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珀巳



 夜会も無事に終わり、空汰はテーブルにぐったりと伏せていた。そこに翡翠はいつものようにやってきた。


「何をやっているんだ? 死んでいるのか?」


 翡翠が言うと、冗談なのかかなり本気で言っているのか分からない時がある。空汰は顔を上げて翡翠を見た。


「やぁ~翡翠」


「どうした?」


「夜会終わりから妙に体が重くて……」


 翡翠は一瞬首をかしげたが、すぐに、ああ! と納得したような声をあげると、本棚から一冊の本を手に取りページを捲り、あるページのところを開いたまま空汰の目の前に置いた。


「自分で妖力を使い、妖術を掛けた後にはそのあとについてくるものはあまりないが、他人に妖術を掛けられると、そのあと、個人差はあるが気だるさが出ることがある。まあ、そんなに気にすることは無い。お前くらいなら数週間もすればよくなるさ」


 空汰は前に置かれた本を見た。そこには妖字で妖術について事細やかに記されていた。読む気にもなれず、読み流し視線を逸らした。


「数週間!? 長い」


「仕方ないだろ? あの状況ではお前を隠すほかなかったんだ。結局、何も見つけられなかったくせにな」


「うるせーよ。大体、屋敷の構造が頭に入ってる翡翠が行くべきだ」


「俺が行ったところで、お前はその間どうするんだ!? ダイと対峙出来たのか?」


「それも……無理だけど」


「だったら、探し物くらいやれよ」


「せめてどこを探して欲しいくらいは言えよな」


「それもそうだが……」


「ったく、無理をいう」


「お前が頑張ればいい話だ」


「……はいはい」


 空汰は呆れてため息を吐いた。


「あ~あ、お前の頼みなんて聞かずに放っておけばよかった。人間界に戻りてぇ」


 それを聞いた翡翠は、フッと笑った。


「なら、帰るか? 人間界に」


「え!? 帰ってもいいのか!?」


「いいよ、別に」


「なら、帰りたい!」


「ただし、お前が今は妖長者だ。妖世界は長く妖長者不在のままだと滅ぶけどな」


「滅ぶ?」


「あぁ、妖世界が消えてなくなるという事だ」


「……ということは帰られないわけ」


「帰ってもいいよ」


「ふざけるな、お前が約十年間守ってきた土地だろうが」


「俺には関係ないね」


「そうかよ」


「で、帰るのか?」


「帰らねぇよ。選択肢は無いのだから」


 翡翠は笑みを浮かべていた。


 空汰は仕方なく公務をしようと書類の束に手を伸ばした。


「やろうか?」


 翡翠が近寄ってきた。


「いや、いい。俺がやる」


「……急にどうした?」


「もう読めるし書けるようになったからな。俺がやるよ。いつまでも翡翠に頼っているわけにもいかないしな」


「そうか……。なら頑張れ」


「あ、でも待って」


「ん?」


「半分……やって? 俺まだまだ遅いし」


 翡翠は書類の束の過半数を手に取り羽ペンを持った。


「当たり前だ」


 二人は公務を静かに行い始めた。


 妖長者になり、早二ヶ月が過ぎた。


 妖字の読み書きは何となく出来るようになり、礼儀もしっかりと身に着いた。


 夜会では案外スムーズに進み、何の収穫もなかった。ただひとつ気がかりなのは、待ち合わせ場所に行ったとき、翡翠と珀巳の様子がどこか他人行儀のような感じがした。翡翠の力で待ち合わせ場所に行ったとき、珀巳に自分の姿は見えていなかったようだが、元気のない珀巳の事が気になって仕方がなかった。何かあったのかと翡翠に聞いても全く教えてくれることはなく、珀巳に聞くのはどう考えても不自然なので聞くに聞けなかった。


