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妖石

 普通の人間には、極普通の石ころに見えるが、ある能力を持つ者だけには、綺麗で不思議な光を放つ石に見えてしまう。


 ヨウセキ――妖石、と書くのだから当たり前に妖世界に関係する石である。こちら側を人間世界とすると妖世界はあちら側ということになる。これは、あちら側で作られ使われているとても貴重な石なのだ。この石は妖長者と呼ばれる者がのみ所持しており、妖長者の証のひとつでもある。ヨウチョウジャ――妖長者はその漢字の通り、妖世界の長である。


 そして妖石には不思議な力がある。所持しているだけで、皆がその者を妖長者だと認識し居場所さえも分かってしまう。それ故、妖長者は逃げてもすぐに居場所が分かってしまうのだ。かくれんぼには適さないというわけだ。それならば、手放せばいいだけの話に聞こえるかもしれないが、それもそう簡単にはいかない。妖石は妖長者が持っていないと力は発揮しないし長時間手放すとかなり身体的に苦しむ。自ら棄てることは出来ず、棄てても妖長者のもとへきちんと戻っているという話もある。また、妖石は妖長者とリンクしているとも言われている。


妖石が水に沈めば、妖長者は息苦しくなる。


妖石が炎に照らされれば、妖長者は体が燃えるように熱くなる、または焼死する。


妖石が割れれば、妖長者は死ぬ。


 妖長者は妖石に縛られるのだ。


 また、妖石を妖長者以外が触れてもいけない。触れた者には何の害も無いが、妖長者には息苦しさが襲う。何代か前の妖長者は、そのせいで窒息死したのだという。


 妖石の成分は何千年経った今でも全く解明されておらず、妖石と妖長者を結びつける何かも分かっていない。


「というわけで、貰ってくれ」


「……は!? 突然話はじめて、名前教えてくれたあとは、貰ってくれかよ! だから、お前誰だよ!」


「俺は翡翠裕也、十九歳。妖世界で妖長者をしている」


「その、ヨウチョウジャって何なんだよ」


「妖長者だ。もっと滑舌よく話せ」


「だから妖長者ってなんだよ!」


「細かいことはおいておいて、その石、妖石というのだが、貰ってはくれないか?」


「お前のなのだろ?」


「確かに俺のだ。だから、お前が妖石に触れたとき死ぬかと思った」


「話を聞く限りだと、俺が持っていてはいけないような気がするが?」


「自分で手放すことは出来ないが、次の妖長者がいれば話は別だ」


「それが俺だと?」


「その通り」


「待て待て。全く意味が分からない」


「お前、霊感があるのだろう?」


「……ある……。が、それがどうした?」


「これは霊感を持つ者にしか見えない」


「だから何だ」


「俺はずっと妖世界に閉じ込められていた。十歳ころ、人間世界から突然引き離され、得体のしれない妖たちと日々を過ごすこととなった。俺はもう疲れた……。次の妖長者候補に妖石とかを渡せば、俺は解放される。人間界に戻って普通の暮らしが出来る。

……お前、名を何という?」


「……空汰、酒々井空汰」


「では空汰、真面目な話だ。俺から能力を持つお前に、お願いがある」


 空汰は先程とは打って変わって真面目な顔つきの翡翠を、静かに見据えていた。


          ❦


「急いで、妖長者様を探せ! 黄木!」


「申し訳ありません……。しかし、どうやら妖世界にはおらず、人間界にいるようなのです」


「だから何だ?」


「オーガイ様、恐れながら申し上げますが、人間の中には翡翠様のように能力を持つ者が少なからず居ります。我々の姿も見えてしまいます」


「だから、何だ?」


 黄木は黙りこみ、オーガイを見据え、やがて静かに一礼をすると消えた。


 オーガイは舌打ちをすると、近くにあった小さな台を蹴り倒した。


「翡翠……裕也……」


          ❦


 翡翠の切実な頼みに、空汰はため息交じりに了解せざるを得なかった。


 少しの間だけ、という約束の下の頼みであるから、その間だけは良い暇つぶしになるだろうと思った。朝起きて学校に行って、授業を受けて放課後は部活をする。帰宅してご飯を食べて、寝て、また次の日を迎えるというマンネリ化した暮らしから少しだけ抜け出せるいい機会だと思えば、全然苦にもならなかった。寧ろ、歓迎という言葉を伝えたいくらいだ。


