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人間界と妖世界



「ツェペシ家は、力を持っているが故に妖長者の座を狙い続けている。片時もあいつらの屋敷内では気を抜くな。すべての妖に気を張っていろ。例え、お前のそばにいるやつらでも同じだ。もちろん、俺も含めて……」


          ❦


 空汰はひとつ深呼吸をすると、気持ちを引き締めツェペシ家の門をくぐった。流石というべきか素晴らしい佇まいをした屋敷と広々と手入れをされた庭が広がっていた。だがやはり、妖長者の屋敷にくらべればだいぶ劣るような気がしないこともない。妖長者の屋敷の五分の一程度だろうか。


 屋敷に入ると、両側にツェペシ家の使用人がずらりと並び、声を揃えて、ようこそお越しくださいました、と一礼をする。


 空汰は緊張のあまり、壊れたロボットのような動きをしてしまった。


 使用人の列の奥には、にこやかな笑顔をしたツェペシ家夫婦が立っていた。空汰はそれに気づくと、カタカタと一礼をした。


 エリア様はそんな空汰を見て、くすくすと笑っていた。


――――なんだ、案外いい人じゃないのか?


 空汰は歩みを進め、夫婦の前で立ち止まり一礼をした。


「今宵お招き頂き、誠に嬉しく思います。是非今日はよろしくお願いします」


 ダイは空汰に続き一礼をすると、にこやかに笑みを浮かべエリアを示した。


「本日はご多忙の中、わざわざお越しくださいまして、ありがとうございます。私たち夫婦をはじめ使用人らも凄く楽しみにしておりました故、陛下も今宵くらいは羽をのばして楽しんでくださいませ」


 エリアが使用人に何か言うと、列をなしていた使用人が全員はけた。そして夫婦直々に夜会の会場へと案内した。


 階段を昇る途中、ダイとエリアは何やらこそこそと話をしていたが、やがてダイは振り返りもせずに空汰に問うた。


「そういえば翡翠陛下」


「は、はい」


「……どこか雰囲気が変わりましたかな?」


「え……。そんなことありません」


「そうですか。……しかしながら陛下」


ダイはそういうと立ち止まり振り返った。エリアと空汰もつられて立ち止まる。


 立場的に今のこの状況は、ツェペシ家に非があり今ここに式が来れば修羅場に成りかねないそんな状況である。立場が下の者は上の者よりも高いところから見下ろすような行為は絶対にタブーである。それをまさか知らない伯爵家ではないだろう。


 空汰はそんなことを思いながら、ダイを見上げていた。


「何でしょう、伯爵」


 少しばかり嫌味を含めたつもりだ。


「私達の知る陛下は、形式的に敬語は使いますが、こうして三人または私と二人になったときはかなり偉そうでしたよ? 敬語なんてもってのほかです」


 その時、若草の蝶が一羽、ダイの鼻の上で止まり、ダイはその蝶を手で払うと怪訝そうな表情を浮かべた。


「珍しい蝶だ、一体どこから入った!?」


「あ、すみません。俺の蝶です」


「陛下の!?」


「はい……。最近飼いはじめたので、躾がなっていなくて」


「その蝶をどこで?」


「えっと……。そこらへん?」


 あまりの曖昧な返事にダイは返す言葉が分からず、黙り込んでしまった。こいつはあの翡翠裕也なのかと本当に疑ってしまう。敬語を使うところといい変な言い訳をすることといい、こいつは翡翠の影武者か何かか?


 若草の蝶はひらひらと飛んで、空汰の肩に止まった。


《お前は翡翠裕也ではないと疑われている。あいつの言う通り確かに周りの目がなければかなり偉そうにしていた。急に他人行儀になったことに不信感を抱いたんだろう。お前も俺のようにしろ。……だが今は、この状況を早くどうにかして、夜会へ参加しろ》


 空汰は蝶を一瞥した。


 翡翠は、空汰の簡単にいうけど無理だ、と言っている顔を見て、ため息を吐いた。


「ところで陛下」


 今度はエリアが前に出てきた。


「エリア様、何でし……何か?」


「式は未だつかないのですか?」


「式とは別々に来ま……来たから少し到着は遅くなる」


「そうですか」


 そう答えるエリアには先程まで見せていたにこやかな笑みも消え、妖長者を鋭く睨むようなそんな表情をしていた。


「陛下。最後にひとつだけよろしいですかな?」


 ダイがまた一歩前に出てきた。笑顔を浮かべているが、どこか嘘くさい。


「どうぞ」


「暁、染まる空に?」


 はい? このおじさんは何を言い出したことか。ハッタリか?


