場へ向かった。大人達の背後からそうっと近づく。

「誰なんだろうな。この人。この辺りじゃ見ない顔だが……」

 深刻な顔でひそひそとささやく大人達。

「事故か? それとも──」

 人と人との隙間からそっと覗く。

 地面に、一人の女性が横たわっていた。濡れた金色の髪、日焼けしていない白い肌。そして見覚えのある横顔。

「メアリお姉ちゃん……?」

「あ、こら! こっちに来ちゃ駄目だよ! 向こうに行きなさい!」

 ようやく兄妹に気がついた大人が追い払おうとする。だが二人は静止を振り切り、メアリの元へ駆け寄った。

「姉ちゃん起きろ!」

「お姉ちゃん! お姉ちゃん!」

 いくら呼びかけてもメアリは答えない。

 目を閉じたメアリの顔には傷一つなく、眠っているように見える。だが、その手に温もりはない。

 兄妹の呼びかけは泣き叫ぶ声に変わっていく。周りの人々は、何も言えずに兄妹の後ろに立ち尽くす。

「あの野郎……!」

 泣き声混じりにグレイは吐き捨てる。誰のことか言わなくても分かる。あの死神だ。死神が狙っていたのは父親ではなく、メアリの方だったのだ。

 やがて、教会の人間がやってきた。メアリを担架に乗せて教会へ運ぶ。アンとグレイはその後ろをトボトボついていった。

 教会で、兄妹はそこにいた大人に色々話を聞かれた。死神のこと以外は全て話した。その後は教会の椅子に座って、ぐすぐす泣いた。哀れに思ったシスターが隣に座って抱きしめる。

 どれくらいの時間、そうしていただろうか。

「メアリはどこだ!」

 教会に二人の男が入ってきた。一人は毛皮の変な服を着ている。もう一人はガリガリに痩せている。

 ズカズカ入ってきた男達に、神父は戸惑う。

「あのう、どなた様ですか?」

「私はアレン・アンダーラダーと申します」

 男のうち、妙な格好をした方が言う。

「クロウ・アンダーラダー。メアリの夫だ」

 もう一人のガリガリに痩せた方が言い放つ。

「夫?」

 皆の視線が彼に一斉に集まる。クロウは重々しく頷いた。

「ああ、そうだ。メアリは俺の妻だ」

 グレイは隣にいるシスターに尋ねた。

「ねえシスターさん、おっとって何だ?」

「結婚した男性のことよ。例えば君のお父さんはお母さんの夫よ」

 グレイは首をかしげる。

「姉ちゃん、おっとがいるなんて一言も言ってなかったぞ?」

 ふん、と鼻を鳴らすクロウ。細く小さい目で子ども達を見る。

「メアリが言わなかっただけだ。それよりメアリはどこだ、神父さんよ?」

「こ、こちらです」

 神父は二人を棺がある部屋へ連れていく。

「あの人、お姉ちゃんがいなくなったこと、ちっとも悲しんでない」

 アンが眉をひそめて言う。

「なんか怪しいぞ、あいつ」

 兄妹は一緒にトイレに行くふりをして、クロウの跡をついていった。

 部屋の入り口からそっと顔を出す。薄暗い小部屋の真ん中にあるテーブルに、メアリが寝かせられている。見ると涙が止まらなくなるので、できるだけ見ないようにする。

 二人の男は神父と何か話していたが、先に神父が部屋から出てきた。兄妹はドアの影に隠れてやり過ごし、耳をそばだてる。

 クロウは入り口から子ども二人が盗み聞きしているとはつゆ知らず、メアリの遺体の横でアレンと話す。

「まさかこんなに早く死ぬとはな」

「結婚式の準備がパアになったけどねえ」

「それくらい返してやるさ。メアリも王子もいなくなって、ようやく俺は宮廷音楽家のトップに立てる。収入が跳ねあがる……フフフ」

 笑い声を聞いた途端、グレイの背筋にぞくっと寒気が走る。

「まあ、私もあの森を手に入れられて満足だよ」

「前から思ってたんだが、あんな森手に入れてなんになるんだ?」

「あそこにはサンドロップという希少な花が咲いてるんだよ。他では咲いてない上、薬にもなる。お金の気配を感じるだろ? キャンドル家はその価値に全く気づいていなかったがね」

