5 境界村
「やっと、着いた……」
喉の奥からしぼりだすように言ったエルストは、そう言うなり脱力した。ところ構わずその場に膝から崩れ落ちる。
「長かったですねぇ」
ベルはまだまだ元気そうではある。アギはいつもどおりだ。
「丸五日……」
そう、彼らは黒い服の男の襲撃以来、丸五日の日数を歩きとおしたのだ。
緑の茂る山あいにあり、湖を擁する村。ここは王国領とドルミート領の、ちょうど境目に位置する“境界村”である。
あの夜、〝アラーム〟はついに起動することはなかった。黒い服の男はあの時きり、いっさい姿を現さないでいる。結局、何だったんだろう。エルストとベル、アギは、やれ盗賊だの、山賊だの、落ち武者だの、幽霊だのと、いくつかの推測を立ててみたが、どれも確証はなく、あくまでも推測の域を出ないということで結論には至らなかった。当然といえば当然である。なので、二度目の襲来を警戒しつつも、一行は当初の予定どおりブラウン火山を目指して出立した。
ヨウ・ヨウの湧水洞からここ境界村までの道のりは、平坦でこそあったが、決して楽な道のりではなかった。
街という街はなく、民家すらない。ひたすら土の上を歩き、たまには橋を渡ってきた。自然豊かな道ではあったとエルストは思う。今でさえ樹木に囲まれている。ただ、旅商人と出会えることが少なかった。これが苦痛の主な原因である。
湧水洞からの一日目はアギの焼いた魚で乗り切った。そこからが問題だったのである。ふたたび食糧が尽きたので、エルストをベルは狩りに追われたのだ。ウサギや川を渡っていた鴨、ひどい時にはヘビすら食べた。ずいぶん野蛮になったものだとエルストは物哀しく思いながら、淡白な味のヘビの身を食いちぎった。喉は渇いて涙も出ない。そんな苦痛から逃れるには、一刻もはやくこの境界村に来る必要があったのだ。だから歩いた。
「ここが境界村なんですか?」
ベルはきょろきょろとあたりを見回しながらエルストに尋ねた。
「うん」
エルストは地図を取り出す。地図もエルストも埃まみれだ。
「ブラウン火山に行くには、この境界村をとおらなくっちゃ。それ以外のルートは山越えになっちゃう」
地図によれば、王国領とドルミート領のあいだに横たわるようにして山脈が連なっている。唯一平地なのが、湖のあるこの村なのだ。さらにここからブラウン火山へ行くにはグランド・テレーマという街の先に行かねばならない。
「ここには、むかし来たことがあるけど……」
エルストも座ったまま周囲を見た。
「ここまで、活気があったかな?」
楕円形の湖を囲うように築かれた家々からは人が往来している。男の姿が多いようだ。材木を担ぐ男や、台車でレンガを運ぶ者。土嚢すら運ばれている。まるで何かの建設途中のようだと、比較的開拓の未熟な王都郊外に住んでいたベルは思った。実家の近くに蔓延していた田園の匂いと同じ匂いが漂っている。湖を有しているからか、農作物も豊富のようだ。湖のほとりには黄色い花が咲き誇っている。湖は、王都の岩トカゲよりは小さい。
「のどかなところ」
それがベルが抱いた、境界村の第一印象だ。
「そこの赤のマントの者!」
それぞれが景色に耽っていると、前方から声をかけられた。
「なんや?」
アギが応える。前方から、ひとりの男がやって来た。よくよく見れば、ベルのようにドラゴンを頭に乗せている。魔法使いだ。
「やっぱり魔法使いか」
そう思ったのは相手も同じだったらしい。
「学園の卒業生か?」
魔法使いの男はぶしつけにベルとアギを見る。
「ふっふん!」
するとベルは鼻を鳴らした。得意げである。
「私はエルスト様付きの、宮廷魔法使いであ〜る!」
律儀に腕を組み、いや、威張るように腕を組んだベルであったが、男は隣にへたり込んでいるエルストを一瞥すると、
「エルスト様? ……ああ」