 ただ珀巳は夜会の次の日から、休みが欲しいと言いだしてきた。その時に理由を聞けばよかったのかもしれないが、聞く勇気もなく七日間の休暇を与えた。


 そしてそのことをまだ翡翠には伝えていない。


 空汰が無意識に翡翠を見ると、翡翠も視線を感じたのか空汰を見た。空汰は視線が合うと、視線を咄嗟に逸らした。


 しばらく公務をしていたが、やがて終わると、二人は伸び上がり休憩した。


「そういえば夜会は楽しかったか?」


「楽しいも何も、疲れただけだ。翡翠は?」


「俺は全く。本当は会いたくも無かった」


「お前が言うほど面倒では無かったけど?」


「そう思うのは始めだけだ」


「……それはそれは」


「嘘じゃないからな」


「ふ~ん……。翡翠」


「何だよ」


「そろそろ、頼みごとについて教えろよ。教えてくれる約束だろ?」


「そうだったな」


「分かりやすくな」


「裏切り者がいるとお前に言った」


「あぁ」


「長老の誰かはその裏切り者だ」


「誰かって誰だ?」


「知らない」


「は?」


「顔は見られなかったんだ。


 俺は妖長者としてこの世界に来た。それは前に話した通りだ。妖たちが住む世界を統率するのが人間ということを特にどうとも思わない者、敬愛している者、そして嫌う者がいる。敬愛している者、どうとも思っていない者は放っておけばいいのだが、俺を嫌い憎んでいる者は、俺をどうにかして排除しようとする。俺を食べるもよし、殺すもよし、人間界に返すもよし……。そう考えている妖は少なくはない。そんな妖たちがいるなかで、俺は今まで知らない顔をして、妖長者として過ごしてきた。だが、ある日、俺は暇つぶしに屋敷内を散歩していた。その時、床に誰かが落としたのだろう書類が二枚落ちていた。クリップで留めてあって、俺は拾い上げて、それを見た。達筆な妖字で一行目にこう書いていた。『妖長者 翡翠裕也 暗殺計画 極秘文書』と」


「暗殺……」


「それを拾った俺は、廊下ではバレると思い、部屋に戻って隅から隅まで読んでいった。そしてそれから俺は色々な方法と場所を調べた。極一部の者しか入れない図書館から誰もが入れる森の中まで結構広く調べまわった。誰がこの文書を落としたのか、誰がこんな計画をたてたのか、それが知りたくて。知った後、どうかしようっていう考えはなくて、ただ知りたいという理由で探した。でも、極秘文書なだけに、真実を知る者も限られていて、なかなか見つけることが出来なかった。


 でもある日、俺は屋敷内をいつものように散歩していると、ちょうど書類が落ちていたあたりを低級妖がきょろきょろと右往左往しているところを見つけた。もちろん、声をかけた。すると、低級妖はモノでつられて探し物を手伝っているだけだと言った。妖術の一つ、『朗々』を使い、口を割らせようとしたが、術を掛けられていて、その妖は苦しそうにもがいた後、何も言わずに死んだ。俺が殺したようなものだ。その低級妖を釣った者こそ、多分黒幕だ。黒幕ではないのならば、仲間だな。うっかり落としてしまって、急いで探している様子だった。しかし、それは俺が持っているから、見つかるはずもない」


「朗々って?」


「自分がした質問に無理矢理真実を語らせるものだ。ただし、自分より立場が下の者で妖力が弱い者にしか掛けられない」


「怖いな……」


「今のお前になら、朗々は使えるがお前ももう少し妖長者に慣れてしまえば朗々は効かなくなると思う」


「そうか……」


「その低級妖が死んだ数日後、俺が部屋に戻ると部屋はひどく荒らされていた。寝室から書斎まで、何かを必死に探した後だった。そして、見つけたんだ。そこにはあの極秘文書が無かった。


 その日の夜だよ、お前のところに妖石を落としたのは……」


「夕方じゃなかったのか?」


「言っただろう? 人間界と妖世界では時間の流れが違う。その日はこちらが夜の時、そちらは夕方だっただけだ」


「あぁ……なるほどな。それで?」


「あの日の夜、俺はいつものように公務をして長老に書類をすべて届け、寝ようと寝室に居た。本を読んでいると、何か気配を感じて部屋の中を警戒していたが、結局そこには何もいなくて、疲れているせいだと思って、寝ようとしていた。すると、その瞬間数人の中級妖が現れた。見たことのない顔ぶれだったから、あの低級妖と同様釣られたのだろう。中級妖は俺に近寄ってきた。俺は咄嗟に外に逃げ出した。だけど、飛べもしない低級妖と違って少しは飛べる中級妖は俺を追ってきた。しかも結構しつこく。空を飛んでいては、すぐに捕まると思って、森の中に隠れた。そこから先は俺も正直あまり記憶にないが、中級妖と一緒に式と長老の気配がした。妖長者の証と妖石を持っている俺は、隠れてもすぐに居場所がバレる。俺は必死に逃げた。その末に、人間界にやってきて、石を落してしまい、それをお前が拾った」


「何故……翡翠を?」


「分からないか? 殺そうとしていた本人に計画書を見られたのだぞ? どう考えても不測の緊急事態だ。こうなったらもう、殺してしまうしか他にない」


「翡翠はどうして、それを知って長老に聞かなかったの?」


「聞きに言ったら、敵陣に爆弾を持って行くようなものだ」


「妖長者の証を棄てれば……」


「妖長者の証は絶対に捨てることは出来ない。渡すものがいなければ、妖長者の証は体から出てはこない」


「なるほど……」


「俺が、裏切り者と呼ぶのには理由がある」


「理由?」


「妖長者の屋敷に仕えるには、幾つか条件がある。例えば中級妖以上であること、妖力、妖術を使えること、そして、妖長者のことを常に考え、護り、決して裏切らないこと……」


「裏切り行為……即ち、存在異議」


「妖長者万歳という者がここに働きに来る。そこに異議を唱える者が居ればそく処分というのがここのルールでもある。もちろん、長老になる者は必然的にこの屋敷内に部屋が設けられるからその条件を呑まなければならない。条件に満たされない限りはこの屋敷にいることも、長老になることも出来ない」


