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君の名を呼ぶとき~人を好きになる瞬間

作者: 赤ポスト

どうも、赤ポストです。

普段楽しげな話を書いていますが、本作は序盤暗め (ダウナー系)の話。

最後はハッピーエンドの泣き系です。


テーマは【人を好きになる瞬間】です。

※いつもは後書きにテーマを書いていますが、今回は先に。


ではっ、どうぞ。

◆0



 16年。

 5844日。

 14万256時間。

 841万5360分。

 

 それが僕が生きてきた時間だった。


 16年間男の子として生きてきて、好きな人ができたことはなかった。

 友達が「○○が好き」「あの子が好き」といっているのを聞いても、僕にはピンとこなかった。


 正直「好き」という感覚が分からなかった。

 恋愛漫画や映画を見ると、なんとなく面白く、「好き」ってこんな感じなんだと想像することはできたけど、それは自分の経験じゃない。


 曖昧で霧のような感覚。

 掴み所のない感情。

 どこか偽物で、何の音も匂いのしない雨のようなものだった。

 

 実際に雨が降ると。

 水がしみこんだ土の匂いがし、雨が屋根や地面に当たる音がする。

 外では雨の中車が走る音。

 急いで家の中に駆け込む子供の声。

 洗濯物を取り込むために開く窓の音。


 そういった全ての経験を含んで、雨だと実感できる。

 

 恋愛漫画や映画を見ることは、恋愛要素の一部分を感じるだけに過ぎず。

 全ての経験が伝わってくるわけじゃない。

 

 だからか。

 僕の心の中では「好き」という感情がフワフワと浮かんでいた。

 輪郭も分からないものがフワフワと浮かび、僕を急かしていた。

 多分、こんな感情なんだろうという感覚はあったけど、自信はなかった。


 他の皆が恋や好きに目覚める中、僕はまだ目覚めていなかったのだ。

 僕だけが取り残されていた。

 仲間外れになることに、不安を感じていた。



 つまるところ。

 何が言いたいかというと。

 16年間生きてきても、僕はまだ「好き」という感情を知らなかった。

 知りたいとは思っていたけど、知ることができなかった。



 これは、そんな僕が初めて誰かを好きになるまでの物語。



◆1




「好きです。付き合ってください」

 

 高校二年の春。

 穏やかな風が吹き、前髪を揺らす。

 眠くなる程心地よい陽光が降り注ぐ日。


 人気がなくなった放課後の校舎で、僕は女の子に告白された。


 

 つい数分前。

 気になっている女の子に呼ばれ、僕は期待に胸を膨らませてついていったら、これだ。

 

 僕を呼びに来た女の子は、いつもと違い緊張している様子だったので。

 僕は告白されることを予想していた。

 一種独特の雰囲気があったのだ。

 彼女の姿から、何かこれから起こると感じとれた。


 しかもその子は、僕が気になっている子だったので、勿論胸は高鳴った。

 好きな子に告白されること程、嬉しいことはない。

 僕にもやっと幸運が巡ってきたと思ったし、やっぱり彼女は僕のことを好きなんだと実感した。

 時々話したり、目が合うことが多かったのだ。


 普段は占いも信じない僕だけど、この時ばかりは何かに感謝したくなった。

 とりあえず、今朝見たテレビの星座占いに感謝しといた。

 恋愛運が最高で、『愛情が生まれる日』だと言っていたから。

 


 

 星座に感謝しつつ、ほいほい中庭までついていくと・・・

 『ここで待ってて』といわれ、気になっている子は消える。


 僕がポカンとしていると。

 

 直ぐに他の女の子が来る。


 で。

 告白された。

 『好きです。付き合ってください』と。

 

 告白してきたのは呼びに来た女の子、僕が気になっていた女の子ではなく。

 一言もしゃべったことがない、正直名前も知らない女の子だった。


 名前も知らない彼女は、顔を赤くし、震えるような瞳で僕の返事を待っていた。

 あまり人の感情の機微に鋭い方でない僕にも、一生懸命さが伝わってくるぐらい必死だった。

 これほど本気の人を、僕は久しぶりに見た気がする。



 一生懸命。

 本気。

 必死。


 僕とは無念の単語だ。

 日々流されるように過ごし、気付くと高校一年が終わっていた僕。

 文化祭とか体育祭とか色々あった気がするけれど、何も思い出せない。


 それなりに頑張ってきたけれど。

 自信を持って『本気』で取り組んだといえることはなかった。 


 それに。

 別に友達がいないとか、嫌われているとか、そういうわけじゃない。

 仲の良い友達はいるし、そこそこ楽しく過ごしてきたと思う。

 多分、平均的な高校生程には楽しかったんだと思う。


 でも、僕より楽しそうにしている人はいた。

 どうしてそんなに純粋な表情で笑っていられるんだと思う程、澄んでいる彼、彼女ら。

 胸の奥に秘める暗い思いなどなく、心の底から楽しそうに見える人達。


 彼らを見ていると、僕はどうしようもなく不安になる。

 僕がここにいていいのかどうか、とても不安になるのだ。

 


 ふと思い出すのは、母の料理を手伝ったことだ。

 あれは、から揚げだっただろうか。


 僕が鶏肉に小麦粉と卵をつけ、パン粉をつける。

 僕の作業はここで終わりだ。

 次は、母が鶏肉を揚げる。


 「よくできたね。ありがとね」と母が褒めてくれて、僕は手を洗って台所を後にする。

 油が飛んできて危ないからだ。


 でも、僕は居間に戻ったフリをして、そっと母の様子をみていた。

 僕は母に褒められて嬉しく思いながらも、気になっていることがあったのだ。


 母は、僕が準備した鶏肉をざっとみると。

 何個かの鶏肉を選び出し、再び卵をつけて、パン粉をつけなおしていた。

 僕が上手くできていなかったためだ。

 でも母は「上手く出来た」と嘘をつき、褒めてくれたのだ。


 僕は「あぁ、また失敗した」と思い、ちょっと落胆した。



 今の僕はこれだ。

 母がパン粉を付け直す前の鶏肉みたいなものだと思う。


 何か必要な膜が、他の皆に比べて足りないと感じていた。

 僕も膜みたい何かを取り戻せば、なんの心配もなく、前みたいに楽しく笑えるんじゃないかと思っていた。

 何かが起こって、誰かが何とかしてくれて。

 母のような人が現れて。

 また僕に膜をつけてくれて、元の僕に戻れるんじゃないかと思っていたのだ。

 

 ふと、こう考えるようになっていたのだ。



 それがいつからか?

 僕には分からない。


 彼らを見て、どうしてあんな風に笑えるのか不思議に思うようになったのは、いつからなのか?

 分からない。


 いつから僕は変わってしまったのだろうか?

