15 セカンド・エンド(4)
オフルマズドはひとり騎士団本部のバルコニーに立ち、イオンとたわむれていた。
あれから三日間に渡り、オフルマズドは湧水洞で捕らえたドルミート兵から取り調べをおこなっている。三日目の午前、本日一番の取り調べの前に、オフルマズドはイオンに会っているのだった。イオンはバルコニーの柵に器用に乗っている。飛ぶ気はないらしく、翼はたたんでいる。
バルコニーには、今日も金槌の音が聴こえてくる。オフルマズドいわく、騎士団本部の補修工事がおこなわれているのだそうだ。
エルストが驚いたのは、工事現場に赴いたオフルマズドに、かつてエルストたちがブラウン火山で出会ったチ・ビが敬礼をしてきたことである。あの独特の口調と、小柄な体格も、彼がドラゴンの加工職人のチ・ビだと裏付ける特徴だった。しかし、エルストが知っているチ・ビよりは、うんと若く見えた。エルストは500年前のチ・ビに会ったのである。チ・ビは一族の中でもとくに長生きなのだ。
「オフルマズド様。ドラゴンって、お腹空かないんですか?」
バルコニーにて、エルストは以前アギが言っていた、ドラゴンはお腹が空かないという話を思い出していた。オフルマズドは両手にビスケットを持っている。空中庭園で摘んだハーブを練り込んで焼いたものらしい。
「空腹に悩むことはない。だけど、何も食べないわけではないよ。ほら」
オフルマズドはビスケットをイオンの口に入れてやった。イオンは肌の色とそう変わらない白い牙であっという間に噛み砕く。
「スパイスが効きすぎていますね。舌がぴりぴりします」
イオンはビスケットの感想を述べた。
「本当かい? ……あ、ほんとだ」
エルストの味覚にも刺激が伝わってくる。オフルマズドがビスケットを食べたのだ。
「イオンは、甘いビスケットが好みです」
「そうだったね、イオン。今日のは君には合わない」
「いえ、珍しいものを食べさせていただきました。おもしろいですね、人間の料理というのは」
両手が空いたので、オフルマズドはイオンの首筋をめいっぱい撫でた。イオンのことが愛しいのだと、オフルマズドの熱情のようなものが、エルストの意識にも混ざってくる。それはオフルマズドの全身を支配していた。そして、エルストのすべての感覚までもを温かくしていく。イオンに抱きしめ返されたわけでもないのに不思議だ。さては、これが愛情というものなのか、と、エルストは初めて、それらしき感覚に触れた。ああ、本当にあたたかい。
額をイオンの首に近づける。干したてのシーツの匂いに似たかおりがオフルマズドの鼻孔を突き抜けた。
「また高いところを飛んできたんだね」
オフルマズドの声の、なんと優しいことか。オフルマズドはまぶたを閉じた。エルストの視界に暗闇が訪れる。
「雲の上はよいです。いつも晴れています」
イオンの声も穏やかだ。耳だけに聴こえてくるはずなのに、イオンの青年のような声は、オフルマズドの体中、エルストの体中を包み込むようだ。
「エイブラハム王子はお元気ですか?」
「アエラの腕の中で、いつもすやすや眠っている。ぼくも一緒になって眠りたいよ」
「イオンは、いつか、エイブラハム王子を乗せて空を飛ぶ時が待ち遠しいです。オフルマズド様をそうしてきたように」
「ぼくが子どもの頃、うっかり落ちたところを、イオンが口でくわえて助けてくれたよね。歯型、今でも残ってるよ」
「オフルマズド様が小さい時でよかったです。ご立派に成長なされた今のオフルマズド様は、とても重たそうですから」
オフルマズドはおかしそうに笑い転げた。
「誰かを乗せて空を飛ぶのは、とても楽しいです。そして、幸せです」
イオンの白い姿と、青い瞳が映し出される。
「ほかの誰にも邪魔をされなくて……乗せている誰かとの、乗せている誰かのための時間だと思えますから」
オフルマズドとエルストの胸が高鳴りながら、オフルマズドはイオンの顎を撫でた。