「分かった……。最初にすることを教えてくれ」


「まずは空汰という名を忘れ、翡翠裕也として妖長者となってもらいたい」


「酒々井空汰ではダメなのか?」


「本来、勝手に妖長者を代わってはいけないからな」


「分かった。ヒスイユウヤで良いんだな?」


「もっと滑舌よく」


「翡翠裕也!」


「よし。それから、妖長者の仕事はすること。公務から雑務まで多種多様にある。言い忘れていたが、人間界の文字と妖世界の文字は違うから、頑張って勉強しながらこなせ。後は自分で考えて動け。多少の手助けはしてやる」


「意外と楽そうだな」


「甘く見るなよ」


「面倒だな」


 空汰がボソッと呟くと、翡翠は、チラッと窓の外を見た。そして一瞬何かを考える素振りを見せ、立ち上がり机の上に置いてあった妖石を空汰に差し出した。


「妖長者は、必ずこの妖石を持ち歩くこと。妖石は他者に触れさせないこと。他にも、妖力があること。妖術が使えること。それから、これを持っていること……」


翡翠はそういいながら、左手をひらりと動かし光を出した。その光は翡翠の手のひらの上でふわふわと浮いていた。空汰が驚いていると、それを翡翠がフッと吹いた。すると、光は空汰の体に吸い込まれるように消えていった。


「な、な、何だよ、これ!」


「妖長者の印だ」


「妖長者の印?」


「詳しくはまた後で話す、もう時間が無い」


「時間?」


「いいか? よく聞け。俺は幾銭も姿を変えることが出来る。そして、もっと驚け。俺も驚いた。俺が妖世界から逃げ出す直前、適当に姿を変えた。そのときの顔がお前にそっくりなのだ。だから、あいつらはお前を妖長者として疑わないはずだ。しかしな、これだけは忘れるな。お前が妖長者……本物の翡翠裕也でないことがバレたら、お前は――」


「それはどうい……」


「すまないが、俺はもう行く。あいつらがお前を迎えに来るぞ」


「ちょっと待て!」


 翡翠は空汰の制止を無視し、窓の外へと消えていった。


「……あいつらって……誰なんだよ……。ったく、あいつ何なんだ」


 空汰は、大きなため息をつくと握っていた妖石を見た。相変わらず、不思議な光りを放っている。


 こんな石が妖石と呼ばれる凄い石らしいのだ。有り得なくもないが、変な夢でも見てるのだと思った。空汰は石を机の上に置き、電気を消そうとした。すると、窓の外に何やら気配を感じた。じっと見つめる。……何もない。気のせいのようだ。


「翡翠様!」


「え?」


空汰が振り返ると、何かに押し倒された。


「痛っ……」


「申し訳ありません! 大丈夫ですか? 翡翠様」


「ひ……すい?」


「貴方様ですよ、翡翠様! それとも、妖長者様と呼んだ方がよろしいですか?」


――――あぁ……どうやら夢では無かったらしい。こいつは誰だ?


「翡翠様、急いで戻りましょう」


 戻る? どこに? 現代社会には到底似合わない、白黒の着物(?) みたいな恰好をして……


「って、お前人間じゃないだろ!?」


「……? 今更何を言っているのです?」


「お前……名前は?」


「忘れたのですか! 黄木です! 黄木! 忘れないでください」


「あ、あぁ……黄木……か」


「そうですよ! さあ、戻りますよ! 早く! 長老がお怒りです!」


 黄木はそういうと強引に空汰の腕を掴み、窓から飛び出した。


「ちょっ! 俺高いところ無理―! 落ちるー!」


空汰は反射的に目を閉じた。


 しかし、いつまでたっても落ちない。パッと目を開けると、そこには見たこともない景色が広がっていた。しかも妙に暗い。夜の暗さとはまた違った暗さだった。


「ここは……」


「妖世界ですよ」


 空汰はふと自分のおかれている状況を確認した。どう考えてもやっぱり、黄木に手を引かれ浮いている。しかも、高い。


「黄木! おろしてくれ!」


「どうされたのです?」


「頼む! 高いところは怖いんだ!」


 黄木は不思議に思いながらも、妖世界で一際目立っていた大きな屋敷の門の前に降りた。


 空汰は呼吸を整えると、屋敷を見た。黄木が門番と何やら話をしている。数秒後、黄木が空汰の手をひいた。


「大丈夫だ、ひとりで歩ける」


「そうですか」


 黄木と空汰は門をくぐった。


 門をくぐると、そこには外見よりも広く大きな屋敷があった。ここは誰の屋敷だろうか。きっと貴族みたいなすごく偉い人の屋敷に違いない。


 大きな屋敷に見とれていると、黄木がこちらを見て待っているのに気付いた。空汰は小走りに黄木のもとへ行くと、何かを無言で差し出された。それは、妖石だった。


「あれ……。他者が触れたらいけないんじゃ……」


「妖長者付式は触れるのですよ、それもお忘れですか? 妖石は大切なものですから、これまでも忘れないで下さいよ」


「……ごめん」


 黄木は何か言いたげにしていたが、やがて歩き出した。二人は、屋敷の中に入りある部屋に入った。黄木が跪くようにしゃがみ込んだのを見て、空汰も真似をする。すると、黄木が慌てた様子で急いで空汰を立たせた。