 分からない。


 楽しいけど、楽しくない。

 嬉しいけど、嬉しくない。

 何かが決定的に足りないけれど、何が足りないか分からない。


 僕の心は常にこう感じていた。

 いつのまにか、全部が嘘っぽくみえるようになっていたのだ。

 多くのことに対して、懐疑的になっていた。


 だからか、彼らが本心から楽しそうに笑っているのを見ると、とても不安になるのだ。

 僕が彼らと違うと、明確に分かるから。

 僕が足りないものを持っている彼らが、とても羨ましかったから。


 そんな僕も、昔は何も考えずに笑えていたと思う。

 心のそこから笑えたし、ニコニコできたと思う。

 何も不思議に思わなかったし、迷わなかった。


 その証拠に、少し前の写真を見ると、僕は笑顔で笑っていた。

 彼らと同じような表情だ。

 とても楽しそうだと思ったけれど、その当時の感覚は思い出せない。

 まるで別人みたいだ。



 そう。

 僕は変わったのだ。


 今はあの時、中学までとは違うのだ。

 周りの反応を見て、皆が笑うからとりあえず笑う。

 笑いたいから笑うんじゃない。

 なんとく雰囲気に流されて笑っていた。

 どうしても周りを気にしてしまう。


 そうしていると。

 皆と一体感を感じられるから、その時は楽しい。

 でも、どこか虚しさのようなものが後からきた。


 心にそっとさびしい風がふいた。

 まるで世界から取り残された感じだった。

 誰もいない電車のホームに、僕だけがいる気分だった。

 夜のホームにポツリと立ち尽くし、ひたすら来ない電車を待っていた。


 何度もさびしい風が吹き、いつしか僕は予感するようになった。

 一年の初めの頃は様々なことに期待していたけれど、すぐにその期待は消えた。


 僕は達観したのだ。

 多分、漫画や小説のようなことなど、何も起こらずに高校生活が終わるんだと。 

 このまま灰色の日常が過ぎていくんだと。

 それは多分、高校を卒業しても変わらないんだと。



 実際、高校生活は退屈だ。

 毎日学校に行き、授業を受け、帰ってくる。

 ただそれだけだ。

 別に特別なことなんて何もない。

 時々思い出したように楽しいけど、多くの時間は退屈でしめられる。


 なんだか、両親と同じになった気分だ。

 日々会社に行き、帰ってくる。

 特に変わったところなんてないように思える、退屈そうなサラリーマン生活。


 別段ワクワクしているようにも思えない。

 家で寝る前にビールを飲むだけが楽しみの生活。

 時計のように同じことをコトコト繰り返す、灰色の世界。



 僕もあんな風になるんだろうか?

 後、何十年も同じようなことを繰り返すと思うと・・・心底恐怖だった。

 心の芯がブルッと震えた。


 それって意味があるのか不思議だった。

 意味なんてないと思っていた。

 同じような毎日を繰り返すことに、価値なんてないと思っていたから。


 多くの人が、同じような日々を繰り返していることが、とてもとても不思議でしょうがなかった。

 通学電車で周りの人を見る度に、常々疑問に思っていた。

 この人達はどうして会社、学校に言っているんだろうと。

 何が楽しくて、毎日同じ電車に乗っているんだろうと。





 で。

 今、目の前には名前も知らない女の子がいる。

 告白の返事を待っている。


 僕がこれまで経験したことのないこと。

 同じことの繰り返しだった学校生活に訪れた、異変。


 上履きを見れば分かるけれど、彼女は僕と同学年。

 高校2年。

 だから彼女も僕と同じように16年間生きてきて、今は僕と同じような生活をしていると思う。

 だけれど・・・

 なんだか別の世界の人に見えた。


 その理由は単純だ。

 きっと彼女は、学校生活を純粋に楽しんでいる人なんだと思ったから。

 

 本気になれない人と、本気になれる人。

 衣がある人と、衣がない人。

 楽しんでいる人と、楽しんでいるフリをしている人。

 青い世界にいる人と、灰色の世界にいる人。


 なんとなく見れば分かる。

 僕以外の人だって気づいていると思う。  

 簡単に見分けがつくから。


 彼女は僕とは違ってまぶしく見えた。

 きっと青い世界に住んでいるんだと思った。

 僕とは違い、日々不安も焦りも、満たされない心に急かされることなく。

 何の疑問を持つこともなく、学校生活を送っているんだろうと思った。


 きっと毎日充実していて、楽しいんだろうなと思った。

 僕も彼女のようになりたいと思った。



 でも僕は・・・

 まぶしい人と関係したいとは思っていなかった。

 いや、消極的に避けていた。

 だって自分と違うよく分からない人と関係するのは、怖いから。

 

 彼、彼女たちといると。

 違いを明確に感じ、自分が楽しんでいないことを痛烈に感じるから。 


 何を思っているか分からない人といると、とても不安だから。

 いつ僕が周りと違うとばれてしまうか。

 楽しくもないのに、楽しんでいるフリをしているとばれてしまうか。

 常に気にしないといけないから。


 彼女達のようになれなくても、せめてフリだけはしていたかったから。

 偽物でもいいから、青い世界にいたかったから。



 だから僕は・・・

 はっきりいって目の前の彼女、名無しの彼女に興味はなかったのだ。

 僕はまぶしい人と関わり合いになりたくなかった。


 僕に告白してきた子は、見た感じ普通にかわいい子だと思うけれど、何か特別なものは感じない。

 チラッと見て「かわいい子だ」と思うだけの子。

 そこで関心が止まる、その他大勢の子の一人だった。



 しかし・・・

 僕は答えをどうしようか迷った。


 正直告白されて嬉しかったし。

 なんだか漠然とだけれど、認められたような気がした。

 僕のことを見ていた人がいたんだと思うと、ほのかに心が温まった。

 

 これまで彼女を欲しいと思ったことはあったし。 

 気になる女の子はいたけれど、特別だと思える子はいなかった。

 だから告白したことはなかった。


 いつか好きな人が現れるだろうと思っていたけれど、結局誰も現れなかった。

 僕はちょっとショックを受け、同時に焦りを感じていた。

 このまま誰も現れないかもしれないと不安だった。



 こんな状況。

 好きでもない女の子に告白された状況。

 普通に考えれば断るべきなんだと思う。

 好きでもない、まして名前も知らない女の子に告白されたのだから。


 でも。

 僕は迷う。

 迷ってしまう。

 その理由の一つは簡単だ。


 目の前の女の子が必死だったから。

 今にも泣きそうな顔をしている。

 多分僕が告白を断れば、彼女は泣くし、傷つくと思ったから。


 建物の影からは、彼女の友達 (俺を呼びに来た女の子)がこちらの様子を伺っている。

 彼女達の仲は知らないけれど、友達の前で振られるのは酷だと思った。

 