と、何でもなさそうに空返事を寄越した。
「じゃ、ごゆっくり」
さらにはうわべだけの会釈をして去っていったのである。
「……な、なんや、あれ! 扱いザツすぎやろ!」
アギは早速腹を立てた。
「ムキー! 不敬! あれは不敬ですよ、エルスト様!」
ベルも一緒になって眉間にシワを寄せている。正真正銘の王子が目の前にいるというのに、世辞すら述べないとはあんまりだ。最低、自己紹介くらいはすべきである。ベルはすでに立ち去った魔法使いの男に向かって拳を突き出した。
「いや、いいよ……普通だから」
その一方で、エルスト当人だけは腹を立てていない。エルストにとっては世辞すら述べられないことが普段どおりなのだ。
「はあ……納得いかない」
ベルはぼそりとつぶやいた。
簡単に話し合ったすえ、この村には宿屋があったはずだとのエルストの記憶を頼りに一行は宿屋を探すことにした。王都を旅立って十日あまり。エルストもベルも、質に差はあれど、部屋のベッドとシーツの心地が恋しくてたまらない。
「宿屋って、どのあたりにありました?」
ベルとエルストは隣に並んで歩いている。
時おり体格のよい男たちとすれ違うのだが、誰ひとりとしてエルストには気付かない。それどころか、ベルの頭に鎮座しているアギにすら構わない。故意ではなく、明らかに関心を向けていないことがわかる。一行よりも抱えた資材に集中しているようだった。
「どこだったかな。たしか、教会のあたりだったと思うんだけど」
「ほー、教会もあるんやな」
とは言いつつも、アギはあまり興味がなさそうだ。
「湖からは少し離れてた気がするんだけど」
うーん、と、エルストが顎に手を充てる。その時であった。
「エルスト様!」
「ん?」
どこからともなく声が聴こえた。一番に反応したのはアギだった。うしろや、と二人に教える。
「あ」
と、エルスト、ベル、アギが声を上げたのはほぼ同時と言っても支障はないだろう。しかしエルストはベルとアギが、ベルとアギはエルストがその男を知っていることが意外だったらしく、即座に顔を見合わせた。そしてまたすぐに男のほうを見る。
「ゴリだ」
エルストとベルが言った。
一行がうしろを振り向くと、褐色の肌をさらに日焼けさせた男が急ぎ足で近寄ってきていた。髪は明るい金髪をモヒカンに刈り上げ、うなじだけ長く結っている。結ったところから細かくウェーブをかけているようだ。
何より目を引くのはがっしりとした体格と、サングラスである。たしかに今日は晴天だが、エルストとベルが思うに、この男はいつだってサングラスである。長いローブを羽織っており、首にはストールをかけている。
「ゴリ、何しとん、こないなところで」
「ん? 横にいるのは、まさかベルとアギか?」
サングラスの男ゴリは、その時初めてベルとアギの姿に気付いたようであった。
「本当にベルとアギなのか? なぜエルスト様と一緒にいるんだ」
近寄ってくるにつれて忍び足になっている。疑わしい、とでも言いたげだ。
「ワシらや、どー見ても! ベルがこの王子の宮廷魔法使いになったんや!」
何やらアギの態度が刺々しくなった。
「……ベルが宮廷魔法使い? エルスト様、間違いないのですか」
ゴリは念を押すように確認する。
「うん。ベルが僕の宮廷魔法使いだよ」
エルストは素直にうなずいた。
「そうですか……合格したのか、試験……」
まじまじとベルとアギを見つめるゴリは、感慨深げに何度も何度も唸った。
「ゴリ先生は何やってるんですか?」
そうなのだ。このゴリ、じつは王立魔法学園の教員のひとりである。首にかけた水色のストールは彼と専任契約した水属性の加工済みドラゴンだ。今はおとなしいが、アギとは犬猿の仲である。といっても、アギが一方的に毛嫌いしているようなのだが。
「半年前からここの建設工事の総監督を務めているのだ」
