16 異変
自分の肉体に帰還するということが、夢から醒めることとひどく近しい感覚であることを、エルストは初めて知った。
そこでひとつ感じたのが、体の火照りと、脂汗が滲み出る気配であった。
そして、すぐに、背中に伝わるドラゴンの皮膚の感触と、アトウッドのしわがれた声と、ウォーベックマンの動揺した声で、“戻ったこと”が現実であると思い知らされる。
しかし何より強烈だったのは、今までに耳にしたことも、目にしたこともない、ベルの異様な発狂だった。
「うああああああああああああああッ!」
はじめは、これがベルの発している叫び声であると、瞬時には判断できなかった。だがアギの困惑した言葉と、ウォーベックマンが近寄ってくるや否や体を揺さぶりかけてきながら、どうしたんだよ、と尋ねてきたことにより、ようやく“ベルの何かがおかしい”とエルストは気付くことができたのである。
「ベル! 落ち着けぇや!」
アギはほとんど泣いていると言っても過言ではなかった。むろん加工された肉体で涙など出てくるはずもないが、アギのベルに語りかける声は、見えない涙を孕ませていた。見れば、アギはベルの頭上から投げ落とされて、アトウッドの皮膚と岩壁の隙間に挟まっている。アギの目には、じたばたと暴れ狂うベルの様子は、見えていそうにもない。
「ウォーベックマン、これはいったい?」
エルストはウォーベックマンに尋ね返した。
「おれに訊くなよ!」
ウォーベックマンは頼りなさげに答える。
「君とほぼ同時に目覚めたみたいだと思ったら、すでに発狂し始めていたんだ……」
「イヤだ! やだ! うあああああッ! やめてよッ! またっ……ああああああああ!」
ウォーベックマンの頼りない声はすぐにベルの奇声に掻き消された。
「ベル。ベル!」
エルストが呼びかけても反応しない。アトウッドの体面に這いつくばって、両拳をアトウッドに叩きつけている。涙もぼろぼろと流れているようだ。
「やめてェーッ!」
「ちょ、ベル! さすがにそんなに取り乱すなや! 王子! 王子も気ィついとんやろ! なんか、ベルがすさまじく暴れとるっぽいけど、ここは王子がナンとかしたってーや!」
「なんとかって言われてもっ……」
「ウウウウウッ」
ベルはアトウッドを殴ることをやめたかと思うと、今度は両手で自分自身の体を搔きむしり始めた。力加減はしていないように見える。
「アトウッド! あの、あなたは何かわかりますか、これ?」
エルストは成すすべなく巨体の持ち主アトウッドに尋ねた。
「いや……わしにも、さっぱりだ……」
アトウッドも困っている様子である。両手はないが、お手上げといった表情だ。
「おれ……勘弁だぜ。女の子のあやしかたなんて知らねえや」
ウォーベックマンはそそくさとアトウッドの顔のそばに避難した。そのため、ベルをなだめる役目はエルストに託されたのだが、エルストだって“あやしかた”なんて知らない。あやしかた――セカンド・エンドの時代で、エルストがこのベルのように取り乱した時は、オフルマズドの言葉によってなだめられた。だが、ベルに何かを語りかけるとするなら、なんと言えばよいのか。エルストはベルが発狂した原因について必死に考える。
「ベル……ベル? ベル……怖かったの?」
「ううっ……」
「アエラ様の中で……怖い目に遭ったの?」
ベルとアギが、本当にエルストと同じ夢を見ていたのなら、きっとその夢の中に原因があるはずだ。そして、おそらくは、アエラの視点で目にした、イオンとの出来事なのではないかとエルストは考えた。
ベルは血が滲むほど首もとを掻きむしっている。すでに何本もの赤い線が走っている。けれども、ちっとも冷静になる気配はない。
「ベル……」
「イヤだ! ホントに、やだ! やだあ!」
次にエルストがベルの頭を撫でようとすると、すぐにベル自身によって撥ね除けられた。エルストの右手がむなしく宙に舞う。やがてゆっくりと、エルスト自身の意志で下ろされた。