 空汰はチラッと蝶を見た。


 翡翠は、黙り込んでいた。ダイの言葉の意味を知っている。返答の答えも知っている。しかし、最悪なことに忘れていた。


《悪い……思い出せない》


――――はぁ? ふざけんなよ


 暁、染まる空に……。これは多分限られた者しか知らないツェペシ家の間の本人確認のための言葉だろう。もちろんこの言葉に続く言葉は、決めた本人たちにしか分からないし普通なら全員一緒にするようなこともない。だからこの答えを知っているのは、翡翠裕也本人とツェペシ家だけだ。しかしこちら側が忘れたとなると、もう答えは分からない。


 翡翠が好きなものか? それともあちら側か?


 暁……。染まる空に……染まる? 空?


『妖世界にも七不思議があるのですよ』


『七不思議?』


『そのうちの一つが――』


 空汰はハッとした。


「太陽無し!」


 ダイはフッと笑うと、また歩き出した。それを見て安堵の息を吐き、空汰も階段を昇る。


《太陽無し……》


 大きな扉の前には守護者が二人立っていた。


 ダイとエリアと共に空汰は、夜会の会場に入った。


『そのうちの一つが暁の空、夕暮れはあるのに、何故か太陽がないということです。よく皆さま、こう言いますよ。「暁、染まる空に、太陽無し」と』


 暗号でも翡翠とだけ交わした言葉でもなかった。妖世界の七不思議のひとつ、『暁、染まる空に、太陽無し』だったのだ。ダイはただ単に試したかっただけなのだろう。これくらいは知っていて当然だと。


 夜会はもうすでに始まっていた。


 テーブルと椅子はあまりなく、立食形式のようだった。ざっと見ても五十名以上の妖たちが集まっているようだ。


 空汰は食事が並んでいるテーブルに近寄り、お皿を手に取った。全く食べないつもりでいたが、意外と美味しそうという見た目に負けて食べることにした。


「食べる?」


《俺に気安く話しかけるな》


「別にいいだろ? 式ということにでもしておけば」


《珀巳が着たらそうでもない》


「そういえば、珀巳……」


やけに遅い気がする。


《遅いのを気にするのもいいが、自分の身を一番案じろ》


「あぁ……。で、食べるのか?」


《要らん。俺はここを早く出たいのだ》


「ふ~ん。美味しそうなのに」


《餓鬼》


「うるせぇな!」


 空汰はいくつかの料理を皿にのせ、壁際で静かに食べ始めた。


 こうして夜会に来てみると、服装的に皆悪くない身分なのだとうかがえた。話し方や食事の仕方、礼儀などを一通り見てもそう思うのだから、低級や中級妖はいないのだろう。


 それにしても……


「居心地が悪い」


「居心地悪いの?」


「え?」


 誰かに声を掛けられたような気がしたら、キョロキョロしてもそこには誰もいなかった。不思議に思いふと足元を見ると、可愛らしい女の子が可愛らしいドレスを身に纏いこちらを不思議そうに見上げていた。


 この子供も高級な妖なのだろうか。


「そ、そんなことないよ」


「ふ~ん。お兄ちゃん、凄くいい匂いがするね!」


「いい匂い?」


「うん。お兄ちゃん」


女の子はそういうと、耳を貸してと言ってきた。空汰は、しゃがみ込み、耳を傾けると翡翠がじっと女の子を見ているのに気付いた。蝶の姿では、どんな表情をしてみているのかが全く分からないからこういうとき不便だ。


 女の子は小さくつぶやくような声で空汰に言った。


「お兄ちゃん、人間でしょ?」


 空汰は驚いて女の子から少し離れたが、よく考えてみれば翡翠ももともと人間であり、妖長者から人間の匂いがしても何ひとつ可笑しくはない。何を驚き怯んでいるのだろうと少しバカらしくなって、苦笑を浮かべながら立ち上がった。


「俺は人……」


《言うな!》


――――何故?