ゴリが答えた。
「なんでゴリ先生が?」
ベルの言葉はもっともな意見である。
ベルの入学当初から世話になっていたゴリは格闘術と狙撃魔法、それから捕縛魔法の担当教員だった。とても普請に長けているとは思えない。
「色々あるんだ」
ベルの疑問を、ゴリはあっさりと切り捨てた。
「それより、エルスト様。先ほど、魔法使いが声をかけたでしょう」
「ああ、村に着いたばかりの時だったよ」
「あれは私の部下でして。……きっと無礼を働いたでしょう。部下に代わってお詫びを……」
そう言うと、ゴリは深々と頭を下げた。
「わかりゃーエエんや〜、わかりゃーな〜」
アギはぺろりと舌を出した。こらっ、とベルがアギの鼻先を小突く。今はアギの出番ではない。
「い、いいよ、ゴリ。ああいうのには、慣れてるし……頭を上げて」
エルストが両手を振ってようやくゴリは頭を上げる。上げざまに、すみませんでした、と謝ることを忘れなかった。
「ところで、ゴリ、僕たち宿屋を探してるんだけど……」
村の建設工事の総監督なら話がはやい。村にも詳しいはずだ。エルストは道を尋ねることにした。
「ああ、でしたら案内しますよ。さ、こちらです」
ゴリはにこやかに率先して歩き始める。ラッキーやな、とアギが言っていた。
のしのしとゴリが先頭を歩く。エルストと比べても長身のゴリの歩幅は広いうえに、動きも軽やかで素早い。エルストとベルはついていくのにやっとだ。
「ねえ、先生!」
自ずと声も荒くなる。ベルは大声を出してゴリに質問する。
「工事って、何を作ってるんですか?」
「ん? ああ……」
ゴリが振り向いたと同時に、わずかに歩く速度が緩まった。一行と思いのほか距離が空いていたことに気付いたらしい。
「研究所だ。王立魔法研究所」
「王立魔法研究所って……」
ふと、エルストには思い当たることがあったようだ。
「火災で崩れたところだよね? 王都で、十八年くらい前に……」
「そうです」
ゴリはこくりとうなずく。
「火災? 私、知らないなあ……」
ベルは首をかしげた。
「ワシも知らんなあ。そん頃は、まだ〝外〟には出とらんかったし」
「僕も生まれてないから、当時の様子は知る由もないけど……でも、建物がすべて崩壊するくらいひどいものだったらしいよ」
エルストも人づてに聞いた話である。
「その焼け落ちた王立魔法研究所の再建計画が浮上していまして、半年前、ようやく工事に着手したのです」
ゴリが説明した。するとアギが怪訝そうに眉をひそめる。
「んん? 王都には建てへんのかいな」
ゴリはいったん間を置き、うなずいた。
「国王陛下のご意向でな」
「こないなヘンピなとこに?」
「そうだ」
それはまた疑問の残る話である。ベルがエルストにも訊いてみたが、エルストは何も知らないとのことだ。エルストは政治には関わっていないらしく、再建計画の取り決めは、おそらく、王国政界の上層部で決められたことなのだろうと言った。
この村の男たちは総出で建設工事に携わっているのだそうだ。なるほど、だからあちらこちらに資材を運ぶ姿が見受けられるのか。一行は納得した。
「王立魔法研究所って、何するところなんでしょうね、エルスト様」
ゴリのうしろでベルとエルストがおしゃべりを始める。
「えーっと……魔法開発とか、ドラゴンの研究とか……だった気がするよ」
「じゃあ、そこでドラゴンを加工してたんでしょうか?」
「ちゃうで」
これにはアギが答える。
「研究所なんかの人間に、ドラゴンの加工はまず難しいで。そもそも近年、ドラゴンが新しく加工されたよーな話は聞かへんし」
「詳しいんだね、アギ」
エルストはアギを見たが、アギはエルストを見ようとはしなかった。あさってのほうを見ているような、ぼんやりとした顔だ。
