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招待の手紙



 家族。夫婦や親子、血縁関係のある者たちの小さな集団の俗称。


 普通なら、母親と父親が居て、兄弟が居て、祖母や祖父が居て……そんな集団を家族というのだろうが、翡翠にとってはそのどれもいない。翡翠の中では、一緒に日々を過ごしてきた施設の者たちこそが家族なのである。


「ダンスのレッスンをしたい!?」


 珀巳は驚きのあまり、声が裏返ってしまった。隣でクスクスと笑う黄木に怒ると、黄木は、つい可笑しくて、と笑うのを止めた。


「あ……あぁ、それから礼儀も教えてほしい」


「突然どうしたのです!? 礼儀なら……」


珀巳は言いかけて止めた。妖長者は今、記憶喪失だということを思い出したのだ。自分の立場や式たちの事を覚えていなかった翡翠が、礼儀や社交ダンスを忘れていても全く可笑しくはなかった。


「分かりました。ナク様に確認してみます」


          ❦


 翡翠は自分の屋敷から少し離れたツェペシ家にやってきていた。いや、遠くから覗きに来ていた。翡翠は、木の上を猿のように飛び木から木へ動いて、ここまでやってきたのだった。特にこれといって理由があるわけでもないが、最近のツェペシ家の動向を知らないのは、空汰が危険な目に遭うかもしれないと、少しばかり様子を見に来たのだ。


 しかし、静かな屋敷を見て、誰も庭に居ないことを確認すると木から飛び降り庭に下りた。敷地内に無断で入ることは、例え世界の王であろうと悪い事には違いない。


――――だがしかし! 俺はよくやる


 庭と屋敷を見回し、誰もいないことを確認すると屋敷の回廊から中へと侵入した。中に入ると、流石に守護者は多く規則正しく並んでいた。


――――この守護者の配置では、ここから先に入ることは難しいか……


 翡翠は考えた末に、屋敷内を見てその隅にある窓を見た。


――――あれがちょうどいいか


 翡翠は鋭くその窓を睨んだ。するとその時、音を立てて窓ガラスが割れた。守護者たちは驚き、窓のそばに駆け寄った。翡翠はそのすきをついて、中へと入って行った。


 まだ妖長者になって一年ほどしか経っていない頃、守護者たちの目を盗んでこうやって屋敷内から外へ逃げ出していた。数回繰り返しているうちに、守護者はガラスが割れてもガラスの方を見ずにほかのところに視線を向けてしまうという変な習慣が出来て、それからはこのガラスを割って逃げるという下らない力は使わなくなった。久々に使って、失敗するかと思ったが、案外使ってきた力は身に染みて覚えているようで、あまり力を使わずに割ることが出来た。な~んて、悠長なことを言っていたら後ろから守護者たちが追いかけてきたりするものだと思っていたが、ここの守護者はバカらしく、全く追っかけてくる気配は無かった。翡翠は嘲笑しながらも後ろを振り返ることなく、前へ前へと走った。そして、適当な場所で立ち止まった。


 大体の屋敷の構造は外見で分かる。しかも高爵位の持ち主の家ならば尚更だ。大体、最上階かその下の階に当主は部屋を持っているものだ。俺の部屋だって、最上階の半分以上を占めている。


 翡翠は窓から飛び出すと、そばにあった木に飛びのり上から二番目の階の窓に飛び移った。


「ッ! ……やべっ!」


 足を踏み外し重心が後ろに傾いた。絶対に落ちてしまうと確信した翡翠は自然に体を動かし着地できるような体制をとろうとしたその時、蒼い蝶がひらりと飛んだ。そして翡翠の肩にとまると、翡翠はそのまま落下した。