「それで、テレーマ王子の目的はなんだったかな?」
イオンとのひとときも終わり、オフルマズドは騎士団本部の会議室にて、一人掛けのソファーに悠々と腰掛けている。会議室をドルミート兵の取調室として用いることになっているのだ。
取り調べをおこなうにあたり、まず、会議室を客間に衣替えすることから始まった。なんせドルミート兵は苦しまずに死にたがっている。それを踏まえ、オフルマズドは、拷問室や殺伐とした監房よりも、柔和な、ソファーと温かいハーブティーでもてなしたほうが、ドルミート兵にとって心地よく会話ができるだろうと考えたからであった。オフルマズドの腹心であるらしいガードナーの指揮で、ふたつの会議室を、一時的に客間に変貌させた。クリーム色の壁紙も、緑の絨毯も、ソファーもベッドもテーブルも、もちろん魔法である。オフルマズドがエルストに言うには幻覚であるそうだ。これらの魔法にはオフルマズドの魔力が使われた。エルストの時代、魔力のバンクの番人マジョルダが所持していた加工済みドラゴンで魔力を抽出したのである。
十名のうち、ふたりのドルミート兵がオフルマズドと向き合っている。黒髪の色黒の男と、色白で茶髪の男だ。あと三人、ベッドに寝転がっている。五名ずつ部屋を分けている。みな体格がよい。
「言えねえよ」
「逆らえない?」
ふたり掛けのソファーに座るドルミート兵の目を、オフルマズドはゆっくりと見比べる。態度の悪い彼らが座るのも、オフルマズドが座るソファーも、もとはボロ木の椅子である。三人を挟むローテーブルはただのガレキだ。それをこのオフルマズドはドルミート兵たちの目の前で見事なソファーに変貌させてみせた。かりそめの感触とはいえ、手触りも艶やかで、背中から腰に柔らかく適合するソファーは、ドルミート兵にも、オフルマズドにだって気分のよいものだ。
開け放たれた窓からはそよ風が舞い込んでいる。王城ほどではないが、騎士団は高台に築かれているらしく、見晴らしがよい。白っぽい王都の街並みの隙間を眺めることができる。
“客間”の外にはガードナーが立っているはずだ。この部屋の取り調べを終えたら、隣の部屋でくつろいでいるであろうドルミート兵の取り調べを始める予定だ。
「湧水洞を襲ったところで、たちまちドラゴンが湧いてくるはずでもないだろう」
オフルマズドの態度は穏やかである。ドルミート兵たちには、オフルマズドが何を言いたいのか、むしろ、自分たちが何を考えて湧水洞を襲撃したのかをオフルマズドは知っているだろうということすら、わかる気がした。五人のうちベッドに寝転がっているひとりが、言っちまえよと、とうとう仲間に促した。仲間に促しても自分自身では言わないあたり、ずる賢いなとオフルマズドは思ったが、次に、きっとエルストも同感だろうと思った。
オフルマズドはローテーブルの上のビスケットをひとつ摘んだ。スパイスの刺激があるそれを奥歯でひと噛みしたと同時に、
「ドラゴンだよ」
という言葉が色黒のドルミート兵の口からやって来た。刺激的な味を噛み砕きながら、オフルマズドは目で相づちを打ってみせる。
「ドラゴンが生まれなければ、あんな湧水洞になんか、用はない」
「それはまったく正論だ」
早々にビスケットを飲み込んだオフルマズドは咳き込みながら言った。小さなビスケット一枚で喉が渇いてしまった。
「でもそうすると、テレーマ王子は、ドラゴンを生む予定があるということになるね。それはちょっと不思議だな」
空中庭園でメイドに摘ませたハーブで淹れた茶はエルストの味覚にもちょうどよい。熱々のお湯と手を繋いだハーブの爽快感が喉をとおり、まぶたの奥に残る眠気を一掃していく。オフルマズドはティーカップをソーサーに置いた。
「思うんだけど、テレーマ王子はイオンが目的なんじゃないかい」
「えっ?」
驚きの声をあげたのはエルストだった。
