一線
忘れてはいけない。こちらに来てはいけない。お前は人間として生きろ……。
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空汰は息抜きに散歩に出ていた。懐中時計を確認し部屋に戻ると、ソファで警戒心も無く爆睡している翡翠が居た。
空汰はため息を吐き、翡翠の横を通りすぎ、一冊本を手に持つと笑みを浮かべた。そして、そのまま翡翠に近づき頭めがけて振り下ろした。
ドンっという鈍い音が鳴り翡翠が飛び起きる。
「はい、おはよう」
翡翠は本が当たって痛かったのだろう、頭をさすりながら体を起こすと空汰を睨んだ。
「お前ふざけんなよ」
「こんなところで寝ているからだ」
「少しくらい休憩させてくれたって良いだろ?」
「良いわけない。お前が寝ている間に式が来たらどうするんだ。オーガイだって来る可能性があるんだ」
「俺は大丈夫だ。察しは良い方だ」
「それで、何しに来たんだよ。まさか、寝るためじゃないだろうな!?」
「まさか。ちゃんと用事があって来たんだ」
「なんだよ」
「まぁ、そう慌てるなって」
翡翠はそう言いながら懐から二通の封筒を取り出し、空汰に差し出した。
空汰はそれを受け取ると差出人を確認した。
「ローリー、マランツ、ナッツ……」
「わざわざ預かってきてやったんだ」
「それはどうも……。何故二通? 差出人は一緒じゃないか」
「一つはお前へ、もう一つはディリーへだ」
「あぁディリー」
「ちゃんと渡しておけよ」
「分かったよ」
空汰はそういいながら自分宛ての手紙の封蝋を開けた。しかしその瞬間手の内から消えた。
「え?」
見ると翡翠が持っていた。いやに真面目な表情をしている。
「何だよ、返せよ」
「空汰。これは俺のせいだが、お前は普通の人間だ。確かに妖力も強く妖だって普通に見えている。だが、所詮人間だ。いずれは人間界へ戻る。こちら側に寄り歩み続けると、人間界に戻れなくなる。あまり、こちら側に干渉しすぎるな……」
空汰はしばらく黙っていたがやがてため息交じりに翡翠から手紙を奪った。
「分かっている」
翡翠はそれで納得したのか黙って部屋から去って行った。空汰は手紙を読んだ。すべて妖字で書かれているが、もうすべてを読むことが出来た。そこには感謝の言葉とディリーのことについて書かれていた。また、アンジュが代替わりを果たし新たな子が生まれたのだという。もちろん、ディリーと学園長、カケイラ先生以外には空汰が妖長者であったことは公開していない。つまり、あの三人がディリーのことについて書いてくるのは、空汰は知らないと思っているからだった。ちなみに三人の中でも、サシの中でも空汰はスカイとして終わり、別の学園に転校したことになっている。
空汰は読み終わると引き出しを開けた。
『あまり、こちら側に干渉しすぎるな……』
なおしかけていた手紙を手に持つと、少し考えて練習して身に付いた妖術の火で燃やしてしまった。
いずれ、踏ん切りをつけなくてはいけなくなる。その時に笑って帰れるように……。笑ってお別れできるように……。
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翌日の夜、珀巳は翡翠に呼び出された。空汰は翡翠の力により、珀巳にだけ見えないようになっていた。
珀巳が翡翠と対峙してから早十分。どちらも口を開かなかった。重々しい空気が流れていく。空汰は悲しみの表情を浮かべ立ち尽くす珀巳と空汰がやり残していた公務を淡々としている翡翠を交互に見ていた。
このまままた十分が過ぎるかと思ったが、ようやく珀巳が素早く土下座をした。