「痛っ……。おい」


翡翠は肩に乗っている蝶を払い退けた。しかし蝶は翡翠の周りをくるくると飛び回っていた。


「助けろよな!」


 蝶は不思議な音をたてた。小さな鈴がチリンチリンと微かになったようなそんな綺麗な音だった。


 翡翠はため息をつくと、蝶に向かって小さめの声で怒った。


「そうだけど! お前だって人型になれるだろ?」


 蝶はまた音をたてた。


「あぁそうかよ。ったく……」


危うくバレるところだった。


 蝶は音をたて、翡翠の左腕にとまった。


 翡翠は蝶を一瞥したが、何も言わずに服の汚れを叩き、もう一度木に飛びのり、部屋へと飛び移った。今度は失敗しなかった。窓は当たり前のごとくきちんと施錠されてしまっていたが、翡翠が鍵に向かって人差し指をスッと上に動かすと、カチャッと音をたてて開いたのを確認すると念のため姿を変え、屋敷内に再び侵入した。


「誰だ!」


――――おっと最悪な展開だ


 翡翠の勘は当たっていたらしく、屋敷内に入ると廊下には相当な数の守護者たちがいた。急に音をたてて開いた窓を不思議に思ったらしく、そこを凝視していたらしい。当たり前といえば、どう考えても当たり前だ。俺だって不思議に思う。そして、そこから入ってきた余所者を当たり前にどうにかしようとも思う。ということは、今からたくさんの守護者たちが俺を追ってくるわけだ。


 翡翠は廊下や広間を逃げ回り、一箇所だけ大きな扉の前に守護者がたつところを見つけた。


「お前は何者だ! 妖長者のような恰好をしているが、そうではないだろ!? 仮装か!」


 翡翠は追いかけてくる守護者の言葉を聞き流しながら苦笑を浮かべていた。


――――仮装って……。ハロウィンか、何かかよ


 翡翠はそのまま廊下の角を曲がり、それに続いて曲がってきた守護者を返り討ちに蹴飛ばし、剣は鞘からは出さずにそのまま鈍器代わりに使った。


 守護者たちは次々に倒され、床や壁に倒れていた。ざっと数えて、三十人ほどいた。


 翡翠は一息つくと、剣を腰に戻すと服装を整えた。


 蝶が音をたてた。


「何が、流石、だよ。守護者は大勢いるだろうとは思っていたが、まさかこの付近だけでもこんなに居るとは思わなかったぞ」


 蝶は笑い声のような音をたてた。


「……もうお前なんか知るか」


 蝶がまた音をたてた。


「あぁ多分、さっきのあの大扉のところにダイがいるんだろうな」


 翡翠はそういって踵を返した。蝶はそんな翡翠の行く先を阻むように飛び立ち、翡翠の方を見て音をたてた。


「あぁもういい。俺は行かない。今度空汰がどちらにしろ来るんだ。その時にでも、一緒に同行してその時に気付いたことを影から教えてやれば十分だろう」


 蝶は静かに、翡翠の手にとまり音をたてると翡翠の中に消えていった。


「澪……」


          ❦


「痛っ……」


「そんなにふらふらしていてはダメですよ、陛下」


 空汰は手を差し伸べてくれた者の顔を見上げた。手厳しそうな顔をしている。


「全く貴方様は……。記憶を失う前の貴方様は、ふらふらはしていましたが、こんなにも覚えは悪くありませんでしたよ」


「すみません……」


 空汰は立ち上がり、一息ついた。


 ナクと言う名の彼女は、元教育者らしい。妖長者に成りたての頃、手厳しく指導を一から十までしていたのだそうだが、今の俺にとってみれば初めて出会う手厳しいおばさん妖で、長老のメンバーの一員ということしか頭に入っていない。


 今は手始めにと社交ダンスを教えてもらっているのだが、教え方が上手いのか下手なのか、それとも自分自身にダンスのセンスが皆無なのかは分からないが、全然覚えられていなかった。


