068 Lovers - 天国でも地獄でもない場所で
ハルシオン――いや、首の切断面から黒い触手を無数に蠢かせる“魔王”は言った。
「おおぉおお……殺さないと。おおおおおぉぉおおお! みんな、殺さないと! 役目をぉおお! 筋書きをぉおお! 満たすのぉぉおおおお! だって私、マーリンのことが大好きだからぁぁぁああっ!」
女性の声と混ざって、低く冷たい無機質な音が聞こえる。
それが本来の魔王の声なのだろうか。
あるいは、周囲の者たちに恐怖を与え、支配するための装置なのか。
魔王の声を聞いて、サーヤはぞくりとした寒気を感じていた。
『本能に呼びかけてくるのよ。耳を貸しちゃダメよ、サーヤ』
「わかりました、お師匠さま。惑わされずに、まっすぐに行きます! はあぁぁぁああッ!」
まずは超迅拳クラウソラスで、光速を越えた小手調べだ。
サーヤは、特に拳を振るった自覚は無かった。
ただ光速で移動し、前に突き出した腕で相手の体に触れただけ、である。
ヒュボッ!
ただそれだけで、ハルシオンの腹部には大きな穴があいた。
あまりのあっけなさに、サーヤは逆に不気味さを感じる。
「殻。器。鞘」
魔王は黒い触手を伸ばすと、軽くサーヤの頬に触れた。
「ひっ!?」
ぞわりと鳥肌が立つ。
触れられた部位から特に何かが流れ込んでくるわけでも、スペルが発動したわけでもないのだが、その生ぬるい感触に、サーヤはなぜか安心感を覚えてしまったのだ。
それが、気持ち悪くてしょうがない。
サーヤは後方に移動し、瞬時に魔王から距離を取ると、拭うように手のひらで頬をこすった。
『心配いらないわ、何もされてないから』
「お師匠さま、あれはどういうものなんですか? さっき殴ったとき、ハルシオンさんを守るような素振りも――そもそも、わたしと戦うような力すら感じませんでした!」
『そういうものなのよ』
「ぜんぜんわかりませんよぉ!」
『あれ自体は、戦う力を持っていないわ。ハルシオンという器があって初めて、魔王として降臨できるの。だから黒いモヤに触ったって、何も起きないはずよ』
「でも……あれは、普通じゃありませんでした」
触れられた時の感触を思い出すだけで、吐き気すらこみ上げて来そうだ。
『それはサーヤがサーヤだからよ』
「どういうことです……?」
『倒せばわかるわ。説明は後。安心なさい、何があっても絶対に、サーヤが苦しい想いをすることは無いから。それだけは私が保障するわ』
「……わかりました。がんばりますっ!」
サーヤがマーリンと会話している間も、魔王は特に仕掛けてくる様子は無かった。
ただ空中に浮かんで、イソギンチャクのように触手を揺らしているだけ。
先ほどサーヤの攻撃によって開いた腹部の穴からも“魔王”は溢れ出し、まるでサーヤを誘うようにゆらゆらと動く。
「いててて……ご主人様、誰かと話しながら戦ってるみたいだな」
血で濡れたメイド服の上から傷口を押さえながら、ファフニールが言った。
彼女とニーズヘッグは、廃墟となった建物の壁に背中を預け、上空の戦いを見守っている。
傷はかなり深く、人ならばとっくに死んでいるほどの重傷だったが、人の姿とはいえ二人はドラゴン。
この程度ではまだ死にはしないし、治療の順番が回ってくるまでは生き残れそうだ。
「神様でも憑いてるのかも」
ニーズヘッグはいつもよりボリュームの小さな声で、ぼそりと言った。
ファフニールは少し苦しそうに「ははっ」と肩を震わせ笑う。
「ちげえだろ、それは。神様なんてろくなもんじゃねえ」
「どうしてそう思う?」
「戦いの元凶が武器商人だって話はよくあるじゃねえか。神器だの、神鎧だの、あんなもんを世界にぼとぼと落としてくやつ、信用できるかっての」
「確かに……十理ぐらいある」
「だろ? だから祈るんなら……そうだな、神よりもすごそうなやつ……」
「ご主人様しかいない」
「……それもそうだな。ならご主人様の勝利でも祈っとくか」
「普通」
「普通でいいんだよ。がんばれ、ご主人様っ!」
「がんばれー」
傷のせいもあって声に力は無いが、彼女たちなりに気持ちは込めたつもりだった。