「申し訳ございませんでした。私は翡翠様の式でありながらオーガイ様にも仕えておりました……」
翡翠は一瞬珀巳を見たが、顔色一つ変えず公務を再開した。
無言の翡翠を感じながら珀巳は重い口を開いた。
「私は翡翠様の式となる以前は、前妖長者の翡翠様に仕えておりました。その後、翡翠様が亡くなられオーガイ様の式となりました。その頃の仮名を……」
「名草」
翡翠が言ったのを聞いて珀巳はゆっくり窺うように顔を上げた。公務をしていた手は止まりこちらを真っ直ぐに見ていた。
黙り込んでしまった珀巳を見た翡翠は、珀巳から視線を逸らすと再び公務を始めた。
「そうじゃなかったか?」
「覚えて……」
「覚えている。二度目にお前に会ったときに、俺に言った名だ」
少し前に澪に成りすました翡翠が珀巳から先に名前を聞いていたから覚えていたわけではない。翡翠は本当にあの日から珀巳の前の名を覚えていたのだった。
珀巳は俯いた。
「まさか、覚えているとは思いませんでした……」
「それで?」
「私は……」
珀巳はすべてを話した。あの日、澪と名乗りまことの名をゼロと名乗ったあの男に話したそのままを再度話した。澪に話せて、主に話せないわけがない。確かにそう思う。だが、あの澪という不思議な男に出会わなければきっと自分は翡翠様に話をする前に逃げ出していたに違いなかった。
珀巳がすべてを話し終えると再び静寂が訪れた。しかし、一つだけ違うのは空気の重さが少しだけ軽く感じられた。
今度は十分も経たずに翡翠が口を開いた。
「お前の仮名の意味を知っているか?」
珀巳は顔をあげると首を横に振った。
「申し訳ご……」
「知らなくて当然だな」
珀巳の言葉を翡翠が遮った。
「誰にも言ったことは無いのだから」
そばで聞いている空汰は苦笑を浮かべていた。
――――誰も答えられない質問をするなよ……
「聞いても良いのでしょうか?」
珀巳は恐る恐る翡翠を見上げる。
「お前、いい加減に立ったらどうだ?」
「しかし……」
「お前はいつも俺を怒っていただろ? 褒めていただろ? だったら、いつものようにしていろ」
珀巳は少し考える素振りを見せた後、静かに立った。今度は翡翠が見上げる形になるが、翡翠は小さな笑みを浮かべていた。
「『珀巳』琥珀の珀に十二支の巳。お前に一つだけ確認する。以前の妖長者様である翡翠様に名付けられた仮名は何だ?」
「……『巳淹』と書きまして『ミオン』という名でした」
「その巳を貰っただけだ。前妖長者との出会いはこの屋敷から南南東にある街中らしいな」
「はい……。私はその頃ただふらふらと生きる意味を求めてそこら辺を旅しておりました。その途中に出会ったのが、抜け出してきた翡翠様でした」
「十二支の巳は方角にして南南東を指す。そこから取ったものだろう。それから琥珀というものは樹脂で出てきた化石のようなもので、透明ではなく半透明らしい。俺も実物を見たことがないから何とも言えないがな。お前はあのころから何かに怯えているように感じていた。もちろん、オーガイと通じていたのは名付けたときから知っていたが……。俺もお前も真っ白ではない。何か隠していることも言えないこともある。お互いをさらけ出せた状態が透明な状態だとして、お前と俺はそこまでさらけ出す必要はないと考えていた。程々に付き合い、干渉し合えればそれでいいと思っていた。お前に負担を掛けまいと思っていた。……だが、結果的にそれが裏目に出たようだ。
お前は誰かに縛られず自由に生きろと思い付けた名が珀巳だ」
珀巳は素直に喜ぶことが出来なかった。理由はたった一つである。
「……翡翠様……気づいていらしたのですか?」