「陛下、御手を」


 空汰は恐る恐るナクの手を取り、ダンスの練習を再開した。女性が誤って男性の足を踏むなんていうイメージがあるかと思うが、ナクはプロでどちらかというと、空汰自身がナクの足を幾度となく踏んでいた。しかし、そのたびにナクを心配する空汰をよそに、ナクは呆れ顔をするだけで何も言わなかった。


舞踏がこんなにも面倒なものだとは全く想像してもいなかった。


――――しかも創造世界だけの話だと思っていた舞踏を自分自身が踊ることになるとは……。全くの想定外だ


 夜会まで残り三十日。


          ❦


 コンッコンッ


「はい?」


「オーガイです」


「どうぞ」


 オーガイは静かに扉を開けて、部屋に入った。部屋に入るといつも通りシンプルな部屋の窓際に、本を手に持ちこちらを見るフィリッツの姿があった。


「どうしたのです?」


「フィリッツ、計画の事だが」


「どうかしましたか?」


「再度決行するか否かを決める」


「そうですか」


「長老会議を開く」


「分かりました。いつでしょう?」


「……明夜」


「では、明夜、長老会議を行います。長老全員に招集命令を出します」


 オーガイは無言で深々と一礼をすると、フィリッツの部屋を後にした。


 フィリッツは、本を机上に静かに置き窓の外を見た。雲一つない夜空だった。


『フィリッツ様、至急お耳に入れたいことがございます』


――――そういえば、翡翠裕也が来てからもう九年経つのか……。私達にしてみれば僅かな時間ですが、人間にとってみれば長い時間だったでしょうね


          ❦


「長老会議?」


 翡翠はいつものように公務を行っていた。空汰は先程柊に貰った紙の文字を読み流し翡翠に渡した。


「俺も少しは読めるようになったんだぜ!」


「それで、何で今夜長老会議が開かれることになったんだ?」


 人の話を聞けよ!


 翡翠に自慢をさらっと流された空汰は、翡翠から紙を奪い取り座ると、紙をテーブルの上に投げ置いた。


「まず、長老会議って何だ?」


「そこからかよ……」


「俺が来てから長老会議なんて、一回も聞いたことは無かった」


「そりゃそうだろうよ、長老会議は基本大きな行事などの前後に定期的に行われるものだ。お前が来た時はたまたま何もなくて、長老会議を開く理由すらなかった」


「じゃあ近々大きな行事があるのか?」


「それかお前に仕事が舞い込んでくるかもしれないな」


「仕事?」


「例えば、俺が前にしたことあるのは爵位を持つ者の屋敷に守護者として雇われて、秘密裏にいろいろ探ったことはある」


「それ……俺かなりリスク高くないか? 妖力とか皆無だし……」


「お前本気でそれ言ってるの?」


「え?」


「妖力の強さなら、俺とほぼ同等だぞ」


「嘘だろ?」


「嘘じゃねぇよ。残念ながらな」


「でも俺、何もできないし……」


「何もできないんじゃない、しないだけだ」


「しないだけと言われても……」


「まぁコツを知らないと出来ないといえば出来ないが」


「なら今度教えろよ」


「いつかな」


 空汰はため息をついた。


 翡翠のいつかはいつだろうか。


「そういえば、お前」


「ん?」


「誕生日パーティーあるんだろ?」


「……は?」


「この前、散歩していたらやけに妖が多くて、色んな妖に話しかけられたんだ。その時に聞いたんだけど、お前の生誕祭をするからそれで来ていると言っていた」


「もうそんな時期なんだな……」


「人間界でいうと、何月何日だ?」


「……教えるかよ、バーカ!」


 餓鬼かよ!


