17 サード・エンダーズ(4)
いや、はたしてエルストをよろめかせたのは地鳴りだったのだろうか。ベルは決して聞いてはいけないものを聞いた気がしてならない。
「エルスト様の……魔力? え、どういうこと? ……」
ベルはそう言いながらもエルストを支えたがっているが、エルストは呆然としており、ベルの手を取ろうとはしないまま床に座り込んでしまっている。
「王子の魔力が……そのオカンの体内に? そんなことが可能なんか?」
アギもベル同様、まったく意味を理解していない。
「ちょッ、王子、ダイジョブか? 気ぃ失ってへんよな? おい!」
「っていうか、いきなり地震きてる……」
ベルの言うとおり、王城はつい今しがたから不規則に揺れ始めている。それだけではなく、下階から届く爆音も不吉だ。ベルとアギは焦燥感に苛まれる。ふたりが焦りながら心配しているのはエルストだけだ。国王が場所を譲ったので、ベルはひとまず、エルストをソファーに座らせることにした。エルストは一切口を開かず、なされるがままにソファーへ腰を落とす。
母のそばに寄るのも何年ぶりなのだろう。ぐったりとしたエルストは静かに眠る母親の顔を見た。母親は金髪だが、瞳の色は知らない。
「僕の魔力? ……」
ようやくエルストが物を言った。ベルは心から安堵する。
「僕の魔力だって……ベル……アギ」
エルストは力いっぱいにベルの腕を掴んだ。驚いたベルがエルストの顔を見下ろすと、そこには、いっせいに表情を歪ませ、悲痛さを訴えかけるエルストがいた。危うかった均衡は今や動揺に傾ききってしまっている。ベルは息を飲む。
「僕の魔力!?」
ベルの腕を離したかと思うと、今度は両手で顔を覆い、うなだれた。声が震えている。ベルとアギは思わず国王を睨む。
「どーゆーこっちゃ。なんのために?」
「王国の危機を救うためだ」
国王は短く答えた。アギの、毛のないぶつぶつした眉は大きく歪められている。国王の返答が癪に触ったらしい。
「王子は知らへんかったんよなァ!?」
「だから、こうして今、言っている」
「遅すぎますよ! そうよ……だいたい、いつから!? いつからエルスト様の魔力が王妃様の中に!?」
「産まれた時からだ。エルストが」
「なッ……あー!」
アギは絶叫する。
「あー、なんやこの、うまく言葉にできひん怒り! ベル、かわりに文句言ったってやれ!」
「アギ、私もうまく言えない……言い表せないけど! でもムカムカする! すっごくムカムカする! 王様がダメなことをやってるってことだけはわかる!」
「せやせや! いくら王様かて許されへんこっちゃろ、子どもの……息子の……王子の……」
怒りの勢いだけが先走っているアギは己の言葉に混乱しながら言う。
「王子の魔力をオカンの体内に入れとった!? 産まれた時から温存しとる!? 王子の魔力は王子のモンやろがい! はよ返せや!」
「それはできぬ。エルストには本当にすまぬことをしていると思っている」
「態度と心に現れてへんがいなッ! 言葉とカオが、フ、ツ、リ、ア、イ!」
アギの舌はあと少し回る。
「そもそも謝って許されるこっちゃあらへんやろ! 家畜のがモちょっと節操あるで! ……王子。なあ、王子〜」
ベルとアギの視界に映るのは生気を失ったエルストの姿だ。うつむいたまま、ぴくりともしない。
「だって、それって……」
ベルが何か言いかける。何かしらに察しがついたことは明らかだが、すべて言うべきなのか、言ってよいのかを迷っている様子だ。
そのうち、つかつかと歩く足音が聞こえてきた。急ぎ足だ。ヒールのある、女性が嗜む靴音のようにベルは思った。その音を聞き、国王はためらいもなく部屋の扉を開ける。
「……陛下!」
その声にベルとアギは聞き覚えがあった。
「陛下、学園が……」
「マジョルダ先生?」
「……あらぁ、ベルちゃんたちもいたわねン。てことは、エルスト様ももういらっしゃる?」
その人物とは、魔力バンクキーパー、マジョルダであった。
「……よろしいですか、陛下、もしかしてまだお取り込み中でしょうか?」
「構わん。入れ」
マジョルダは一礼して入室した。
「学園がどうした」
国王がマジョルダにたずねた。
「は。それが……つい先ほど、サード・エンダーズと思わしき侵入者が現れて……校舎をことごとく……今は王城に移動した模様ですが……」
「サード・エンダーズなら、アドルーちゃうんか?」
「違うみたいよン、アギちゃん。私もチラッと見たけれど……あれはどう見ても〝ドラゴン〟だったわ」
