17 サード・エンダーズ(7)
「ベニーさん、お世話になります」
「いえいえ」
アドルーはベニーとサーシャによって応急処置が施され、止血したものの、貧血によって意識を失ってしまった。夫妻のベッドには王妃が眠り、ベルが使用していたベッドにはアドルーがそれぞれ眠っている。ふたりはサーシャの看病を受けている。アドルーの傷が深いことを、エルストは屋内に入って初めて知った。左目からの出血がおびただしい。ベルがアドルーの傷を止血しようとしたということも、ここに来て知った。アドルーに自分の魔力のことについて詰め寄っている場合ではなかったのだとエルストは自ら恥じる。
エルストとベル、アギは、ベニーとともにダイニングテーブルを囲んでいる。ランプの光が暖かい。ベニーが丸眼鏡の位置を整えた。
「何やらおおごとになっているようですが」
ベニーはエルストを見ている。
「ベル……どうして王妃様を連れてきたんだい?」
「それが……」
ベルはアギの帽子をテーブルに置いた。エルストを見やる。エルストは小さく頷いた。
「王妃様の体にはね、エルスト様の魔力が入ってるの」
「……なんと」
整えたはずのベニーの丸眼鏡がふたたび傾いた。
「しかもやで、パパ。王様はその王子の魔力を抽出しよーとしよったんや。利用するために!」
アギが吠えた。
「父は……」
エルストが切り出す。
「そのために母と結婚し、僕を産ませたんだそうです」
場の空気が凍りついた。本当に利用されるためだけに生まれてきたのか、と、ベルは隣に座るエルストを見る。エルストは表情を固めたままだった。ベルはわなわなと震え始める。
「人ひとりの魔力を確保しておきたかったわけでしょうかね」
ベニーは腕を組み、鼻から息を吐き出しながら背もたれに身を倒す。木製の椅子が軋んだ。傾いた丸眼鏡はそのままだ。
「私はですね」
ベニーが言う。
「私は、国王陛下を信用してはいないんですよ」
とつぜんの断言に、エルストは肩透かしをくらった。
「ど、どういうことですか? 父がベニーさんにも、何か?」
「いえ、私が、というわけではありません」
「パパ!」
会話を中断させたのはベルだった。
「ごめんなさい、その話は、今はしないで」
ベニーは眉を歪ませ、娘を見つめる。そしてまた息をついた。娘の意志を尊重するらしい。
「……とにかく、だから、国王陛下が今さら何にどんなことをしていようとも特に驚きはしませんが……ただ、エルスト殿下におこなってよいことをしたとは、とうてい思えませんね。それは親がすることではない」
「親やなかったらしてもええっちゅーことでもあらへんで」
「そのとおりだね、アギ、そのとおりだ」
ベニーは二度三度うなずきながら白髪まじりの頭を掻き、こう続けた。
「王妃様にとっても、されてよいことだとは思えない」
「でも、僕ひとりぶんの魔力って……そんなにすごいのかな?」
エルストがベルを見ながら言った。ベルの眉根が歪んでいるのは、エルストへの苛立ちではない。
「うーん……エルスト様は生まれてから一度も魔法を使っていないんだから、つまり、王妃様の中にあるエルスト様の魔力はすごく豊富だと思うんですよね」
「わざわざ王妃様の中に温存させておいたのも、エルスト様に魔法を使わせないため……魔力を豊富なまま……潤沢なままの状態で保存しておきたかったからでしょうしね」
ベニーがベルの言葉を補った。
「僕が魔法を使えなかったのは……父のせいなんですね」
現実を認識した、非常に重苦しい言葉は、暖色に包まれる部屋には不似合いだった。
魔法が使えたら、と思う瞬間は、いくらでもあった。生まれつき魔力がないのだから使えることはないのだと、もどかしくも諦めていた。だがここにきて、魔法が使えない仕組みを知ってしまった今、エルストは、父に対して憎しみや恨みに近しい感情を抱いてならない。
「父上は、王国の危機のためだって言ってたけど……」
エルストは膝の上でこぶしを握る。
「今日の火災のこと? サード・エンダーズのこと? ……わからない……」
ベルもアギも、ベニーも黙する。するとそこへアドルーと王妃のもとを往復していたサーシャが姿を現した。やや疲れた様子でダイニングテーブルの囲いに加わる。
「ダメだわ。あのアドルーって子はとうぜんだけれど、王妃様も、ちっとも目を開ける気配がないわ」
「魔法か何かだろうね」
「魔法? 誰かが魔法をかけて、王妃様を眠らせてるっていうの? そんなひどいことを、いったい誰がしているの?」
その〝誰か〟にサーシャを除く全員は見当がついたが、話の経緯を知らないサーシャは、ベニーから、一からの説明を受け驚愕する。
「んまあっ! それが本当なのなら、馬鹿にしてらっしゃるわ、国王陛下。子どもや配偶者をなんだと思ってらっしゃるのかしら!」
「ワシ王様にこんなふうにゆーたで、家畜のほうがもちょっと節操あるわッてな」
「そうよ、そのとおりよ、よく言ったわ、アギ」
「その家畜をこちらの都合で食べているのは我々人間なのだがね」
ベニーの一言によってサーシャとアギは沈黙した。こうなってはエルストも牛も豚も鶏もまったく同じであるらしい。
「まあ」
顔を落とすエルストに気づき、ベニーはようやく丸眼鏡の位置を整える。
「されたことにいちいち悩んでいてもしかたがありません。それよりかは、これからどうするかが、だいじなのではないでしょうか」
「これから?」
「ここから見るかぎり王都は火の海です。幸い、うちは被害はありませんが、いつ何が起こるかわかりません」