 翡翠はニコニコと笑みを浮かべていたが、公務がすべて終わったのか立ち上がり伸びた。


「ま、安心しろ。長老会議の内容は多分それではない。俺の生誕祭はもう少し先だ。多分別の何かだろう」


「長老会議には俺も出られるのか?」


「お前は本当にバカだな。長老会議なんだから、長老だけに決まっているだろ?」


「うるせぇな」


「それから長老会議の内容は、聞いてもなかなか教えては貰えないからな」


「何故だ?」


「さぁな。だが、俺的には、多分そこで裏切りの話なんてされてそうだけどな」


「裏切り者が長老にいると言いたいのか?」


「俺言わなかった?」


「俺はその話について、全然聞いていない」


「あ、そうだった? ごめんごめん、忘れてたよ」


――――忘れてた?


「はい?」


「いやぁ、もう言ったものだと思ってたよ」


――――言わないのには何か深い理由があるものだと思っていたが、それはどうやら俺のバカな勘違いらしい。こいつのことを深く考えるだけ損かもしれない


「忘れていただけなら、教えろよな」


「あぁ、いいよ。もちろん。だけど……、今日はもう無理」


「は!?」


「言っただろう? 俺は自由の身なんだ。それに、もうすぐ黄木がお前を呼びに来る」


「黄木が?」


――――あぁ、ナクか……


「ナクじゃないぞ? 夜食の時間だ」


 空汰はそういわれ懐中時計を確認する。確かに気づけばそんな時間になっている。


「じゃあ、またな!」


 コンッコンッ


「翡翠様、食事の時間です」


 翡翠はその声と同時にどこかへと去ってしまった。


――――凄い、気配察知能力だ


 そういえば、翡翠はいつもどこでご飯を食べているのだろうか。どこで寝ているのだろうか。


 翡翠には今思えば、謎が多い。


 夜会まで残り二十九日。


           ❦


「陛下、様になってきましたね」


 空汰は水を飲みながら、微笑んでいた。


 ダンスの練習を始めて、初めて褒められたような気がする。確かに体が音に合わせて何となくだが、自然に動くようになっていた。


 しばらく練習をして一通り一曲を通した空汰が、ホッと一息を吐いていると、ナクが質問をしてきた。


「陛下、記憶を本当に失われているのですか?」


「あぁ」


「そうですか……」


「あ、あの」


「はい」


「この前の長老会議では何を話し合ったのですか?」


「陛下、何故今頃?」


「急に思い出して」


「そうですか。残念ですが陛下、長老会議の内容は長老全員の許可がない限りは公表されることはありません」


「そうなんだ……」


 翡翠の言っていた通りだった。


「そういえば陛下、そろそろ礼儀の練習もしましょうか」


「そうだね、ダンスが上手になってきたからそっちもしよう」


「では、明日よりそのように致します」


「分かった」


「今日はどうしますか?」


「今日?」


「一応、ダンスの練習は一通り終えました。もう少し練習しますか?」


「……いや、部屋に戻るよ」


「かしこまりました。お疲れ様でした」


「うん」


 空汰はタオルで顔を拭きながら部屋を後にした。


 扉が閉まるまで空汰の背中を見ていたナクは、静かに鋭い視線を向けていた。


――――あれは、翡翠か?


