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Enders war  作者: 急行2号
21/49

13 サンゴルド(1)

 砂漠に吹きつける風が砂塵を巻き起こし、この大地と晴天とを隔てる粉の海を作り出している。

 太陽は今日も強い。そして遠い。

 ふたりの男たちは黒衣をまといながら、空など決して見ず、行く手に漂う粉の海に埋もれながらも一歩、一歩と、確実に前に歩いていく。

 男たちが残した足跡は、はるか彼方からずっと続いている。

 その足跡をたどっていくと、ひとりの男が血みどろになって倒れていた。とうに息はない。砂漠では血が乾くのもはやいようだ。うっすらと砂埃が積もり始めている。

 赤黒く染まってしまった服から垣間見えたのは、王立魔法騎士団の紋章だった。


 サンゴルドの町は商業都市グランド・テレーマから船で丸二日渡航したところにある砂漠の町だ。グランド・テレーマ同様、海に面しているのだが、グランド・テレーマと違うところといえば、ひまわりなどなく、ヤシの木も数えるほどしかなく、しかも人々がまったくと言っていいほど色めき立っていないところだろう。静かだ。そして殺風景である。

 サンゴルドは王国領であり、そのなかでも歴史はとくに古いのだが、今では町のほとんどが砂に埋没してしまい遺跡といわれる建造物も頭半分しか姿を見せていない。あれはドラゴンのあたまか。王都の岩トカゲと違い、砂の丘から頭だけ出したドラゴンはれっきとした石像である。命はない。精巧に作られたドラゴンの石像はきっと長い年月を経て砂に埋まっていったのだろう。

 かつては町の地下にも住居が続いていたらしいが、現在は砂に埋没することを免れた数少ない剥き出しの石の家々に人々は住んでいる。間取りもないごくシンプルな作りだ。どの家も小さいのは、もともと三階部分であるからだ。

 王都から距離があり、砂漠への入り口となっているサンゴルドはその土地を開拓しようと試みる者はいない。なんせ町の大部分が砂に埋まってしまっているし、そもそも歴史を知ろうと思いつく者が少ないのも原因だ。

 ただ最近になると、そんなサンゴルドの町にも発掘の手が伸び、おもに石材を運び出そうとする者が現れた。石材はグランド・テレーマを越えた先の山あいの村に持っていくとのことだが、町の住人はあまり興味を示さなかった。取り壊されていくのは廃屋ばかりなのである。そんなことよりかは、もうすぐ収穫期を迎える穀物の出来を気にしていたい。町では小麦や香辛料のもとになる植物などを栽培している。

 サンゴルドの港には今は船はない。朝を迎え、町はゆるやかな日常を開始しようとしていた。

 日光を遮る石の屋内にシーツの擦れる音がする。黒髪の女の日焼けした手がウォーベックマンの背中をおもむろに撫で上げる。着古した白いシャツが波打った。親指で左肩に触れたあと、背骨に向かってキスをした。ウォーベックマンは女のしぐさに眉をひそめながら、あぐらをかいたまま楽器を奏でている。カーキ色のバンダナは女に剥ぐられ、シーツの上に放り投げられた。女と違ってくせっ毛の黒髪は乾燥しきっている。

 腕と指先こそ動かしているが、その表情は眠たげだ。

 ウォーベックマンが素っ気ないので、女はウォーベックマンの首筋に彫られたタトゥーへと唇を落とした。そこから舌を這わそうとする。ウォーベックマンはついに女をふるい落とすようにうしろを振り返った。そして手の甲をぐりぐりと首筋に当て擦り、女のつばを拭き取る。


「つまらない。つれない。いつもそう。あなたと知り合ってずいぶん経つけれど」

 黒髪の女が上目遣いに言った。

「ここはいつもくさいんだ」

 ウォーベックマンが発した文句に女は腹を立てた。ここは女の家である。

「香を焚いてるのよ」

「センスがないんじゃないか」

「外ならいいの?」

 女はべったりとウォーベックマンの背中に張りつく。

「外……それは猿だな」

 ウォーベックマンはシーツの上から立ち上がった。女は観念してバンダナを手渡す。ウォーベックマンは愛用のバンダナを受け取ろうとしたが、女はいちど手にちからを込め、バンダナ越しにウォーベックマンを引き留めた。

