6 グランド・テレーマ(1)
王都の牢と言えば王城の地下一階、つまり岩トカゲの下層に位置する地下牢が挙げられる。地上の王立魔法学園から入り、さらに地下に続く岩トカゲの下層は王国の守護者たる王立魔法騎士団の総本部だ。
岩トカゲの頑丈な魔法によって作られた地下牢の格子は折れることはなく、罪人を逃がしたことはいちどもない。
今日は独房に新しい罪人が入ってきた。名前はありきたりな名前のようだがマックス王太子はこの罪人のことを〝黒い服の男〟と自らの頭脳に記録している。先日、王立魔法学園の教員ゴリが捕らえたという、オフルマズド教の神父である。
神父はゴリの部下に連行されて境界村からやってきた。ゴリの部下の魔法で身柄を拘束され、馬車できたらしい。その間、一日と半日である。独房に入れられた神父は手足を鎖で繋がれ、首すら岩壁に打ちつけられている。薄い唇はにやにやと笑っているばかりで気色が悪い。鋭くとがった八重歯が覗いて見える。エルストはこんな男に急襲されたのか。そう思うと、いささか気の毒だという情が、厳格と冷淡で知られるマックス王太子の胸にも湧き出てくるものだ。
牢に入れられたばかりの神父のもとへ真っ先に姿を現したのがマックス王太子だった。今はその青い瞳で格子の外から罪人を見ている。
ゴリがしたためた報告書には、この神父のまとうマントは加工済みドラゴンのものである可能性がある、と記載されていた。なるほどたしかに黒い服の男である。この薄暗い独房のなかで、この神父の姿は影に溶け込んでいる。マックス王太子の白と青の礼装だけがまぶしく見えた。マックス王太子は鞘に収めた剣を左手に携えている。かたちはサーベルのようだ。
マックス王太子は鞘に収めたままのサーベルで、トン、トン、と床を二回ほど叩いた。
その直後、神父の黒い服は焼け落ちた。
王国で唯一の自治が認められているドルミート領の一大都市、グランド・テレーマは一年中がひまわりの見頃である。都市の治政区であるテレーマ宮殿を中心に広がる都市は、岩トカゲこそないにすれ、その繁華は王都マグナキャッスルと似た箇所がある。ただ厳かな王都とは違い、人々が陽気に暮らしを楽しむのがグランド・テレーマだ。
海の玄関口でもあり、ブラウン火山による温暖な気候と広大な海の恵みによる魚介の宝庫となっているグランド・テレーマは、魔法の気の強い王都と貿易をすることで確固たる地位を築いている。統治者は代々ドルミート侯爵家だ。独自の建設文化をもった歴史は王国と同等である。
「ひまわりだー!」
街道沿いに広がるひまわり畑に興奮したベルは思わず叫んだ。グランド・テレーマへの客人を最初にもてなすのがこのひまわり畑である。
「硫黄のにおいと……サカナのにおいや〜!」
アギも観光気分でウキウキと心を弾ませている。もっとも、加工済みドラゴンの心はどこにあるのかはわからないが、それは人間にも言えることだろう。
「元気だね……」
境界村からおよそ六日間歩きとおしだというのに、この魔法使いたちは疲れを知らないのか。すでに足が棒になっているエルストは引きつった笑いを見せる。ひまわりなんてどれも同じだろうに、ベルはひと歩きしては立ち止まり、またひと歩きしては立ち止まりの繰り返しなのだ。エルストは少し苛立ちもおぼえた。
「ねっ、エルスト様。これ、上から見たらどんなにキレイなんでしょうね〜!」
ベルはにこにこと言ってきた。
「え……そりゃ、とってもキレイなんじゃない? ……」
見たことはないが。
「ステ〜イ!」
こんなに楽しそうなベルを見るのは初めてだ。ベルはホウキを取り出し、エルストの背中を押した。
「ちょ、ちょっと。空を飛ぶの?」
「きっと絶景ですよ。せっかく来たんだから、見なきゃ損です!」