アギの言う〝近年〟とは、どのくらいの年月を指しているのだろう。アギはざっと数えて二千歳らしいので、百年くらいだろうか、とエルストは思ったが、ドラゴンの抱く時間の感覚は理解出来そうにもない。
「ファーガスがおしゃべりなんや。ワシらにあれこれ聞かせよったからな」
「ワシ〝ら〟って?」
エルストはアギの言葉の意味が掴めていない。
「王立魔法学園に入学した生徒に加工済みドラゴンを配布するのは、ファーガス理事長のお役目なのですよ」
先頭を歩くゴリが会話に加わった。
「そうなんだ。知らなかった……てっきり、父上が管理しているのかと思ってた」
「エルスト様。私、エルスト様に言いましたよ、ヨウ・ヨウの湧水洞で!」
すかさずベルが言った。しかしエルストにはおぼえがない。エルストは困惑した様子で首筋を掻く。
「え? い、言ったっけ……」
「もう! 聞いてなかったんですね」
ベルは怒った口調ではあるものの、本心から憤っているようではなさそうだ。
「生徒に配布するドラゴンの管理をしているのも、ファーガス理事長なのです」
ゴリがふたたび話を戻す。
「管理って、どこで? そんなところ、城にはないけど……学園の敷地内にあるの?」
「いえ。ファーガス理事長の胃袋の中です」
「胃袋の中?」
「はい。胃袋の中です」
ゴリは復唱した。
なんでも、ファーガスは自分の胃袋に大きな部屋を作り、そこに加工済みドラゴンたちを封じ込めているのだという。
とはいえファーガスの身長はエルストと同じくらいで、頭の先から尻尾までの長さを考慮しても胃袋は大きくはないだろう。とても部屋なんか作れないし、せいぜいアギが入ってやっとの大きさではないのかとエルストが問うと、ゴリ曰く、ファーガスの胃袋を加工した部屋なのだというではないか。広さは謁見の間と同じていどだという。エルストにはにわかには信じがたいが、学園内では周知のことらしい。
加工済みのドラゴンたちは全員、王立魔法学園に入学してきた魔法使いたちと専任契約を結ぶまでをそこで過ごす。逆を言えば、専任契約を結ばなければそこから出ることはないのだそうだ。
アギも長年そこにいたらしい。加工済みドラゴン同士、みんなと仲良くしていたのだ。
「旅に出る前、謁見の間で、何もないところからファーガス理事長が現れましたよね」
ベルがエルストに向けて言う。
「あれ、その部屋から出てきたんですよ」
「え? 謁見の間と繋がってるってこと?」
「ちゃうちゃう」
アギもベルと一緒になりエルストに教える。
「〝どこにでも繋がる〟んや。岩トカゲの中やったらな」
「よくわからないな……」
ベルとアギが言うには、王城や学園など、岩トカゲと連なっている範囲内であれば、その部屋はどこにでも現れるというのだ。ファーガスの意思によって出現するらしく、部屋への出入りもファーガスの意思に任される。たとえ〝何もない〟ところであっても、ファーガスの手にかかればいともたやすく扉が開かれる。ファーガスの魔法なのだそうだ。
魔法とは無縁のエルストには、今ひとつピンとこない。魔法だからと言って、文字どおり何もない空間から現れるなんて不可能ではないのか。エルストは下唇を噛みしめる。
「魔法って、やっぱりすごいよ……」
そしてしゅんとうつむいたのだった。
「なんなら、王都にお戻りになった際、実際に部屋に入れてもらえばよろしい」
ゴリが気を遣って言ったがあまり効果はなく、魔法が使えなくても入れるのかな、とエルストの気は晴れなかった。魔法使い、いや、人間はエルストに出来ないことをやってのけるのだ。
「はあ……」
エルストは深いため息をついた。
誓約の旅はまだまだ始まったばかりだというのに、なんだか疲れがからだじゅうに満ち溢れている。何を思うでもなく、ぼうっと宙を眺めている。
エルストの記憶どおり、宿屋は教会の隣にあった。