「翡翠様は立っていてください」


「あ、あぁ……」


 黄木は改めて、跪くようにしゃがみ込んだ。


「オーガイ様、妖長者、翡翠様を連れ戻して参りました」


 二人以外誰もいない部屋に響き渡る黄木の声とは別に、奥の方から別の太い声が聞こえた。


「帰ったか」


「誰?」


 その言葉を言うのと同時に、奥から男が出てきた。見た目は少し歳をとった人間の男に見えるが、彼も妖の類だろう。


「翡翠様」


「は、はい」


 不自然に硬くなってしまう。これでは、本物の翡翠ではないと言っているようなものだ。


「よくぞ帰ってこられました」


 翡翠は逃げて人間界に来たと言うから、怒られるのかと思っていたのだが、帰ってきたことへの歓迎の言葉に、少しほっとした。オーガイと呼ばれたその男は、一体何者なのだろうか。妖長者付式という黄木の存在も気になる。


「は、はい……。ただいま、帰りました」


「それで、翡翠様」


「はい」


「人間界へは何故いかれたのです? あの穴には近づいてはいけないとあれ程申し上げたはずです」


「あ、いや……。その……」


――――いや、俺知らねぇし。あいつちゃんと説明しろよな!


「今後一切、あの穴には近づいてはいけません。よろしいですね!?」


「はい……」


「声が小さい!」


「はい!」


「全く貴方様は本当に世話のやける妖長者様だ。長老たちも嘆き悲しむ」


「長老?」


「貴方様を支えている方々ですよ。さあ、公務が残っています。部屋に戻って、仕事をしてください」


「すみません……します……」


空汰は硬く一礼をすると、部屋を出た。


「黄木」


「何でしょう」


「翡翠様は記憶喪失か何かか?」


「何故そう思われるのです?」


「あ、いや……。いつもと雰囲気が違うなと思ってな」


「確かにそれは私も思いました。私の存在を忘れていたみたいですし、もしかしたら記憶が一部無いのかもしれません」


「……そう……か」


オーガイは不敵な笑みを浮かべた。


「もういい、下がれ」


「失礼いたします」


 黄木は部屋を静かに出た。すると、部屋の外の廊下に何故か部屋に戻らず立っている翡翠がいた。


「翡翠様!?」


「あのさ……。部屋の場所、教えて?」


          ❦


コンッコンッ


「はい?」


「オーガイです」


「どうぞ」


 机といす、びっしりと本が整頓されている本棚しかない殺風景な部屋に入ると、窓際で本を読む人影を見つけた。


「フィリッツ」


「何でしょう? 珍しいですね、オーガイが私の部屋に直々に来るなんて」


「よい知らせだ」


「朗報……ですか?」


「翡翠様の記憶がない」


 それまで興味がなさそうに本を読みながら話を聞いていたフィリッツは、本をパタンと閉じ、オーガイを凝視した。


「翡翠様の記憶が、無い? それはどういうことでしょう?」


「翡翠様が先程帰られた。しかし、どうやら計画に関する記憶がないようだった」


「……なるほど、そういうことですか」


 フィリッツはしばらくぶつぶつと言いながら考えを巡らせていた。しばらくすると、顔を上げまた本を開き読み始めた。


「分かりました、長老会議を開きましょう」


 オーガイはそれだけ聞くと、素早く部屋を後にした。


――――やったぞ! 翡翠の記憶が無い!