「なるほど。そりゃいいな」

 グレイは八歳、アンは五歳。彼らの話の内容を完璧に理解することはできない。しかし、それでも分かることがある。メアリを殺したのは死神じゃない。こいつらだ。

 はらわたが煮え繰り返ったグレイは、ドアの陰から飛び出す。

「お前だ! お前がお姉さんを殺したんだ!」

 アレンの足を蹴る。止めにはいったクロウの顔を引っ掻く。

「何だてめえ!」

「お姉さんを返せ!」

 無茶苦茶に暴れるグレイ。騒ぎを聞きつけて神父とシスターがやってくる。

「どうしたんですか!」

「こら、やめなさい!」

 大人達はグレイを捕まえようとするが、グレイはその間を巧みにすり抜けて逃げる。

「お兄ちゃん、こっち!」

 窓の外でアンが手を振っている。グレイはすぐに外へ飛び出した。

「いつの間に外出たんだよ」

「さっき。お兄ちゃんが飛びだしたの見て、こうなるだろうなあって思ったの。それに」

 アンはちらりとメアリを見た。それから鬼の形相で追いかけてくる男から逃げ出した。人混みの隙間を右へ左へと駆け抜け、裏路地の物陰に隠れる。

「もう追っかけてこないよね……」

 肩で息をしながらアンは背後を振り返った。恐ろしい形相の男達はいない。

「とりあえず大丈夫だろ」

 グレイは地面に腰を下ろす。アンも隣に座った。息を整え、足を休める。

「これからどうするんだ?」

「お兄ちゃん。私ね、教会で不思議な糸を見たの」

「糸?」

 頷くアン。

「教会でね、お姉ちゃんの胸から白くて光る糸がのびてるのを見つけたの」

「俺には見えなかったぞ」

「暗いところじゃないと見えないよ」

 アンは空を見た。太陽の位置からすると、まだお昼にもなっていない。

「母ちゃんのところに戻ろう。それで夕方になったらもう一度二人で教会へ行こう」

「うん」

 兄妹は互いの手を握った。その時、背中の後ろから大きな影がさした。振り返ろうとしたその瞬間、頭に強い衝撃が走り、兄妹の意識は痛みの向こうに消えていった。



 グレイは暗闇の中で目を覚ました。頭がズキズキする。両手を動かそうとすると、ロープが食いこむ。

「んっ!」

 痛みに思わず声をあげたが、その声はくぐもっていた。口に布か何かが詰められていて、声がうまく出ないのだ。

「んん?」

 すぐ後ろでアンの声が聞こえた。

「ん、んん!」

 アンも口に何かを詰めこまれているようだ。声がくぐもっている。だがそれでも、アンはすぐそばにいる。グレイは少しほっとした。今何がどうなっているか、考える余裕が生まれた。