「名前の事について話しているのにそこに話を向けるな」
「申し訳ございません……しかし……」
「オーガイと通じていることなら端から気づいていたが? 何かに覚えていたことも知っている。だが、正直そこに俺が入っても仕方ないだろう? お前の気持ちの問題でもあるし、お前ら二人の問題なんだ。俺が探って知ったところで何の意味もない」
「それならなぜ……」
「別にお前が裏切ったとしても、俺はお前を棄てることは出来ないと思う」
「……翡翠様……」
「お前だけだったからな……。涙を受け止めてくれたのは」
「翡翠……様……。本当に申し訳ありませんでした」
翡翠はもう一度深く頭を下げた。
翡翠様に棄てられると思っていた。翡翠様は自分の事が嫌いだと思っていた。きっと話さなければ自らこの世を去っていた。
珀巳の目には涙が溢れ、床を濡らしていった。
翡翠は小さく息を吐くと空汰に視線を向け、笑みを浮かべた。
どうやらすっきりしたらしい。
そして翡翠は泣き続ける珀巳に近寄り背に手を置いた。
「もう泣くな……。お前はこれでオーガイに縛られることはないのだから、これからもっと自由に生きろ……」
空汰は翡翠と珀巳をずっと見続けた。
こんな絆があるのならきっとこの二人は今後もっと良い存在に成れるはずだ。笑い合い、泣き合い、時には喧嘩したり……きっと翡翠にとっても一番良い存在と珀巳はなる……。俺が去った後も翡翠は一人ではない。
空汰は胸にぽっかりと穴が空いたように感じた。無意識に手を胸に置いた。
ここを離れる時が来たとき、俺は本当にスッと離れていけるだろうか。此処に居たいと……無意識に思ってしまっている自分が、本当に怖かった。
❦
コンッコンッ
「翡翠様」
数日後、柊が部屋にやってきた。
「どうした?」
空汰は柊に視線を向けずさっきまでお菓子を食べて暴れていた翡翠が居た方を向いていた。もちろん、逃げ足の速い翡翠はもうそこにはいない。
「ジン様より……伝達です」
「伝達? 何?」
柊が紙を差し出すと空汰はそれを受け取り凝視した。
「妖長者……翡翠、裕也……生誕祭!?」
「はい」
あぁ、確かにするとは聞いていた。聞いていたが、色々なことが重なるに重なりこのタイミングで来るとは思ってもみなかった。
「いつ!?」
「約一ヶ月後になります」
出た、また一ヶ月後。伝達が速いのか遅いのか全く分からない。
「翡翠様が今回なさることは特にありません」
「無い!?」
毎年行っているはずの生誕祭のことで、不思議に喜ぶ空汰に柊は驚いていた。
「し、しかし……」
「何? やっぱり何か?」
「今回は翡翠様が二十歳という成人を迎えられますので、特別な会になるとのことです……」
「特別な会か……。どんな風に?」
「それはまだ確定していないとのことです」
「予定段階か……」
「はい」
それにしても生誕祭なのに翡翠本人が出なくてもいいのだろうか。ちなみに空汰本人は現在十七歳である。
「あ、それから……」
「まだあるのか?」
「は、はい……。その……許婚の方がいらっしゃるそうです」
「あぁ許婚……。……許婚だと!?」
あまりに驚く空汰に柊は驚きを隠せなかった。
「ひ、翡翠様?」
許婚に会ってしまったらばれてしまうような気がする……。しかも、あんなやつに許婚が居ただと? どうしてそんな大事なことを話さないんだ、あいつは……。
しかし……、どんな美人なのかは楽しみだ。
「名は?」
「え、えっと……」
柊は力で隠し持っていたのであろう資料を取り出すと、ペラペラとページを捲り空汰に見せた。
「全員で五名でございます……」
空汰は苦笑した。
おい……。今すぐ翡翠出て来い。ぶっ飛ばしてやる!