エルストの後ろにベルが乗る。
「こんなことに……魔力を使っていいのかな……」
ふたりとアギを乗せたホウキは徐々に上昇していく。
「こんなことだからこそ、です! 人生楽しまなきゃね」
ペナルティとして提出する魔力は旅を終えたあと、学園で抽出されるらしい。
ベルはエルストの肩に掴まり、屈託なく笑うのだった。
あたたかな風がエルストの頬を撫でる。街道の上空へとゆっくりと舞い上がったホウキは、エルストとベル、アギに爽やかな絶景を見せた。
「うわあ……」
街道沿いに咲き誇るひまわりはグランド・テレーマの市街地へと続いていた。グランド・テレーマの白い街並みに黄色がなんと映えることか。一行の左手には大きな山だ。薄茶色の大きな影がそびえ立っている。あれがブラウン火山なのだろう。噴火活動は活発ではないのか、しんと静まり返っている。
そしてグランド・テレーマとブラウン火山を包み込むように広がるのが真っ青な海だ。まず湾岸付近のエメラルドグリーンの珊瑚礁に目を引かれるのだが、エルストは珊瑚礁をよく知らない。海上には、太陽に照らされた、白い帆を張る船が何隻か見えた。漁船なのだろうか。都市だけでなく、ブラウン火山の山麓も海に続いている。
「イッツ南国〜!」
後ろでベルがけたたましく叫んだ。エルストは幼い頃に数回、このグランド・テレーマを訪れたことがあるが、グランド・テレーマはこんなに雄大だったろうか。上空で景色を一望したのは初めてなので、てんで知らなかったと、改めてその美麗さを実感した。黄色、白、青のコントラストが非常に好ましい。そしてこれらの絵画を自然の緑やブラウン火山が枠組みしているようだった。グランド・テレーマは、自然豊かな都市なのだ。
「湧水洞の花もキレイやったけど、ワシはこっちのが好きやで」
アギの美的感覚は人間に近いものがあるらしいが、とりわけわかりやすいカラーに惹かれるようだ。
「あの四角いのが城か?」
アギの言う四角いの、とはテレーマ宮殿のことだろう。
「ドルミート侯爵家の宮殿、テレーマ宮殿だよ」
平原から海に向かってなだらかに築かれた都市の中央を分捕るようにして建てられたのが、ドルミート領の治政区総本部であり、ドルミート家の住むテレーマ宮殿だ。すべて白塗りの外壁で仕立て上げ、中心部の四つの塔を囲むようにいくつもの部屋が連なって四角い宮殿を形作っている。四つの塔は、ひとつだけ抜きん出て高く、エルスト曰くあれらの塔群がドルミート侯爵家の住まいなのだそうだ。
「か〜ッ。シャレた暮らしぶりやな〜、侯爵様は!」
アギが喉を鳴らす。宮殿の中で、海を見渡せるのはあの塔群だけだろう。
「むかつくから、このまんま入ってったろ」
アギの一言で、ホウキはスピードを加速していく。
「あれ……アギって、ホウキを操れるんだっけ……」
前進していくホウキの柄にしっかりと掴まりながらエルストが言った。
「マントとかホウキとか、ワシから作られた加工品にはワシの意思も届くんやで」
「へえ」
また新しい発見である。
ホウキはひまわりのじゅうたんの上を進んでいく。
都市への入り口には外壁があり、その門をくぐらねば都市へは入れないのだが、アギはなんと外壁の上から入ろうと言うのだ。これに賛同したのはベルだった。
「〝離離たる騎士の、なきなき夢〟……」
人々の俗世の喧騒など忘れ去ったように、ポロンと琵琶を奏でる男がいた。民宿の屋根の上で、グランド・テレーマに照りつける日射しをぞんぶんに浴びながら詩を歌っている。男のまわりだけが異世界であるかのような、透明な壁が張り巡らされているかのような静けさに満足しながら、男は続ける。
「〝正とは何ぞ、われに問う……悪はわれの 胸にありけど……〟」