他の面々も、祈るようにしてサーヤと魔王の戦いを見守っている。
もっとも、彼らが見ている限りでは、魔王が動く様子は無い。
殴られれば、一方的に敗北する――そんな戦況に見えなくもなかったが、実際に戦っているサーヤからしてみれば、そこまで気楽な戦いではなかった。
「……またやるつもりですか」
神器の力を解放したサーヤには見える。
高次元の力が、魔王から発せられていることに。
それは時間軸を無視して、過去の事実すら塗り替えてしまう力だ。
サーヤはまばたきをする。
世界の景色が変わる。
過去への干渉――現在の魔王は微動だにしていないが、数秒前の世界において、すでに彼女はサーヤの目の前にまで迫っていた。
「どうして、邪魔するの?」
「無駄だと言っているんですッ!」
サーヤは自分の体に向かって伸ばされた腕を掴むと、その付け根――肩のあたりに掌底を当てた。
ズドンッ! とゼロ距離で大砲を放たれるような衝撃が魔王に走る。
腕はブチッと千切れ、またその傷口から黒い物体が溢れ出てきた。
――景色が戻る。
「魔王が一瞬でサーヤの目の前に!?」
「あちしにも動きが見えなかった……サーヤ、危ないっ!」
ティタニアとシルフィードが驚愕の声をあげる。
周囲からは、そういう風に見えているのだ。
魔王がサーヤの前に瞬間移動して、攻撃を仕掛けようとしている寸前なのだと。
「だがなぜ、魔王の腕が千切れているのだ」
「魔王が女装娘に接近される瞬間に、サーヤが攻撃をしたのかもしれんな」
「どっちにしてもオレには見えなかったゼ!」
実際は逆なのだ。
攻防はこれから行われるのではなく、すでに終わり、サーヤは迎撃を完了しているのである。
「……くっ」
その気になれば、ハルシオンの肉体を全て吹き飛ばすことはできた。
しかしサーヤは唇を噛むと、再び魔王から距離を取る。
『ごめんなさいね、サーヤ』
「謝らないでください、お師匠さま。これがハルシオンさんを救うために必要なことなんですから」
そう言いながらも、サーヤの拳は震えていた。
本来、マーリンはハルシオンを殺すつもりなどなかった。
生きたまま魔王と切り離し、この世界で幸せに生き続けてもらうはずだったのだ。
それが不可能になった今、サーヤは彼女を殺さなくてはならない。
いくら魔王に支配されているとはいえ、相手はサーヤの母親だ。
たとえそれが救うためだとしても、いい気分では無いはずだ。
「あの体を、全部消し飛ばせば、いいだけなんです。あれは、ハルシオンさんじゃない。もう……ハルシオンさんなんかじゃ……!」
「……どうして? 私は、ハルシオンだよ」
「半分はそうかもしれませんが、残りは違うんですッ!」
「半分が私なら私じゃないの? 私じゃないなら私は誰なの? どうして私は私でいられなかったの? ねえ、教えてよマーリン。マーリン、ねえ、マーリン。私の前に姿を見せて、ちゃんと話をしようよ。マーリン、マーリン!」
「きっと、あなたのお師匠さまに対する気持ちは本物なんでしょう。半分はハルシオンさんなわけですから、そこは間違いありません。でも今のあなたは、お師匠さまを見たら殺してしまう。愛と殺意の区別がついていない。それじゃあダメなんです、それじゃあ――誰も幸せになれない。だから!」
サーヤはハルシオンに呼びかける。
それは一方で、自分自身を納得させるためでもあった。
「私はそれでも構わないッ! 触れられないより、会えないより、殺す方が愛だからあぁぁあああッ!」
魔王から力が発せられる。
再度の過去改変だ。
「そんなことはさせません!」
先ほどと同じようにサーヤも神器の力で、高次元の領域へと移行する。
色彩が失われたグレースケールの世界。
そこでサーヤは、魔王を迎え撃つべく拳を握った。
だが――そこに魔王の姿は無い。
「……あれっ?」
この“時間軸”を指定したのはサーヤではなく、魔王だ。
魔王がこの場所にいるからこそ、サーヤはそこに介入することができた。
つまり、すれ違うことなどありえないのだ。
「ハルシオンさんはどこに……」
キョロキョロとあたりを見回すサーヤ。