          ❦


 空汰は翡翠の部屋にいた。正確には妖長者の部屋なので、自分の部屋でもあるわけだが、なかなかそんな気分にもなれない。


 空汰は部屋の隅々を見て回った。部屋といっても屋敷自体が翡翠の屋敷であり、部屋はとても広く、何部屋にもわかれていた。迷子になりそうだ。衣裳部屋には翡翠が着ていたのであろう、タキシードや男物のパーティー用の服からローブまで何でもあった。お風呂はどうやら外にあるらしい。書斎、図書室、寝室、応接室などなど。本当に迷子になってしまった。どうやら、寝室は二か所あるらしい。一つはシングルサイズの小さめのベッドだが、もう一つは横に四人くらいが寝て並べそうなほど広いベッドだった。


 空汰は、大きなベッドに寝転がると気づけば寝ていた。


 夢を見た。


 変な男がやってきて、俺に妖長者を代われと頼み、代わるとよくわからない状況になっていた、という夢。


 目が覚めると、広い部屋には誰もいなかった。部屋を出ようかとも考えたが、迷子という自分の置かれている状況をすっかり忘れていた。仕方なく、ごろごろしていると、部屋に誰かが入ってきた。


「誰?」


「珀巳です、公務は済んだのですか?」


「公務? あぁ、完全に忘れてた」


「急いでしてください、今日までの分もあるのですよ」


「ねぇ、珀巳って言った?」


「はい」


「ねぇ珀巳、俺、どこで公務するの?」


「書斎です」


「じゃあ連れて行って」


「……その奥の扉を入って、左の扉を入れば書斎ですが……」


「あ、そうなの。ありがとう」


 空汰は勢いよく起き上がり、書斎へと向かった。


 書斎の机上には、たくさんの紙の束が置かれてた。よくわからない意味不明な文字が並んでいる。これが、翡翠の言っていた妖字というものだろう。しかし、読めないものは書けない。仕方なく辞書的なものはないかとあたりを見回すと、人間界の言葉が書かれている本を見つけた。運よく、ちょうど探していた辞書的なものだった。


 座り、紙を一枚手に取り一文字目を調べる。


 一文字目は『よ』


 二文字目は『う』


 ここまでくれば、大体予想が付く。多分、妖長者様などと書かれているのだろう。


 二行目に来たところで、なかなか見つからなかった。字が手書きというのもあって、よく読めなかった。諦めて、少し休もうと立ち上がり背伸びをしていると、あることに気付いた。


――――翡翠裕也は『人間なのにどうして妖世界を統べているのだ?』


「そういえば、あいつに聞きたいこと山ほどあるんだけどなー。なんかこうさ、小説とか漫画みたいにいいタイミングで出てこないかなー。とか言ってたら大体出てくるんだけどな!」


空汰はそういい、パッと後ろを向いたが、そこには誰もいなかった。


「バカらしい。俺、もしかして嵌められた!?」


 よく考えろ。あいつは妖長者をしたくなくて、俺に適当な理由を話して、代わらせただけじゃないのか!? そうか……そういうことか! あいつ……俺にすべてを背負わせて自分だけ逃げるつもりだな!


「何考えてんだよ、馬鹿かお前」


「え!?」


 空汰が驚いて、横を見ると呆れている翡翠がいた。翡翠は、机上の書類の数々を眺めながら、空汰に視線を向けることなく言った。


「それで?」


「それで?」


「何が言いたいわけ?」


「お前、俺の心読めるのか!?」


「読めるよ、これでも一応全妖長者だし。妖術くらい容易い。の前に、何で俺がお前ごときを騙してまで妖長者を代わりたがるんだ?」


「そんなこと知るかよ」


「大体、俺がお前を騙して何のメリットになる? しかもあんなに丁寧に頼んだのに」


「話がでかすぎるんだよ! 嘘ついてるだろ?」


「何でそうなる!? お前漫画読み過ぎ」


「漫画と何が関係あるんだ」


「よくあるパターンじゃないのか? 嘘偽りの頼みごとをして、最後には裏切るってやつ」


「よくあるパターンなのか俺はよく知らねぇよ。漫画自体あまり読まなかったんだから。それに!」


「ん?」


「お前が俺に、何も詳しいことを教えずに去るのがいけないんだ!」


「あの時は逃げてたのだから仕方がないだろ!?」


「逃げずに戦え!」


「絶対嫌だね、面倒くさい」


 翡翠はそういいながら、書類を無造作に机の上に置いた。そして、羽ペンを手に取り空汰を指した。


「面倒くさいことは嫌いなんだ」


「お前も面倒くさがりか」


「お前と一緒にするな」


「もう一つ! 何でお前ここにいるんだ?」


「お前お前言うな! 俺は翡翠裕也だ」


「俺だってお前のおかげで、今翡翠裕也だ」


「うるせぇ、空太郎!」


「空汰だ」


「そうやって、大きな声を出して、俺は空汰だ~とか言ってるとバレるぞ」


『これだけは忘れるな。お前が妖長者……本物の翡翠裕也でないことがバレたら、お前は殺されるぞ』


 空汰は翡翠の言葉を思い出した。バレれば殺される……バレれば問答無用で首が飛ぶわけだ。翡翠の言う通り、こういった発言には気を付けた方がいいのかもしれない。


「……分かったから、妖長者について教えろよ」


 翡翠は目を通した書類に、すらすらと書いていった。流石と言うべきか、やはり慣れた人の書き方は違う。


「とりあえず、お前、公務が出来ないと俺が毎回ここにきてしなくてはならなくなるから、妖字を覚えろ。俺がここにしょっちゅう来ていたら、逃げるも何も敵陣にいつも来ることにもなる。それに、お前が目を通して、すぐにサインをしなければならないものも後々出てくるかもしれない。せめて、翡翠裕也のサインだけは書けるようになっておけ」


