2 継承の旅
「はい、では、正座」
先日の自習室には先日同様、ベルとアギ、そしてカーシーの姿があった。ただ違うのは、ベルもアギも寝ておらず、さらには椅子に腰かけてもいない。ベルはカーシーに促されるままに床に座り、その横に置かれたアギとともに男教師と向きあっていることである。
ベルらとカーシーのあいだには特製の用紙があった。
「城内、火気厳禁」
言いながら、ベルは用紙の上を墨でなぞった。
王都マグナキャッスルは今日も快晴だ。
王立魔法学園は卒業論文に追われる生徒が図書室や実験室にこもっている。まだまだ卒業とは縁の遠い一年生、二年生は優雅に花など植えているが、彼らの手はちっとも汚れていない。魔法さえあれば、土で汚れることもないのである。
このごろ、学園内ではちょっとしたニュースが話題となっている。それは「ベル・テンがエルスト王子の宮廷魔法使いになった」という先日からのニュースであった。驚く者や疑う者、反応はさまざまだったが、みなに共通して揃っているのは話題の最後には必ず鼻で笑うことである。
とはいえ話題の渦中にいるベルは嘲笑には惑わされず、ごくごく普通の、いつも通りの生活を続けていた。論文はあんまり進んでいない。作文は苦手なのである。ベルとアギもまた、この春に卒業を控えているのだった。
「卒業論文? いや、やらなくていいよ」
ベルは耳を疑った。ちょっと嬉しかった。表情では驚きつつ、硯と筆を片付ける手は休めない。
「いいんですか!?」
墨が乾ききっていない〝城内火気厳禁〟の用紙を自習室のコルクボードに張り出すのはカーシーだ。喜びを全面に押し出したベルの顔を一瞥すると、カーシーは苦い顔になる。
「ああ、いや、まったくやらなくていいわけではないんだけど」
カーシーはついいましがたの己の言葉を訂正した。ベルはすぐさま落胆した。
「先延ばしになるだけだ。君は留年扱いになるからね」
「りゅう……」
落胆、おまけに絶句だ。
「うーんと。先日の試験願書にキチンと記載されていたはずだけど」
カーシーは言ったが、すぐに、ああ確認していないのだなと悟った。ベルはそういう生徒であることをカーシーは知っている。
「しかし一年間、学費は免除されるよ」
「えっ!」
「詳しい話はこれからだ」
カーシーが張り出し終えたちょうど後、自習室の扉を開ける男がいた。
「カーシー様、ベル・テン様、アギ様。お迎えに参りました」
カーシーは手をあげて応えた。
ベルとアギの目の前にはカーシーと先ほどの男がいる。先ほどの男はどうやら案内役のようだが、わざわざ案内されずともカーシーは慣れた足取りで城内を進んでいる。途中、案内役はベルにひとつの許可証を手渡した。王族の居住区への入域許可証であった。これからベルらは王族居住区へと向かうらしい。
そういえば、先日の試験にはこれが無かった。どうやら今日は王族居住区でも上階のほうへとのぼるようだが、するとエルストは王族居住区の下層で暮らしているということか。なんだか不憫に思えるが、それでも王都の郊外よりはよっぽど裕福である。
ドキドキするなあ、と、ベルはそんなことを思った。上階に入るのはもちろん初めてのことであるからだ。ところでベルの頭には、不明であるままの今回の目的のことなど微塵もない。新しい景色への高揚感でいっぱいのようだった。
「さ……どうぞお進みください」
ずいぶんとのぼってきたものだ。とある扉の前に行き着くと、案内役は即時一礼した。
「やけにでかい扉に着いたなあ。やらしいわあ」
この文句はアギである。案内役の男からの鋭い視線などお構いなしだ。
「で、ここはなんやねん」
ベルとアギは案内役がそばに控える扉を見上げる。周囲はおごそかな雰囲気を漂わせ、岩トカゲと融合する城を支える柱はひんやりと冷たい。窓はなく、天井にはぼんやりと、彫刻の装飾が見えた。薄暗いために細部までは目視できない。扉から見て、通路は三叉路になっている。
案内役はこの扉までのお役目であるらしい。
「扉の先が謁見の間だ」
これはカーシーの返答だ。
「あまり待たせるのも悪い。さあ、入ろう」
カーシーの言葉を合図に、案内役は厳重な扉をゆっくりと開けた。
「ただいま参りました。お待たせしました」
謁見の間とやらに入るなり、カーシーはそう言った。
謁見の間は、円状に広がった、部屋というよりは大広間であった。壁につたって石柱が何本も立っている。先ほどと同様に薄暗い。扉をくぐった正面には、真っ赤な絨毯が玉座まで続いているらしかった。