「ド、ドラゴン? どういうこと?」
ベルとアギは困惑する。
「とうとう事も重大になってきたというわけか。これは必要性を増してきたな」
国王はエルストを見た。
「ダメ! 王様!」
ベルの声色もいよいよ真剣である。マジョルダの出現によってベルとアギが揃って嫌な予感を抱いたことを、マジョルダと国王が気づいたわけでもなさそうだ。ベルは本能に従い、エルストを庇うように立つ。
「それはダメです」
「せや。何がなんでも阻止すんで!」
気が気でないというのがベルの本音なのだが、エルストが〝こう〟である手前、ベルだけはなんとしてでも正気を保っていなければならないとベル自身さとる。アギは舌は回るが、自力では動けないのだ。エルストを〝守れる〟のは自分だけなのだと心に言い聞かせている。
「〝そんなこと〟、私、許しませんよ」
ベルの予想は当たろうとしている。
「誰が宮廷魔法使いごときの許しを得なければならぬと決めた?」
「エルスト様はあなたの子どもなんですよ」
「そうだ。国王である私の子どもだ」
おかしい。子どもとはもっと愛されるべきではないのか。少なくとも、ベルはそのように扱われて育ってきた。だが国王からはエルストへの愛情を微塵たりとも感じられないのだ。ベルは胸が締めつけられる思いだ。
「……マジョルダ先生、やめてください」
「やめてって……何を?」
マジョルダはわざとらしく肩をすくめる。すべてわかっているくせに、とベルは睨む。
「〝エルスト様の魔力を抽出すること〟!」
そう、それが国王の狙いなのだ。
ベルは両腕を広げてエルストを守ろうとしている。マジョルダは帽子から加工済みドラゴンを取り出しながら溜め息をついた。
そのとおりだった。絶対に的中してほしくなかった予想であった。マジョルダは、いや、国王はやはり、ベルが何度も経験してきた〝ペナルティ〟を、エルストに向けておこなおうとしているのだ。
エルストはベルのうしろでわずかに顔を上げた。ロウソクに照らされるアギのマントだけがエルストの視界を占領する。
「残念だけどね、ベルちゃん、こればっかりは……私たちはこの王国の魔法使いで、エルスト様は王子様なのよ。国王陛下のご命令には従わなくっちゃイケナイじゃない」
「命令だったら……王様だったら命を利用していいんですか?」
マジョルダと国王は押し黙る。どこか哀れむような目でベルを見つめているのは、アギの気のせいだろうか。
「王様はエルスト様の魔力を利用しようとしているんですよね?」
ベルは国王に言っている。そして、もう、すべて言ってしまえと踏み切る。
「それに、〝そのため〟に産まれたんですよね、エルスト様は?」
エルストの肩がぴくりと上下した。国王がすぐに否定しないことが、ベルにはとても腹立たしい。
「考えただけでおぞましいわ。こーゆーの、アトウッドの夢でも見た気がするで」
アギの言うとおりだ。
「王様……エルスト様はあなたの息子なのに……王様は……」
ベルは涙を滲ませる。
「オフルマズド様みたいなことをしているってことですよね!? エルスト様でッ!」
ベルが杖を取り出したよりも先に、国王自らレイピアを振るい魔法を使った。
突如アギのマントが消えた。正確には、マントだけではなく、ベルとアギそのものがエルストの視界から消えたのだった。ベルが放っていたらしい火花の残骸が宙に舞う。
「ベル、アギ?」
音もなかった。火花が床に落ちて消滅した。エルストは部屋の中を見回すが、ベルとアギは部屋のどこにもいない。燭台の炎が激しく揺れているばかりだ。エルストは唐突な孤独感に襲われた。よってそれは絶望感に変貌する。ベルの言葉は聞いていた。マジョルダは自分の魔力を抽出しようとしているのだと、エルストは、近づいてくるマジョルダを見上げながら痛感する。
「い……いやだ」
エルストは腕を交差させ、意味を成すかは知らないが、とにかく体を守るように身構える。
「父上……」
部屋の片隅に国王はいる。
「僕を殺すんですか? ……」
国王は何も言わない。エルストには、その無言は父に頷かれているように思えてしかたなかった。やがて国王はおもむろに口を開く。
「おまえの魔力は王国の危機のためにあるのだ」
「危機って……危機って何? 僕は本当に、そのためだけに産まれたんですか? ……」
なんてひどい人間なんだろう。まるでオフルマズド様だ、エルストがそう考えるうちに膝が震え始めた。立てそうにはない。