 空汰が口を噤んだのを見て、女の子は不思議そうにしていたがやがて笑みを浮かべた。


「ねぇ、お兄ちゃん。名前は!?」


 普通は自分から名乗るものだと教えられなかったのだろうか。


「翡翠って言います。翡翠裕也」


 その言葉を聞いた瞬間、女の子の表情が曇った。


「ひ……すい……」


「ご、ごめんね。どうしたの?」


 女の子はそのまま逃げだしてしまった。


 空汰は女の子が見えなくなってもあっけにとられ、ただただ立ち尽くしていた。


          ❦


 妖世界での一日と人間界での一日は全く異なる。時間の流れが異なるのだから、一日の時間に差が出るのも頷ける。しかし、人間界のように一日は二十四時間という決まりはなく前後して時間がずれるため、一日が何時間という区切りはない。


 そして、人間界ではたくさんの言語が存在する。英語、フランス語、中国語、韓国語、日本語……等々。しかし、妖世界にはそんなに多くの言語は存在しない。方言はあるが、言語は一つしかないし、文字も一種類しかない。人間のように多種多様にはない。


 それから食事。これもまた人間とは全く異なっていて、人間のように毎日三食食べることはない。数日に一度食べればそれで十分らしい。中には、一生何も口にせず過ごす妖もいるくらいだ。それから人間の好物は人それぞれだが、妖の好物は人間だ。特に生きた人間を殺してすぐに喰うことを好み、わざわざ殺さずに人間界からさらってくる者もいる。もちろん、人間界に出られるほどの力があればの話だ。


 もちろん、妖長者は人間なので毎日三食きちんとした食事が出るが人間が作る食事とは、やはりいろいろと違っていて、不味いとも美味しいとも言えない。


 人間界と妖世界では時間の流れが違うと言った。


 どのくらいの差があるのかは正直全く分からないが、明らかに妖世界の方が流れはゆっくりとしている。それ故、妖世界に住む人間は殺されたりしないかぎりは不死身に近い状態である。


          ❦


 空汰は夜会の会場を抜け出し、広々とした庭に出てきた。数か所に回廊が見える。空汰はそこの一箇所に引きつけられるように行った。気づけば式の行方も翡翠の行方も分からなくなっていた。


 翡翠は一体どこに行ったのだろうか。夜会を抜け出したときからもうすでにいなかった。


 そしてそれよりも問題なのは珀巳だ。ここについてもうすでに数時間が経つが未だに珀巳は来ていなかった。いや、来ていて迷子になっているのかもしれないが、彼に限ってそういうことはないだろう。


 空汰が近寄った回廊を挟んだ反対側の庭には、一輪の青い花が咲いていた。本当にあるのはそれくらいで、他には全く何もない。何故こんなところにこんなに綺麗な花がたった一輪だけあるのかはとても不思議だった。