「肉体活動が可能なドラゴンで、かつ比較的、捕獲できる可能性があるのは、私のイオンくらいのものだ」
それはドルミート兵へ語りかけると同時に、エルストにも答えたようでもあった。
「私の、か。へっ、ドラゴンを私物扱いか。いいご身分だな、おい」
色黒の男はよく口が回る。
「家族のようなものだからね。遠い昔に湧水洞で生まれてからずっと、我が王国とともに育ってきた大切なドラゴンだ」
「聞くが、何が大切なんだ? イオンってやつの、あんたは、魔力が大切なんじゃねえのか?」
溜め息をつくオフルマズドに、色黒のドルミート兵はさらにたたみかける。
「そりゃー大切だろうな。なんてったって、ドラゴンの魔力は無限だからよ。そのイオンってドラゴンさえいれば、俺らドルミート王国なんか、屁でもねえってわけだろう! そうやって高みにいるつもりで、ドラゴンを持っていない俺らを内心、にやにや笑ってるんだろう! その綺麗なお顔でよ!」
「そうだ、そうだ! この部屋だって、ワザと豪華にしてやったんだろ! わざわざ目の前で見せつけて、俺らと違って、こんな魔法なんて余裕だって思いながらよ!」
色白のドルミート兵も便乗してきた。思うことは五人とも同じらしい。
「あつーッ!」
エルストは面喰らった。オフルマズドが、淹れたてのハーブティーを、口うるさいドルミート兵ふたりに投げかけたからである。
一瞬のことであった。オフルマズドの右手は、からになったティーカップをひっくり返したままである。
「な、何しやがるんだ、てめえ!」
色白の男が殴りかかってきたので、オフルマズドは身を起こし、色白の男の腕を掴み返して床に横転させた。エルストは何がなんだかわからず、とりあえず、これはオフルマズドが組みかかっているのだろうということだけを考えた。
次いでオフルマズドは色黒の男の左頬を殴った。
「私がイオンを魔力だけの塊だと思っているような、まるで、そんな口ぶりだったから腹が立った!」
オフルマズドは高らかに言い放った。
「ああッ? そのとおりだろーがよ!」
「まるで違う!」
ベッドに寝転がっていた兵士たちも目を瞠っている。
「私はイオンとの共存を望んでいる!」
「共存ン?」
「そうだ。イオンだけじゃなく、人間は、すべてのドラゴンとともに存在していくんだ。ドラゴンの魔力は無限だ。だが人間は有限だ。人間が魔法を使いすぎると早死にする。だが、魔力の量に決定的な違いがあるからと言って、どちらかがどちらかの道具になっていいはずがない。加工済みドラゴンなんて、人間が残した悲惨きわまりない所業だ。ましてそれを使っていただなんて、自分の先祖のおこないだなんてとうてい信じたくはないね。知ってるかい? 加工済みドラゴンというのは、どうしても魔力が欲しい人間が、肉体活動が停止したドラゴンを好き勝手にいじったものなんだ」
「知ってるも何も……それらを独占してるのはてめえらエン王国だ!」
色黒の男が大声で叫ぶ。
「人々から加工済みドラゴンを奪い尽くしてファーガスって野郎に食わせたのはてめえだ! オフルマズド!」
「どうして食わせたと思う? 君たちはなんのために加工済みドラゴンを持ちたいんだ?」
「てめえらを倒すためだ!」
「そこの食い違いだよ。つまり君たちは、加工済みドラゴンを戦争に使いたいってことだろう。私はそんなことは望まない」
「てめえの望みなんて知ったこっちゃねえんだよ! それが世界の総意だとでも言う気か!」
色黒の男の拳がオフルマズドの左頬に命中した。エルストは激痛に襲われる。目がくらんだオフルマズドはそのままソファーに崩れ落ちてしまった。力強い拳だった。
「加工済みドラゴンを奪って、独占して、てめえひとりだけ世界の神様気取りか、ええ? ドラゴンと共存したいなんていうのは、魔力に余裕のある人間だけが言えるたわごとだ。加工済みドラゴンを奪われて、魔力の確保に躍起になっている俺たちからしてみれば、あまりにも綺麗なクソなんだよ」