いや、立たなくてはいけない! ここで死ぬという未来こそに、エルストは強く背中を叩かれた気がした。サンゴルドの町で女に刃を向けた感情と酷似している。死にたくない。理由などはわからないが、わからなくとも、ここでなんか死にたくないという欲望が湧き出していることは嘘ではないと自信をもって言える。そして、ベルとアギが、消える瞬間までこの自分を守ろうとしていたことを忘れてはいけない。
「やめろ! マジョルダ!」
エルストに命令され、マジョルダは思わず足を止めた。マジョルダが知るかぎり気弱だったエルストからは想像もつかない、じつに強い口調であったことにひどく驚かされたからだった。
ベル、アギ、助けてくれ。だが、エルストがいくら懇願しようとも、ここにふたりはいない。ふたりがいなくなったのは国王の魔法であろうと想像はついたが、いざ自分に魔法を使われた場合、エルストは抗うすべを知らない。魔力は王妃の体内にあるという話だ。そもそも前提を覆して魔力がエルストの体内にあったとしても、魔法をどのようにして使うのか、エルストは学ぶ機会を一切与えられなかったのだ。ならば、自分にできることはなんだろう。エルストは考える。
「僕の魔力を抽出しようとするのなら、僕は今すぐ母上を殺します!」
エルスト自身、驚きの行動であった。エルストはブラウンによる刻印が施されたナイフを王妃の胸もとに突き立てたのだった。もちろん刺してはいない。だが、刺す気はあるのだと、国王とマジョルダに見せつけている。
「母上が死ねば僕も死ぬ。つまり僕の魔力も尽きるってことでしょう?」
「意外だな。おまえがそのような脅しの行動に出ようとは」
「僕はすでに、ひとり、人を殺している……父上の知らないところで。こうなったら、ひとりもふたりも、変わらないですよね?」
「だが母親を殺せるのか?」
「あなたは息子を殺そうとしているじゃありませんか」
「そうだな」
ひどい人間だ。ひどい現実だ。気を確かにしていたいのに、願望とは裏腹にエルストの瞳からはぼたぼたと涙がこぼれ落ちる。父もオフルマズドも一緒じゃないか。涙と動揺のせいで、父の顔が、幼い頃から拝んできたオフルマズドの石像と重なって見える。ふたりとも、王国のためだと大層に言いながら、己の妻と子どもに残酷なおこないをする。そしてエルストはオフルマズドのおこないを目の当たりにして逃げ出してきた。どうせ夢だと言い捨て、逃げてきた。
これこそ夢であってほしい。自分が一番可哀想だなんてことはさらさら思わないが、エルストは、自分は今、いや、十七年間ずっと、非道なことをされてきたのだと感じ得る。己の魔力が存在していることに喜ぶ気力もない。
「母上は……知っておられるのですか?」
オフルマズドの妻アエラはすべてをわかり、オフルマズドのためにイオンに身を差し出していた。ならばこの、となりで眠る母はどうなのだろう。エルストは気になった。
「母上は、僕の魔力を体内に温存していること……ご存じなのですか?」
「そのために結婚した」
エルストは片手で口を覆った。嗚咽の波が喉まで到来した。ひとつ小さく咳をする。
「すべて理解したうえで、そのためだけに、エレクトラはおまえを身ごもった」
「〝身ごもらせた〟んじゃないですかッ!」
「言い方を変えたところで現実は同じだ」
「あなたという人はッ……」
「出産にともない、エルストの魔力だけを自分の体と連動させ、エレクトラ自身はなるべく魔力を消耗しないように、そうやって常時眠りについた」
「あなたは人として最低なことをしているとはお考えにならないのですか!?」
「殺人を犯したおまえが何を言うのだ」
「それは……」
「〝人として最低なこと〟か。それは一体なんなのだろうな。大勢の人が住む街に火を放つこと……人々が避難した建物を破壊すること……脱獄して城内の使用人たちを手にかけること……神父の両足を斬り落とすこと……候補ならたくさんある」
エルストには決めることができなかった。決めることができない自分が未熟だと感じ、ひたすらに悔しく、必死に、何が正しいのかを考えている。
「マジョルダ。エレクトラから魔力を抽出せよ」
マジョルダは国王を一瞥した。よろしいのですか、と言いかけたが、ここでエルストに情けをかけても意味がないと判断し、全身を震わせながら涙を垂らすエルストと眠る王妃に歩み寄る。
「〝正しきのために強くあれ〟。サード・エンダーズが襲ってきた今、おまえの魔力を使うことが我々にとって正解なのだ」
マジョルダの片手がエルストのナイフを握る腕を掴み、もう片手は抽出用の加工済みドラゴンの針を王妃の首筋に突き刺すべく動いた。