 それに。

 目の前の子の告白を断れば、僕が気になっている女の子。

 今、影から見ている女の子に嫌われるかもしれないと思った。

 それはさけたかった。


 又、僕は人を傷つけたくなかった。

 自分の一言、行動で、誰かに迷惑をかけたくなかった。

 まして女の子を泣かすのは嫌だった。


 なので僕は・・・

 消極的な理由でだけれど、彼女に告白の返事をしたのだった。



「うん、いいよ」


 僕は名前も知らず、好きでもない女の子と付き合うことにした。



 彼女の告白を受け入れた理由は4つ。


 1.このまま好きな人が現れないかもしれないと焦ったから

 2.目の前の彼女が必死だったから

 3.人を傷つけたくなかったから

 4.影から見ている、気になっている女の子に嫌われたくなかったから


 好き嫌いなど関係なかった。

 多分、目の前の彼女でなくてもOKしたと思う。

 極論すると、誰でもよかったのかもしれない。



 僕の返事を受けると、名無しの彼女は「うわっ」と泣いた。

 瞳から涙がこぼれた。

 僕の一言で、女の子が泣いた。

 目の前で人が泣くのを見るのは久しぶりだった。

 小学校以来だろうか。


 僕は一瞬あたふたした。

 どうすればいいか分からなかった。

 僕の一言で彼女が泣いてしまったのだ。


 こちらに何かしらの責任はあると思った。

 「大丈夫?」と、何か声でもかけたほうがいいと思ったけれど・・・


「・・・ありがとう」


 僕が何か言う前に、名無しの彼女は泣きながら去っていった。




 建物の影で友達と合流し、彼女は色々と話していた。

 「よっかたね」「うんううん」と、そんな声が聞こえた。

 彼女の友達も泣きそうになっていた。

 あれだ、時々見る姿だ。女の子同士で気持ちの共有をしていた。


 そんな彼女を僕は遠くから見つめていた。

 やっぱり、彼女は僕とは違うんだと、違う世界にいるんだと思いながら。




 結局。

 僕はまたしても回りの雰囲気に流されてしまった。

 自分の意思など関係なく動いてしまった。


 で、その結果。

 名前も知らない女の子と付き合うようになった。



 これが僕と彼女のはじまりだった。


 灰色の僕、偽物の僕と、青い彼女の出会いだった。




◆2




 生まれて初めて彼女ができた。

 でも、名前を知らなかった。


 だから僕は。

 とりあえず彼女の名前を確認することからはじめた。

 名前を覚えるのは、人付き合いの基本だ。


 名無しの彼女に「名前教えて?」っと、直接聞くのはさすがにまずいと思った。

 僕が彼女に全く興味がないことを知ると、彼女が傷つくと思ったから。


 僕はそれとなく名無しの彼女を観察した。

 友達との会話や、彼女の教室に張ってあるクラス名簿をさりげなく見て分かった。


 彼女名前は、『多仁瀬タキ』というらしい。


 へぇー。

 多仁瀬さんか。

 珍しい苗字だな~。

 タキってちょっと古そうな名前だ。

 昭和風だと思った。


 それぐらいだ。

 特にピンとくるものはなかった。

 ただの名前。


 口に出して、『多仁瀬タキさん』『『多仁瀬さん』と発音したけれど。

 心に響くものはなかった。


 試しに僕が気になっている女の子の名前を口にすると。

 今度は心がドキドキした。


 僕は再確認した。

 やっぱり僕は、『多仁瀬さん』のことに興味がないと。

 分かっていたけれど、僕はショックだった。

 彼女の名前を呟けば、少しは心がざわつくと思っていたのだ。

 一応、恋人になったのだから。




 さて。

 一応名目上は彼氏、彼女になった僕達だけれど・・・特に何もなかった。

 ほんと、驚くほど何もなかったのだ。

 これまでの同じ日常が過ぎていった。


 告白された次の日は・・・

 一言もしゃべらなかったし、顔も合わせなかったぐらいだ。


 多仁瀬さんとは別のクラス。

 だから毎日会うことはない。

 時々廊下ですれ違うと、彼女は顔を赤くしてそそくさと逃げていった。


 んー。

 なんだか僕も恥ずかしい気分だった。

 そうされると、多仁瀬さんを意識してしまう。


 でも。

 それ以外には特別な感情を抱かず。

 正直、多仁瀬さんのことを考えることはなかったし、気になりもしなかった。


 付き合っていることも時々忘れるぐらいだ。

 彼女の姿を見て、「そういえば付き合っていたっけ」と思い出す。

 告白されたのは、何かの夢だったと思う程に。




 

 

 お互いを見る度に、磁石のように反発する日々がすぎていく。


 結局。

 僕と多仁瀬さんが実際に言葉を交わしたのは、告白から一週間後だった。


 きっかけは僕からだといいたいけど、実際は彼女の友達だ。

 告白する際に、僕を呼びにきた女の子に言われたからだ。

 (因みに僕は彼女に好意を抱いているけど、残念なことに、彼女は僕に気がないと思う)


「なんでタキに話しかけないの?かわいそうでしょ」っと。

 

 可哀想か・・・可哀想・・・


 うん。

 確かにそうだと思った。

 実は僕も心の片隅で、多仁瀬さんが僕と話したがっているのかもしれないと思ってはいた。


 彼女のことは、好きでもなんでもないけれど。

 付き合っている以上は、僕も彼氏らしいことをしなければいけないと感じていた。

 それは義務のようなもので、少しは僕から話かけた方がいいと。

 せっかく勇気を出して告白してくれたんだから、僕も何かしないといけないと。

 つまりは、多仁瀬さんに少しは気を使った方がいいだろうと考えていた。


「分かった。そうする」


 と答える。


 一応誠意をこめて答えたつもりだったけれど。

 僕が気になっている女の子は、なんだか不満そうだった。


「ちゃんとしてね」


 と言われた。

 多分、僕の思いが上手く伝わらなかったんだと思う。

 だからこれまで彼女が僕のことを好きにならなかったんだと思った。


 僕が気になっている子は、そそくさと去っていった。



 それにしても、 『ちゃんとしてね』っか・・・


 はぁー。

 なんだか妙な気分だった。

 僕もちゃんとしたかった。 

 普通にしたかった。


 実は期待していたのだ。

 誰でもいいから付き合えば、そこそこ楽しいかと思っていた。

 きっとドキドキするんだろうなと思っていたけれど、そんなことはなかった。

 彼女ができてもとくに何も変わらない。

 退屈な日常がすぎていくだけだ。



 確かに彼女、多仁瀬さんと会うと緊張する。

 お互いを意識してドキドキはする。

 でも、別に好きだからドキドキするとは別の感情だ。

 恋人だと意識するから、なんとなく条件反射的にビクビクするだけ。

 

 よく恋愛映画や少女漫画であるように。

 日常が劇的に明るくなったとか。

 世界が変わったとか。


 そんなことはなかった。

 これっぽちも変わらなかった。

 1mmも変化しなかった。

 いつもの日常が続くだけだ。


 アレは嘘だと思った。

 恋愛は素晴らしいものだと宣伝しているが、それは真っ赤な嘘で、ありもしない幻想を売っているのだと思った。

 恋愛なんて本当は大した価値もない、勘違いの産物だと。



 実際恋人になると逆にめんどくさいことが一つ増えただけだ。

 特に興味のない子の相手をしないといけないのだから。



 だけど。

 一応多仁瀬さんを好きなフリはしておいた。

 彼女に失礼だと思ったし。

 好きじゃない人と付き合っていると、周りには思われたくなかったから。

 それに普段話さない女の子と話すのも、少しは楽しいだろうと思ったから。


 自分でいうのもなんだけど・・・

 好きでもない子と付き合うのは、良いことではないと思っていたから。


 それに何より。

 「僕が多仁瀬さんのことを好きじゃない」と彼女には知られたくなかった。

 必死な多仁瀬さんを馬鹿にしているようで、申し訳ないと思ったから。



 又。

 友達というか、周りも俺が多仁瀬さんと付き合っていることを何故か知っており。

 (俺は誰にもいってないので、多分、彼女の友達から漏れたのだろう)


 「付き合ってるんだってね?」「いいなー、彼女もち。俺も彼女欲しい」「別れろー」

 と言われると、嬉しくもある。

 皆に褒められているようで、ほのかに優越感を感じた。


 皆が、彼女がいることは良いことだ、幸せなことだと思っているのが伝わってくる。

 

 だから僕も、実際は恋人がいても何も変わらないけれど、『彼女がいて幸せ』だと勘違いしそうになった。

 周りの雰囲気が、僕にそう思わせたのだ。



 でも・・・それだけ。

 ほんのちょっとチヤホヤされて、話題が増えたぐらい。

 僕は達観していた。


 でも、一応彼氏になったのだ。

 まぁ、親戚付き合いと同じようなものだと思い、僕は多仁瀬さんに会いに行くことにした。

 告白されてから初めて、言葉を交合わせに向かったのだった。

 



◆3




 放課後。


 僕は隣のクラスの廊下にいた。

 うちのクラスは早く終わったので、多仁瀬さんが教室からでてくるのを待っていたのだ。


 そう。

 俺は彼氏だけど、多仁瀬さんのLINEも携帯番号も知らないから。

 こうして待ち伏せするしかない。

 



 多仁瀬さんのクラス。

 終わり会が終わり、皆が教室から出てくる。


「うぉ!彼氏だー」「多仁瀬さんの・・・」


 っと妙な視線を浴びたけれど、気にしないフリをした。


 多仁瀬さんが出てくると、恥ずかしそうに顔を下げていた。

 僕の顔を見るのが恥ずかしいのかもしれない。

 そんな彼女を見ていると、僕も恥ずかしくなる。


 でも、言わないといけないから、勇気を出して声を出す。


「えっと・・・今日、一緒に帰らないかなっと思って。部活も休みって聞いたし。予定があるんならいいけど」


 本当は、彼女の友達に言われたから来たんだけど、そのことは告げない。

 彼女は聞きたくないだろうから。

 僕が自発的にきたと思われた方がいいだろう。


 多仁瀬さんはぱっと顔をあげる。


「えっ・・・うん」


 シーンと間があく。


 お互い何を言えばいいのか分からない。

 彼女から次の言葉を出して欲しいと思ったけど、それはなかった。


 だから僕は・・・


「じゅあ、行こうか」


 そう言って、彼女をリードしようと思ったが。


「ちょっとまって、友達に言ってくる」


 多仁瀬さんは慌てて教室の中に戻った。

 多分、いつも一緒に帰っている子に伝えに言ったんだと思う。

 今日は行けないと。

 