「長老の立場はどんな感じなんだ?」


「長老は常に微妙な位置にいる。妖長者よりも下の立場でありながら、妖長者に指図はするし書類も長老に提出しなければならない。でも、何か行事があったときの絶対的権限は妖長者が持っているけれど、公務を多種多様に作り出すのは長老。それから夜会などのパーティーでの待遇は妖長者が一番良くて、長老は結構下っ端の雑用に使われたりするけれど、夜会などへの参加の有無、開催の有無は妖長者の意思のもと、最終決定は長老がする。不思議だろ?」


「長老とのその関係の曖昧さも何か理由があるのかもしれないな」


「そんなことは言われなくても分かっている。だが、長老がいないと妖長者は困るし、妖長者がいないと長老も困る。そんな状況を今までも今もつくられてきたから、今まで殺されることは無かった。だけど、俺の代の一つか二つ前から長老が今の長老に代わってからは、変わった」


「長老は今、全員で何人だ?」


「全員で五人だ。しかもかなりの個性派揃いだ」


          ❦


 翡翠は妖長者の屋敷を眺めることが出来る森の木の上に座っていた。


 空汰はほとんど妖長者として自分の力で動けるようになってきた。もう俺はそろそろ必要ないだろう。説明もきちんとした。後は、空汰と俺がそれぞれの立場から調べるしかない。空汰は妖長者としての立場上、色々なところに入れて調べられる反面、監視されているということがある。俺は身を隠している立場上、あまり動き回ることは出来ない反面、存在するはずのない人間としての自由はある。そこをいかに活かせるかが重要になる。


 それからこれから行動していく上で、大切な存在になるのが妖長者付式だ。黄木、柊、そして珀巳。俺には澪が付いているが、澪はあくまで仮の式であり、契約をしている俺としか会話が交わせない。空汰が蝶の妖と契約を結ぶことが出来れば、澪の言葉も分かるようになるだろうが、蝶の姿をした妖は高級妖と中級妖の中間に属しているため、契約を結ぶにはそれなりの力が必要である。しかし、空汰にそこまでの力はない。それ故、珀巳や黄木、柊をはじめとする長老たちに疑われてしまうのだ。ちなみに、珀巳も黄木も柊も、皆、高級妖であるが、契約をしたのは俺で、空汰がしたわけではない。妖長者として契約を交わしたから、例え人が変わっても三人はいつまでも式である。その妖長者が契約を破棄しない限りは……。


 翡翠は屋敷から視線を逸らし、暁に染まる空を見ていた。


「翡翠裕也……か……。俺の本名は、一体何なのだろうな」


 翡翠は屋敷に視線を戻し、妖長者の部屋の窓を見た。空汰はベッドで本を読み休憩しているようだ。


――――こんな穏やかな日々が続くのなら、俺は妖長者に戻らなくても……


 空汰には本当に悪いことをした。たまたまあそこに落として、たまたま霊感を持つ空汰が拾い、たまたま妖力も強く、たまたま俺が適当に変えた姿にそっくりだった……。本当に出来すぎた話だ。


 空汰は妖長者になることを正直どう思っているのだろうか。心から嫌がっているのではないだろうか。本当は帰りたいのではないだろうか。この前はあんな風に脅してしまったが、やはり気になってしまう。


 俺のようにはなってほしくない。


『初めまして、君、名前は何というのです?』


 妖長者となる日、俺は無理矢理家族から引き離され妖世界にやってきた。泣き続けていたところに銀髪で赤色の瞳をした男が笑顔を向けてきた。


 俺はその男の質問に何と答えたのか全く覚えていない。多分、名前を言ったのだろう。肝心なところをいつも思い出せない。


『――くんですか。良い名です』


 あぁ、この人だ。


 俺が唯一名を教え、知っているのは……。誰だろう。何となく誰なのかは分かるが、何故かもやがかかったように分からない。


 まだ、知らなくていいということだろうか。知りたいと願うだけ、無駄なのだろう。


「俺はどうするのだろうか……」


 本当の名を取り戻したら……。


 帰る?


 残る?


「俺はどうしたいんだ……」


 誰か答えを教えてくれ……。


 翡翠は黙って頭を抱えた。自然と大きなため息が漏れる。


 ふと脳裏に、夜会で見せた珀巳の涙を思い出した。


『……翡翠……様……、俺を……殺して……くださ……い……』


「珀巳…………」


          ❦


 数日後、空汰は開いた口が塞がらないまま微動だにせず立っていた。


――――何故? 何故? 何故? は!?