 夜会まで残り十八日。


          ❦


 ピンポーン


「はい?」


 インターホンから声が聞こえた。可愛らしい女の子の声だった。


「初めまして、翡翠裕也と言います」


「誰?」


「君の兄、酒々井空汰の友人です」


 その言葉を言うと、インターホンから声はしなくなった。そして、数秒後玄関が開いた。そこには小学生くらいの可愛らしい女の子が不思議そうにこちらを見ていた。


 翡翠は、優しく微笑みかけた。


「初めまして、酒々井佳奈ちゃん」


 翡翠は酒々井家のリビングに通された。まだ幼さを残す彼女は、どうぞ、とお茶を出してくれた。


「ありがとう」


 佳奈は翡翠の前に座り、不思議そうに翡翠をまじまじと見た。


 翡翠は姿を適当に変えているのがバレそうなほどまじまじと見られ、視線をそらした。


「酒々井空汰くんはどうしたのですか?」


「……お兄ちゃんは、消えました」


「消えた?」


「その前に、あなたは誰ですか?」


「翡翠裕也と言います、君のお兄ちゃんと友達でした」


「本当に?」


「はい」


「……お兄ちゃんはある日を境にいなくなったんです」


「いなくなった?」


「玄関に落ちていた石を拾った、その日から」


 翡翠は別に空汰のことを聞きに来たのではなかった。この雑談も、すべて知っているし聞きたいことでもない。


「そうなんだ。君はここに一人で暮らしているのですか?」


 佳奈は首を横に振った。


「今はお父さんと」


「あぁ、お父さんと……。……お父さん!?」


『俺は両親がいないんだ』


――――あの言葉は嘘か?


「お父さんと二人で暮らしてるの」


「空汰くんにはお父さんもお母さんもいないと聞いていたのですが」


「うん、だって、お父さんもお母さんも、お兄ちゃんのなかでは死んだことになってるの」


「どうしてですか?」


「二人とも、お兄ちゃんの事大嫌いだったから」


「どうしてですか?」


「分からない。私もあまりそういう話をしたことないもの」


「お父さんとお母さんはそれで、隠れて暮らしていたということですよね?」


「うん、そうだよ」


「どうして、佳奈ちゃんは空汰くんと?」


「え?」


「あ、いや。別に悪い意味じゃなくて、空汰くんを嫌って、身を隠したお母さんたちのもとでは暮らさなかったのかなと思って……。君くらいの歳なら、まだ、お母さん、お父さんのことが好きですよね?」