湖からは距離があり、村のはずれにひっそりと建っていた。宿屋は平屋で、宿屋は客室が二部屋、受付と食堂は同じ部屋という、決して広くはないものだった。王国領とドルミート領を往来する旅人も少ないらしく、非常にこじんまりとしている。
教会も王都のものほど大きくはない。当たり前といえば当たり前なのだが、ベンチが二列に三つずつ、ところ狭しと並んでいるだけで、過度な装飾もない。ベンチと礼壇の距離も近い。村人たちはここで儀式を行っているのだろうか。資材を運んでいたような男たちがここへ来るとなると、いささか窮屈なように思えて仕方ない。燭台はあるが、今は窓から注ぐ陽射しだけでじゅうぶん明るい。エルストは最前列のベンチに、猫背に座っている。陽射しの柱のなかに漂う埃がちらちらと輝いて見えた。
祭壇の頭上には石像が佇んでいる。長髪の男が胸もとにレイピアを掲げている石像だ。こればかりは王都の教会とも変わりないようだ。石像の人物は、王国の国教、オフルマズド教の神であるとともに、王国の初代国王でもあるオフルマズドである。口もとをかたく結んでおり、どこの石像を見たとしても、いずれも必ず表情は険しい。どことなく、父に似ているな、とエルストはつねづね思っている。
五百年に渡る王国の歴史のなかで、この石像の国王の血などとうに薄れているに違いないのだが。
「……黒い服の男に襲われた?」
教会前の外では、ベルとアギがゴリに先日の出来事を伝えていた。
先日の出来事とは、ヨウ・ヨウと別れた日の夜、エルストが黒い服の男に襲われた一件のことである。
「湧水洞で、そんなことが……」
ゴリは割れかけた、自らの大きい顎を撫でる。うっすらと髭が生えてきていた。
「ごっつ怪しいやろ? 山賊ふうでも、なかったし」
「そうだな。あの山に山賊が棲み着いている話は聞いたこともないし……」
教員歴の長いゴリは、王都はもちろんのこと、王国の領土についてもそれなりに知識を持ち合わせているらしい。
「特徴は?」
「せやから、黒い服の男やって」
「ほかに、だ。ほかに、その男の特徴はあるかと訊いているのだ」
「ほかに、かあ……」
ベルは腕を組んで記憶をたどる。
「……あ、そうだ。もしかしたら、その男のマント……加工済みドラゴンのマントだったかもしれません」
「何?」
顎を撫でるゴリの手が止まった。次に、両手を腰に当てた。腰まであるストールのドラゴンが二度瞬きをした。
「炎による捕縛魔法はたしかに命中したのに、炎はすぐに消えちゃったんです。まるでマントが男を守ったみたいに……」
ベルは簡単に説明した。
「そうか……わかった。このことは、俺のほうから、国王陛下にも知らせておく」
「お願いします、先生」
「俺個人の意見としては、旅は中止にして、エルスト様には王都に帰還していただきたいのだがな」
ゴリは小さくため息をこぼした。
「なんか、意味深な発言やな」
「そうか? エルスト様の御身の安全を考えれば、至極まともな意見だと思うが」
「……やっぱり、魔法使いなんですか?」
アギが〝意味深〟と言ったのは、ゴリの意見がこのことを含んでいるように聞こえたからだった。アギの代わりにベルが尋ねた。
「アギの炎が効かなかったのなら、その可能性はあるだろう」
ベルが魔法を使用する時は、つねにアギの魔力を借りている。アギは火属性のドラゴンであるため、生まれつき火炎による魔法が得意だ。そのため、ベルも火炎による魔法を使用することが多い。
その魔法から、黒い服の男は身を守ったのだ。なんらかの魔力が働いているとしか思えない。
「じゃ、学園の生徒か、卒業生ってことやん!」
「だから俺は頭が痛い」
アギの指摘に、ゴリが眉をぐっと寄せる。サングラスがわずかに上下し、こめかみには血管が浮き出ている。
「え……ちょっと待ってくださいよ。そしたら、エルスト様は学園の生徒に襲われたってことですか?」