「もうすぐ王子がやってくるの」

 とうとう頭がいかれてしまったか。ウォーベックマンは哀れむような目をして女を見た。

「わかる? 宮廷魔法使いも一緒よ」

 ああ、そういうことか。ウォーベックマンはさては女が白馬に乗った王子様が迎えに来るとでも幻想を見て勘違いしているのだと思ったが、勘違いしていたのはウォーベックマンのほうだったらしい。

 女は手のちからを緩めた。バンダナはするするとウォーベックマンの手中に収まっていく。

「これを逃したらしばらく獲物は見つからない……ここのは奪ってしまったし……それに王子は国王のいちばん下の子どもなんだもの。次に誓約の旅がおこなわれるのは……ええと……あと十五年後。しかも女。その時、私は何歳?」

 ウォーベックマンは楽器を床に置き、両手を使ってバンダナを髪の上に巻いていく。女の言葉が頭のどこかに引っかかる。人差し指にくせっ毛を絡ませながら考える。だが、どうせたいしたことではないのだろう。ウォーベックマンはくせっ毛をほどき、楽器を手に取った。オリーブ色のローブも忘れない。

「最も肝心なのは、女の王族は宮廷魔法使いに女を選びたがるに決まってるってことよ。んもう」

 そうは言うが、たとえ王族が男の宮廷魔法使いを側近に選んだとしても、はたしてこの女の誘惑は成功するのだろうか。そんな例は、ウォーベックマンは聞いたことがない。期待もしない。

「ああ……女。そうだ。思い出した」

 ウォーベックマンは楽器を背負うと、家の入り口に寄りかかった。そしてシーツの上に座る女に言う。

「その王子の宮廷魔法使い。女だぞ。残念だったな」

 引っかかりが取れた。悲痛に暮れた顔で絶句する女を置き去りにし、ウォーベックマンはこの日最初の太陽を浴びた。楽器の上からローブを羽織る。これから砂漠地帯へと歩いていくつもりだ。歩き始めたウォーベックマンの背中を追うように、港にはようやく一隻の船が入ってきた。


「んーっ!」

 ベルが両腕を天に突き出し、大きく背筋を伸ばす。二日ぶりに大地を踏みしめた。エルスト、ベル、アギの後方には中型の帆船が帆をたたんでいる。

「はあ……船旅って……疲れるんですね、案外……」

 こんどはぐったりとうなだれた。

「僕、船に乗ったの初めてだったよ。ベルも? ねえ、楽しかったな。思わなかった? オールも大きくてびっくり。重たそうだったけど……オールを漕ぐための魔力、バンクから供給されてるんだってね。あれって人のちからじゃないんだ。あとは風力だっていうけど」

 ベルとは違い、エルストは熱気まじりに話した。アギが笑う。

「王子〜、なんやキラキラしとるで」

「船の人と仲良くなったんですね、エルスト様」

「いやあ……興奮しちゃってさ。だって、あれが海を渡るんだよ。木造なんだよ! それでウロウロしてたら、声をかけられたんだ。夢中になって話を聞いてたよ」

 エルストの瞳はいまだ帆船をまぶしそうに映している。欲を言うならば今すぐあの中に戻りたい。

「エルスト様があんまり楽しそうだから、私もまた乗りたくなってきたな〜」

 しかし、一行の目的は船旅でも、船の構造を勉強することでもない。風属性のドラゴンに会うことなのである。

「どうせ帰り道にまた乗るやろ」

 アギはいたって冷静だ。

「しかし何日後になるんやろな」

「えっと……名前、なんでしたっけ、峡谷の」

「アトウッド。アトウッド峡谷だよ」

 エルストは両手で地図を広げる。

「このあたり一帯がアトウッド峡谷」

「広っ!」

「世界の四分の一だからね」

 あの晩――王立魔法騎士団に忍び込み、アドルーに会い、エルストが初めて〝ペナルティ〟を受けた晩、ミズリンが教えてくれた絵本があった。エルストたちは翌朝、王立魔法学園の図書室に行き、その絵本を探したのだった。きっと風属性のドラゴンの居場所が書かれているんだ。絵本は右奥の棚にあった。カーシーが教えてくれた場所と一致する。

 ところが、絵本にはなんの手がかりもなかった。これはミズリンの嫌がらせだったのか。一行は唖然としたが、いや、何か意味があるはずだと信じ、昼間にかけて図書室で考えあぐねた。

