15 セカンド・エンド(9)
オフルマズドは窓辺に立ち、腕を伸ばし、空にいるはずのイオンを呼んだのだが、もしかするとイオンはずっとそばに待っていたのだろうか。ともかくエルストは、すぐに目の前にあらわれ、羽ばたきを続けるイオンの瞳を見つめながら、“ドラゴンの子どもを産む”ということがどういった意味なのかと、ひとりで考えていた。いくら考えたところで、答えがくっきりと縁取られるわけではなかったが。
「お呼びですか、オフルマズド様」
「うん……」
オフルマズドは頬を掻きながら頷いた。エルストが痛みを感じても、オフルマズドはまだ、爪で己の顔を傷つける。
「すごくだいじな話があるんだ」
そしてオフルマズドとエルストの視界にアエラの後ろ頭が登場する。アエラは、イオンが翼を動かすことによって起こる風からエイブラハムを守っているようだった。一切こちらを振り向かない。
「空中庭園で待っていてくれ。ぼくらも、すぐに行くから」
「はい」
イオンはオフルマズドに従って上空へと飛び立っていった。それとほぼ同時に、アエラがエイブラハムを抱えたまま立ち上がった。
オフルマズドがアエラとエイブラハムを連れだって空中庭園へ行くと、殺風景な石畳の上に、イオンが心地よさげに羽を休めていた。岩トカゲの無骨な肌を背景に、白く輝くイオンの皮膚がとてもまぶしい。
いくら誓約の旅が何度もおこなわれているとはいえイオンは何も知らないのだろうと考えれば、エルストには、イオンの白い体が無垢なかたまりに見えた。
いや、待ってほしい。エルストは至って重大な現実の片隅に指先をかすめた気分になった。だが、その真相がなんなのか、考え始めるより先に、オフルマズドとアエラ、エイブラハムは、イオンのとなりにたどり着いていた。
「イオン。じつは君に、頼みがあるんだ」
「はい、オフルマズド様。なんなりと承ります」
「君に……」
いまさら何を遠慮しようとしてるんだ、一体なんなんだ、とエルストはオフルマズドに苛立っている。
「アエラに、君の子どもを産ませてやってほしい」
「そんな!」
そう言ったのはエルストだった。
「ドラゴンの子どもって……そういうことだったんですかッ」
エルストが愕然としようとも、オフルマズドの行動は変わらない。来た道を引き返そうとしても、オフルマズドの足は絶対に動かなかった。
イオンはゆっくりとアエラに目をやった。
「このイオンに、アエラ様と交われということですね」
イオンの青年のような声には、悲しみであるとか、怒りであるとか、驚きであるとかいった心における波風などが立った様子はない。
「イオンはオスで……アエラは女性だ。ドラゴンと人間の交配なんて、前例はないけれど……可能なら、ドラゴンの……そう、ぼくは、ドラゴンの魔力が欲しい」
「アエラ様さえ良いのなら、イオンは、オフルマズド様のおっしゃるとおりに」
「ありがとう……」
オフルマズドとイオンの会話が途絶えると、アエラがしずかに前に出た。腕の中のエイブラハムを、極上の宝物であるかのように、そっとオフルマズドの腕に渡す。
その折、イオンがオフルマズドに向かってこう言った。
「イオンは、オフルマズド様ほど、すごくおぞましい人間を見たことがありません」
唯一の抵抗であった。冷徹であった。
オフルマズドはエイブラハムを抱いたまま、まったく振り返ることなく、空中庭園をあとにした。
「オフルマズド様……オフルマズド様!」
エルストは懸命に呼びかける。
「これがあなたのお考えなのですか!? 人間からドラゴンを産ませる……しかも、よりによってアエラ様に……アエラ様はあなたの妻なのに! エイブラハム様を産んだばかりなのに! ……人間なのに!」
文句ならいくらでも出てきた。しかし、そのどれもに、オフルマズドは反論しようとしなかった。
「意味がわからない……ドラゴンと人間……イオンとアエラ様の交配なんて意味がわからない!」
「少し静かにしてくれよ! ただでさえ緊張してるんだ」
「緊張……緊張!? あなたは何もしていない! あなたは何もしていないッ! これじゃあイオンとアエラ様が可哀想だ! もういやだ……こんな残酷なこと! アエラ様の中にはベルとアギもいる……ふたりだって、可哀想だ! そんな……あまりにも……そんな非道なことを、ふたりは目にしているんですか? ……」
ベルとアギが何も感じないほど鈍感ではないだろうと、エルストはふたりのことを、そう認識しているつもりだ。
「もう、僕たちを元の時代に戻してください!」
「逃げるのかい」
「あなたがこんなにひどい人なのなら、もう逃げたい!」
「ひどい人間から、ひどい現実から逃げるのか!?」
「これはどうせ夢だ!」
「どうせ! “どうせ”!?」
オフルマズドの腕はわなわなと震えている。エイブラハムが泣き出さないのが不思議なくらいだ。
「……わかったよ」
オフルマズドは渾身の怒りを込めた声で言った。
「え?」
「戻ることがお望みなんだろ。君たちの時代に。いいさ……君の気持ちはわかった。この魔法を解く。解いてやるよ!」
エルストとオフルマズド、どちらが流したいと思った涙なのかわからないが、このふたりは、頬をつたう涙の熱を、同時に感じている。
「世界一の腰抜け王子、臆病王子、エルスト・エレクトラ・エン。君に……誓約の旅の終わりは与えない……」
エルストの視界は、腕の中のエイブラハム越しに、足もとに白い魔法陣が展開するのを捉えた。
それが“セカンド・エンド”とオフルマズドとの別れであったことを、エルストは、自分の肉体に帰還したあとに理解した。