白のシャツにオリーブ色のローブを身につけて、波がかった黒髪にはカーキ色のスカーフを巻いている。長い手足に抱えられれば琵琶も小さく見えるものだ。浅黒い肌に彫られたタトゥーが独特の雰囲気を醸し出しているが、男の存在に気付いている者はいない。
「〝平和の花が咲くまちで……離離たる騎士は 〟……」
またひとつ、琵琶の弦を弾いた。
「撃ち落とせ! 侵入者である!」
男の詩を遮るように、透明の壁を打ち砕くようにして怒号が響いた。
男が内陸のほうへ目をやると、そこには警備役の魔法使いに撃ち落とされる、ホウキに乗った二人組がいた。
「だからっ、こちらはエルスト様! 王子なんだってば〜!」
じたばたともがくベルの胴体にはロープがきつく縛られている。隣に座るエルストにもまたロープが巻かれているではないか。
ここはどこなんだかふたりはよく知らないが、目の前の警備兵と簡素な鉄の格子を見るに、刑務所の牢屋、もしくはそれに近い拘留場に連れられてきたのではないかとエルストは考える。どちらにせよ恵まれた待遇ではない。ふたりは冷たい床に放り出されているのだ。ちなみに、アギは別の場所にいるようだ。ロープを巻かれる際、ベルからはアギ〝一式〟が剝ぐられた。黒のミニワンピース一枚になったベルのボブヘアは寂しい。
今ではホウキに乗って都市へ入ろうと提案したアギが憎いとさえエルストは思った。
あのあと、ホウキに乗って都市の外壁を越えた一行を待ち構えていたのは警備にあたっていた魔法使いによる狙撃弾であった。
その魔法使いは不法侵入だとか、侵入者だとか吠えていた気がするが、魔法使いによる魔法の銃弾は直撃こそしなかったにすれども、驚きと咄嗟の回避によってバランスを崩した一行の頭には魔法使いの言葉などよくは聞こえなかった。
「落ちたら命はないだろうから、空を飛んでいくことはあまりおすすめしないがな」
という、謁見の間でのファーガスの忠告だけが脳裏にこだましていたのである。一行は見事に落下した。
グランド・テレーマは温暖地域だというのにここは寒いな。エルストが身震いしたのは寒気と、これからへの不安によるものである。
幸い、落下による怪我は、ベルが緊急処置をしてくれたおかげでどこにもない。ベルは落下中、一行の真下にあったひまわり畑の上に魔法のクッションを敷いてくれたのだ。ヨウ・ヨウが座らせてくれた空気イスに似た感触だった。
それからほどなくして一行は警備兵に捕まり、ここまで連行されてきたのである。
「エルストっていったら、能無し王子のエルストだろ?」
軽装の警備兵は専門の魔法使いではなさそうだ。腰に剣をぶらさげている。
「の〜う〜な〜し〜ぃ〜?」
ベルは鉄格子越しに警備兵を睨んだ。すごい形相だ。
「ああ? 文句あるんなら、身分を証明出来るものを見せるんだな!」
中年の警備兵は悪態をつきながらベルに向かって唾を吐いた。
「あ、魔法を使わせてみりゃ、わかるか。なんてったってエルスト王子は魔法が使えないらしいから、〝使えなかったら王子〟ってことだもんな。なんなら、この剣を飲ませてみたっていいんだぞ、ええ? 魔法が使えたら、なんともないだろ!」
「キー! どいつもこいつも、エルスト様をバカにしてー!」
境界村でザツに扱われたことをいまだに根に持っているらしい。ベルは意外にも粘着質なのだろうか。
「そんな剣なんか魔法が使えても飲んだら死ぬわ! こうなったら、こんなロープなんか、私が引き裂いてやるぅ!」
ベルはエルストと違って、なにもアギがいないからといって魔法が使えないわけではない。少しばかり魔力を使えば、こんな細身のロープなんか突破出来るのだ。ベルは警備兵から目をそらし、仁王立ちして両二の腕を広げようとする。
「や、やめてよ、ベル!」