 グレイの両手は背中で縛られている。足も縛られている。何とか寝返りを打つと、頬が冷たく硬いものに触れた。

 次に鼻で息を吸ってみる。埃っぽく冷たい。グレイは祖父の家の地下室を思いだした。

 そこまで考えた時、コツコツという足音が聞こえてきた。

 じっと耳をすます。足音は少しずつ近づいてきて、突然止んだ。そしてギィッ、という音ともにオレンジ色の光が辺りをパッと照らす。

 燭台を持ったアレンと白い袋を持ったクロウが、ドアを背にして立っている。

「起きたか、ガキども」

 クロウが拳を握りしめてグレイ達を睨みつける。グレイも負けじと睨み返した。

「何だ、その目は!」

「落ち着きなさい、クロウ。大きい声を出すと周りに聞こえてしまうだろう」

 アレンがクロウの腕をそっと抑える。

「安心しなさい、すぐにここから出してあげるから」

 兄妹に微笑みかけるアレン。しかしその目は全く笑っていない。

 アレンはグレイの前に立った。ろうそくの光が逆光となり、グレイからはアレンが真っ黒な怪物のように見える。

 アレンは微笑みを浮かべたまま、グレイの首にゆっくりと両手を伸ばした。

「クロウ様、アレン様! 伝使がお見えです! 直接手紙をお渡ししたい、と!」

 遠くから、女性の声が聞こえてきた。クロウは舌打ちし、ドアの方を見る。

「何だ、こんな時に? まあいい。先にこいつらを始末して──」

「どこにいらっしゃいますか? クロウ様、アレン様?」

 声はさっきよりもずっと近い。アレンはため息をついた。

「仕方ない、クロウ。先に会って用を済ませよう」

「ああ、分かった」

 二人は兄妹に背を向け、部屋から出ていった。

 真っ暗になった部屋で、グレイは息をする。吸って吐いて、心臓を落ち着ける。

「大丈夫?」

「う、うん。早く逃げるぞ。ロープは解けそうか?」

「手首に食いこんでて、無理だよ」

 再び足音が近づいてくる。今度こそ終わりだ。殺される。グレイの目から涙が溢れだした。両親は兄妹を見つけてくれるだろうか。

 音を立てて扉が開く。

「誰かいるの?」

 入ってきたのはあの男達ではなかった。エプロンを着た大きな女の人だ。右手に燭台を持っている。女の人は床に転がっている二人の子どもを見るなり、大声をあげて二人の前に膝をついた。口に詰めこまれた布を取りだし、手足を縛るロープを解く。

「大丈夫? 何でこんな所に閉じこめられているの? 誰にやられたの?」

「助けて! 悪い奴らに閉じこめられたんだ!」

 その時、遠くから足音と、クロウ達の苛立った声が聞こえて来た。兄妹はすぐに立ちあがり、ドアを開ける。

「ちょっと! どこへ行くんだい!」

「姉ちゃんも逃げろ!」

 グレイはそれだけ言い残し、アンと一緒に部屋を飛びだした。外は狭く薄暗い廊下で、足音が聞こえるのは左だ。グレイはアンの手をひいて右へ走りだす。

「おい! あのガキどもをどこへやった!」

 後ろからあの男達の声が聞こえてくる。女の人が何か叫んでいるが、じっくり聞いている暇はない。

「いたぞ!」

 ちらりと後ろを見る。悪魔の形相をした二人の男が、凄まじい速さで追いかけてくる。

 グレイはドアを開け、階段を駆け上がった。目に入ったドアを開ける。椅子や机が山積みにされた物置だ。兄妹は椅子と椅子の間の、細い隙間に隠れた。

 キイ、とドアが開く。息を止めた二人のすぐそばに、固い靴音が近づいてくる。

 しかし、やがて音は横を通り過ぎ、元来たドアから去っていった。

 真っ黒な埃だらけの部屋の中で、グレイはゆっくり顔をだした。

「やっと逃げきれた……」

「さっきの助けてくれた人、どうなったのかな?」

 不安げな目で窓を見あげるアン。グレイはクロウの冷たい手を思いだし、首をさすった。

「助けないとな」

「じゃあ誰か呼んでこようよ。パパとかママとか。私達じゃ無理よ」

「ああ。早くここを出るぞ」

 そっとドアを開け、外の様子を伺う。広い廊下には、丁度誰もいない。

「どっちへ行く?」

 グレイはアンに尋ねた。アンはこういう時のカンがとても良い。

「うーん、左!」

 他人がいないかキョロキョロ周りを見ながら、抜き足差し足で廊下を進む。

「ねえ、主人の奥様が死んだって──」

「その人、王子を殺したって言う──」

 誰かの話し声が聞こえた時は、物陰や部屋に隠れてやりすごす。

 しばらく進むと、一際大きな扉の前に出た。兄妹は素早く開けて、中に入った。

 そこは廊下ではなく、部屋だった。メアリの館の部屋ほどではないけど、それでもとても広い。

「ここ、何の部屋?」

「あのおっさんの部屋だろう。ほら、あれ」

 グレイが指差した先には、アレンとクロウの肖像画が壁にかけてあった。肖像画の横には大きな棚があり、分厚い本や羊皮紙の束が置いてある。棚の横には細長い窓がある。グレイは窓をふさぐ鎧戸を開けた。