 彼女の予定を変更してしまった。

 

 僕は、なんだかまずいことをしたと思った。

 でも、戻ってきた彼女はちょこんと会釈し、とても嬉しそうな顔をしていた。

 彼女の顔を見ると、僕まで元気が出てきた。


 しかし。

 多仁瀬さんは僕の横に並ぶことはせず、斜め後ろをついてきた。


 妙な距離。

 本当は友達みたいに横に来てもらいたかったけど、何故か彼女は斜め後ろだった。

 顔を見られたくなかったのかもしれない。

 僕はきまずかった。




 昇降口に向かって廊下を歩いていると。

 途中。

 彼女の女友達。

 僕に『なんでタキに話しかけないの?かわいそうでしょ』と言ってきた子と目があった。


 彼女は僕と多仁瀬さんの姿を見ると、満足そうに「うんうん」と頷いていた。

 嬉しそうにしているのが伝わってきた。


 良かった。

 僕は彼女の友達の期待を満たせて嬉しかった。

 安心したのだった。


 失礼なことだけれど、僕の意識は斜め後ろにいる多仁瀬さんよりも、僕が気になっている子に向いていた。







 一緒に帰りながら、多仁瀬さんとぽつぽつ会話した。

 「好きな教科とか」「好きなもの」とか、あたりさわりのない会話。

 内容は覚えていない。


 一つ覚えているのは、彼女の声だ。

 何を話していても、緊張していても、はずむような明るい声だった。 

 彼女のお腹の中には光の塊でもあって、それが声になって漏れ出ているかのような印象を受けた。


 それが生来の声質なんだと思った。 

 彼女の声を聞いていると、僕はほんのちょっと心を揺らされた。

 それは好きとは違う感覚で、どこか懐かしい感じを受けた。




 で。

 気付くと駅についていた。

 驚くほど早く時間が過ぎていった。


 ビックリしたぐらいだ。

 最初は長く感じていたのに、あっという間だった。

 時間間隔が狂い、僕は慌てたぐらいだ。



 僕と彼女の電車は反対方向なので、駅でお別れだ。


「じゅあ、また明日」

「うん」


 僕と彼女は別れた。


 妙な感覚だった。

 ただいつもと同じ道を歩いただけなのに、全然違った。



 多仁瀬さんと別れて気付いた。

 なんだかとても疲れたのだ。

 妙に気をはってしまった。

 まるで初めて歩く道を歩いているようだった。

 新しい街並みを歩いた時と同じ疲労を感じた。


 彼女といると、こっちまで強制的に力を引き出される感じだった。

 自然と彼女に引っ張られ。

 彼女と同じレベルまで、僕も明るくならないといけないと思ってしまうのだ。


 でも僕は・・・

 それ程悪いものでもないと思った。

 『好きでもない彼女といても退屈だろう』と思っていたけれど、案外満足感があったのだ。

 


 不思議だった。

 自分で想像していたことと、実際の体験が違ったのだ。

 僕にとってとても珍しいことだった。


 これまでは、想像していたことより良かった経験など、数えるぐらいしかなかったのだ。

 だから僕は、あまり行動しなかった。

 行動する前から達観していたのだ。

 無意味なことはしたくなかったから。


 今回感じた差異は、僕にとっては思いがけない驚きだった。







 そうして。

 僕達は時々一緒に帰ることになった。

 特に決めたわけじゃないけれど、お互いに部活がない日は一緒に帰った。


 会話もするようになったけど。

 それは友達のように砕けた会話をするのではなく、いつも一種独特の緊張感があった。

 

 一緒にいることには慣れたけど・・・

 やっぱり僕と多仁瀬さんの関係は、どこか恋人とは違ったように思えた。

 具体的にどこが違うとはいえないけど、やっぱり違うと常に思っていた。



 でも僕は、つとめて楽しんでいるようにふるまった。

 退屈なそぶりは見せず、こちらから話しかけた。


 そうしていれば。

 そこそこ楽しかったし、『僕は多仁瀬さんが好き』だとアピールできた。

 本当のこと、『彼女のことなどこれっぽちも好きじゃない』と知られたくなかったから。

 

 それに・・・

 好きなフリをしていれば。

 もしかしたらいつか好きになるかもしれないと思ったから。


 上っ面だけの恋人関係でも。

 灰色の僕、偽物の僕でも。

 多仁瀬さんに不快な思いをしてもらいたくなかったから。



 それらの思いは決して綺麗なものじゃない。

 自分の罪悪感を消すための、願いのようなものだった。

 僕は雰囲気に応じて、恋人を演じていたのだ。


 ただのピエロだった。

 自分で自分が情けなかった。







 そうして。

 3ヶ月ほどだった。


 僕達の仲はのどかに進んでいった。

 一応手は繋いだことはあるけれど、それだけだった。

 さすがに好きでもない子とキスや、それ以上のことをするのは気が引けたのだ。


 いや。

 嘘。

 嘘でした。

 僕、嘘つきました。


 本当に。

 『 好きでもない子とキスや、それ以上のことをするのは気が引けた』

 そう思っていたのだけれど・・・

 

 実は一度キスをした。


 キスをする数分前までは、キスなんてするつもりは1mmもなかったのに。




 あれは・・・放課後だった。

 多仁瀬さんといつものように帰宅している時だった。


 その日は僕が居残りする必要があり、彼女には先に帰って欲しいと伝えた。

 でも彼女は昇降口で待っていた。

 彼女は「何か予定が入って遅くなった」といっていたけれど、多分嘘だと思った。



 僕達は電灯がつき、暗くなった夜道を歩く。

 ライトをつけた車が走り、風が冷たい夜だった。

 いつもと違ってひっそりとしていた。



 僕と多仁瀬さんが駅につくと、いつものように別れの挨拶をしようとした。

 「じゃあ、また明日」と言おうと思ったけれど、何故だか言えなかった。

 ホームに人がまばらだったためか、この場所には僕と彼女しかいないと感じた。

 2人だけのホームだ。


 すると。

 何故か彼女と離れたくないと思ったのだ。

 夜の暗さと電灯のためか。

 人気のない場所に、彼女が自信なさげに存在していたためか。

 

 普段は光を帯びている彼女が、その瞬間だけは儚げに見えた。

 触ると壊れそうな程、脆く切なく思えたのだ。

 まるで季節外れの粉雪のようだった。

 


 多仁瀬さんが僕を求めていると感じた。


 何故かキスをしなければいけない雰囲気。

 ロマンティックな雰囲気になったのだ。


 僕はこの時。

 初めて彼女の瞳を見たと思う。


 茶色がかった瞳。

 人より長いまつげ。

 くるっとシャープに収まった目元。


 これまで何度もみた顔だけれど、瞳の色を意識したのは初めてだった。


 で。

 僕はキスをした。

 茶色がかった瞳に吸い込まれるようにキスをした。


 雰囲気に推されて行動した。

 そうしなければいけないと思ったから。

 僕は雰囲気に敏感だったし、多仁瀬さんもして欲しそうな顔をしていたから。


 でも。

 キスしても、僕は何も感じなかった。

 キスすれば好きになるかもしれないと、ほのかに期待していたけれど、そんなことはなかった。

 又ひとつ期待が失望に変わったのだった。


 それと。

 キスをした時、多仁瀬さんはちょっと驚いていた。

 彼女にとっては意外だったのかもしれない。

 

 僕はタイミングを間違えたのかもしれないと思って慌てたけれど、彼女は特に抗議もしなかった。


 逆に、ニッコリと微笑んだ。

 僕はほっと安心した。


「じゃあ、また明日」

「・・・うん」


 キスしたことで恥ずかしかったし、唇に残る感触が僕をくすぐった。


 でも、いつものように別れた。

 それから電車が来るまで、僕達はホームごしに向かいあっていた。

 