 そこでエルストが思い至ったのがアトウッド峡谷だったのである。


「そこに〝たにのくに〟があるんですね!」

 ベルはどこか楽しげに肩を揺らした。船旅の疲れはあっという間に吹き飛んだらしい。

「たにのくには絵本のなかの国だよ。おとぎ話」

 エルストが苦笑した。

 ミズリンが教えてくれた絵本には、たにのくにという舞台が描かれていた。そこに住む王様が月とドラゴンと出会う物語であった。

 たにのくに。この絵本において、ドラゴンの居場所を掴む手がかりになるようなものを挙げるとすれば、これだろう。そこでエルストはベルとアギに提案した。世界には大きな峡谷があるのだ、と。絵本のように国があったのかはわからないが、谷といえば、まずそこが浮かぶ。

 アトウッド峡谷。エルストは探検家が残した絵でしか見たことがないが、アトウッド峡谷は、うねりにうねる、蛇のような谷が何本も連なっている。何万年もの太古の昔から築かれた岩壁の迷路だ。最下層は海と交わっているらしい。標高は最も高いところで二千メートルを越すと聞いたが、その数字はエルストの想像の域すら越えるものである。だが岩トカゲよりも高いことは確かだ。

 そこに本当にドラゴンがいるかは定かではない。だが、ここはミズリンが教えてくれたヒントを信じたかった。何よりほかに手がかりは見当たらない。

「そのまえに砂漠を越えなきゃだよ」

 そうなのだ。王都からアトウッド峡谷を目指すには、まず境界村とグランド・テレーマを通過し、海を渡り、このサンゴルドの町から砂漠を越えていく必要がある。そのために船に乗り、一行はようやくサンゴルドの町に到着したのである。

 地図にもサンゴルド砂漠の地名がある。アトウッド峡谷はその先だ。アトウッド峡谷の比ではないが、サンゴルド砂漠もけっこうな広さである。王都の執事に訊けば、砂漠越えには十日は見ておいたほうがよろしいでしょうね、との言葉が返ってきた。つまり十日間は灼熱の砂漠の上で過ごすことになる。そしてそこからまっすぐアトウッド峡谷を目指すのだ。途中に立ち寄れる村や町はない。人間が寄りつかないのだろう。

「ああ……なんか、おなか痛くなってきた……胸も痛いな……」

「なーんや、今ごろ船酔いか? 王子。だらしないんとちゃうか」

「違うよ、アギ……船旅にはむしろ戻りたいくらいだよ……」

「大丈夫ですよ、エルスト様! 私も砂漠は初めてですから。なんとかなりますよ」

「よけい不安になるよ! 何が大丈夫なのさ!」

「ワシも初めてー! 二千年間で人生初・砂漠! あ、人生ちゃうな。ドラゴン生やな。ワハハ」

「ええっ。もう。唯一頼りにしてたのに!」

 エルストは唇を尖らせた。ここに砂漠経験者がひとりでもいれば、心持ちは格段変わるのだが、それは望めないようだ。


 王都を出る前、ベルの実家、テン牧場に立ち寄って保存食をまとめて購入したのは幸いだったと思える。エルストはごちそうになったステーキのお代も払おうとしたが、それはベルの母サーシャに止められた。おまけにビーフジャーキーも差し出されてしまい、エルストは何度もお礼を重ねながらありがたく受け取った。

 テン夫妻はふたたび旅に出る愛娘を心配そうにしていたが、ベルと同じように、なんとかなるだろうと笑顔で送り出してくれた。アギもついているからと言って夫妻は安心していたようだが実際はこのざまだ。ともかく食糧はあるので、あとは水を確保しておけばよいだろうか。念のために水筒は三つずつ所持している。砂漠は日射が強いだろうから、ローブはこのままのほうがよいか。それとも頭からかぶったほうがよいか。ベルもマントとアギの帽子がある。エルストはブラウンの刻印の入ったナイフを腰のベルトに挿した。

「アトウッド峡谷で何日過ごすことになるのかは想定出来ないね……」

 一行は町の中へ歩き出す。波止場から出ると、すでに砂地が一行を迎えていた。これからしばらくはこの砂の上を歩くことになる。

 一行は初めて訪れるサンゴルドの町を見渡した。殺風景だ。

「ここ……家……埋もれてません? 砂に」

 ベルが指摘したとおり、どの家も低く、砂に埋もれているのがわかる。入り口も狭そうだ。

 殺風景だが人はいる。畑もあるようだ。どうやら生活は成り立っているらしい。あの畑がこの町の収益源なのだろう。人々は壺を頭に乗せて歩いているか、あるいはザルを乗せている。男も女も働き者だ。