 すぐ下に屋根がある。ここから逃げられそうだ。グレイは屋根の向こうに目をやった。空は赤く染まりつつある。古そうな館と綺麗な庭が西日に照らされ、とても綺麗だ。だけどその綺麗な庭にはエプロン姿の人があちこち立っていて、見つからずに屋根を渡るのは無理だろう。だが逃げ道はここしかない。

「アン、こっち来い」

「え?」

 バサバサと音がした。振り返ると、棚の前にいたアンの足元に大量の羊皮紙が崩れおちている。何か文字が書いてある。

「おいバカ! 何やってんだ!」

「あ、あの、見てたらバサバサってなっちゃった」

「字なんか読めないだろ!」

「でも何か気になったの!」

 部屋の外から、本日何度目かの靴音が聞こえてくる。兄妹が窓に駆け寄る暇もなく、ドアが開いた。

「やあっと見つけたぞ、ガキども」

 クロウとアレンがゆっくり入ってくる。クロウの右手には巨大なナタが握られている。

「こんな所まで入ってくるなんて、悪い子だなあ、本当に」

「来るな!」

 グレイは、机に置いてあった置物を投げつけた。そして、アンの腕を掴んで窓から屋根へ逃げ出す。滑らないよう注意しつつ走る。

「そいつを捕らえろ! 侵入者だ!」

 庭で何事かと見ていた使用人があたふたと動きだす。兄妹を指差し、怒号をあげて走りだす。

 二人は屋根の端まで来た。開いている窓を見つけて中へ入る。だがそこには使用人がいた。

「止まれ!」

 止まれと言われて止まるわけがない。グレイはそばの階段めがけて走る。

「きゃあ!」

 アンがグレイの足の速さについていけず転んでしまう。グレイはすぐにアンを起こそうとするが、使用人が二人を捕まえるほうが早い。上から力づくで身体を押さえつけられる。叫んでも暴れても、押さえつける力は微塵も緩まない。胸が圧迫されて呼吸することすら難しい。

 だがその時、

「何してるんだい!」

 先ほどグレイ達を助けてくれたあの女の人が階段をのぼってくる。頬に大きなアザができている。

「こんな小さい子を、よってたかって痛めつけるなんて!」

「ケ、ケイトさん!」

 力が緩んだ。二人はすぐに抜け出し、ケイトと呼ばれた人の元へ駆け寄る。

「大丈夫だったかい? 二人とも」

 ケイトは二人の頭を撫でつつ、困惑している使用人達を睨みつける。

「あの、その子達を捕まえろと主人が……」

「この子達はさらわれたの! あの馬鹿野郎にね! それで殺そうとしたのよ! 見なさいよこのアザ! あいつらにやられたのよ!」

 ケイトがまくしたてているちょうどその時、奥からクロウとアレンが怒号をあげてやってくるのが見えた。ケイトは子どもの耳元に口を近づける。

「そこの階段を下りて右のドアを開けなさい。外に出られるわ。それから木立に向かって走りなさい。そこを抜けたら町に出るよ」

 そして、ピシッと二人のお尻を叩く。

「逃げて!」

 矢のごとく兄妹は走りだした。ケイトの言った通り、階段を下りて右のドアを開けると外に出た。目の前の木立へ迷わず飛びこむ。地面がでこぼこして走りにくいが、足は絶対に止めない。

 遠くから犬の鳴き声が聞こえてくる。何頭もいるようだ。

「あれって」

 グレイは頷いた。

「分かってる」

 猟犬だ。こんな木が生い茂る所で聞こえる犬の声なんかそれ以外ありえない。

 グレイは村の猟師が怖い顔で話したことを思いだした。子どもだけで森の深いところへ行くと、猟犬は子どもを森に住む動物だと勘違いし、鋭い鼻で確実に見つけだして速い足で追い詰め、鋭い牙で食い殺してしまう。だから大人以外は決して森の奥深くに行ってはいけないのだ。

 グレイの頬を冷たい汗が流れる。一刻も早くここから出なければ。

 アンがグレイの袖を引っ張った。

「お兄ちゃん、あそこ!」

 道から外れた茂みの向こうに小屋がある。

「よし、ひとまずあそこに隠れよう!」

 草をかきわけ小屋に近づき、ドアノブを引く。しかしドアには鍵がかかって開かない。だがアンは、屋根の近くの壁に通気口を見つけた。何とか通れそうな大きさだ。

 グレイが踏み台になり、まずアンが通気口から中に入る。程なくして小屋のドアが開いた。グレイが中に入ると、二人は手探りで見つけた重い箱を苦労してドアの前に運んだ。これで犬に襲われる心配はない。