そして彼女は、目ではなく、気配で魔王を発見した。
「なっ――まさか、街にッ!?」
そう、サーヤに対抗できないと知った魔王は、抵抗できない街の人々から先に始末することにしたのだ。
「ごめんなさい、セレナさんとご両親っ!」
サーヤは謝罪しながら、宿の天井を蹴って穴をあけると、そこから室内へと飛び込んだ。
魔王は――セレナの首を切り落とそうと、手刀を振り上げている。
「そんなことはさせませんからッ!」
魔王を背後から羽交い締めにするサーヤ。
ヴゥン――そして世界は色を取り戻し、再び正常な時間に戻る。
「お嬢、後ろですっ!?」
「え? ひっ、いやあぁぁああっ!?」
レトリーの呼びかけで振り向いたセレナは、至近距離で無残な姿の魔王を目撃した。
彼女は叫ぶと同時に腰を抜かし、床にへたり込む。
「やらせません……誰一人として、殺させたりは! てえりゃあぁあああああっ!」
サーヤは魔王を力ずくで抱えあげると、窓に向かって放り投げた。
セレナの頭上を通り過ぎ、ガラスを突き破り、店の外へと飛んでいく。
「サーヤちゃん……?」
「安心してください、お姉ちゃん、レトリーさん。絶対に誰も傷つけさせませんから!」
力強くそう言い残すと、サーヤは割れた窓から外に出ていった。
残された二人は、遠ざかっていく彼女の背中を見て呟く。
「かっこいいですねえ」
「……うん」
「惚れました? おねロリ成立します?」
「何であんたはそういう方向に持っていくのよ……」
場を和ませるためだと理解していても、セレナは呆れずにいられなかった。
その後も、魔王は執拗にサーヤの関係者を狙い続けた。
グランマーニュやキャニスター、ファフニール、ニーズヘッグ、四天王、冒険者のおじさん、果てはトムまで――しかしその動きはお世辞にも早いとは言えず、全てサーヤに阻止されていた。
いや、決して魔王が劣っているわけではないのだ。
彼女が持っている力は、紛れもなく神鎧たちよりも上である。
だがそれ以上に、今のサーヤが破茶滅茶に強いのだ。
そして同時に、魔王自体の弱体化も著しいものだった。
過去の改変を阻止するたびに、サーヤは魔王の一部を拳で破壊していった。
帝都上空に浮かぶ彼女は、当然頭部が無いし、手足だって消え、胴体もかろうじて横腹のあたりが残っているだけ。
魔王の“本体”とも呼べる黒い物体は、もはや人の形を保つことすらできずに、ほぼ球形となって、うねうねと触手を揺らしながら漂うだけだ。
マーリンの言葉通り、それ自体に力は無く――もはやただの人間を殺すことすら困難な有様である。
だが、最初に頭部を破壊したのはハルシオン――否、魔王自身だ。
本気でサーヤとやりあうつもりなら、できる限り五体満足でいた方が都合がいいはず。
だというのに、魔王は見せつけるように自傷した。
あれはなぜなのか。
サーヤは思う。
魔王、あるいはハルシオンは、まるで自らの死を望んでいるようだ――と。
「あれでも、まだ死んだって言えないんですか!」
浮かぶ肉片を見て、サーヤは言った。
『そういうことなんでしょうね。だから、自殺なんてできっこなかった』
「……そうですよね。ハルシオンさんだって、好きであんな風になったわけじゃないんですから、本当は自分で終わらせたかったはずです。でもいくら壊しても死ねないから……」
『当たり前じゃない。あの子、かわいいものが好きだったんだから。自分の意志で、あんな悪趣味に傾倒したりはしないわ。魔王に侵食されても、彼女自身は嫌で嫌でしょうがなかったはずよ。300年、ずっとね』
「でも……もうそれも終わりです。残った一部を消せば、ハルシオンさんは解放されます。そして、魔王が……魔王……」
『どうかした? サーヤ』
魔王はもはや動かない。
どうせ過去を改変したところで、サーヤに止められるだけだ。
一種の諦め――いや、“割り切り”のようなものが感じられた。
それはおそらく、ハルシオン自身が死を望んでいるから。
そして、魔王もまた、今の肉体を捨てて、次の体に移ることを求めているから。
融合した二つの魂――その意思が合致した結果であった。