「許婚が五人も……」
「許婚に関しましてはジン様の管理下ですので、……何か聞きたいことがあればジン様の方が詳しいかと……」
「分かった」
空汰はそういうと資料に視線を向けた。そこには五人の名前が載っていた。
順番に見ていき、ある名で固まった。
――――こ、こいつ……
❦
空汰はズカズカと無遠慮にジンの部屋へと入った。
先ぶれも無く、ノックも無く突然入ってきた妖長者の姿にジンは怯えた。何かしでかしてしまったかと頭をフル回転させるが、思い当たりがありすぎて整理がつかなかった。
「ど、ど、どうなさいましたか……翡翠様……。わ、私……何か……」
「あの許婚の五人はどういうことだ!?」
「え、えっと……」
「四人は良いとするが、最後の一人だ」
「あ、あのですね……。翡翠様、落ち着いてください」
「落ち着いていられるか!」
「落ち着いてください、翡翠様。あの方々は確かに私が選びましたが、彼女らは許婚候補のうちの五人にすぎません……」
「許婚候補!?」
「許婚と正式に呼ばれる方はまだ……。というより翡翠様がなかなかお選びになられないではありませんか!?」
こういう大事なことを本当に翡翠は言わない。だからこうやって矛盾が生まれるというのに。
「……だ、だけど、この最後の名前は抜いて欲しい!」
「何故です……? 子爵家の御令嬢です…………」
「そうなのか!?」
「ご存じなかったのですか!?」
「全く……」
「一緒につい最近まで過ごされていたではありませんか……」
「そんなこと言われても……あいつとは学年が違ったのだから」
「と言われましても……」
「あちらの家は?」
「承諾済みです」
空汰は大きなため息を吐いた。
項垂れる空汰にジンは資料のファイルを差し出した。
「よかったら……見ますか?」
空汰はスッとそれを受け取ると、最後の一人を見た。
そこには紛れもなく暁月記学園元生徒、元生徒会の『ローリー・ニチュアーナ』の名前があった。
――――まさか……子爵家とは…………
「俺が……スカイという生徒が妖長者であることがバレるぞ……」
「バレられては困ります。翡翠様お得意の姿を変えられて生誕祭にはご出席ください」
学園に通っていた時も一応姿は変えていた。しかし、念のためにさらに変えて出席するようにとのことだった。
――――ローリー・ニチュアーナ……
フルネームですら、今知ったのに……再び会わなければならないとなると、気が重かった。
しかし、それはローリーも同じであった。
「しかし、お父様……」
「もう決まったことだ。ローリー、妖長者様の生誕祭に出席しなさい。それから、許婚の座を貰えるように」
「お父様……」
「良いね?」
有無を言わせないその問いにローリーはただただため息を吐くしかなかった。
――――翡翠裕也……様……
❦
空汰は重い足取りで部屋に戻ろうと廊下を歩いていた。
ふと顔をあげるといつもなら扉の両端に守護者が控えているはずなのだが、何故かいなかった。空汰は不思議に思い扉に近づいた。隙間から覗いてみるとそこには長老の背が見えた。
――――あれは……フィリッツ? 何故?
妖長者である自分がここにいるのだから、一人、妖長者の部屋に入ることは可笑しなことであった。
空汰はスッと部屋に何食わぬ顔で入った。
「フィリッツ……? どうした?」
フィリッツは空汰に気付くと一礼した。
「お留守のようでしたので、お待ちしておりました……」
「すみません、ジンのところに行っていた」
「生誕祭の事で何かありましたか?」
「許婚候補が来るというもので」
「あぁ、そうでしたね」
空汰はフィリッツに視線を向けながら椅子に座った。
「それで……何か?」
フィリッツは懐からあの羽ペンを取り出し机の上に置いた。
「これは、翡翠様のですか?」
暁月記学園……、珀巳……の件も終わりホッと一息吐く間もなく次から次へと何かが舞い込んできた。一難去ってまた一難とはまさにこのことである。
翡翠は部屋で対峙する空汰とフィリッツの様子を木の上から窺っていた。
しかし、フィリッツが懐から出した羽ペンを見て、慌てて自分の懐を確認する。そこに入っているはずの羽ペンが入っていなかった。
――――もしかして……俺……あの時……
翡翠は捕まえられそうになった回廊を思い出した。落としたとするなら、あの時以外有り得なかった。
――――あぁ、空汰に怒られる……
翡翠は、頭を抱えて項垂れていた。
背後の木陰に、忍び寄る影が迫っていることにも気づかずに……。
とうとう完結です!!
といっても『上ノ段』ですが笑
読んでくださった皆さん、本当にありがとうございましたm(_ _)m
コメントも読ませて頂きましたので、後日誤字脱字等を確認していきます。読みにくくなってしまい、大変申し訳ありませんでした。
現在、下ノ段を執筆中ですので
次回からは『中ノ段』を載せていこうと思います。上ノ段を全て読んでくださった方、面白くないけどまぁ読んであげてもいいよという方は、ぜひ良かったら続きもよろしくお願いします!!
ここまで読んでくださり、ありがとうございました(。-人-。)