「ごきげんよう、妖長者様」


 空汰の目の前には、にっこりと笑みを浮かべこちらを見ているミーラン・ツェペシが立っていた。


          ❦


 その日の夜、寝ている空汰のもとに翡翠は静かにやってきた。


 スヤスヤと寝ている空汰を見ていた翡翠は、そばの机に近寄ると机上にあった小さな鍵を手に取った。二人以外はこの鍵が何の鍵なのかは分からない。翡翠はそれを手に持ち、寝室の本棚の一番下の段から本をすべて取り出した。すると下に小さな鍵穴があった。翡翠はそこに先ほどの小さな鍵を差し込みまわした。無音で開いた鍵を抜き取り、スライドさせて開くと、そこには一冊のノートがあった。


 翡翠はそれを静かに取り出した。


 数週間前のことだ。夜会に参加するため、ダンスや礼儀の練習をしていたある日の夜。


『空汰』


『どうした?』


『お前、俺のことを心配し過ぎだ』


『え!?』


『前から思ってはいたが……そこまで俺のことを気にしなくていい』


『といわれても……』


『言っただろ? 俺の心配はいらない、大丈夫だと』


『それでも気にするだろ? 普通』


『お前は一時の妖長者としての思いが強すぎるだけだ。お前はお前なりに好きにすればいいと言った』


『だけど』


『文句は言うな。お前が迷うのなら、俺に相談してもいい。だけど、前にも言ったとおりお前だけの判断だけを迫られる時もある。そんな時に俺ばかりに頼っていると困る』


『確かにそうかもしれないけど』


『お前なら大丈夫だ。俺は信頼している』


『ありがとう……』


 頷いたもののあまり納得できていない空汰を見た翡翠は、書斎の引き出しから一冊のノートを取り出した。どこにでもあるごく普通の大学ノートだった。


『そんなに俺のことを気にするなら、これにお前の気持ち、気になること、伝えたいこと、何でもいい、好きなことを書け。俺もお前に正直に書き伝える。所謂交換ノートだ。ただ、これは毎日毎日書いて交換するものではない。お前が書きたいときに書き、俺が書きたいときに書く。お互いに書いたら、相手に分かりやすいように鍵を好きなところに置いておく。それが書いた合図だ。


 隠し場所は俺が昔使っていたところがある。これはそこの鍵だ。この鍵は俺とお前以外には見えないし触れることも出来ない。


 どうだ? これなら、お前も少しは正直になれるだろ?』


 空汰はあの時、自然な笑みを浮かべていた。


 翡翠は隠し棚を閉め、本を棚に戻し鍵を懐にしまい、空汰のベッドの隅に座った。相変わらずスヤスヤと寝ている。


 翡翠はノートを開いた。まだすべてのページが白紙だ。始めてから一度も交わしたことは無かった。


(翡翠へ


 初めて書いてみることにした。正直どんな普通に書いていいのか分からないけれど、翡翠に伝えておきたいことが出来た。口で伝えようかと思ったが、そういうわけにもいかないようなので、ここに書くことにした。


 一つ、今朝早くにミーラン・ツェペシがやってきた。俺は驚いて、ずっと固まっていて、本当に壊れたロボットみたいになっていたと思う。


 ミーランに何をしに来たのか聞くと、『二人きりになれて、誰からも話を聞かれないところにいってから話しましょう』と言われた。俺は、それがどこかは分からなかったから、俺の部屋の前にある応接間に通した。そこで、俺はこんな会話をしたんだ。


『それで、ミーラン様。本日はどのようなご用件ですか?』


『妖長者様は本当に人間なのね』


『えっと……』


 前に翡翠が言うなと言ったことを思い出して、一応濁した。


『ま、いいわ。妖長者様はどうして夜会に参加したの?』


『招待されたからです』


『おかしな話ね』


『え?』


『私達は妖長者様の敵よ?』


『どういうことですか?』


『夜会のときは急に逃げ出してごめんなさい、まさか人間だとは思わなかったの』


『妖長者は代々人間と聞きましたが?』


『そうだよ。でも、私はそんなに知らなかったもの』


『そうでしたか』


『夜会が行われる昼頃、お母様とお父様は妖長者様付の長老の方と話していたところを見たの』


『長老? 誰でした!?』


 ミーランは首を振った。


『知らないわ。でも確かに妖長者の印の紋章を持っていたから貴方様の長老だと思うわ』


『そうでしたか……』


『あ、でも』


『はい?』


『フィリッツではないわ』


『どうしてそう言い切れるのですか?』


『フィリッツ様は、イケメンで優しくて、私本当にあの人の事憧れてるの~! だから声を聞けば誰なのかすぐに分かるけれど、フィリッツの声ではなかったもの』


『それで、その長老とあなたのご両親との会話は何と?』


『会話という会話は聞こえなかったけれど、計画がどうとか……協力してくれますね? と言っていたのは聞こえたわ。後は……ハク何とかが何とかって……言っていた気がする』


『ハク……。そうですか、ありがとうございます』


『いいえ』


『どうして敵である私に教えてくれるのですか?』


『私は普段はこんな妖よ。でも、お母様とお父様の前では違う顔しているの。それに私は、妖長者の翡翠が好きだったのよ』


『俺のことが?』


『あ、あなたじゃないわよ!?』


『今の翡翠じゃない?』


『ごめんなさい、私ここに内緒で来ているの。遅くなると怒られるわ。帰りますね』


 そういって立ち上がるミーランに俺は話をほとんど聞けなかった。


『あ、ありがとうございました』


『また来るわ、ごきげんよう、妖長者様』


 ミーランの言っていた長老は一体誰だろうか? 裏切り者と計画は関係あるか? 前妖長者の翡翠についてお前は何か知っているのか?