 回廊の隅に座り、花を静かに見据えた。


 数分が経った頃、一羽の蝶がひらひらと空汰の手に止まった。花と同じく青い蝶だった。色は違うが姿を変えられる翡翠のことだから色も変えることが出来るのだろうと思った。


「なぁ翡翠、珀巳は裏切り者じゃないよな?」


 蝶は何も言わなかった。


「翡翠、お前……無視かよ」


 蝶は空汰の周りをふわふわと飛びながら、鈴がチリンチリンとなるような微かな音を鳴らした。


 空汰がぽかーんとしながら蝶を目で追った。


「お前……翡翠じゃ無い?」


 空汰は不審に思い立ち上がり、一歩後ずさった。蝶はただただ空汰の周りをふわふわと飛んでいた。


――――ん? あれは……


 蝶を目で追っていると、空汰はあることに気付いた。


 建物の陰に隠れてあまりよくは見えないが、そこには見慣れたしっぽが見えていた。


 空汰は目を凝らしてじっと見つめた。


――――珀巳だ……


 あんなところで何をしているのだろうか。誰かといるわけではなさそうだ。


 ただ静かに何かを手に持って、夜空を眺めているようだった。その顔はどこか寂しそうな表情をしていた。


「はっ……」


誰かに背後から口を抑えられ引っ張られた。


 珀巳の名を口にする前に誰かに封じられた。


「少し黙っていろ」


 聞き覚えのある声だ。空汰は何故かそれだけで安心して、身を任せてしまった。回廊の陰に隠れると人影は空汰を解放した。


「誰だ!」


また口を抑えられ、放された。


「静かにしろ」


 空汰は静かに顔を見上げた。するとそこには、いつもの姿をした翡翠の姿があった。何故か蝶の姿ではなくなっている。


 空汰は出来る限りの小声で話した。


「翡翠、何で……?」


「あの女の子」


「女の子? ……あぁ、逃げた子か。その子がどうした?」


「ミーラン・ツェペシだ」


「……ミーラン……。ツェペシ家の一人娘の!?」


「そうだ」


「それで……逃げたのか」


「お前から人間の匂いがしたから喰べようとしたら、まさかの妖長者でしたっていうパターンだ」


「俺を喰う?」


「あぁ。妖は人間を喰うぞ? 普通に食事として」


「ならお前も危ないんじゃ」


「俺の心配をするより、自分の心配をしろ」


「そうだ! お前何で蝶の姿から戻ってるんだよ。バレるぞ」


「空汰。俺と入れかわれ」


「……は!?」


「お前が蝶となり、俺が妖長者に戻る」


「お前バカか!? 死ににいくようなものだぞ!?」


「分かっている」


「ならばなぜ!? 俺の命の心配なんて必要ないぞ?」


「お前の心配ではない。裏切り者がここでしっぽをだす可能性がある。俺がお前に前もって早く説明していれば、今変わる必要もないが、まだ説明が出来ていない。何も知らないお前に今、ここに妖長者として、珀巳のいない身を放っておくわけにはいかない。それに、俺が蝶になってお前のそばにいたとしても、この人間の姿以下の力しか使えない。イコールお前をあの姿では守ることは出来ない。俺は今日、ここに様子見をしに来たんだ。だが、少し可笑しい。ツェペシ家も珀巳も何かに巻き込まれているか、裏切り者の仲間かのどちらかだ。そんなやつらのそばに、お前を無防備においておくわけにもいかない」


「俺の事の心配はいらない! 俺は俺で何とかする」


「妖術もまともに使えないお前が、何をふざけたことを。俺にその言葉を言うのであれば、本当に自分の身が自分で守れるようになってから言え!」


「俺は……」


「良いか? 何もお前が用済みになったと言っているわけではない」


「え?」


「俺が妖長者として珀巳を連れ、ツェペシ家と話をする。その間の時間を使って、お前は出来る限りこの屋敷を見て回れ。そして何か不審なものがあったりいたりしたら教えろ。今お前が出来る精一杯のことをしろ」


「分かった」


 空汰が頷くのを見て、翡翠は空汰の胸に手をあてゆっくりと離した。すると、翡翠の手のひらに、妖長者の証である光の玉が出てきた。翡翠はそれを自分の胸に移し空汰から妖石を受け取った。


 そして二人の服を交換し、翡翠は姿を空汰に似せた。


「俺が二人いるようで気持ち悪いな」


「俺がお前を蝶に出来る時間は約二時間。それを過ぎれば、自動的にその姿に戻るから気を付けろ。ちなみに、ひとつだけ忠告しておくが、さっきも言った通り、人間は妖の高級なご飯だ。人間の姿に戻ったら、ここに逃げて来い。結界を張っておく。お前にならその結界の位置が見えるだろう」


「分かった」


「あともう一つ、こいつを連れて行け」


 翡翠はそういうとさっきまで空汰の周りをふわふわと飛んでいた青い蝶を見た。すると、蝶は翡翠の指にとまり、翡翠はそれを空汰に差し出した。


「こいつを連れて行け。言葉は分からないだろうが、こいつなら俺とどんなに離れていても会話が出来る。お前が見つけたこと、気になったことがあれば、こいつに言えば俺に通じる」