オフルマズドはじっと男を見上げる。エルストが、眼球が飛び出るのではないかと心配するほど、オフルマズドは目をむき出しにして男を睨んでいる。
「決めたぜ。俺はてめえら一族を根絶やしにする。加工済みドラゴンを奪っておきながら、ぬけぬけと、共存なんてなまぬるいことを言いやがる勘違い王太子に嫌気がさした」
色黒の男はそう言いながら自分の首筋に爪を立てた。エルストには信じがたい行動だった。皮膚を突き破るように、見るからに爪が食い込んでいるのだ。
「ひっ」
エルストの悲鳴はオフルマズドの外には聴こえない。だが、オフルマズドはきちんとエルストの声を聴いていた。聴いていたが、オフルマズドは何も言わない。
「ドラゴンに比べると歴史が浅すぎる人類でも、人間同士、溝を深めるにはじゅうぶんすぎる年月だったようだ。1500年っていう年月はな。いや、むしろ、てめえだけが溝を地下深くまで掘り進めてしまったようだ。ドルミート王国とエン王国にとって、てめえの“よわい”だけが、けっして埋めることのできない溝だ。俺の20年とはわけが違う。ああ、同じ日を生きてきたというのに……時間というものは扱いに困るよな、オフルマズド」
「君は誰だ?」
オフルマズドは襟元と姿勢を正す。この色黒の男から、どうにも威厳を感じてならない。
色黒の男は皮膚を破り始めた。たとえ血が滴ろうとも、男は、首から上へと皮膚を剥く。そうして剥がれ落ちた皮膚の下からは、血まみれになった、別の男の顔が現れたではないか。
血が混じった長い黒髪に日焼けした肌。エルストは、その男をアドルーだと見紛えた。
「テレーマ。テレーマ・ドラキュラ・ドルミート」
「ドラキュラ? ……」
エルストはその名前に反応した。ともかくも、血まみれになりながら正体を現したのは、ドルミート王国の最後の王子として言い伝えられるテレーマ王子であるらしい。先ほどの色黒の男の皮膚はすでに床に放り投げられている。仲間たちはテレーマの登場に驚いているようだ。テレーマが他人のかわをかぶっていたことなど、知りもしなかったようだ。
その時、客間が大きく揺れた。オフルマズドは周囲を見渡す。ハーブティーはすべて溢れ、ビスケットは転げ落ち、テレーマはその場に踏みとどまっている。揺れたことは間違いではないらしい。ドルミート兵は、テレーマの登場と大きな震動、どちらに驚いてよいのかわかりかねている顔だ。
ほどなくして第二の震動が訪れた。食器の音がうるさい。
「地震か? それにしては……やけに……」
オフルマズドが呟いた。
「やけに、なんだ? タイミングがいいか?」
テレーマは気のよさそうな表情である。テレーマがふんと鼻を鳴らし、血の塊を吹き出すと、ローテーブルに付着した。
横に揺れているのか縦に揺れているのか、判断がつかないほど、震動は小刻みに、引き続き部屋を揺らしている。
「エン一族をすべて手にかける前に……」
テレーマは右手の指の骨を鳴らす。テレーマの鋭い眼光を向けられ、ドルミート兵はすっかり怖じ気づく。
「バルク!」
テレーマが唱えたのはオフルマズドが知るかぎり、爆撃魔法だった。とはいえ、エルストが知ったことではない。エルストは頭部が爆裂するドルミート兵ひとりひとりを凝視している。いや、凝視しているのは、オフルマズドも同じである。
テレーマはドルミート兵を殺したのだった。焦げくさい匂いと、真っ赤な鮮血がエルストの目と嗅覚を支配する。テレーマの魔法によって飛び散った血が、オフルマズドの頬や額、鼻先にも飛散した。オフルマズドは思わず指でぬぐう。なまぬるい。
「う……うわあああっああ!」
エルストは腹の底からたっぷりと喚く。
「あああああっ。ああーッ!」
「エルスト、落ち着け!」