「少しだけここでやり過ごして、犬がどこか行ったらすぐに出よう」

 アンは答えなかった。

「どうした?」

「お兄ちゃん、目の前にあるものが見える?」

 グレイは目を凝らした。真っ暗で何にも見えない。

「いや、全然。何かあるのか?」

「糸があるよ。教会で見たのと同じ。通気口から伸びてきてる」

「ここに姉ちゃんがいるってことか?」

「分かんない。糸は右に向かってる」

 立ちあがり、右に歩くグレイ。だが何かに引っかかり、盛大に転ぶ。

「大丈夫?」

「痛った……大丈夫だ。ちょっと目が慣れるまで待とう」

「うん」

 そこで会話は途絶え、静かな時間が流れる。グレイは小屋の外に犬か何かが来たりしないか、耳をすませる。

 パリ、パリ、パリ。

 突然すぐ近くで奇妙な音がした。

「何だこの音!」

「私が部屋から持ってきた紙の音」

 能天気なアンの言葉。

「び、びっくりさせてごめんね。大丈夫?」

 グレイはぶん殴ろうとする右手を左手で抑える。

「な、ん、で、そんなもの持ってきてたんだよ!」

「部屋を出た時に間違ってポケットに入れちゃった。どうしようこれ」

「その辺に捨てとけよ。そんなの役に立たないだろ」

 目が暗闇に慣れるのを待つこと数分。やがて、物の輪郭がぼんやり分かるようになってきた。部屋の真ん中にある長細くて大きな箱。中を見なくても分かる。そこでメアリが眠っているのだろう。グレイは糸が伸びているという右側を見た。大きな板が立てかけてある。

「右にあるのは板だよな? 板のどこに糸が?」

「板の後ろだよ。隙間があるでしょ。中に何かあるのよ、きっと」

 足元に注意しつつ、板と壁の隙間へゆっくり近づいて覗く。中は暗い。ものすごく暗い。夜の森よりも暗い。

「何があるんだ?」

「糸だけ。ずっとまっすぐ奥まで続いてる」

「奥? ここは小屋だろ。地下でもあるのか?」

「ううん、ない。この先は小屋じゃないよ」

「小屋じゃなかったら何なんだ?」

「うーん……どこなんだろう?」

 暗闇の中で、アンは首を傾げた。

「とにかく姉ちゃんはこの先に?」

「いるよ」

 アンはきっぱりと言った。グレイの恐怖が小さくなる。

「なら行こう」

 糸が見えるアンが先に、続いてグレイが隙間に入る。しっかりと手を繋ぎ、闇へ歩きだす。空気はひんやりとしている。音は全くない。自分達の足音や呼吸音でさえも耳に届かない。繋いだ手の温もりだけが、お互いが離れず存在している証だ。

 次第に時間の感覚が消えていく……どれくらい歩いたのだろう、クロウとアレンはまだ追いかけているのだろうか、父ちゃんと母ちゃんはどうしているだろう、村の皆はどうしているだろう。色々な考えが泡のように浮かんでは弾けて消えていく……。

 どれだけ時間が経っただろうか。グレイとアンは、周りが明るくなってきたことに気づいた。

 明るさが増すにつれ、兄妹の顔は驚きの表情に変わる。

 そこは霧が漂う森だった。二人はいつの間にか、小道の上に立っていた。

 周りにそびえ立つ木々は、今まで見たことがない種類のものだ。生き物の気配はなく、あまりの静かさに耳が痛くなってくる。

「うん。糸はこの道を通ってるよ」

 グレイは足元に目をやった。その時、初めて道の真ん中で白く光る筋を見つけた。

「僕にも見えるぞ、その糸」

「あれ、そうなの? 不思議だね」

「一体どこなんだ、ここ。早く姉ちゃんを見つけるぞ」

 終わりの見えない、果てしない森の小道を、兄妹は臆することなく進む。

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