 人がまばらな夜のホームでも、2人でいるとさびしさは薄らいだ。

 僕と彼女の関係が、少し変化したのかもしれない。




 でも、日常は変わらない。

 キスをしたところでさしたる変化はない。

 特にこれといった出来事もおきず、恋人生活は続いていった。


 多仁瀬さんがどう思っているか分からないけれど、僕は今の関係で十分だった。

 なぜなら、特別なことは期待していなかったから。


 

 時々一緒に帰る。

 たまの休日に2人で遊びに行く。

 手を繋いだり、時たまキスをする。


 ただ、それだけでよかった。


 一応、恋人らしいことはしていると思ったし、彼女も表面的には楽しそうだった。

 僕も多分だけれど、楽しかったと思う。

 多くの時間は退屈だったけど、時折楽しいと思える時間もあった。


 そう思うのは、慣れたからだと思う。

 多仁瀬さんが傍にいることに慣れたんだと思う。


 3ヶ月たっても、多仁瀬さんのことは好きにならなかったけど、不快な思いはしなかった。

 逆にほのかな緊張感は、ちょっと刺激的だった。



 僕にとっては一つの発見だったのだ。

 好きでもない人と付き合っても、そこそこ楽しいと思えるし、自然に手を繋いだり、キスしたりできる。

 それは楽しいことでもあった。


 おかしな気がするけど、それが僕の感じたことであり、正直な感想だった。


 これが恋愛なのかもしれないと思った。

 恋愛ごっこかもしれないけれど、確かに楽しくはあったから。


 でも、僕は「好き」という感情をまだ知ることはできなかった。



 僕の心の中では。

 できたら多仁瀬さんの方からふってくれないかと思っていた。

 やっぱり好きじゃない人と付き合うのは間違っていると、心のどこかで思っていたのだ。

 

 その思いは、僕の心の中で割り切れる程強くなかったし、自ら行動もできなかった。



 そもそも。

 僕といて彼女が楽しいかどうか不安だった。

 いつ、彼女に振られるんじゃないかとビクビクしていたし、逆にそれを望んでもいた。



 正直、僕は自分の心がよく分からなかった。




◆4




 僕と多仁瀬さんの関係はゆるやかに進んでいった。


「タキとどうなの?」


 多仁瀬さんの女友達、僕が気になっている女の子に聞かれた。


 こういうことはわりとある。

 会話のきっかけなのか、それとも何か心配事があって聞きたいか分からないけど、度々聞かれる。

 皆知りたいのかもしれない。


 僕は決まってこう答える。


「順調だよ」


 言葉どおりの意味だ。

 多仁瀬さんに対する思いは変わらない。

 相変わらず好きでも嫌いでもないけれど、特に問題はない。

 

 恋人として、まったりとした日々を過ごしているし、彼女は表面的には楽しそうだ。

 よく笑っていた。 


 特にこれといって思い出すようなエピソードもないけど、そこそこ楽しい。


 僕は多仁瀬さんがどう思っているか常に気になった。

 でも、実際に彼女に聞いたことはない。


 「僕といて楽しい?」と聞いたら、多分「楽しい」とは答えると思う。

 でも、聞くべきことじゃないと思う。

 質問すること自体、なんだか僕が楽しんでないみたいだし、彼女が退屈していると伝えるようなものだから。

 彼女はそんな姿を決して見せないのだから、質問をしてはいけない。


 それに聞いても、本当のことは答えてくれないと思ったから。



「二人とも、お似合いだからね」


 彼女の女友達に返された。


 これは僕の男友達でも同じだ。

 不思議なことだけど、どうも周りからは、俺と多仁瀬さんの仲は上手くいっているように見えるらしい。

 『仲良しカップル』、『うらやましい』と言われたことすらある。


 要するに、ちゃんと恋人に見えると認識されている。


 よかった。

 僕はこの答えを聞くたびに安心した。

 実際はそんなことないと思うけど、ちゃんと恋人役をこなせていると認められると安心する。

 

 偽物の僕でも、青い世界の住人だと認識できるから。

 心に秘めた暗い思いは、誰にもばれていないと実感できるから。

 僕は上手くみんなの中に溶け込んでいると安心できるから。

 






 半年たった頃。

 多仁瀬さんと初体験を済ませた。

 

 高校2年。

 付き合って半年。

 1年365日の半分だから、183日程たった頃だ。

 

 早いのか遅いのか分からないけど。

 僕と多仁瀬さんの間では、そろそろするべきなんじゃないかという空気があった。

 周りでしている子がいたので、雰囲気に流されたのかもしれない。 

 僕と彼女はそういう雰囲気に敏感だった。


 お互い「初めて」だと申告したわけじゃないけど。

 恋も好きも知らない僕は、勿論初めてで、彼女も多分初めてだったと思う。




 初体験は放課後の夕方だった。


 僕の家の、僕の部屋の、僕のベッドでした。

 いつも僕が寝ている場所だ。

 僕の匂いが染み付いているので、彼女を連れてくるのはちょっと恥ずかしかった。


 なぜなら僕の匂いは本物で、決して偽れない。

 それを彼女に嗅がれたくなかったのだ。

 僕の中身を見られているような気がして、心が落ち着かない。

 これまで僕は、本当の意味で彼女に自分の心を開示したことはなかったから。


 僕の部屋に入った多仁瀬さんは、普段よりも緊張しているようだった。

 これまでとは雰囲気が違った。

 彼女はとても恥ずかしそうにしていたので、部屋の電気は落とし、カーテンも閉めた。

 

 僕達は暗い部屋の中、ベッドに腰掛けながら、お互いに麦茶を飲んでポツポツ会話した。

 初体験をしにきたのだけれど、中々進めなかった。


 

 冷蔵庫から持ってきた冷たい麦茶がぬるくなり、水滴が机にたれる。

 机の上に置いていたセンベイは、硬さを失っていく。


 5杯ほど麦茶を飲み、緊張がピークに達した頃。


 僕から告げた。


「しよっか」


 暫く間があいて。


「・・・うん」


 多仁瀬さんが頷く。

 

 僕と多仁瀬さんはベッドに座っていた。


 無言のまま向き合って、僕は彼女の両肩に触れる。

 彼女が目をつぶるので、キスをする。


 キスをしたまま、彼女をベッドに押し倒す。

 制服が皺にならないか心配だったけれど、そんなことを口に出せる雰囲気じゃなかった。


 ベッドに広がる彼女の黒髪。

 僕が普段寝ているベッドに彼女がいることは、どこか不思議で、落ち着かない光景だった。


 僕と彼女は見つめあう。

 揺れる茶色がかった瞳と、赤く上気した肌。

 女の子特有の甘い匂いが鼻をくすぐる。


 夕日が僅かに入ってくる暗い部屋の中で、僕と彼女は一つになった。




 布がすれる音と、彼女の小さな声と吐息。

 よく覚えていないけれど、別段衝撃的なこともなく進んだ。

 ただ、彼女の体は、思っていたより柔らかかった。


 外からは、時折子供の遊び声が聞こえてきた。

 明るい元気な声が、妙に耳に残った。




 それから。

 初体験を済ませてからといって、僕達の関係は変わらなかった。

 体を重ねたからといっても、相手を好きになるわけでもないし、愛が生まれるわけでもない。


 何も変わらない。

 ただ、しただけ。

 体を重ねただけだ。

 

 それは頭では分かっていたことだけど、僕は失望した。

 やっぱり何か変わるかもしれないと期待していたのだ。

 体を重ねさえすれば、少しは彼女のことを好きになるかもしれないと思っていたのだ。


 