「……あれっ?」
サーヤは首をかしげる。
「前の魔王がやられたから、ハルシオンさんが次の魔王になったんですよね。じゃあ、今の魔王を倒したら、次の魔王って……誰になるんですか? 継承する人がいないから、宙ぶらりんになるんですかね」
『血筋が近い人間に移るんじゃないかしら』
「なるほど、血筋が……ってそれ……わたしじゃないです?」
人差し指を顎に当てながら、サーヤは言った。
『……まあ、そういうことになるわね』
あっさりと白状するマーリン。
「お師匠さま、それは、何だか大変なことになりませんかっ!?」
『大丈夫よ』
「で、でもっ……」
『大丈夫ったら大丈夫なの。まあ、とりあえずやっちゃいましょう。あの子のあんな姿、もう見たくないもの』
「わかり……ました。お師匠さまのこと、信じてますからね。倒したらわたしが悪者になって、『グハハハハハー! 我が魔王だぞー!』とか言い出したりしたら、泣いちゃいますからね!」
『だから無いって言ってるじゃない。あなたは私の弟子であり、その……娘でもあるんだから。大事にしてるのよ、これでも。色々と、無茶をさせてる自覚もあるし』
「矛盾してません?」
『私だって悩んだのよお! ハルシオンを助けるためには、並大抵の方法じゃ無理なんだからぁ!』
そりゃあ、300年もかかったのだ。
サーヤが見てきたのはそのうちのせいぜい10年弱だが、その間も、マーリンが色んなことを試したことは知っている。
だからきっと、そうするしかないのだ。
そのために、サーヤという存在が生まれ、今日という状況が作り上げられた。
ならば、それを果たすのが、親孝行というやつだろう。
色々と、気になることはあるが。
「……むぅ。不安ですが、とりあえず、やってみますね」
『お願いするわ』
サーヤは、右の拳を前に突き出すと、左手をその手首に添えた。
息を吐き出し、目を閉じて、意識を集中させる。
そして全身に満ちた神器の力を、一点に収束させるのだ。
サーヤの纏うオーラが一段と強くなる。
右の拳が金色に輝き、銀色の髪が反射してキラキラと輝く。
「やると決めたからには、やり尽くします。一片でも残して、これ以上、ハルシオンさんを苦しませたくありませんから」
瞳を開く。
黒くうごめく異形を見据える。
残るは一部の肉片のみ。
消し飛ばすのに、ここまでする必要はない。
これはちょっとした八つ当たりというか、魔王に対しての怒りの表現でもあった。
あと、もしかしたら奇跡的に魔王も一緒に消し飛んでくれるかもしれない、という期待も込めて。
「全力……全開……!」
かつての彼女の、星すら砕く全力をさらに超えて。
「超絶――正拳ん――ッ!」
世界のあり方すら壊してしまうほどの、力を込めて。
「エェェェェクスッ! カリバアァァァァァァアアアアアッ!」
サーヤは、閃光を解き放った。
◇◇◇
光が迫ってくる。
(あれが……終わり、だ)
ハルシオンは笑った。
こんな体だから、もうそれを表現するためのパーツは存在しないけれど、心の中で笑った。
たぶん、何百年ぶりに。
暖かな光に包まれて、ハルシオンの肉体は消滅した。
同時に、“魔王”はあっさりと彼女を見捨てて、融合の解除を開始する。
別れの言葉など、無い。
あれはそういうものだ。
自分の意思など持たずに、ただこの世界に不幸をもたらすためだけに作られたのだから。
だからこそ、悔しい。
だからこそ、憎い。
300年もずっと、ハルシオンはマーリンに抱きしめられる日を恋い焦がれて来たのに、それをぶち壊したのは、意思もないただの物体だったんだから。
でもまあ、地獄の底から、ようやく死という地平に戻ることはできた。
浮上できたのなら、笑ったっていいはずだ。
(終わるって……こんなに楽だったんだ。消えて無くなるって……ははっ、想像してたより、ずーっと幸せなんだね……)
心残りがないと言えば嘘になる。
(マーリン……本当に、生きてたのかな。あれは確かに、マーリンの声だった。でも私は確かにあの人を、自分の手で殺して……ティルフィングを持ったあのサーヤって子が現れた時は、きっと死んだマーリンの怨念が私の前に現れたんだとか思ってたけど……本当は……本当は……)