「なんか、すっごくスパイシーなかおり……」

 ベルは鼻の穴をくんくんと膨らませた。エルストも同じようににおいを嗅いでみる。たしかに鼻を刺激するにおいが漂っている。

 井戸はあるだろうか。水を頂戴したい。エルストは自身のおこづかい――財務省から定期的に支給される――を旅の財布に入れ、そのままベルに預けている。水はいくらだろうか。

「水って、多めに持っておいたほうがいいよね」

 エルストが言った。あ、とベルが頷きはじめる。

「そうですね。脱水症状にならないように」

「魔法で出す水は飲めへんやろしなあ」

「そうなの?」

 エルストが尋ねた。

「水を精製する時、空気中の水分を吸収して精製するんですけど、同時に空気中の細かい物質も吸っちゃうから……たとえば砂漠で水の魔法を使ったら、泥水になりますよ」

 魔法による水分補給は望めないようだ。


 まだ日は高い。

 住居同士の間隔が広い町の中をざっくりと歩く。

「……あ」

 するとふとベルが足を止めた。

「チキンのにおい……いいにおい〜」

 いっそう鼻を膨らませ、ベルはとある石の家にふらふらと引き寄せられていく。ちょっとベル、とエルストが止めようともすでに遅い。ついにベルは一軒の家に入ってしまった。あーあー、なんてアギがぼやいている。エルストは家の周囲を見る。するとこの家の裏に井戸があるのを見つけた。もしかしたら水を分けてもらえるかもしれないとかすかな期待を抱きながらベルとアギの後を追った。

「えっと……お邪魔します。……ベル、アギ?」

 エルストは家の入り口をくぐった。この町の住居には扉はないらしい。扉はきゅうくつだ。

「あ、エルスト様ー! ここのカレー、とっても美味しいですよ!」

「なに食べてるの……」

 エルストはがっくりと肩を落とした。ベルは地べたに座ってカレーをもくもくと食べているではないか。パンのようなものも一緒に口に入れている。アギはお昼寝タイムのようだ。鼻ちょうちんを浮かせている。

「あら、お連れ様?」

 家の奥から黒髪の女性が現れた。奥といっても家の中は狭く、ちょうどエルストの私室くらいの広さである。女性の年齢は二十代後半だろうか。袖のない白いワンピースをまとっている。どうやらこの女性がベルにごちそうしているらしい。

「こんにちは……エルストと言います。すみません、ベルとアギが突然お世話になってしまって。本当、ごめんなさい。というかベル、行動はやいよね……」

 アクティブな宮廷魔法使いにはただただ振り回されるばかりである。

「この町にお客さんは珍しいわ。だから、喜んでごちそうさせて。あなたもどうぞ座って。チキンカレー、あるわよ」

 女性はエルストに腕を絡めた。女性の動作はごく自然な流れであった。それでも、エルストはとつぜんのことに目を白黒させる。

「え? あ、いや、僕は……」

「うふふ、可愛らしいボクだこと」

「ぼ……ボク……」

「お座んなさいよ。椅子はないけど」

「いや、あの、困りますっ」

 エルストはうろたえている。女性に、こんなにも身近に迫られたことは初めてである。しかも初対面だ。


「あの。僕、なんか、今はおなか空いてないので」

 じつはまだ少し痛い。

「あの、それより……外の井戸はこのお宅の井戸ですか? 水を分けていただきたいんですけど……」

「うちのだけど……お水でいいの? ……」

 ふうっと左耳に吐息を吹きかけられた。エルストは顔を真っ赤にしながら慌てて女性の腕を引き剥がす。ベルはもりもりカレーを頬張っている。さぞ美味しいらしい。

「分けていただけますか? お金は払います。あ、カレー代も」

 再度たずねた。

「……いいわよ。汲み方、わかる?」

「あ、いや……わからないです……」

「お姉さんが教えてあげる」

 背筋に寒気が走る。エルストは苦笑を引きつらせながら女性とともに井戸へ向かう。ベルとアギに、行ってくるね、と伝えて外に出た。これから六つの水筒を満たさねばならない。