「そんなのただの先入観よ」


「じゃあ佳奈ちゃんは空汰くんのこと嫌いじゃなかったのですか?」


「いいえ、嫌いだったわよ」


「じゃあどうして……」


「お兄ちゃんは嫌いでも、この家は大好きだったの」


「家?」


「この家は私達が生まれた時からずっと暮らしているの。でも、お母さんたちが離れると聞いたとき、どうしてもこの家が名残惜しくて、残ることにしたの」


「そうなんだね。でも、どうして君もお母さんやお父さんもそんなに空汰くんのことを嫌ったのですか?」


「お兄ちゃん、たまに挙動不審なの」


「挙動不審?」


「誰もいないのに、一人で誰かと話しているみたいに話したり、私のそばにおばけがいるとか言ったりして、いつも脅かしてきたの」


 多分それは、本当なのだろう。


「何か霊感的なものがあって、本当に脅かしていたわけではないかもしれませんよ?」


「そんなことない! お兄ちゃんに聞いたことがあるもの!」


「何をですか?」


「霊感があるのかどうかを」


「そしたら何て?」


「持ってないよって」


 どうしてそんな嘘を吐いたのだろうか。その時に、あるよと言っていれば少しは良かっただろうに。


「それで?」


「それで? って?」


「お兄ちゃんがいなくなって、何かしたのですか?」


「形式的に、捜索願だけ」


「でも正直言って、探していない様子ですね」


「私は戻ってきても戻ってこなくてもどちらでもいいよ」


「佳奈ちゃん、今度俺と一緒に散歩でもしながら話しませんか?」


「嫌よ」


 振られた。しかも、即答。


「じゃあ、また来てもいいですか?」


「うん、それはいいよ! でも、お母さんとお父さんがいないときにね」


「分かりました」


 翡翠と佳奈は立ち上がった。翡翠は思い出したように佳奈を見た。


「そうだ、一つだけ最後にお願いをいいですか?」


「お願い?」


「はい。空汰くんの部屋を見せてください」


「お兄ちゃんの?」


「お願いします」


 翡翠はニッコリと笑みを浮かべていたが、佳奈は不思議そうな顔をしていた。


 夜会まで残り十一日。


          ❦


「礼儀作法は案外良さそうですね」


「そうですか?」


 時々翡翠にガミガミ言われていた甲斐があったということだろう。


「スプーンやフォークの使う順番くらいですね、危ういのは」


「あ、いや……すみません。何故か内側から取っちゃって」


「外側からですから、覚えておいてください。後は、相手との接し方については分かりましたね?」


「はい、何となくですが」


「分かればよろしいです」


「はい」


「夜会までそれほどもう時間もありません。後はご自分で頑張ってください」


「わかりました。ありがとうございました」


 空汰は教えられたとおりの礼の仕方で頭を下げた。


「よろしい」


 ナクはそれだけ言うと去っていった。


 ナクと入れかわりに、窓から翡翠が入ってきた。


「よっ」


「お前は神出鬼没だな」


「そんなことねぇよ」


「というか、お前が公務以外の時に来るのは久しぶりじゃないのか?」


「ちょっとお前に用事があってな」


「用事?」


「ずっと忘れていたんだが、夜会に行く前にと思ってな」


「それで?」


「お前、両親の事どう思ってる?」


「え? 急にどうしたんだ」


「いいから言えよ」


「普通に家族として見てるよ」


「それだけか?」


「……例え嫌われていたとしても」


「お前の両親は死んでいるのだよな?」


「死んだよ。交通事故で」


 翡翠はフッと笑うと、懐から一枚の写真を取り出し空汰に差し出した。空汰はそれを受け取ると、驚いて翡翠を見た。


「どうして、この写真をお前が?」


「お前の家に行ってきた」


「は!? 何で!?」


「お前との約束が終わるとき、お前はもとの世界へ戻る。その時の準備と確認のつもりでな」


「で、その準備と確認はしてきたのか?」


「いや、ちょっと予定外の事があって出来なかった」


「予定外?」


「それはまた、いつか教えてやるよ。……その写真、大事にしてたんだろ? 持っておけよ、お守り代わりにでもなるだろ」


「ありがとう、翡翠。この写真、俺の一番の宝物なんだ」


 妖世界に来て、一番いい笑顔を見せた空汰の表情を見た翡翠は、一瞬笑みを浮かべたがすぐに嘲笑を浮かべるとどこからともなくリュックを取り出し、空汰に投げた。


 空汰は慌てて受け取ると、リュックを二度見した。


「そんなに喜ぶのなら、その写真は置いて来れば良かったな」


「このリュックは?」


「中にお前の私物がいくつか入っている。適当に持ってきたから、お前が欲しかったものがあるかどうかは分からないが、妖世界での暇つぶし程度に持っていろ。それから、お前が本当に記憶を無くさないためのな」


「本当に記憶を無くさないために……」


『親も兄弟も親戚もいない。施設育ち……』


『施設……』


『ちなみに……俺の名前、翡翠裕也は……本当の名前ではない』


『本当の名ではない? どういうことだ? だって、皆翡翠様と呼んでいるじゃないか』


『翡翠は、俺の一つ前の妖長者の名前だ。俺の苗字ではない』


『先代の名前?』


『俺はここに無理矢理連れてこられ、数か月間はほとんど自由がなく厳しく稽古や指導をされた。誰も俺の名前を呼んではくれず、皆、先代の名前の翡翠か妖長者としてしか名を呼ばなかった。俺もあまり多くを語る方ではなかったから、自分の名を一度しか伝えたことがなかった。だが、その一度を誰に伝えたのかも分からない。結局名を呼ばれることなく過ごして、気づけば名を完全に忘れていた。


 これは後で知ったことだが、妖世界にいると人間は我を忘れ、記憶を失うのだそうだ。触れが常日頃からない限りはそれ以外の事を忘れてしまうそうだ。だから、俺は施設に居る家族らのことしかほとんど覚えていない。もちろん、家族が脅し材料でなければそれもきれいさっぱり忘れていただろうな。今思えば、それだけでも覚えていることが凄く嬉しいよ。