「なら、教えろよ」


 翡翠は書類を書きあげ、空汰の目の前に置くと苦笑した。


「辞書があるんだ。調べて自分で練習しろ」


 空汰は翡翠の人格がなんとなく分かり始めた気がした。こういう翡翠には、何を言っても聞いてもらえないであろうことも意外としっかりしているのに面倒くさがりということも、なんとなく分かり始めた。


 この書類を長老に提出するように、とだけ言い残し去ろうとする翡翠の背中に、空汰はどこか切なさを感じた。十歳の頃に人間から引き離され何も知らない妖世界で統治し続けたその重荷は、誰が支えてきたのだろうか。自分が十歳の頃はどうだっただろうか。遊び惚けていた記憶しかない。


 ここにきて、妖たちと少し触れ合って感じたのは、妖長者を妖長者としてしか見ていないということ。誰もが慕っている風をしていて、実際は全く慕っていない。逆にどこか一線をおいているような気さえする。嫌悪の気配だろうか。妖長者である翡翠裕也を見下しているような……。そんな空っぽの心で接し続けられた翡翠の心はあるのだろうか。諦めという言葉しかないのではないのだろうか。妖長者は確かに大切な存在かもしれない、しかし、翡翠はそれに縛れ過ぎている気がした。


「翡翠!」


 翡翠は立ち止まり、振り返った。初めて名前で呼ばれたことに驚いているようにも見えた。


「翡翠……お前のその頼みは、本当の頼み……なのだろうな?」


「信じるも信じないもお前の自由だ。だが、お前がもし信じてくれると言うのならば、俺はここ数年で一番嬉しい瞬間でもあるな」


そういう翡翠の表情には笑みが浮かんでいた。初めて、ちゃんと笑ったところを見たような、そんな気がした。


 空汰は決めた。


 もうすでに去ろうと、窓際に立っている翡翠の腕を掴んだ。


 翡翠は驚いて、振り返った。


「何?」


「俺はお前を信じる。だから、お前も……俺を信じろ」


          ❦


『では空汰、真面目な話だ。俺から能力を持つお前に、お願いがある』


 空汰は先程とは打って変わって真面目な顔つきの翡翠を、静かに見据えていた。


『何だ?』


『俺は今妖長者という爵位を持っている。たとえるなら、公爵だ。一番偉いやつだと思えばいい』


『それになれと?』


『空汰には、まず人間界と別れを一旦してもらいたい』


『お前のように……妖世界に閉じ込められるかもしれないんだろ?』


『俺は確かに閉じ込められた。俺には友達も、助けてくれるような人もいなかったからな。だが、お前には俺がいる。お前が俺を信じてくれるのならば、俺もお前を信じよう。そして、俺の頼みが叶ったら、必ずお前を元の人間世界へと戻そう』


『信じなかったら? 信じてお前が俺に嘘を吐いていたとしたら?』


『信じないのならば、俺はお前に非協力的になるだけだ。俺は嘘はつかない、少なくても酒々井

空汰という男には嘘を吐く気にはなれない』


『その前に俺がお前の代わりに妖長者になるとも言っていない』


『頼む……。これは、俺だけでは到底解決できる問題ではない』


『妖長者なら余裕だろ? その妖術とやらを使えばいい』


『それは無理だ』


『何故だ?』


『俺は監視されているからだ』


『……監視』


『俺に自由はない。妖長者なんてただの道具に過ぎない。お前も妖長者として過ごせば、すぐに分かる』


『じゃあ、俺が途中で放棄して帰ってもいいんだな?』


『それでも最悪構わない。俺はお前に賭ける』


『……一応聞くが、俺は妖長者になって、何をしたらいいんだ? やり遂げてほしいことはなんだ?』


『それを聞いたら、お前は了解したというふうに考えていいんだな?』


『……暇つぶしにはちょうどいい』


『そうか……』


 翡翠は何度か呼吸をして、落ち着き頭を下げた。


『俺の代わりに裏切り者を探して欲しい』

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