ベルを制止したのはエルストだった。
「この状況、不利だってわからないの?」
「不利?」
ベルの挙動が停止する。
「僕は警備兵の言うとおり、身分を証明出来るものはもっていないし、出来たって空を飛んで都市に入ったことには変わりないんだよ。それなのに無理やりロープを解いたら、も、もっと分が悪くなるっていうか、反感を買うっていうか……」
「ほお。エルスト〝様〟は物分かりはよろしいようで」
警備兵の底意地の悪さが見えた。
「だいたい、そうなったのも、地上で通行料を払わなかったおまえらが悪いんだ!」
「うぐっ」
エルストとベルがここに拘留された理由。それは、グランド・テレーマへの通行料の未払いと、不法侵入だ。あの外壁は関門の役割を果たしているらしく、往来するには〝地上から〟通過し、その際にはきちんと関税を支払わなければならないのだそうだ。その決まりを誰ひとりとして知らなかった一行はホウキに乗って、上空からグランド・テレーマへ進入しようとしたのだ。捕まるはずである。
「通行料の違反者はひとりにつき罰金三万ゴールド、もしくは一年間の懲役だ!」
「一年ッ!?」
ベルはその場に崩れ落ちた。立ち上がる気力すらなく、警備兵を恨めしげに見上げながら身を倒した。一年とは、つまり誓約の旅を終えなければならない期間だ。約一年後、もしも王都に戻っていなければ、
「死ぬ!」
国王にかけられた魔法によって指先や足の先から沸騰してしまう。これにはエルストも脱力した。
「ベル……お金って、ある?」
一行の財布はベルの手中である。
「境界村で使ったので……残り、一万ゴールドです……」
ひとりも出られない。望みは潰えた。
せめて境界村で、チキンステーキなんか食べなければ。ふたりは六日前の己の食欲を悔いた。
グランド・テレーマの白い街並みにも夜は訪れる。
エルストとベルの入った牢のなかには通気孔があり、そこから漏れだす夜の光がエルストとベルのからだを縁どる。今日は月が明るいようだ。エルストとベルはやはり捕らわれたままだ。胴体にロープが巻かれているのは変わりなく、どちらも仰向けに寝転がり、風情ある夜のかおりに目をつむっている。眠っている者は、見張りの警備兵を含めて誰もいない。
「ねー、エルスト様……」
昼間の元気はどこへやら、ベルはすっかり意気消沈している模様だ。あれから食事も、毛布も与えられず、ふたりは抵抗する気力もめっきりなくなってしまっている。
「おなか……空きましたね……」
ベルはかほそい声で言った。
うん、とエルストは返事をした。それと同時に腹が鳴った。食欲と、眠気と、不安がエルストのからだをめぐっている。
「アギ……どこだろ……」
ベルはパートナーがおらずに寂しいようだ。たしかに、いつもやかましいアギもいなければいないで寂しいものである。ここへ連行された時に魔法使いに剥ぎ取られたきり、その行方はエルストもベルも知らない。ひょっとしたら、アギも寂しい思いをしているのではないか。いや、アギのことだから、どこでだって、ひとりだって、懲りずにいびきをかいて寝ていることだろう。エルストは思った。
「アギぃ……」
ベルがごろりとからだの向きを変えた。エルストに背中を向ける。エルストが一瞥すると、その後ろ姿には悲哀が漂って見えた。
「寒いよぉ……」
この時、ベルの目からは涙が溢れ、こめかみへとつたって落ちたのだが、そのことにエルストは気付いてはいない。ベルがじつは寂しがり屋であるということをエルストが知るのは、もう少し先のことになりそうだ。黒いミニワンピース姿のベルに貸してやる毛布はなく、そもそも何かをしてやる気にもなれず、エルスト自身は緑のケープをまといながら、静かに眠りに落ちていた。ベルはこの寒い夜、涙の熱で過ごした。