 二つ、これは俺のただの興味本位だが、どうしてもお前に聞きたいことがある。


 珀巳のことだ。


 珀巳と何かあったのか? 珀巳本人に俺が聞くのはどう考えても可笑しいから聞かない。もし、お前が教えてくれるのであれば教えてほしい。だが、後に知っておいた方がいい書く仕事なら話せ。俺が困る。もっと俺を頼れ)


 どう書いたらいいのかが分からないという割にはかなり長く書いていた。一ページを綺麗に使っている。


 翡翠はすべてを読み終え、空汰を見た。いつの間にか寝返りをうっていて背を向けられていた。返事を書こうか迷ったが、パタンと閉じた。


――――ん!?


 閉じた反動で何かに気付いた翡翠は急いでもう一度先程のページを開く。そこには先程の文がずらっと並んでいた。翡翠は静かにページを捲る。すると、そこには数行の文が書かれていた。一ページに入らなかった分だろうが、危うく気づかずに終わるところだった。


(それから、翡翠。俺は最初にこう書いた。


『口で伝えようかと思ったが、そういうわけにもいかないようなので、ここに書くことにした』


 口で伝えられないわけが出来た。これもミーランの証言からだ。ミーランが去り際、俺に言ったんだ。


『あ、そういえば、妖長者様』


『はい』


『一つだけ思い出したわ』


『何をですか?』


『私のお母様とお父様と、長老との会話の中で、長老がこう言っていたわ。「夜会に参加している間に監視の目を隠す」と……』


『監視の目?』


『所謂、貴方様の行動をすべて監視されるという事ね。今までも監視されていたでしょうけれど、部屋の中までは監視されていなかったんじゃない?』


 言われてみればそうだろ? 確かに式がついているときは、式に監視されていたし廊下にでれば守護者もいて、基本誰かの目に触れていた。だけど、部屋だけは何もなかった。それは、翡翠が一番分かっているはずだ。


『それは部屋も監視されていると……』


『多分そうだと思うわよ。部屋でよからぬことをしているのなら、しばらくは止めた方がいいと思うわよ』


 翡翠。俺の部屋にしらばく来るな。特に昼間は危険だ。妖に睡眠は必要ないが、人間である俺には睡眠が必要だ。俺は夜に必ず寝る。だから監視はそんなにいらないという盲点が生まれるから、夜に来るのはまだいいが、昼間には出来るだけ来るな。バレてしまう。だからしばらくの間は、このノートを使わせてもらう。ほぼ毎日、これを書こう。だから、お前は夜のうちにこれを読み、これを書いて隠してくれ。出来る限り短時間で、気配を察したらこれと鍵を持って、逃げる。後は俺が誤魔化す。だから、しばらくは来ないでくれ、頼む)


 翡翠はすべてを読み終わり、もう続きがないことを確認すると、先程鍵を置いていた机で返事を書き始めた。


 偽るつもりはない。


 珀巳のことも聞かれれば答えるつもりでいた。あの時は珀巳がそばにいたから答えなかっただけだ。


 それに空汰のことだ。答えなければ、またいつか必ずまた聞いてくるだろう。どうせいつかは知ることになるのだ。それが早いか遅いかくらいならどうでもいい。


 翡翠は急ぎノートに返事を記していった。


          ❦


 次の朝、空汰が目覚めるとそこには柊が立っていた。


「わっ!」


「おはようございます、翡翠様」


「お、おはよう……。驚かせるなよ」


 柊は何も言わず、空汰にファイルを差し出してきた。


 空汰は恐る恐るファイルを受け取り、中を見ると、妖字がずらっと並んでいた。どうやら数枚あるようだ。空汰は二枚目を見た。趣きのある屋敷の写真と構造図が載っていて、あとは妖字。もうずっと妖字。


――――ふざけるなってくらい、文ばかり


 もうほとんど妖字の読み書きを覚えた空汰は一枚目を読んだ。


「『妖長者、翡翠様へ公務のご案内』……公務?」


「たまにあるものです。以前は守護者として屋敷に紛れ込みました」


『例えば、俺が前にしたことあるのは爵位を持つ者の屋敷に守護者として雇われて、秘密裏にいろいろ探ったことはある』


――――これか


「あとでゆっくり読むよ」


 柊は空汰の言葉を聞くなり一礼をすると、寝室から去っていった。


 空汰は立ち上がり、ファイルをベッドの上に置き伸びた。そして、ベッドのそばにある机を見るとそこには小さな鍵があった。


 寝る前と鍵の位置が少し変わっている。


 空汰は鍵を懐にしまい、ファイルを手に持ち書斎に向かった。


          ❦


 翡翠は朝でも暗い妖世界の街の中を歩いていた。肩には澪がとまっている。


 どうやら今日は朝市らしく、妖たちで街はにぎわっていた。そういえば、数か月後には妖町祭りがある。たまに抜け出してきていたが、あれは本当に楽しかった。今回は自由に見れそうだ。