ゴリと同じようにベルの声色は怒気をはらんでいる。
「どうして? 王族だよ? ……」
理解出来ない、といった表情だ。誰に文句をぶつけるでもなくひとりごちた。目はややうつむき加減だ。
「誰かの恨みでも買っとんかな」
アギはひとつの可能性を示した。
「いや、それはないだろう」
ゴリは断言する。
「エルスト様は知ってのとおり、謙虚なお方だし、そもそもあまり他人と接することを好まれない。式典以外のご公務も滅多にないし、常日頃から、執事としかお話しになられない」
「ん〜」
ベルは下唇をこれでもかというほど突き出す。考えあぐねているといったさまだ。そこで、アギがこんなことを言い出した。
「姉貴には嫌われとるって言いよったなあ」
「えっと……ミズリン様、だっけ」
ベルとアギはヨウ・ヨウの湧水洞でのエルストとの会話を思い出す。姉上は僕のことがお嫌いなようだから、と、エルストはたしかに言っていた。
「ミズリン様か」
王立魔法学園の教員であるゴリは当然、王女たるミズリンのことも知っている。
「それはないな」
そして、きっぱりと言い切った。
「ミズリン様はそんなことをするお方ではない」
「ミズリン様と仲良いんですか、ゴリ先生?」
「仲が良いと言うか……俺はマックス様にも、カーシー様にも、ミズリン様にも、そしてエルスト様にも、お三方が幼少のころから武術の稽古をつけさせていただいていた。お三方がそんなことをする性格ではないことくらい知っているさ。とくにミズリン様は一番剛直な性格でいらっしゃる。嫌いだからという理由なんかで、夜中に急襲するなど姑息な手段は使わないだろう」
「ちぇっ。イイ線やと思ったんやけどな……」
気分はすっかり名探偵である。しかしその名探偵の推理もあっけなくへし折られたアギは、舌を出して悔しがった。
「ともかく、旅を続ける以上、今おまえたちに出来ることはエルスト様を全力でお守りすることだ。頑張れよ」
「もちろんです!」
組んでいた腕をほどいたベルは、両手に拳を作ってポーズを決めた。それを見てひと安心したゴリは、そろそろ飯も炊けた頃だ、とベルに促す。
「エルスト様を呼んでこよ、アギ」
「おう」
ベルは教会の扉に手をかけた。
「ベル助けて!」
重い扉を開けた先で、すぐにエルストの悲鳴が上がった。
「エルスト様!」
ベルの声すら悲鳴に近かった。ベルとアギは喫驚する。教会にひとりでいたはずのエルストが、祭壇の正面で黒い服の男に捕らわれているのだ。相変わらず真っ黒な服から腕が伸び、エルストの背後から羽交い締めにしている。黒い服の男よりも小さなエルストはからだが浮いているものの、幸い自由の利く両足で黒い服の男を蹴ったりなど、抵抗はしてはいるのだが、黒い服の男はびくともしない。黒い服の男はただ無言で、エルストの肩越しにベルとアギを見つめている。
「ステイ!」
ベルが地を蹴り、その場で飛び上がる。するとベルの足もとにはいつの間にかホウキが現れていた。準備は万端だ。ホウキにまたがるでもなく、ベルはそのままホウキの柄に立つ。それを合図に、ホウキの羽から勢いよく炎が噴き出した。
炎の噴射によるスピードを手にしたホウキは、瞬く間に祭壇までの距離を詰めた。ベルはホウキの先端で、器用にも黒い服の男の顔面を打つ。黒い服の男を引っ掛けたホウキは、そのスピードを保ったままに石像を目がけて飛び込んだ。石像が倒壊したのは、それからすぐのことであった。
「エルスト様!」
ベルがもういちどエルストを呼ぶ。黒い服の男の顔面を打った瞬間、ベルはホウキから飛び降りていたのである。
石像が音を立てて崩れるなか、ベルはエルストの無事を確認する。
「大丈夫か、王子!」
アギも心配そうだ。
「う、うん……」