 蝶は空汰の頭の上にひらひらと静かにとまった。


「名は澪。ひと見知りが多少ある分、あまり仲良くはなれないかもしれないが、そいつは俺の式だ。かなり信頼をおいているから、安心しろ」


 空汰は視線だけを蝶に向けて笑みを浮かべた。


「澪、よろしく」


「じゃあ、頑張ってやれよ」


 空汰が有無を言う前に、翡翠は何やら呪文を唱え始めた。すると、瞬く間に空汰は黄の蝶となった。


 翡翠は空汰の姿を見て何か言いたげにしていたが、何も言わずに微笑むと、珀巳のもとへ出て行ってしまった。


『ツェペシ家も珀巳も何かに巻き込まれているか、裏切り者の仲間のどちらかだ』


珀巳は、妖長者付の式なのに、裏切ったりするだろうか。しかも正義感の強い珀巳ならなおさら有り得ないような気がしてならなかった。


          ❦


 翡翠は夜会の会場の隅に佇む空汰を見た。


――――さすがに疲れたようだな


 空汰は大きなため息を吐くと、夜会から抜け出しどこかへと歩き出していた。


 翡翠はスッと空汰から離れ、澪を呼んだ。


「澪」


 澪はどこからかひらひらと飛んできて、チリンチリンと音を鳴らした。


「空汰についていてくれ。何かあったら俺に知らせろ」


 澪は翡翠の言葉を聞くなり、空汰のもとへ飛んでいった。


 翡翠は澪を見送ると、夜会の会場に戻った。


 いくつか気になることがある。一つ、式の珀巳が未だに来ていない事。正義感が強く忠誠心の強い珀巳が遅刻するなど今までほとんどなかった。その珀巳が連絡も寄越さず、こんなにも遅刻するのはとても気になっていた。二つ、ツェペシ家の夫婦が空汰のことを妖長者かどうかを疑っていたこと。確かに敬語を使うことは不審に思ったかもしれないが、それ以外では特に何ら変わらない言動である。たったその一つの違いだけでそこまで疑うだろうか。妖長者の屋敷に来て空汰に一度会っているか、不審がっている式、長老、守護者たちに会って話を聞いていれば分からなくもないが、そんな様子も全くなかった。しかし、何故か疑っていた。疑う要素がどこかにあったということだ。三つ、あの女の子。あの妖力と服装からしてミーラン・ツェペシだろう。彼女は、空汰を不思議そうに見つめて、あわよくば喰らおうとしていたところから見て、妖長者だとははじめ気づいていなかったということだ。という事は、妖長者とバレる前の言動こそが彼女の本当の姿である。空汰が妖長者だと言った瞬間、表情がすぐに強張っていたところを見ると、どこかでその名を最近耳にして、しかもその内容があまりよくない内容であったか、もしくは、両親に近づくなと言われたかのどちらかだろう。そして最後に、どこかで不思議な気配を感じる。感じたことのある気配だが、全く誰の気配であるのかが分からない。ここまで隠せるのだからそれ相応の爵位の持ち主か力の持ち主だろう。


 翡翠はその気配を探りに夜会に戻ってきたが、結局分からなかった。ただ、一つだけは気づいた。


――――ツェペシ家夫婦とその娘が夜会にいない


          ❦


 空汰は澪と共に屋敷内を飛び回った。しかし、あまりの広さに疲れ少し休んでいた。


一体どこにそんな秘密があるのだろうか。翡翠ならこの屋敷の構造を理解していたはずだ。翡翠が屋敷内をまわった方がいいのではないだろうか。


空汰はそんなことを思いながらも飛び立ち、屋敷内を慎重に見て回った。


          ❦


 空汰に扮した翡翠と珀巳が夜会に戻ると、待っていましたというようにダイが別の部屋へと案内した。十畳ほどの小さな部屋に小さな本棚とテーブルを挟んで椅子が二つあるだけの殺風景とした部屋だった。


 翡翠は逃げられるように入ってきた扉の前に立ち、ダイを見据えていた。珀巳は何も言わず静かに、翡翠から数歩離れたところに立っていた。どうも様子がおかしい気がする。


 ダイは本棚から一冊本を手に取ると、テーブルの上に投げ置いた。


「持っていくと良い」


「何故?」


「陛下のいつかの忘れ物、とでも言っておきましょう」


「俺の?」


翡翠は疑いながらもテーブルに近づき、本を手に取った。中を開くとそこには汚い人間の字が書かれていた。確かに翡翠が、妖長者に成りたての頃に気分転換に書いていた日記だった。だが問題はそこではない。