 翡翠はあるひとつの店の前で立ち止まった。


 羽ペンを売っている店だった。


「へい、いらっしゃ~い。兄ちゃん、いい身なりだね」


「屋敷に仕えている守護者でして」


「そうかいそうかい。それは大変だねぇ」


 妖術で人間の匂いを消している翡翠を、妖は人間と全く疑わなかった。


「羽ペンを買いたい」


「おっ、いいねぇ。どんなものがいい? こんなに長いものから太いもの、それからこっちは綺麗な赤だろう? 人間の血で染めた上物だ」


 翡翠は店主の言葉を聞き流しながら、キョロキョロと多種な羽ペンを眺めていた。すると、奥に木箱に入った白銀に薄ら水色が混じったグラデーション仕様のとても色合いが綺麗な羽ペンを見つけた。店主は翡翠のそんな視線に気づき、その羽ペンを箱ごと手に持った。


「これか!?」


 翡翠は頷いた。


「少し見せてくれ」


 店主は翡翠に羽ペンを手渡すと、困ったようにため息を吐いた。


「兄ちゃん、それはかなりの上物で貴重な品だ。ここらに住む妖がそうそう手を出せるような品じゃないよ。値も高いぞ」


 翡翠は羽ペンを回しながら見た。綺麗な色だ。質もよく、使いやすそうだった。


 それに……。


 翡翠は笑みを浮かべ、店主を見た。


「店主、これをください」


 店主は心臓が飛び出るくらいの驚きようをしていた。


「こここここ、これを、兄ちゃん買うのかい?」


「はい。非売品?」


「あ、いや……。売ってるのだけど……」


「なら、買う」


「値段を見たのか!?」


「いや、書いてないから知らない」


「そこの前に並んでいる羽ペンは、大体八〇〇銅から三百二十銀のものだ。こっちの人間の血で染めたものは一金だ。普通の妖が買えても五〇〇銀くらいなのに……。兄ちゃん、それは、五千金だぞ!?」


「そうか」


「ハッ!? 兄ちゃん分かるか? 金の計算できるか!?」


「出来る、ふざけるな」


 翡翠はそういって、懐から五千金の硬貨を差し出した。


「これで、買えるか!?」


 店主は恐る恐る硬貨を受け取ると、本物だと確認し羽ペンが入った箱を差し出した。


 翡翠はそれを受け取り、懐に直すと笑みを浮かべた。


「ありがとう、じゃあな」


 動揺を隠せない店主をよそに、翡翠は早々とその場を去った。


――――空汰へのプレゼントだ


 空汰の髪と瞳は白銀に薄ら水色掛かっている。羽ペンと似ていた。


 翡翠は街中を抜け、人気のない森へ入った。そして、ヒョイっと木の上に登り一息ついた。


 まだ夕暮れにもならない。


 日々は本当に長い。


 しかし、こんな悠長な時間を過ごし続けるわけにもいかない。待っていれば情報がどんどん入ってくるわけでもない。そろそろ自ら動き始めなければならない。


 もう一度、ツェペシ家へ侵入しようか。


 リスクが高すぎるかもしれないが、空汰とミーランのおかげで何かがあることはよく分かった。いや、それ以前から珀巳により少しは分かっていたが、確信には少しだけ足りていなかった。


 翡翠は空汰に書いたノートの文を思い出していた。


(空汰へ


 俺も正直こういうことはあまりしたことはないから安心しろ。


 ミーランが来たことについては正直驚いた。お前に情報を流したそうだが、まだ信じてはいけない。お前が勝手に信じるのは好きにすればいいと思うが、敵だと言っている時点で、あまり信じられない。敵が自分は敵ですと言っているようなこともある。


 ミーランの好きな男のタイプの話はどうでもいいとして、前妖長者の名は俺も知らない。前に言ったような気がしないこともないが、翡翠は前妖長者の名だ。俺は前妖長者についてあまり知らない。知っているのは、人間であるということのみだ。後は男ということだろうか。それ以外は本当に何も知らない。


 それから監視の件だが、前よりお前に疑いの目も向いたし、それを理由に妖長者の動きを封じたいだけだ。それで、俺は逃げたのだから。お前にとって、過ごしにくい日々になるだろうが、出来るだけ平常心で普通に生活を送ってくれ。あとは出来る限り夜会の会話の計画や長老については、俺が簡単に調べてみる。裏切り者の可能性が高い。