 いや。

 変わったことは一つあったのかもしれない。

 手を繋いだりするドキドキ感は確実にへったと思う。

 触れ合うことへの抵抗は減った。


 それは。

 彼女の全身を知ってしまったため。

 未知の部分が減ってしまったためだ。


 それまでは。

 漠然と女の子の体に神秘的何かを感じていたかもしれないけど。

 いざ知ってみると。

 別段特別なことはなく、僕と同じように、ただの体だと分かってしまったからかもしれない。




 僕達の関係は安定するというか、さらにまったりとしてきた。







 初体験を済ませると。

 それまでが嘘だったのかのように、僕と多仁瀬さんはしばしば体を重ねるようになった。

 一回すると、次がしたくなるのだ。

 これはキスの時も同じだった。

 何かの決壊が壊れたように、次は簡単に進んでいった。

 躊躇することなく行為に移った。



 暫くは、ほとんど会話などなく、会ってするだけだった。

 僕の部屋に入ると、すぐにベッドでした。

 いや、ベッドに入るのも我慢できず、扉の直ぐ前でしたこともある。


 動物のように体を重ねた。

 彼女を求めたのだった。

 いや、彼女というよりも、彼女の体を求めていたという方が正確だったのかもしれない。


 朝起きると彼女としたくて、授業中は気になって、放課後は早まる気持ちから手を繋いだ。

 彼女の匂いを嗅ぐと、彼女の姿を見ると。

 条件反射的に、暴力的なまでに僕の気分を高めたから。

 すぐさま彼女に触れたくなる。

 それは「好き」という感情とは全く別で、本能的なものだった。


 だから、家に帰って、した。 

 終わるとどうでもよくなるけれど、暫くするとまたしたくなった。



 している最中は快楽を感じられるけど。

 常に何かが足りなりと思ってしまう。これじゃないと感じてしまう。


 もっと気持ちよくなれるはず。

 充実するはずだと期待しつつも、必ず満たされずに終わる。

 消化不良の思いだけが残る。


 どこか漠然と、頭の中に理想のSEXがあるんだけど、そこには絶対にたどり着けない。

 いくら手を伸ばしてもたどり着けない感覚。

 僕の心が遊離し、第三者的に行為を見つめている気分になる。 


 まるで過去に。

 理想の女性ともっと激しく、全身が痺れるほど、頭が真っ白になるほどのSEXをしたことがあり。

 それと比べて落胆しているかのような感覚。

 本物の快楽の泉から、一滴だけ漏れでてきた快楽を味わっているかのごとく。

 何故かこれとは違う、絶対に上があるはずだと確信できてしまった。



 僕の心の中には、苛立ちが募るばかり。 

 だからこそ。

 くすぶった思いを、溜め込んだ負の気持ちを、情熱や愛情と偽証して彼女の体にぶつける。

 愛しているフリをして。


 自分の体と彼女の体の境界線が分からない程重ねる。

 頭の中にニュルニュルとミルクのようなものが流れ出て、現実感と意識が揺れる程に。

 塩っ辛く、すっぱくなる程に、唇で彼女を味わう。


 でも。

 いくら彼女と体を重ねても、思いをぶつけても、欲求は満たされない。

 彼女の体を味わっても、逆に満たされない欲求がたまっていく。



 だからこそ。

 欲求を発散するために、再び彼女と体を重ねる。

 

 その繰り返し。

 悪循環。

 同じようにぐるぐるぐるぐる、ぐるぐると感情が回っていく。

 同じようなことを何度も繰り返す。

 飽きもせずに、彼女と交わり続ける。



 快感と失望、期待と喪失の繰り返しだった。


 時計のように同じことを繰り返す。

 退屈な日常に加わった、新しい退屈な習慣。



 僕は・・・

 ただ、ただ、やっていた。

 動物の発情期のように求めていた。

 それの繰り返しの日々だった。

 僕はただ、何も考えずに体を重ねていた。



 しかし。

 心の隅ではどこかで分かっていたけれど。

 何回、何十回と体を重ねても、僕が求めたものはついに手に入らなかった。

 

 得られたのは一瞬の快楽と、空虚な空しさ、冷めた心だった。


 その証拠に。

 僕は彼女と体を重ねたある夜、彼女と別れてから、突然嘔吐した。

 別段体調が悪かったわけじゃない。

 病気になったわけでもない。


 でも、理由はなんとなく分かった。

 原因は彼女と体を重ねることによる、心の不調だと。


 激しく上下する心と、思いを発散するために彼女の体を利用していること。

 つもっていく満たされない欲求に、体と心が耐えられなかったのかもしれない。

 頭では割り切れていても、徐々に負担になっていたのかもしれない。


 でも、寝て起きれば欲求は浮かんでくる。

 僕は時々嘔吐しながらも、彼女と交わったのだった。

 体を重ねて快楽を味わっている間は、全てを忘れられたから。




 そんな中。

 僕はずっと「多仁瀬さん」と呼んでいた、

 体を交わる関係だけれど、「タキ」と、名前で呼ぶことはなかった。

 体を重ねることより、名前で呼ぶことの方が恥ずかしかった。


 僕は今だに多仁瀬さんのことは好きじゃなかったけれど、嫌いでもなかった。

 友達というか、知人というか、恋人というか。

 特に特別な感情は抱かないけど、一緒にいて落ち着く相手だと思えた。

 


 でも、退屈な日常は変わらなかった。

 灰色の日常は過ぎていく。

 逆に、体を重ねれば重ねるほど、空しさや満たされない心は増していった。


 灰色の液体が、着実に自分の中に貯まっていくようだった。 





 気付くと。

 新年を迎えていた。


 午前0時0分。

 新年開始と同時に、多仁瀬さんからメールを貰った。


「あけましておめでとう。今年もよろしく」


 機械的な文章だった。


 俺も同じように返した。


「あけましておめでとう。今年もよろしく」


 ゴーンと、除夜の鐘が鳴った。




◆5




 3学期。

 高校生活は過ぎていく。

 俺は多仁瀬さんと一緒に帰り、デートし、たまに体を重ねる。


 穏やかな日々。

 あたりさわりのない日常。

 

 多仁瀬さんと付き合っているけど、特に刺激的なことはなかった。

 




 そんなある日。


 ふとした際。

 僕は、多仁瀬さんが中庭で女友達と話しているところをみた。

 楽しそうだった。

 僕といる時とは違う「楽しそうな」雰囲気だった。


 多仁瀬さんの姿を見た時。

 最近は気にすることがなくなっていたことを思い出した。

 少し前まで気になっていたことを。

 

 『なんで、彼女はあんなに楽しそうに笑えるんだろう?』


 楽しそうにできるんだろう、と。 

 僕と違って純粋に笑えるんだろう、と。

 つい最近は、あまり感じなくなっていたことを思い出したのだ。




 僕の中で沸き起こった疑問は心にくすぶった。

 すぐに消えることはなく、ずっと僕の心を占領した。


 すると。

 その日から多仁瀬さんのことが気になった。

 半年たって初めてのことだった。


 付き合ってはいたものの・・・

 彼女とした仲だけれど・・・

 それまで僕は、別段彼女に興味がなかったのだ。 

 彼女が僕のことをどう思っているかは気にしていたけれど、彼女自身のことは関心がなかった。


 誕生日など、表面的なことは気にしていたけど、実際のところ、彼女のことはよく知らなかった。


 なので僕は、多仁瀬さんのことをよく見てみることにした。

 これまで彼女の部活姿など、一度も覗いたことがなかったけど、僕はこっそり覗きにいった。

 彼女を見たいと強く思ったのだ。



 彼女は吹奏楽部で、リコーダーの大きいバージョンの笛を吹いていた。

 確か・・・フルートだったと思う。

 多仁瀬さんの担当楽器のはずだ。


 彼女は一生懸命吹いていたけど、あまり上手くないようだった。

 僕は音楽に詳しくないけど、なんとなく雰囲気で分かる。

 周りの子の方が上手いんだと思う。


 そういえば・・・

 多仁瀬さんはあまり部活の話をしていなかった。

 吹奏楽部がコンクールに出るという話を聞いて、僕も見に行こうかと言ったら。

 あまりよくない顔をされたので自粛した。


 あの時は特に疑問に思わなかった。

 ただ恥ずかしがっているだけかと思った。

 でも、今になって思えば、きっと上手くない自分を見てもらいたくなかったんだと思う。


 しかし。

 僕は初めてみる多仁瀬さんの姿に新鮮な驚きを感じたし、魅力的だとも思った。

 これまで見てきた彼女は、綺麗な姿だったけれど、どこかとりつくろっていた。


 今、目の前の彼女は一生懸命なだけだった。

 僕は彼女に惹きつけられた。

 何か心をくすぐるものがあったのだ。




 僕はその日から。

 時々、多仁瀬さんの部活姿をこっそり見にいった。

 彼女の腕はあまり上達していないようだったけど、僕には魅力的だった。


 何故だか分からない。

 彼女の姿を見ていると、心が温まった。

 じんわりと心を揺らすものがあった。


 例えそれが、上手くいかないくてイラついているような表情でも、僕にとっては魅力的だったのだ。 

 僕といる時の彼女とは、ちょっと印象が違っていたから。



 