「エルスト様」
とん、とん、とベルの指先が寝転がるエルストの右肩を叩いた。鳥のさえずりを耳に入れながら、エルストは幾度かまばたきを重ねて目を覚ました。青い光がほんのりと暖かい。これが朝だと感じたのは、夢の気が去ったあとであった。
「おはようございます、エルスト様」
「おはよう……」
エルストの頭が右を向く。ベルの膝らしきものが見えた。見上げれば顔もある。
「遅いな王子……おねぼーさァ〜ん」
ベルの頭上から、聞き慣れた、のんびりした声が聴こえた。
「ん……アギ?」
おかしいな、とエルストは眉を寄せた。昨日の午後からアギの姿はなかったはずだ。警備兵に連行された時に、ベルから剥ぎ取られたはずではなかったか。そういえば、とエルストはもうひとつの違和感に気付いた。
「ベル……なんでロープ、ないの?」
そう、いつの間にか、ベルはエルストを置いて自由の身になっているのだ。どういうことだろう。エルストは身をよじらせて上半身を起こした。
「あの人が助けてくれたんです、さっき」
ベルが鉄格子の外を指差した。鉄格子の檻すら扉が開いている。
まっすぐ差されたベルの指の先をエルストの青い瞳がたどっていくと、そこには、真紅のコートに身を包んだ黒髪の青年が鉄格子の外からこちらを見ていた。
「おはよう。久しぶりだな、エルスト」
「……アドルー!」
ベルがエルストのロープを解くなか、エルストは青年の名を呼んだ。アドルーと呼ばれた黒髪の青年は右手を挙げてにこやかに応じる。長い黒髪を後ろで結び、肌は日焼けしているのかうっすらと小麦色をしている。折り目正しい白いシャツの上に羽織られた特徴的な真紅のコートには金の刺繍が入っており、ささやかながらはっきりと、アドルーという青年の身分の良さを際立たせている。
「アドルーが助けてくれたの?」
エルストはいまだ困惑している。エルストとアドルーは面識があるようだが、ベルだけは初対面である。首をかしげていた。
アドルーはうなずいた。
「昨晩、〝魔法使いが不法侵入した〟と、うちの警備団から俺に直接、報告があってね。その魔法使いが持ってたというドラゴンに会ってみたら、不法侵入した魔法使いってのは、エルスト、おまえ付きの宮廷魔法使いだって言うじゃないか。だから気になって来てみたら、おまえまで捕まってたから、本当に驚いたよ」
アドルーは時おり困ったように白い歯を見せ、笑いながら流暢に話した。どうやら気さくそうな青年だ。アギは昨日から、アドルーのもとに連れられていっていたらしい。
ところで、と、アドルーは鉄格子を小突く。
「そろそろここから出てみないか。おまえを待ってる客人がいるんだ」
「きゃ、客人?」
エルストはうろたえながらも首を振る。
「……いや、僕たち、不法侵入したから捕まっていないといけないんだ。お金もないから……」
「罰金ひとり三万ゴールドなら、俺がまとめておまえにツケとくよ。旅が終わったあと、俺に返してくれればそれでいい」
「南国のプリンスは財布も開放的やなァ」
アギは昨日と打って変わって調子がいいようだ。むかつくから、と言っていたのはどの口だったであろうか。そもそも捕らえられてしまったのはアギが原因ではないか、なんてことはエルストはアドルーを前にしては口が裂けても言えなかったが、そんなことなど露知らず、アドルーはじつに面白そうに笑ってアギに便乗する。
「そうそう、南国のプリンスと違って、岩トカゲのプリンス様は堅苦しいよな。……ま、といっても、俺はただの跡取り息子で、プリンスなんかじゃないんだけどさ」
しっかりと補足をしたアドルーの正体は、何を隠そう、このドルミート領を統べるドルミート侯爵家の跡取り息子なのである。フルネームはアドルー・トゥモロワ・ドルミートといい、今年で二十四歳になる。