ベルに初めて“拒絶”されたことに、エルストは大きなショックを受けたが、いま気に病めるような暇はない。とにかく、ベルがこれ以上自分の体を傷つけてしまわないうちに、ベルの手を抑えこめなければならない使命がエルストには芽生えていたのだ。
しだいにエルストとベルは乱闘を始めた。
だが、エルストは何もベルに乱暴をしようというつもりはない。エルストがベルの両手を抑えようとし、ベルはエルストの手から逃れようともがくうちに、ふたりがともにおこなう動きは乱闘のように発展していったのである。力の差は、エルストが遠慮がちであることが災いし、ベルが上回っている。今、へたに出ても、エルストがベルを傷つけかねないからだ。
こういう時こそ魔法が使えれば、とエルストは切に願った。オフルマズドだったら、すぐにベルの胴体に白ヘビを巻きつけるだろうに、と。だが、今のエルストは、オフルマズドではない。
「やだ!」
「何がそんなにイヤなんだよっ!」
エルストは、アエラはよほどひどい体験をしたのだろうと推測する。
「僕だって、イヤだったよ! だからこの時代に戻ってきたんだ! “やめた”じゃないか!」
「ううっ……う〜!」
すると、ベルが、うめきながら右手の拳をエルストに向かって突き出した。
「カウィ!」
「うわあ!」
次の瞬間、エルストは腹部を強打され、その勢いあまってアトウッドの顔へと吹き飛ばされた。魔法だ。ベルに魔法を使われて殴り飛ばされたのだと、エルストは痛みに背中を丸めながら理解した。
「オイオイ……やりすぎじゃないのか」
ウォーベックマンがアトウッドの陰に隠れたまま、腹に手を当てているエルストの安否を視認し、その視線をずらしてベルを見た。ベルは、エルストを攻撃してようやく、正気というものを取り戻し始めたようだ。目を見開き、エルストを凝視している。その表情から察するに、頭が真っ白になってそうだな、とウォーベックマンは思った。
「大丈夫かい、エルスト?」
ウォーベックマンが一応といったように声をかけた。エルストは黙っている。よほど痛いのか、ああ、たしかに痛そうだな、とウォーベックマンは他人事のように思う。
「え……ベル、急に静かになりよったけど、もしかして、気絶とかしてへんよな?」
「いや……この場合、気絶しそうなのはエルストのほうだと思うよ」
「ゲホッ! ゲホッ」
「……気絶はしちゃいないか」
ベルはうつむいた。そして、思いっきり頭を掻きむしる。エルストは嘔吐まじりの咳を重ねている。アギは、なんや、なんや、としきりに言っている。
異様な光景だ。ウォーベックマンとアトウッドは困惑しつつも事態のなりゆきを見守る。この場できっと第三者であろうウォーベックマンとアトウッドはふたりに手出しをしてはいけないと思ったし、なにより、ベルが“こうなった”理由が、ウォーベックマンとアトウッドにはエルスト以上に不透明なのだ。
それにしても、別人のようだ。ベルとアギ以外の者が、ベルに対してそう思った。
「おっ」
エルストがふたたびベルに近づき始めたことにウォーベックマンとアトウッドは気づいた。ベルがうずくまり、またしても力任せにアトウッドの皮膚を殴り始めた。
「ベル……もうやめて」
エルストが力なく言う。
「それはアトウッドの体だ」
「うう……」
アトウッドは、わしのことは気にするな、と言ってくれたが、エルストの気は済まない。
「いったいどうしたの? アエラ様の中で、そんなにつらい思いをしたの?」
「ドラゴンがっ……」
この時はじめてベルがまともそうな言葉を言った。エルストは待ちかねていた。
「イオンのこと?」
だが、そのほかに、何も言おうとしない。漠然とアトウッドを叩くだけだ。
エルストがベルから離れた。向かう先はアギが挟まっている場所であった。
エルストは、アギを掴み上げると、そのままベルのところへ運んでいく。アギは、ベルの変わり果てたありさまを見て、心の底から悲しそうな顔をした。
エルストはアギをベルの頭にかぶせてやった。
「ううっ……アギぃ……」