「何故、ダイ伯爵がお持ちで?」


「ずっと返そうと思っていたのだが、忘れていたのだよ」


「何故今日?」


「思い出したから。それじゃだめかね?」


 ダイは眉毛を上にあげ、そう言うと椅子に座った。


「陛下、少しお話をしませんか?」


「……遠慮する。それから、伯爵。今宵はもう帰ろう」


「何故ですかな? もう少しゆっくりなさればいいのに」


「いえ、今宵の夜会、久々にいろいろと楽しかった。ミーラン様にも会えましたから」


 ダイは驚いたように頷いた。


「ミーランに会ったのかね?」


「はい」


「そうか……。ミーランに何かしていないだろうね!?」


「ミーラン様に手出しなどもってのほか」


「それが本当ならな。後でミーランに確かめてみるとする」


「そこまでお疑いにならなくても、事実は事実」


「妖長者も結局は我々より無能な人間。人間の闇は我々にも分からない。そうやすやすと信じられるわけがない」


 こうなるからここに来たくはないのだ。何かあったとして、なかなか疑いは晴れないし話し出すと止まらない。


「事実は事実。それに変わりはない。では、伯爵。今宵の歓迎、感謝する。また次は、俺が招待しよう」


「……楽しみに待っているよ、陛下」


 翡翠は本を片手に、珀巳と共に部屋を後にした。夜会の会場を横切り、廊下に出ると、珀巳に本を預け真っ直ぐな廊下を歩いた。


 そして空汰との待ち合わせ場所に来ると、誰もいないことを確認し珀巳から本を受け取り、ページをぱらぱらとめくった。


 懐かしい。


 少し瘴気焼けをしている。


 九年前に書いたものだ。妖長者という存在に嫌気がさして、病んでいたころ、自分自身を慰めるために自分の気持ちを書き記していた日記。しかし、気が付けばその日記は手の内から消えてなくなり、しばらく探していたのだが結局見つからず、そのまま忘れ去っていた。時間が過ぎ、再び手元に戻ってきて改めて見ると、小学生の頃の字の汚さに自然と笑みが浮かんだ。こんな時期もあったのだ。今はこんな俺になってしまっているが、まだこのころは世間知らずの子供だった。


 ここでやはり浮かぶのが、あの疑問。何故、ツェペシ家にこれがあったのかということだ。この日記は誰にも目につかないように隠していた。もちろん式だってこの日記の在り処も存在さえ知らなかったのだから、自分以外誰も知らなかったはずなのである。だがそれが見つかり、しかも何故、持ち出すはずのないツェペシ家にあったのだろうか。聞いたところで、本当のことを言ってくれるわけがないことも知っているから、先程は聞く気にもならなかったが、やはり一度気になり始めたら気になってしまう。面倒だが少し時間をおいて考える他なさそうだった。この日記は人間界の字で妖たちは読めないはずだ。これを持ち出したところで、何の意味もない。


――――深く考えるだけ、無駄なのかもしれない


 翡翠は一ページ一ページを読み返しながら視線を一瞬珀巳に向けた。


「珀巳」


「はい」


珀巳はいつものように翡翠に向き直る。これだけを見ると、極普通に見えるのだが……。先程の屋敷の陰での様子を見ていた翡翠は、その様子が演技ではないのかと疑っていた。


「どうして遅刻した?」


「……それは……」


「いつもなら連絡をするだろう」


「申し訳ありません……」


「何か道中にあったのか?」


「……いえ」


「ならどうして?」


「それは……その……」


 翡翠はため息交じりにトーンを強めに言った。


「ならばこれは答えろ。どうしてそこにいた?」


 珀巳は黙り込んでしまった。昔から思っていたが、珀巳は嘘を吐くのが苦手である。吐いてもすぐにバレるし、分かりやすい。


「黙り込んでいるつもりか? 俺はそんなに気は長くない。それくらいずっといるのだから分かっているだろ?」


 それでも珀巳は黙っていた。翡翠は日記を閉じ、珀巳に鋭い視線を向けた。珀巳は動揺を隠せない様子でおどおどと立ち尽くしていた。


 翡翠は呆れて、珀巳の目の前に立った。


「俺に隠し通せると思ったら、大間違いだからな!?」


 翡翠はそれだけ言い捨てると、珀巳から離れまた日記を読み始めた。


 数分後、ただ立ってこちらを見ている珀巳を見て翡翠は苛立ちを込めた声で言った。


「どうするんだ!? 俺との契約を棄てて今すぐここから去るのと、今ここでお前の息の根を止められるのと、拷問をして吐かせるのとでは、どれがお好みだ? 俺は正直どれでもいいぞ」


 その言葉を聞いた珀巳は、膝から崩れ落ちた。体ががくがくと大きく震えている。


 翡翠はそんな珀巳にただただ冷たい視線を向けていた。


「……翡翠……様……」


「何だ」


「俺を……殺して……くださ……い……」

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