 で。

 ばれた。

 部活姿を見ているのがばれた。


 ある日、帰り道で聞かれたのだ。

 一緒に歩いていると、いきなり質問された。


「ねぇ、時々私の部活、見にきてるでしょ?」


 ドキリとした。

 まさか彼女が気付いているとは思わなかった。

 ちゃんと隠れて、何気ない通行人のふりをして見ていたのに。


「うん。ごめん。ちょっと気になって」

「別にいいよ。でも・・・恥ずかしいな」


 ほんのり頬をそめる多仁瀬さん。

 でも僕は、彼女が恥ずかしがる必要はないと思っていた。

 ふいに言葉が口から出る。


「全然、恥ずかしくなんてないよ。頑張ってるみたいだったし」

「でも私、皆みたいに上手くないから。演奏するのは好きなんだけど・・・」


 うつむく彼女。


「いいや。それでも、僕はいい音だと思ったし・・・綺麗だった」

「あはははっ、そうなんだ・・・・無理に褒めなくてもいいよ」


 苦笑いする彼女。


「無理じゃないよ、本当、その、良かったから・・・本当に・・・そう思ったから」


「いいの。私、下手だもん。皆に比べて下手なのは分かってるから。

 実は私、高校に入って吹奏楽やりだしたんだ。それまではずっと聞くだけだったから」


 微笑む彼女。


「いや、本気だよ。多仁瀬さんが演奏している姿を見ていると・・・

 なんだか、なんていうか・・・とっても目が引き付けられるから。あの部屋で・・・一番魅力的だったからっ!」


 僕は何故だか熱くなっていた。

 これまでこんな風に、多仁瀬さんに対して話したことはなかった。

 いや、友達に対しても、こんな風に熱くなったことはなかったかもしれない。


 でも今は、彼女に伝えたくてたまらなかった。

 胸の奥から、衝動が沸き起こってきた。

 それを抑えることができなかった。

 抑えることを思いつきもしなかったのだ。


 多仁瀬さんも僕の姿を見て、驚いているようだった。

 

 そんな彼女の表情を受けて、僕も自分自身の態度に驚いた。 

 なんでこんなに熱くなっているんだろうと、不思議に思った。


 多仁瀬さんは僕の動揺する姿を見て、一瞬驚くも、すぐに優しげな表情に戻る。


「ほんと・・・恥ずかしい。でも嬉しい。私、あまり見られてないと思ってたから」


 と告げた。


「?」


 見られていない?

 僕は彼女の発言に一瞬ドキリとする。


 僕の心が、彼女のことが好きではないことが、彼女にばれてしまったのかも知れないと思ったのだ。 


 多仁瀬さんは続ける。

  

「ほらっ、私達、色々したけど・・・でも、ちょっと壁があるかもしれないって思ってたから」

 

 やはり。

 多仁瀬さんも僕と同じように壁を感じていたようだ。


 僕はまたしても驚いた。

 楽しそうに見えた彼女も、色々考えていたのかもしれない。

 あんな風に純粋に笑える子が。

 僕とは違い、学校生活を楽しんでいる子が、僕と同じように感じていたとは思ってもみなかった。

 僕は彼女が自分とはまったく違う種類の人だと思っていたのだ。


 急に彼女を身近に感じた。

 これまでとは違った風に感じたのだ。




 暫く歩く。

 僕と多仁瀬さんは無言で歩く。

 僕の心は動揺していた。

 激しく動揺しながらも、色々な考えが頭の中をめぐっていた。

 でもそれは、何一つ明確な言葉にならなかった。

 


 ふいに、彼女は僕を見る。


「ねぇ、一つ聞いていい?」

「何?」


 彼女は僕の反応を伺う様に、少し間を空けてから。


「私が告白したとき、私のこと知らなかったでしょ?なんでOKしたの?」


 多仁瀬さん。

 気付いていたのか・・・


 僕はそのことを気付かれたくなかったから、ばれないように行動していたのに。

 僕の隠匿は上手くいっていると思ったのに。


 でも、ばれたのなら仕方がないか。

 本当のことを言おう。

 前までなら絶対に言えなかったけれど、今なら言っても問題ないと思ったから。

 不思議と今はそう思うから。


「ただ、なんとなく、多仁瀬さんが必死そうだったから」


 僕は観念したように、ポツリと呟いた。

 少し心が軽くなった。


「ふーん、なんとなく、必死かー」


 なんでもないことのように呟く多仁瀬さん。


 僕はいたたまれなくなって謝る。

 口に出した後だけど、やっぱり言うべきじゃないと思ったのだ。

 こんなことを伝えられて、嬉しい人なんていないはずだから。


「・・・ごめん」

「いいよ。私、いつもかっこ悪いぐらいギリギリだし。でもさっ」


「何?」

「必死さなら、同じだよ」


 微笑む彼女。

 僕は言葉がなかった。

 そんな僕の間を埋めうるように、彼女は微笑む。


「よかった、勇気出して。私、この半年間とっても楽しかったよ」


 いつもと変わらない笑顔で告げる多仁瀬さん。

 

 僕は彼女の笑顔を見て、心から思ったことがあった。

 それを素直に言葉にした。

 気付くと口から音が出ていた。


「僕も・・・楽しかった」

 

 この半年間のことは・・・

 本当に・・・

 本当に楽しくて・・・

 僕にとってはめぐまれた時間だったと思った。


 退屈だと思っていた時間。

 灰色だった時間は、青い時間に変わったのだ。

 時が塗り変わっていった。




 彼女は僕の言葉に返事をせず。

 僕らは歩いていった。


 


 ―――僕はこの時

 

 ―――多仁瀬さんのことを、初めて「好き」だと思った


 ―――初めて人を好きになったのだ




 ―――付き合って1年後


 ―――漫画や映画のように、例え特別な出来事がなくても


 ―――人を好きになることがあるんだと思った




 だから僕は。

 ふと、彼女に告げたくなった。

 言葉にして彼女に伝えたくなったのだ。

 これまで一度も口に出したことがなかったけれど。

 

 ―――彼女の名前を・・・


 ―――君の名を呼びたくなったのだ。

 


 それに。

 絶対に言わなければならないと思った。

 それがせめてもの償いだと思ったから。


 僕は自分自身の愚かさと、彼女の強さを知って心が震えていたから。

 僕はとんでもない馬鹿で、彼女はとても強かったから。

 これまで誰も尊敬などしたことがなかったけれど、僕は初めて彼女を尊敬した。


 僕が彼女を好きでないことを、彼女は初めから知っていたのだ。

 でも1年間ずっと傍で、笑顔でいてくれた。

 気づかない振りをしてくれていた。楽しそうにしてくれていた。



 ―――だから僕は、今、気付くことができた。



 ―――相手が自分のことを好きでなくても、相手を好きになれる。


 ―――苦手なことでも、ちゃんと一生懸命挑戦できる。


 ―――それを続けられる。



 当たり前のこと。


 でも、僕にはどれもできなかったことだった。

 そんなこと考えもしなかった。

 挑戦する前から終わっていた。 

 