けれどそれが望みすぎであることを、彼女は知っている。
ようやく死ねたのだ。
たとえマーリンが生きていたとしても、会えなかったとしても、それでいい。
(だって……そうだよね。もしマーリンが生きてて、あのサーヤって子を私に差し向けたんだとしたら。そう、マーリンはきっと、今の私の気持ちをわかっててくれたんだ。魔王という存在が、どうしようもないこの世界の仕組みだってことに気づいて、その苦しみから私を解放するために、わざわざ殺しに来てくれたんだ)
それが恋人からの餞別ならば、そう、これは素敵なことではないか。
きっとあれは、マーリンからのラブレターだったのだ。
彼女が声だけで、姿を現さなかったのは――そうできない事情があるか、あるいは、顔を見ると余計に辛くなるから。
そう思うと、ただ死ぬだけでも幸せだったのに、余計に幸せが増えてくれる。
胸は多幸感に包まれる。
肉体から解放された魂は、そのまま天上へと至るそうだ。
そう、魂はこの世界に残れない。
天国か、あるいは地獄か、どこかは知らないけれど、ここでないどこかへと導かれるのだ。
ひょっとすると、そこでマーリンと再会できることもあるかもしれない。
少なくとも、魔王として、自分の意にそぐわない悲劇を繰り返す必要はない。
魔王が、完全にハルシオンから取り除かれた。
さて、では向かおう。
生者の世界では、サーヤの放ったエクスカリバーの光が晴れ、うごめく“魔王”が徐々に彼女に近づいているところだった。
(次の継承者は彼女なんだ。そういえば、私とマーリンの子供だとか言ってたっけ。そんなわけないのに。でも……私の血を引いてるっていうのは、本当なのかもね)
同じ銀色の髪。
顔は、言われてみればマーリンに似ている気もする。
せっかく自分を殺してくれたのに、その恩人が次の魔王になるのは残念だ。
それとも、そうならない方法も知っているんだろうか。
どちらにせよ、もうハルシオンには干渉できない。
やがて視界が白んでいく。
魂はこの世ならざる存在。
干渉はおろか、もう生者の居場所を見つめることすら許されないのだ。
ただただ、魂がどこかに導かれていく感覚だけがあった。
そして、徐々に“暖かな場所”が近づいているのがわかる。
まるで、お風呂にでも浸かっているような。
まるで、二度寝の時に包まれているお布団のような。
まるで――自分を抱きしめてくれた恋人のような。
やがて魂が静止したのを感じると、ハルシオンはゆっくりと目を開けた。
見知らぬ天井が、そこにはあった。
ちょっと意外な光景である。
天国とか地獄というのは、もっと浮世離れしたものを想像していたのに、まさか木造の建物だとは。
そしてハルシオンは体を起こす。
真正面から、右側に視線を移した。
「おはよう、ハルシオン。悪い夢はもう終わりよ」
――マーリンだ。
大好きな人が、大好きな優しい笑顔で、こちらを見ている。
「ああ、言ってくけど、ここは天国でも地獄でもないから。私はここにいるわよ、ちゃんと。生きてる……とは言えないけど――」
マーリンは呆然とするハルシオンの手に、自分の手を重ねた。
暖かかった。
「あなたと触れ合える形で、ちゃんとここにいるわ」
「……マーリン」
「ハルシオン」
「マーリン……マーリン……っ」
「ハルシオン……ッ!」
二人の瞳に涙が浮かぶ。
「あ……ああぁっ……マーリンーーーーッ!」
ハルシオンは飛びつくように、マーリンに抱きついた。
「うあぁぁっ、ああっ、本物だぁ! 本物のマーリンだぁ! うわあぁぁあああああっ!」
ボロボロと涙を流しながら、その懐かしい匂いを、感触を、体温を体全体で感じ取る。
「やっと……会えたわね。長かった……長かったわ……」
マーリンも負けないぐらい号泣して、強く強くハルシオンの体を抱きしめる。
300年ぶりに、恋人たちはようやく再会することができたのだ。
マーリンの工房であり、サーヤの故郷であるこの場所で。
そう、今はサーヤの体の中にある、この場所で。