エルストは小さくうなずいた。無事のようだが、すっかり怯えきっている。からだが小刻みに震えているのがわかる。そんなエルストの背中をベルがさする。
一行の後ろで、石像の瓦礫から抜け出した黒い服の男がふたたび動き出していることに、一行は気付かない。
黒い服の男の左腕が、まるでレイピアのように鋭く尖っていることなど、なおさら知りもせずに。
「――貴様そこを動くな!」
黒い服の男を、激流が襲ったようだった。
右手で黒い服の男の喉もとを掴み、石像の台座へと押しつけたのはゴリだった。教会内の異変を察知したのだろう。
首を強い力で掴まれた黒い服の男は、たまらずに、苦しげに唾を吐いた。
「ラング!」
一秒たりとも待たずして、ゴリは首にかけていたストールを取り、それを瞬時に黒い服の男に巻きつけた。
「動こうとしても無駄じゃぞ。わしも頑丈なんじゃ」
ストールの端についているドラゴンの顔が余裕の表情を見せる。このドラゴンは老婆のような、老爺のような声だ。ドラゴンの皮膚からなるこのストールならば、並大抵のことでは解けないということだった。
やがてゴリが右手を離すと、黒い服の男は膝から崩れ落ちる。
しかしやるべきことは捕まえることだけではない。ゴリは乱暴に、黒い服の男が深々とかぶっているフードを取り外した。
「こいつは……」
ゴリのその声に、ベルとアギも、エルストも振り向く。
「……ソイツのこと、知っとんのか? ゴリ」
アギが尋ねた。
「知ってるも何も、こいつはこの村の、この教会の神父だ」
力なくうなだれる黒い服の男は、白髪を顎よりも下に伸ばし、鼻高で、つり目の中年男だった。ゴリが言うには、数年前からこの村に着任している神父だ、とのことである。
「し、神父? オフルマズド教の?」
うろたえたのはベルだった。犯人にしては、あまりに予想外すぎやしないか。これにはアギも驚いている。
「なんで神父が王子を襲うんや!」
知り合いなんか、というアギの問いに、エルストは首を横に振って否定する。会ったこともないそうだ。
「湧水洞の山麓でエルスト様を襲ったというのも、貴様のことで間違いはないか?」
ゴリはズボンのポケットに両手を入れ、威圧的に黒い服の男、オフルマズド教の神父に問い質した。すると神父は、細い唇の口角を上げるだけで、うん、とも、すん、とも答えない。
「……貴様の身柄は王都の牢に入れていただくこととしよう。拷問、たらふく覚悟しておけ」
王子を狙い、襲った罪は大きいだろう。ゴリの言葉は国王がやがて下す命とも相違ないに違いない。
ベルの手のひらのおかげで、エルストの震えも治まったようだった。ベルは安心したように微笑む。
「エルスト様、ごはん、出来ましたから。一緒に食べましょうね」
じつに十日ぶりの、ぞんぶんに満たされた寝食が待っている。
「その前に、ベル」
「はい?」
エルストを連れて宿屋へ向かうベルを、ゴリが呼び止めた。
「魔法による公共施設の破壊行為は立派なペナルティ対象だ」
ゴリは親指で、無惨にも倒壊した石像を、ずいっと指した。神父が寄りかかっている台座以外、跡形もなく崩れ落ちている。長髪だったはずのオフルマズドも、すっかり短髪になってしまっている。レイピアはもはやただの棒きれだ。よほどの衝撃だったのだろう。改めて見ると、すさまじい光景だ。さらに埃が舞っている。
「あ、ああ〜……」
へへへ、とベルは笑ってはいるものの、その笑顔は見事に引きつっている。頭上からはアギのため息が聴こえた。
「わかっているな?」
石像を倒壊させたのは、ほかでもないベルが操ったホウキである。この際、なんの言い訳も通じない。
「も、もちろんです。ゴリ先生!」
たはっ、とベルは笑い声を足した。後頭部に手を当てたのは、せめてもの慰めである。
「さっきの、ペナルティ対象って?」
アギが焼いてくれたチキンステーキをおともに、あたたかいライスを口に運ぶエルストは、手を休めて目の前のベルに尋ねた。