「この町にはご旅行?」

 エルストは女性に教わりながら、ロープを使って井戸の中へ桶を落とす。その途中、背後から女性に話し掛けられた。

「旅行……そうですね。そんな感じです……」

 ここでも距離が近い。エルストは緊張で手汗を滲ませる。

「見たところ、育ちがよさそうね。この緑色のローブ、すてきだわ。どこかのお坊っちゃま?」

「は、はあ……まあ……そんな感じです……」

 嘘はついていないだろう。

「あの茶髪のお嬢さんは? ガールフレンド?」

「ガールフレンド?」

「え?」

 思わず女性に訊き返された。友達ってことですか、と不思議な顔をするエルストに女性は何かを察したらしい。

「あら。野暮な質問しちゃったみたい。ウフフ」

 どういう意味なんだろうか。エルストは気まずくなりながらも、とにかくすべての水筒に水を満たした。


 エルストは微妙な気持ちで女性の家に戻る。なんといったって女性がまとわりついてくるのだ。エルストはぎこちなく躱しながら、そして苦笑を浮かべながら狭い入り口をくぐった。

 おかえりなさい、とでもベルの声がすぐに返ってくるものだと思っていた。ここはベルの家ではないけれど、いつものベルとアギであれば、そう言ってくれるはずだと思っていた。

 ところが家の中は静まり返っていた。おかしいな。エルストは一番に気付いた。

「……ベル!」

 エルストは慌ててベルに駆け寄った。水筒などお構いなしに放り投げていた。

 ベルが地べたに倒れ込んでいる。アギは頭の上から転げ落ちている。

「ベル……どうしたの! アギは。起きてる?」

 見ればアギはまだ鼻ちょうちんを膨らませている。どうやらまだ寝ているようだ。ほっとしたのも束の間、エルストはベルの体を揺する。どうにも様子がおかしい。ほんのつい先ほどまでカレーを食べていたというのに、突然眠ってしまったのだろうか。ベルの口もとにそっと耳をすませる。息はしている。だがこの倒れ込んだ体勢といい、転げ落ちている食べかけのカレーの皿といい、不審である。エルストはベルの右肩に手を置いたまま状況を整理する。

 その時であった。

 背後から、首筋にひんやりとした鉄の感触が当たる。エルストは顔を動かさず、青い瞳だけで右を見た。尖った切っ先が見えた。これはナイフである。

「これ……どういうことですか? ……」

 エルストが尋ねた先は言うまでもなくあの女性であった。

「おネンネしてるだけよ、そのお嬢さんは」

 女性はにやりと笑いながら答えたが、その表情をエルストが見ることは出来ない。

「どういうことですかって……訊いてるんですけど。つまり……なぜこんなことを? って……」

「この名前も知らない加工済みドラゴンを頂戴するためよ」

 女性はあっさりと答えた。

「カレーに睡眠薬を混ぜちゃった。ふふ。ごめんなさいね」

「す、睡眠薬……毒……とかでは?」

 嫌な予感がしてならない。

「うーん。毒薬は、あいにく切らしててね」

「……切らしてなかったら……こ……」

 エルストは喉を鳴らした。

「殺して……ました?」

「そりゃ、もちろん。敵だもの」

 エルストの口角がひくひくと動いた。殺してた。ベルをだ。そして女性は先ほど、エルストにもカレーを勧めた。つまりはエルストすら殺していたかもしれない。そう思ったとたん、全身に汗が噴き出す。怖い。これはまさしく恐怖だ。

「この……ナイフは?」

 エルストは己の首筋に当たるナイフについて訊いた。

「ボクを殺すため。王子だかなんだか知らないけれど、運がなかったわね」

 ああ、本当に運がない。顔が強張る。全身が強張る。震える。だが、だが動かなくてはならない。


 上唇をいちど噛み、エルストは左手のひらを勢いよくナイフに当てた。体は反対に、左に押しやる。そしてすぐに腰のナイフを抜いた。ブラウンの刻印がなされて久しいナイフである。そのナイフの切っ先を、こんどはエルストが女性の首に突きつけた。あくまでも刺してはいない。斬ってもいない。

 このようにエルストが機敏に反抗したことが女性には意外だったらしい。女性は驚いている。女性の右手はエルストの左手が掴まえた。

「ちょっとびっくり。虫も殺せないような顔してるのに」

 それが女性のエルストへの感想だった。

「僕も、自分でも意外ですけど……」

 エルストは震えている。

「で、でもこうしないと、みんな殺されるって思ったので。そう思ったら、こうするしかなかったので……ごめんなさい……」

「殺さないの?」

 女性はエルストの言葉に覆い被さるように言った。

「え?」

「私を。殺さないの? このナイフ」

 女性は真顔だ。

「殺すためにこうしてるんでしょう?」

 エルストが動揺しているということは、会って間もない女性にだって手に取るようにわかる。エルストの視線は定まっておらず、あちこちに泳いでいる。汗も滲んでいるではないか。女性の右手首とエルストの左手は血と汗に濡れ、それを介してエルストの抱く困惑が女性に伝わってしまうのだ。