 珀巳のことは、お前が聞いて来れば始めから話す気でいた。ただ、お前の事だから気にはなるけど聞いてはこないだろうと勝手に思っていたから、放置していた。


 夜会のお前がいなかった間の事を話そう。


 ただし、それで珀巳を問い詰めたりはするなよ。する時は俺がするから)


 そしてあの日起こったことを赤裸々に綴った。


――――珀巳……


 翡翠は一ページ一ページを読み返しながら視線を一瞬珀巳に向けた。


『珀巳』


『はい』


珀巳はいつものように翡翠に向き直る。これだけを見ると、極普通に見えるのだが……。先程の屋敷の陰での様子を見ていた翡翠は、演技ではないのかと疑っていた。


『どうして遅刻した?』


『……それは……』


『いつもなら連絡をするだろう』


『申し訳ありません……』


『何か道中にあったのか?』


『……いえ』


『ならどうして?』


『それは……その……』


 翡翠はため息交じりにトーンを強めに言った。


『ならばこれは答えろ。どうしてそこにいた?』


 珀巳は黙り込んでしまった。昔から思っていたが、珀巳は嘘を吐くのが苦手である。吐いてもすぐにバレるし、分かりやすい。


『黙り込んでいるつもりか? 俺はそんなに気は長くない。それくらいずっといるのだから分かっているだろ?』


 それでも珀巳は黙っていた。翡翠は日記を閉じ、珀巳に鋭い視線を向けた。珀巳は動揺を隠せない様子でおどおどと立ち尽くしていた。


 翡翠は呆れて、珀巳の目の前に立った。


『俺に隠し通せると思ったら、大間違いだからな!?』


 翡翠はそれだけ言い捨てると、珀巳から離れまた日記を読み始めた。


 数分後、ただ立ってこちらを見ている珀巳を見て翡翠は苛立ちを込めた声で言った。


『どうするんだ!? 俺との契約を棄てて今すぐここから去るのと、今ここでお前の息の根を止められるのと、拷問をして吐かせるのとでは、どれがお好みだ? 俺は正直どれでもいいぞ』


 その言葉を聞いた珀巳は、膝から崩れ落ちた。体ががくがくと大きく震えている。


 翡翠はそんな珀巳にただただ冷たい視線を向けていた。


『……翡翠……様……』


『何だ』


『俺を……殺して……くださ……い……』


 翡翠は大きなため息を吐くと、珀巳から視線を逸らし、日記をパタンと閉じた。


『殺してください……ねぇ。良いよ』


 珀巳はガクガクと震え黙っていた。


『殺してあげるよ。ただ俺は、お前みたいに真実を言わないために死のうとする輩は嫌いなんだ。口割るまでは覚悟しておけよ』


『ひ、翡翠様!』


『何だ。お前は俺の式という名を被った裏切り者だろ?』


『た、確かに……そう……なのかもしれません……。でも、私は……』


『お前が裏切るとはな』


『も、申し訳ありません!』


『何をしようか』


 珀巳は黙り込んだ。


 翡翠は冷笑を浮かべ、珀巳の目の前にしゃがみ込み、首を傾げた。


『珀巳は何が嫌いだったかな~』


『翡翠……様……』


『俺に助けてほしいって言っても無理だよ? 俺が怒ると怖いことくらい知ってるよね!?』


『お許しください……』


『忠誠心が強い割には、あっさり裏切るんだね』


『ですから、殺してください!』


『お前、殺されて死んで逃げるんだ』


 珀巳はハッとして顔を上げた。


『そ、そういうわけでは……!』


『ふ~ん。逃げるのか』


『その……』


『珀巳』


『は、はい!』


 翡翠は冷笑も消え、無表情になっていた。


 翡翠は立ち上がると、日記を妖術で隠し持ち、珀巳との契約書を取り出した。


 珀巳はその契約書を持つ翡翠の手を必死に掴んだ。


『どうか! どうか……それだけは、やめてください! それなら、殺される方がマシです!』


『マシな方を選ぶわけないじゃん』


 珀巳は自分の体からスーッと血の気が引くのを感じ、咄嗟に翡翠の手を離した。


 そうだった。この方を怒らせたらどうなるのかを、少し忘れていた。


『翡翠様、もう一度だけチャンスをください!』


『嫌だ』


『そこをどうか!』


『なら、すべて話せ』


 珀巳は何かを堪えるように、口を堅く一の字にした。


 翡翠はそんな珀巳を見据えていた。


 ここまで頑なに言わないのだ。何か大きな妖が背後についているということだろう。


『珀巳』


『はい……』


『立て』


 珀巳は言われた通り、よろよろと立ち上がった。


 翡翠が契約書から手を離すと、契約書は珀巳と翡翠の間で浮かんだ。


 それを見た珀巳が、焦り突然翡翠に飛びかかった。翡翠は珀巳に押され、一緒に倒れ込んだ。


『痛ッ!』


『翡翠様……それだけはどうか……! どうか! 私に珀巳のままでいさせてください! 翡翠様付の式として……! 妖長者などではなく、翡翠様に! 私は付きたいのです……。我ままで申し訳ありません……。でも、私は前妖長者の翡翠様よりも今の、翡翠様……貴方様に仕えたいのです! どうか……どうか……。名を解かないでください……お願いします……』