日はかたむいており、これが今日の夕食となる。宿屋の狭い食堂で、エルストとベルは膝を突き合わせて食事をしていた。アギはベルの頭の上で、うつらうつらと目をしばたかせている。黒い服の男が捕まり、アギも安心したようだ。
「えっと……」
ベルはナプキンで口もとを拭いた。食事はまだ途中だ。
「王立魔法学園の生徒や教員、卒業生の魔法使いはですね、魔法による反則行為をすると、王国の法による刑罰とは別個のペナルティが課せられまして」
「魔法による反則行為?」
「はい。たとえば……極端な話、魔法で人を殺したりだとか、魔法で人を洗脳したりだとか、魔法で公共施設を破壊したり……などです。あとは、期末テストでカンニングしたり、授業をサボり続けたり……一般市民への迷惑行為とかもペナルティ対象です」
「一般市民への迷惑行為……」
「魔法による騒音とか、魔法によるイタズラですね」
魔法が使えないエルストには縁のない話である。
「で……ここからが問題なんです!」
ベルの顔面が迫りくる。エルストはついつい仰け反った。
「反則行為をした者は、その等級によって多少の違いはあれど、ペナルティとして自分の魔力を提出しなければならないんです!」
「……どういうこと?」
ていねいな所作でチキンステーキを切り分けながら、エルストは首をかしげた。
「反則行為が大きければ大きいほど、そのぶんの魔力を提出しますし、たとえば授業を一限サボタージュすると三日分の魔力を提出する……といったふうに決まってるんです。それがペナルティです」
エルストのフォークがチキンステーキに突き刺さる。そこでエルストの手は止まった。眉間にシワを寄せ、なにやら考えをめぐらせているようだ。
「ええと……ちょっと待って。ヨウ・ヨウは魔力と寿命は比例するって言ってたよね。そして今のベルの話だと、魔力を提出しなければならないってことだから……ふたりの話を照らし合わせると、つまり、〝寿命を提出する〟ってことじゃないか」
「そういうことです」
姿勢を戻したベルはライスを頬張った。
「そ、そういうことですって、やけに冷静だなあ。もうちょっと慌てないの、ふつう?」
ベルの態度に違和感を抱いたエルストは戸惑う。反則行為とはいえ、黙って寿命を差し出せるものなのか。
「だいたい、どうやって魔力を提出するの?」
エルストの疑問はもっともだった。
「それも加工済みドラゴンを使うんです」
ベルが言うには、人体から魔力を抽出するために加工されたドラゴンがいるのだそうだ。魔力を抽出する際、その前後で魔力の計量を行い、その差量で抽出する魔力の量を調整するらしい。
「抽出された魔力はいったん、学園内のバンクに蓄積されて、一般市民の生活に利用されるんですよ」
これによって王都の水路の運用や緊急時の照灯、火災時の消火水などを確保しているということだった。提出した魔力は有効活用されているのだから、抵抗はあれど、異論はないそうだ。
魔力のないエルストには、どこか肩身の狭い話だった。たとえエルストが何か罪を犯したとしても、市民のために差し出し、活用できる魔力はないし、そうでなくとも自由に差し出せる魔力なんてない。魔法が使えなければ役に立ちもしない。これでは反則行為を犯す魔法使いのほうがよっぽど有能ではないか。エルストはつくづく己の不甲斐なさを知った。このステーキだって、ライスだって、すべては誰かの魔法なのだ。
エルストは胃袋のあたりが窮屈に思えてきたが、それでも旅の疲れからくる食欲のほうが勝る。それにまた、情けなくなる。しだいに腹の虫が鳴り始めた。エルストは、ペースを落としながらも、きちんと夕食を食べ終えたのだった。
明日からはまた継承の旅を再開する。今は〝旅をする〟という目的があることだけが救いのようにも思えた。