エルストは、気が動転しているのが明らかだ。オフルマズドが声をかけるが、聞いているかはわからない。
「うあああああああッ」
「いいから落ち着くんだ。エルスト、彼らはいつだってこうして死ぬんだ!」
「うあーッ! 嫌だあッ」
「エルスト……エルスト! 君はきっと、人を殺した時のことを思い出しているんだね。それはわかるよ。きっとそうなんだろう?」
「ううっ……ハアッ、ハアッ」
「大丈夫だ。今、彼らを殺したのは君ではない」
「ぼ……僕じゃない……」
「うん、そうだ。テレーマが殺したんだ」
「うう……テレーマが……」
エルストが落ち着きを取り戻しはじめたところで、オフルマズドは改めてテレーマに向き合った。
「なぜ彼らを?」
テレーマは顔にこびりつく血を腕で拭っている。だがいくら拭き取っても、赤みが取れない。
「湧水洞で聞いちゃいなかったか? ミスには死を。それが俺のやり方なのでね」
「あの時からすでに……」
「そうだ。俺の命令でありながら、こいつらは湧水洞を奪えなかった。それどころか、てめえに命乞いをした。ゴミも同然、死んで当然。そうだろう?」
「私に負けたのは君だ」
オフルマズドは挑発的だ。すぐにテレーマの、誹るような厳しい目が向けられてもおかまいなしだ。
「俺のミスか?」
テレーマが言うと、オフルマズドは、テレーマを軽蔑したい欲求に駆られた。そしてその欲は、ただちに行動にあらわれる。
「心底、馬鹿のようだな……君は」
「なんとでも言やあいい。ああ、そうだ」
テレーマはぽんと手を叩く。
「てめえが何やらコソコソと手紙を送りつけていた俺の弟のことだがな、むかついたので、両目を傷つけてやった。今後手紙を送っても無駄だぜ。今となっちゃ見えるもんじゃねえからな」
「……およそ人間の所業とは思えない」
「それでいい。俺はドラキュラ、ドラゴンの息子なんだぜ」
「どういう意味だ?」
「悪魔って意味さ」
テレーマはつかつかと窓辺へと歩く。
「おっと」
そうかと思えば、くるりと身を返し、オフルマズドの背後にある壁へと手をかざした。その直後、壁が爆発した。オフルマズドはとっさに頭を庇ったが、テレーマが何をしたのか、おおかたの予想はついてしまった。風塵に注意しながらオフルマズドが顔を上げると、やはり、隣室にいたであろうドルミート兵は殺されてしまっていた。今の爆発で死んだのか、また新たな魔法を使ったのかはさだかではないが、テレーマが窓辺から一歩たりとも動いていないのは確かである。
騒ぎを聞きつけたガードナーが遅ばせに登場したが、事態を察すると、応援を呼びに走り去っていった。
「使えねえ部下は殺したほうがてめえのためだぜ」
テレーマは首の前で親指を動かし、笑いながら窓縁に足をかけた。
「今から湧水洞を奪いに行くつもりか?」
意気消沈したエルストが気付いた時には、オフルマズドは右手にレイピアを握っていた。
「ばか言うな。そんなもの、ここを潰したあとでいい」
まるで昔馴染みの友人に向けるかのように、テレーマは、左手をオフルマズドに向け、ひらひらと振ってみせた。それも、不敵な笑みである。
「せいぜいペドラに殺されろ。じゃあな」
テレーマは飛び降りていった。そのまま足の骨でも折ってくれればよいのだが、オフルマズドが思うに、彼はきっと無事なのだろう。テレーマが立ち去ったあと、オフルマズドはおもむろに窓辺に寄る。そして、地震が続く王都の景色を眺めた。
白と灰色の中間の色に染まる街並みの、はるか彼方には、エルストもよく知っている、岩トカゲらしき姿があった。それは青空を背負い、草原の先から王都へと、徐々に接近していた。
この大きな揺れの正体は、翼をもたない岩トカゲの足音だったのである。オフルマズドが全身にあふれださせた焦燥感に包まれたエルストは、これは夢であればよいのにと思った。エルストの心は、はたして正気の居場所はどこなのか、把握できないでいたのだった。