 涙ながらに必死に訴える珀巳を見た翡翠は、ゆっくり起き上がり服の汚れをはたいた。


 珀巳は未だ震えていた。


『話さないのならば、契約を破棄してお前の位も取り上げるだけだ。下級妖として好きに生きればいい』


『翡翠様……』


『何だ』


『お言葉ではございますが……、そこまで私の口を………割らせ…たいのであ、あれば、本当の名で縛ればいいのです……』


『それをお前は望むのか?』


『……それは……』


『俺は本当の名で縛るようなことはしたくない』


 翡翠はそういうと、契約書を手に取り珀巳に振って見せた。


『少しだけ時間をやる。その間によく考えてこれからどうするのかを俺に言え。言ってこなければ、勝手に契約を破棄する』


 その言葉を聞いた珀巳は驚いた表情を浮かべた。


『本当……に…いいの……ですか……?』


 声が震えている。


『必ず、俺に真実を話せ』


『……よく考えます……』


 翡翠を見下ろし、人差し指をサッと動かした。すると、珀巳の乱れていた服装が綺麗になった。


『乱れていては、妖長者の名も乱れる』


 珀巳は静かに、背を向ける翡翠を見据えていた。


 空汰は翡翠からの文を読み終わり、肩の力を抜いた。


 空は早くも暁の空になっていた。


――――翡翠、怖いな……


 空汰は苦笑を浮かべ、ため息を吐いた。


「優しい奴ほど怖いというのは、本当らしいな」


 空汰はそう言うと視線をスッと机上にある先程貰ったファイルを見た。


――――暁月記学園……


          ❦


 珀巳は妖たちの住む街中を歩いていた。特に当てがあるわけでもなく、ただ家でじっとしていても仕方がないと散歩代わりにふらふらとしていた。


 妖長者に与えられた休暇も残り三日しかない。


『少しだけ時間をやる。その間によく考えてこれからどうするのかを俺に言え。言ってこなければ、勝手に契約を破棄する』


 珀巳はふいに立ち止まり、空を見上げた。


――――私には眩しすぎる空ですね


 翡翠様は……私を見放したいのでしょうか……それとも……。


「そんなところで何をしている?」


 珀巳は驚いて声がした方を向いた。


 そこには知らない男が木の上に居た。


「誰です?」


「初めまして、君……名前は?」


 男は木から飛び降りてきた。良い身なりをしている。


「珀巳と言います。あなたは?」


「珀巳か……良い名だね。俺は、ある屋敷で守護者をしている身なんだ。名は……澪という。よろしく」


「よろしくお願いします……」


「何かあったのか?」


「え?」


「俺が相談にのってやろうか?」


「あなたのことを良く知らないので」


「確かにそうだな。でも、悩み事っていうのは誰かに相談すると案外すぐに答えが見つかるものだ」


「答えが……見つかる……」


「見たところ、お前は何か悩み事を抱えている。俺はこう見えてかなり口も堅い。信じられないなら俺の本当の名をお前に預ける。それでどうだ?」


 珀巳は男の真っ直ぐなまなざしに頷いた。


「なら、本当の名を教えてください。貴方に、相談してもいいでしょうか?」


「本当の名は、ゼロだ。相談は引き受けよう」


 珀巳には久しぶりに小さな笑みが浮かんでいた。


 何故だろうか、この澪という男には無条件で心を許してしまいそうだ。


 男は、珀巳に優しい笑みを向けていた。


          ❦


 空汰はファイルを手に、自室を後にした。


 綺麗に咲く花々と小さな川は、いつもと変わらない穏やかな時間を過ごしていた。


 空汰はふと奥に見える扉の前に立った。


『ここに来るのはいいが、この先の別館にはあまり行かない方がいい』


 あの時ここで出会った男の子は確かにそう言った。


 この扉の奥になにかがあるのだろうか。あるのだとしたら、何があるのだろう。


 空汰はそっと扉に触れた。


「行かない方がいいと、言ったはずだ!」


 空汰が驚き振り返るとそこには、男の子が立っていた。


「あの時の……」


「今すぐそこから離れろ!」


「何故?」


「そこは、一番やばい奴の部屋だ! あいつが気づく前に、さっさと失せろ!」


 空汰は首を傾げた。


 それを見た男の子がもう一度怒鳴った。


「失せろ!」


 空汰はファイルを落としそうになりながら、その場から走り逃げた。


 男の子は空汰の背中が見えなくなるまで見ていた。


「間に合いましたね」


 スッと男の子の後ろに人影が現れた。男の子は、大きなため息を吐くとその人影に鋭い視線を向けた。


「黙っていろ。……珀巳」

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