 上手くいかないこと。

 相手が答えてくれないかもしれないことなど、手を出そうとも思いもしなかったから。


 でも。

 何もしなければ、何も手に入れられないことなど、心のどこかで分かっていたと思う。

 あたり前のことだから。


 でも。

 僕は気付かなかった。

 見ないようにしていた。


 最初から諦めて、どこからか、求めているものがやってくるのを待っていた。

 ありもしないことを期待していた。

 誰かが自分をなんとかしてくれると思っていた。 

 そうして漠然と失望していた。


 自分になんら責任も感じず、周りのせいにしていた。 

 自分から動かなければ、何も得られないのは当たり前なのに。

 動いても失敗するかもしれないことなど、当然なのに。

 

 要は、僕は失敗するのが怖かったのだ。

 よく分からない、暗闇が怖かったのだ。


 だから現状維持だけをしていた。

 自分の手の届く範囲、分かる範囲だけで生活していた。

 よく分からない、外の世界は怖かったから。

 僕は自分の中に引きこもっていた。



 思い返せば。

 僕はこの1年、彼女には随分ひどいことをしてきたと思う。

 自分は相手が好きで、相手が自分に全く興味がない。

 そんな状況で相手を想い続け、笑顔でい続けることが、彼女にとってどれだけ負担になっていたかは分からない。

 それがどれだけ大変なことなのか、想像もつかない。

 僕には絶対にできないことだと思った。


 でも、彼女は僕をとがめることなく、弱音を吐くことなく、ずっと笑顔でいてくれた。

 だから僕は自分から気付けたのだ。

 彼女が傍にいてくれたからこそ、理解できたのだ。


 僕は何も求めていたのか。

 どうして満足できない生活をしていたのか。

 灰色の生活をしていたのか。 

 誰もいないホームにいたのか。

 一人だけのポツンと漂っていたのか。

 どうしていつもさびしさを感じていたのか。


 彼女が気付かせてくれた。



 きっと、誰かに答えを言われても。

 両親や友達に言われてても。

 彼女に言葉で伝えられても。

 僕には全く響かなかったと思う。


 ただ頭の中を通り過ぎていったと思う。

 意味のない言葉、どうでもいい言葉だと思って消えていったと思う。


 言葉なんて、日々無数に耳にするのだから。 

 

 それに。

 一回聞いただけじゃ、本当の意味で言葉を理解することなんてできない。

 機会のように、心に言葉をコピーすることなんてできやしない。

 ピタリと胸に言葉がはまり、胸をつくような感情と共に理解できなければ。

 言葉は忘却の彼方に消えていく。

 意味なんてない。



 でも。

 一年通して彼女が教えてくれたから、彼女が見せてくれたからこそ。

 僕は気付くことができたのだ。

 彼女の姿と無言の言葉が、僕の胸に深くしみいっていったから。 


 彼女には感謝してもしたりない。

 1年もの長い間、よくこんな僕と付き合ってくれたと思う。

 本当になんて言っていいか分からない。



 胸がいっぱいだった。

 僕にはもったいない彼女だと思った。

 僕なんかのことを、よく好きになってくれたと感謝した。

 それが最大の幸運だった。



 僕は溢れる思いを口にする。

 震える胸を言葉にする。

 彼女への思いで胸が張り裂けそうだ。



 ―――「た、タキ・・・そのぉ・・・好きだからぁ・・・ほんとぉ・・・好きだからぁ・・・今までぇ・・・ごめん・・・」



 初めて彼女の名前を呼んだ。

 タキの名前を呼んだのだ。

 君の名を呼んだのだった。


 これまで、ただの一度も呼んでこなかった。

 好きな人の名前を。

 生まれた初めて好きになった人の名前を、呼んだのだった。 


 僕にとっては世界で一番特別で、世界一好きな名前を口にしたのだ。



 僕の声は震えていた。

 瞳からは涙が出そうだった。

 目頭が熱くなって、瞳がウルウルと震えていた。

 頬まで熱くなり、胸からジワジワとした熱い塊がのどまで湧き上がってきた。



 気付くと視界が歪んでいた。

 きっと涙が出ていたんだと思う。

 気付かなかったけれど、少し前から涙が出ていたんだと思う。

 僕の目元は腫れていた。


「あははっ、なにそれ」


 いつも通り、心が弾むような声で笑うタキだった。

 光が漏れ出てくるような声が胸に響く。

 初めて聞いた時と同じ声だ。

 

 他の人が見たらなんてことのない笑顔だったかもしれないけど、僕にとっては大切だった。

 その笑顔はまぶしかったけれど、僕にとっては心地よいものだった。


 僕が過去に、不安と疑問を感じた笑顔ではなかったのだ。

 今僕は、笑顔の意味をやっと理解したのだった。



 ―――彼女も同じ、僕も同じで、皆同じ


 ―――でも、変えることもできる



 皆必死に生きている。

 どんなに純粋で、笑顔な子でも、僕と変わらない。

 不安定な足場の中でも、限界ギリギリのところで、必死に楽しもうとしている。

 よく分からないところにも、手を伸ばそうとしている。

 僕だけが、グルグルわけの分からない世界にいるのではなく、タキも一緒だった。


 これが分かった瞬間、僕は涙したのだ。

 意味なんてない。

 様々なことが僕の心の中で結合し、僕は震えたのだ。



 随分長い時間かかった。

 数年かかったのかもしれない。

 でも、タキがいなければ、僕はずっと灰色の世界にいつづけたと思う。


 何にも気付けなかったと思う。

 僕だけの世界、安全で心地よい世界に留まっていたと思う。

 何かを期待するけれど、何もやってこない場所に。


 高校を卒業しても。

 例え大人になっても理解できなかったのかもしれない。 


 灰色だった僕の世界は、今開けたのだった。

 本当に相手を好きになると、世界が変わるのは本当だった。

 嘘ではなかったのだ。


 僕の世界の色は変わったのだから。



 タキは告げた。


「ちゃんと笑えるじゃん」


 僕も笑っていたようだった。

 僕は救われたのだ。



 だから今度は、僕がタキを救おうと思った。

 彼女から返せない程の恩を貰ったのだから。

 彼女が高校生活の一年を捧げてくれたのだから。


 僕も彼女の問題を解決しようと思ったのだ。

 見れ隠れする、見過ごしてきた彼女の問題に、向かい合おうと思ったのだ。





 こうして。


 今、僕とタキの付き合いが始まったのだった。


 一年遅れだけど。


 ようやく僕らは恋人として、スタートラインに立ったのだ。


 不甲斐ない僕だけれど、タキのためにも変わろうと思ったのだ。


 


 これが僕の記憶。

 

 誰のことも好きになったことがない僕が、初めて人を好きになった瞬間だった。





【終わり】


男泣きっ!


ここまでお読みくださり、ありがとうございます。



テーマは【人を好きになる瞬間】でした。

サブテーマは【少年→青年の成長】です。

やはり、定期的には真面目なお話を書くべきですね。違った余韻があります。


あらすじにも書いておりますが。

今回は・・・最初から両思いMAX、恋人が重病を抱えて死ぬ、入れ替わり、SF的時間差等。

劇的な要素「それって嘘じゃん」「つり橋効果じゃん」と言われると答えにつまる要素をなるべく排除しました。『嘘を書かない』『嘘を書かない』『嘘を書かない』と唱えながら書きました。


『出会った時から好きでした』ではなくて『ほのぼの日常で人を好きになる』話を書きたかったです。

現実ではそっちの方が多いと思いますから。


人によって【人を好きになる瞬間】は違う&私の伝達能力が怪しいので。

伝わったか分かりませんが。


果たして伝わったのだろうか・・・

なんで主人公が泣いてるかよく伝わっていないのかも・・・


5000文字ぐらいで収めようと思っていましたが、真面目に書くと長くなってしまいました。

ガーン。


【後書き終了】

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