 裕也は後に俺が勝手につけた名前だ。特に理由はないが、眠っているときに、たまに、ユウヤと呼ばれていた気がしたんだ。いつも夢だろうと思っていたから特に今も気にはしてないが、ユウヤをそのままもらって裕也にしたんだ。


 だからお前も、自分の名を忘れるな。


 自分の名を忘れると、俺の力を持ってしてもお前を元の世界へ戻すことは出来なくなる。酒々井空汰という名は、絶対に忘れるな』


『酒々井空汰……』


 少し忘れかけていた自分がいたことに気づき、恐ろしくなった。


「その中にあるものに子供のころのおもちゃだろう。汚い字で書かれた名前付のおもちゃがあった。一応それも入れているが、何か紙に書いて、酒々井空汰という名を忘れないようにしておけよ。


 お前は決して、翡翠裕也ではないのだから」


 夜会まで残り三日。


          ❦


「では明日の午後より、ツェペシ家の夜会へ行って参ります」


「……頑張ってください」


「はい! 失礼します」


 空汰はフィリッツに一礼し、部屋を出ようとした。その時背後に気配を感じた。咄嗟に振り返るとそこには、さっきまで窓際にいたフィリッツが真後ろに立ちこちらを見ていた。


「ふぃ、フィリッツ!?」


「すみません。ただ、少し気になることがあっただけです。お気になさらず行ってきてください。報告書は夜会終了後、後日で構いませんので必ず提出してください」


「分かりました。失礼します」


空汰は逃げるようにフィリッツの部屋から立ち去った。


 夜会まで残り一日。


          ❦


 翡翠は早朝から急いで公務を終わらせると、空汰に書類の束を渡した。


「空汰」


「何だ? 俺忙しいんだけど」


 空汰はだいぶ妖字を読み書きできるようになってきていた。


――――そろそろ俺もいらなくなるころだ……


「俺も夜会に連れて行け」


「いやいやいや。お前が本物の妖長者なわけで、お前姿隠してるんじゃなかったのかよ!?」


「だから何だ?」


「はい? お前何考えてるの?」


「俺はお前と違って、姿を自由自在に操ることが出来る。式の珀巳を連れて行くんだったよな?」


「うん……」


「ならば、もう一人式を連れて行くことにしろ」


「お前バカか? バレるぞ? 急に新しい式が出てきたら」


「確かに……そういわれてみれば不自然だ」


「だろ!?」


「なら分かった。こうしよう」


 翡翠はそういうと目を閉じ静かに手を合わせた。すると、翡翠が一瞬で若草の蝶になった。その蝶はひらひらと飛び、空汰の頭の上で止まった。


「翡翠……なのか?」


《残念ながら翡翠だ》


「蝶が喋ってる……」


《仕方ないだろ? ちなみにこの声はお前にしか聞こえないから安心しろ》


「あぁ、なるほど。それなら勝手についてくるといい」


《あぁ勝手に着いていくさ》


「だが、翡翠」


《何だ》


「今は俺から離れてろ」


《何故だ? 今から夜会に行くのだろ?》


「確かに行くが、その前に長老にこの書類を出して、それから、そのあとは着替えるんだ。


お前に裸なんて見せたくないね」


《……変態》


「お前に言われたくねぇよ!」


《いいからさっさと行って来い。ここで待っている》


「分かった」


《空汰》


「今度は何だよ」


《無理するなよ》


「当たり前だ」


《それから、ツェペシ家にはあまり深入りするな。最後の忠告だ》


「深入りもなにも……。夜会に行くだけだ」


《嫌な予感がする》


 空汰はクスクスと笑った。


「そんなに警戒することはないって」


《お前、忘れるな》


「何を?」


《夜会が終わったら、約束の内容について詳しく話してやるから今はこれだけ覚えていろ》


「はいはい。それでー、何?」


《俺は命を狙われている》


 空汰は驚きのあまり、書類をすべて落としてしまった。


 しばらく沈黙が流れた。


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