アドルーはすでに警備兵にも話をとおしていたらしく、いまいましげにエルストとベルを見る警備兵を横目に、囚われのふたりを解放させた。エルストは、これでいいのかな、なんでぼやいていたが、ベルとアギは機嫌よく軽快に鼻歌なんて歌っていた。
エルストとベル、アギはアドルーの案内でグランド・テレーマの中央街へと歩き出た。エルストとベルが捕まっていたのはやはり刑務所であったそうだ。薄暗い牢屋を出たばかりであるせいか、日射しがまぶしい。
「どこに行くんですか?」
初めて訪れる都市の街並みに目を奪われながらベルがアドルーに尋ねた。街は賑やかで、そして華やかだ。色とりどりの衣装をまとった人々が、白い街並みのあちらこちらに過ぎゆく。そのなかには仮面をかぶったり、派手な扇を持ったりする人も見えた。祭りか何かだろうか。一方で、商人であろう人々が商品を運ぶ姿もある。漁師が魚介を運んでいたら、すかさずベルが腹を鳴らした。エルストとベルは、昨夜から何も食べていない。
「宮殿だよ」
一行を率いているアドルーには、街の人々が嬉しそうに手を振っている。護衛もつけずに颯爽と街を歩く侯爵子息どのは、グランド・テレーマの住民から親しまれているらしい。アドルーもまた笑顔を浮かべ、いちいち手を振って返していた。
「僕を待ってる客人って……誰?」
「行けばわかるよ。エルストは、会っても、あんまり嬉しくないかもしれないけどな」
その意味深な発言に、一行は首をひねるのだった。
刑務所から宮殿へはそれほど離れていなかったようで、一行はほどなくしてテレーマ宮殿へと到着した。
「近くで見るとおっきいですねぇ」
そしてなかなかに広い。ベルは白塗りの宮殿を見渡した。宮殿の外回りは白いアーチと堀で覆われており、堀には水がめぐっている。そしてここにもひまわりが咲いていて、ヤシの木なんかも植えてあり、いっそう南国気分を引き立たせている。
アドルーは率先して正門をくぐった。警備兵が、おかえりなさいませ、と声をかけるが、誰ひとりとしてエルストには気を取られない。アドルーの連れの者であるとしか敬意を払われなかった。王子が捕まっていて、侯爵子息が迎えに行ったとは、ましてやそれが刑務所だったとは、宮殿の警備兵には知らされていないようだった。アドルーなりの気配りなのだろう。
「中もステキ〜!」
歓声を上げたのはベルだった。訪れた者を最初に迎える庭園はあますところなく手入れされており、背の低い常緑樹や季節を匂わせる花が通路に沿って姿をさらしている。庭園の中央に流れる噴水の音がなんとも心地よい。
「はは。そうまではしゃがれると、なんか、嬉しいな」
ベルの喜びぶりにアドルーが笑った。住居を褒められて悪い気がする人間はいないだろう。
客人が待っているのは塔らしく、一行は宮殿の内部を進む。白とネイビーのモザイクタイルが敷き詰められた廊下と階段を、上へ上へと登っていく。ベルとアギは白い石像や透明なシャンデリアに驚いていた。
「この部屋だ」
ドルミート侯爵家の住まいにある客間のようだった。エルストも数度、訪れたことがある。執事たちはエルストの顔をおぼえていたようで、恭しく会釈をくれた。
アドルー自ら扉を開ける。
「ミズリン、お待たせ」
「えっ……ミ、ミズリン姉様? ……」
アドルーが呼んだ少女の姿に、そしてその名に、エルストはひどく動揺した。
エルストに似た、カールした長い金髪をハーフアップにし、白いドレスに青いマントをまとった少女は静かにエルストを見た。その隣には、水色のマントの、赤毛の少女が控えている。
「……ごぶさたね、エルスト」
腰に手を当て、金髪を払った青い目の少女は、エルストと十ヶ月違いの姉、ミズリン王女だった。