「パパとママは避難しないの?」
「どこへ? 家畜を連れて逃げられる、本当に安全な場所があるなら話は別だけどね、ベル」
「家畜を置いては逃げないんですか」
エルストに言われると、ベニーは、にっこりと微笑む。
「家畜がいないと、私たちは生活ができなくってですね」
テン夫妻は生きていくために家畜を育て商売をしているのだ。
父も、生きていくために自分や母を利用していたのだろうか。そうまでして生きていく理由が、父にはあるのだろうか。エルストの考えは尽きない。さっき、勢い任せに母を殺していたら、父の生きる手段を断ち切れていたのだろうか――自分は、父の手段を〝断ち切りたかった〟のだろうか。エルストは黒い感情の波が押し寄せてきたことに、思わず口を覆う。
だめだ。そんなこと、だめだ。人を殺すことはだめなのだ。だが、そうは言っても、自分の魔力を黙って差し出す気にはどうしてもなれない。ならば最善の方法はなんなのだろうか。自分ができる、納得する方法は。
「エルスト様……」
ベルがエルストに声をかける。
「エルスト様、どうしよう、とか思ってますか? 今」
「え?」
エルストは訊き返した。
「王様に利用されてたのに……これから、王様とどうしようとか、考えてるんじゃありません?」
「よくわかったね……」
「エルスト様のことですから」
ベルはぎこちなく笑う。
「でも、答えなんて出ていないんですよね?」
「うん……このまま黙って魔力を使われたくはないっていう気持ちがとても強いんだ。だからと言って、父上が僕の魔力を、どうしても使いたいんだとしたら……どうしたらいいんだろうかって」
ベルとアギは顔を見合わせ、きっぱりとこう言い切る。
「私たち、エルスト様が死ぬのはイヤですよ」
「せや。犬死にするこたあらへんで」
エルストは胸が苦しくなる。
「それは……しないけどさ。でも実際、王都は火事だし、じいがアドルーの目を刺すくらいだよ。ただごとじゃないと思うんだ」
「ただごとじゃなかったら……エルスト様は王様に優しくするんですか? 許すんですか? 今までのこと」
ベルが言った。責められている気がして、エルストは何も答えられなかった。
「逃げてもいいんじゃないでしょうか」
ベニーがこぼす。エルストとベルはベニーを見た。ベニーは指で丸眼鏡を押し上げながら続ける。
「いえ、逃げることも時には必要だと思っただけです」
「逃げるって……王都をほうっておくってことですか?」
「ええ。何かについて、どうにもしがたいと思った時は、私たちは逃げに逃げてきました。今も、それはけっして悪いことではなかったと考えています」
「どうしてですか?」
「どうしてって、それが保身のためですからね。自分の身を可愛がって何が悪いというのでしょう」
「自分の身を……可愛がる……」
エルストはセカンド・エンドの夢から逃げ出してきた時のことを思いついた。あれが自分の身を可愛がるということなのだろうか。ひどいことから目を背けることが、つまり自分を可愛がっているのだろうか。そうだとも思えた。
「だって、自分を可愛がっておかなければ、失ってしまうものも、あったと思うんですよ」
ベニーはそう締めくくった。
「エルスト様、逃げましょう」
父親の言葉に鼓舞されたのか、ベルが意を決した声で言った。
「逃げましょう!」
もう一度言った。
エルストはうつむく。逃げ出せばいいのかもしれない。だが、行くあてなど無いし、逃げたからといって、どうせ魔法が使えるようになるわけでもない。王都の火事がおさまるわけでもなければ、サード・エンダーズが帰ってくれるわけでもないだろう。アドルーと母もいる。自分たちが逃げたら、ふたりはどうなるのだろう。きっと父からの追っ手が来る。アドルーは殺されるかもしれない。それはよくないと思った。いつまでもベニーたちに迷惑をかけるわけにもいかない。ベルにとってだって、迷惑だ。ベルが、自分を気遣って言っていることくらい、エルストにはわかる。ベルはせっかく自分の宮廷魔法使いになってくれたのだ。逃亡の道なんて、選ばせてよいとは思えない。何より、この数ヶ月、ともに旅してきた時間を棒に振ることはしたくない。
「僕はもうセカンド・エンドから逃げ出してきた」
エルストはうつむいたまま言う。
「オフルマズド様から逃げてきた……父上からも……ひどい人間やひどい現実から……」
やがておもむろに顔を上げ、ベルとアギを見つめた。
「せっかく、ふたりがついてきてくれたのにね」
エルストは苦笑する。
「あの時、僕を部屋から連れ出してくれたのは、ベルとアギだったよね。今も王城から連れ出してくれたよね……すっごく感謝してる」
諦めがちだった自分を、魔法を使わずに連れ出してくれたのが、ベルとアギとの初対面だった。その時の記憶は鮮明に憶えている。
「精一杯感謝してる」
エルストはつくづくそう思う。ベルは複雑な心情をあらわすように顔を歪めた。
「僕、これからは逃げないようにする」
「エルスト様……」
それでいいのか、逃げなくてよいのかとベルとアギの目がエルストに訴えかける。エルストは頷く。
「ベニーさんありがとう。でも今は、逃げることは必要じゃなかったです」
エルストはそう結論づけた。意外にもエルストは笑顔である。今度はベニーが苦笑する番だった。
「だからベル、アギ、もう一回ついてきて。もう逃げないから!」
エルストは立ち上がった。