「ベル〜っ、そんなに肌が赤くなりよって〜! ばかちん!」
ふたりとも涙声だ。エルストは少し笑ってしまった。アギが乗ったベルの姿に、自分がこんなにも安心するとは、本当に意外だったからである。夢から覚めてきたのだと、改めて実感する。
「ダイジョブか?」
「私……」
「ゆっくりでエエんやで。ゆっくり深呼吸しぃや」
「うん……」
ベルは鼻水をすすっている。その後、大きく深呼吸した。
「エルスト様ぁ……」
「うん」
エルストは微笑みながらアギの頭を撫でた。
「ごめんなさい……私、しちゃいけないこと、しました……魔法でエルスト様を傷つけた……」
「うん。……いいよ」
それは自然と口を割って出た答えだった。エルスト自身、内心驚くほどだった。
「い、いいの? ……ううん……よくないですよ。私、魔法で傷つけたんですよ……魔法で……これって、許されないことですよ……」
「うん……そうだと思う……きっと。でも……謝ってくれたから、なんか……いいや。ベルだったから、許せる気がするんだ。へへ」
エルストは照れたように笑う。
「……あ、でも、けっこう痛かったから、できるなら、もうしないでほしいな……アトウッドにも」
「ぜッたい、しません!」
「うん。それなら、大丈夫。もう大丈夫」
「……エルスト様ぁーッ。うええええええ〜っ。もう、ぜっだい、じまぜんッ!」
ベルは泣きわめきながら、勢いよくエルストに抱きついた。エルストは、ベルの頭上から転げ落ちそうになったアギを押さえてやった。
「はあ、落着……したか? したよな」
ウォーベックマンはアトウッドの顔の陰から身を乗り出した。
「人間は本当に、ころころ表情が変わるものよのお」
アトウッドは呆れがちの声をウォーベックマンにも向ける。
「だが、おぬしは少しくらい、あの者たちを見習ってもよいのじゃないか」
「おれは……やだよ。いまさら」
ウォーベックマンはアトウッドの顔のそばから離れ、エルストたちの近くに寄った。軽い足取りだった。
「で、誓約の旅ってのは、終えたのかい」
アトウッドの巨体の上で、三人の人間が膝を突き合わせる。
「あ、えっと……それが」
ベルが未だ左肩に縋りついているエルストは、ウォーベックマンと、それからアトウッドを気まずそうに見る。
「僕たち……途中で戻ってきちゃいました。アトウッド、これって……不合格ですよね? オフルマズド様は、僕たちに誓約の旅の成功は与えないとおっしゃっていましたから……」
「ふむ。そうだな、前例はないし……つまりそなたらは、セカンド・エンドのすべて……終わりまで、目にしていないということだろう」
「ええ」
「ならば、おそらく、旅は……」
アトウッドの言葉を、急に遮る者が現れた。エルストは瞠目した。ベルとアギもまた、声をなくしている。青い魔法陣が宙に出現し、その輪から、ひとりの女性が舞い降りたからである。
「……誰だい」
ウォーベックマンは知らない女性だった。色素が薄い髪をうしろでまとめ、上品なドレスを着用している女性だ。
「……お義姉様?」
エルストは、そんなばかな、といった目で女性を見上げる。
「おねえ……さま? エルスト様の、おねえさま? え、もうひとり?」
ベルは首をかしげる。鼻水はおさまったようだ。そんなベルに、エルストがこう告げる。
「マックス兄様の奥さんなんだよ。王太子妃ってこと。だから、僕の義姉。で、マックス兄様の……宮廷魔法使い」
「きゅー、てー……ええっ! 私と一緒!」
「おッ、オトナな宮廷魔法使いー! は、破格の色香ーっ!」
ベルとアギはエルストと女性を交互に見た。ベルとアギほどではないにしろ、驚きを隠せないエルストだが、一方で女性は何やらただならぬ空気を漂わせている。そういった“王族”を、ウォーベックマンは一歩退いたところで傍観している。
「エルスト」
女性は魔法陣の展開を維持しながら言う。
「至急、王都へ」
「えっ?」
「城が襲撃されています」
王太子妃は、王都で勃発した緊急事態に、義弟を連れ戻すために転移してきたのだった。