 エルストの返答がどうにも遅いので、また女性から口を開く。

「ボクの情報は王都から届いているわよ。生まれつき魔力がなくて、魔法が使えない稀代の可哀想な王子様、エルスト・エレクトラ・エン様。ボクと違って、この町に住んでるような平民にだって魔法が使えることはご存じ? はやくしないと魔法で反撃されるわよ」

「え、ま、待って。僕、そんなつもりじゃ……」

「そんなつもりってどんな? 殺すつもりじゃない?」

「だって、あなたがナイフを向けたから!」

 エルストのつばが飛んだ。

「正当な理由がなければ殺せない? いや……正当な理由があっても、殺せないふうね。なんだかそんなお顔。大丈夫よ。そこのお嬢さんは、たとえボクが私を殺してしまっても、しかたなかったよって言って背中を後押ししてくれるわよ。宮廷魔法使いって、きっとそんなものでしょ」

「そういう……そういうことを言いたいんじゃなくって……正当な理由とか……殺すとか……僕はただ……ただ死にたくないだけですよ! だってあなたは僕を殺そうとした! ベルも! ベルが倒れてる! 今とっても怖いんだ! ねえ、どうしてこんな真似をしたんですか? 加工済みドラゴンを奪う……」

 そこでエルストは眉をしかめた。何か重大なことに気付いた、そんな顔だった。

「サード・エンダーズ?」

「やだ。遅いわ」

 女性は平然とエルストの腹を蹴り飛ばした。かかとがベルの体に当たってしまい、エルストは情けなくもよろけながら地べたに転倒した。薄暗い石の天井を仰ぐ。


 いいや。ぼうっとしている場合ではない。

 エルストは身を起こした。ああ、やはり女性はベルの首を狙っている。本当に殺すつもりなのだ。

「やめて!」

 エルストのナイフは女性の胸を突き刺した。それだけにとどまらず、女性の体を突き飛ばす。エルストも十七歳とはいえ大の男だ。力強く押し出したため、女性は仰向けに倒れていった。その拍子に女性は後頭部を石壁にぶつけてしまったらしい。鈍い音がエルストの耳に届いた。それは一瞬だけの音であった。エルストが大きく開いている股の下にはベルがすやすやと眠っている。ベルは無事のようだ。ベルが羽織るアギのマントに滴っているのは女性が垂らした血液に違いない。

 エルストはめっきり息を乱している。その足でアギのマントを踏んでしまっていることになど気付きもしていない。身体的な原因からくる呼吸困難ではない。この状況に、脳がうまく働かないのだ。心臓がばくばくと高鳴っている。エルストの両手は空白だ。左手には、女性のナイフを握った際に出来た傷が赤々と輝いている。エルストのナイフは、女性の胸だ。

 エルストの目の前の景色がすばやい速度で回転する。これは女性の魔法なのだろうか。いや、ただ単に、エルストが取り乱していることから起こる、エルストだけを襲っているめまいだ。そんな回転する景色の中でも、女性がずるずると崩れ落ちる光景はしっかりとエルストの青い瞳を離さない。なんてことだ。石壁に赤いシミが見える。見間違いであってほしいが、そう考えようとする脳とはうらはらに、エルストの両目はとても上手に機能している。女性の両手が宙を泳いでいる。エルストははっとして女性に駆け寄った。

「あの……」

 エルストと同じくらい女性の口もあんぐりと開いている。

「う、うそ……あの……」

 女性の腕を抱えて体を揺する。女性の意識は朦朧としている。そして地面に広がってゆく新鮮な血だまりが、エルストの頭をさらに混乱させる。

「生きて。生きてよ!」

 気付けばそんなことを口走っていた。この時エルストはたしかに女性が今死ぬということを全身で察知していた。そしてその時はもうすぐやって来る。

 女性の右手がエルストの頬を捕えた。爪先で頬を削る。

 女性はそこで息絶えた。右腕がだらりと落ちた。

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