玉座には、白髪を立たせた男がふかぶかと座っている。玉座にいるからには国王であろう。絨毯よりはいくらか明るい赤色のマントを身にまとっている。襟元のファーには、金色のドラゴンのあたまがあった。おとなしそうなドラゴンである。
玉座の右手前には、白を基調とする礼装をした黒髪の男が佇んでこちらを見ていた。
「なあ、ベル。真ん中の椅子にいてるほうが王様やんな?」
「ごめん、アギ……私、王様の顔は知らないんだよね」
「ハァアアン? なにしとんねん、それでも学園の生徒かい!」
玉座までは距離があるとはいえ、この会話を聞き取るにはじゅうぶんな距離だ。カーシーはアギの頬を小突く。
「こら。放課後じゃないんだ、私語はつつしみなさい。それから、真ん中の椅子にいらっしゃるほうが国王陛下で正解だ」
「あ」
そこでふと、ベルが思い出したように言う。
「そういえば、カーシー先生って、王子様なんですよね」
その言葉に、カーシーは苦笑しながらも頷いた。
「カーシー」
礼装の男が初めて口を開いた。真っ黒な癖っ毛を刈り上げているさまが、この男の険しさをいっそう引き立てている。
「そいつか。例の、エルスト付きの宮廷魔法使いになったのは?」
「ええ、そうです、兄上。……ほら、ベル、それからアギ。お二方に挨拶なさい」
カーシーはベルの背中を押した。
「はじめまして! ベル・テン、十七歳です! 住所は王都で、家は農畜産業をやってます!」
ベルは深く頭を下げたが、その勢いあまって頭上のアギが床に落ちてしまったではないか。ひっくり返ったアギは、わたわたと身をもがく。
「コラ! ベル、ワシを拾わんかい!」
「あっ、ごめん、ごめん」
ベルが慌てて救助してやった。
「よし、よし。……えー、コホン。おう、王様」
ふたたびベルのあたまの上に舞い戻ったアギは、なにやら形相を変えて口上を述べだした。
「ワシが、かの火のドラゴン、アギ様や。こないだエルスト王子に振る舞ったニワトリ代として牛のリブロースくらい持ってこんかい! こんどこそワシがテロッテロのジュージューに仕上げたる! 城のコックには負けへんでぇ〜」
ケケケッと笑うアギには国王も礼装の男も無反応である。カーシーもまた、静かに眼鏡の位置を整えた。
「……ヘンなドラゴンがついたものだな……エルストは」
礼装の男がつぶやいた。
「はは」
カーシーは苦笑が絶えない。
「ああ、そのエルストは、まだです?」
「呼んではいるから、もうまもなく到着するだろう。素直に部屋から出ていればの話だが」
礼装の男は鼻を鳴らした。
「な、な〜んか、さっきからイチイチ嫌味なヤツやな……」
礼装の男の態度と言動がどうにも気に食わないらしく、アギはコソコソとベルに言いつける。これにはベルも同感のようだ。茶髪を揺らしながらこくりと首を縦に振った。
「……あいつ何者?」
そこで、アギはカーシーに尋ねてみた。
「僕の兄で、王位継承順位第一位におられるマックス王太子だよ。……というか、アギも〝出てきて〟しばらく経つのだから、せめて王太子の名前くらいは知っておきなさい」
「おい、知っとったか、ベル?」
「そ、そりゃ、名前くらいは……」
とは言いつつも、ベルも顔までは知らなかったようである。口元を引きつらせていた。
「でも、先生とは似てないなあ……」
ベルはカーシーと礼装の男、マックス王太子とを見比べた。優しげなカーシーとは対照的でマックスは険しい顔つきだ。年齢の差はそこまではないようだが、二人に共通するのはせいぜい黒髪くらいか。もしもマックスが先生であったとしたらと考えると、あまり気持ちのよい話ではないな、と、ベルはカーシーが先生であることに心底安堵した。
ひっそりと胸を撫で下ろしていると、ベルらの背後で軋む音が聴こえた。扉が開いたのである。その音に反応したベルがついつい振り向くと、そこには先日見たきりの顔があった。
「あ! エルスト様だ! おーい!」
扉からはそんなに離れていないというのに、ベルは嬉しげにぶんぶんと右腕を振る。
「あ……や、やあ、ベル」
扉を開けたのは執事だった。その執事を従えて現れたエルスト王子はとまどいながら、ぎこちなく片手をあげた。白いシャツに焦げ茶色のベストとズボンを身につけているが、シワはなくとも、相変わらずくたびれた姿勢である。金髪の前髪が邪魔をして、眉毛は隠れがちだ。
「え、ええと……遅くなって申し訳ありません、父上、兄上」
エルストは父兄に向かって小さく頭を下げた。その所作でさえぎこちない。
「……人数も揃いましたので、お話をよろしいでしょうか、父上」
マックスは玉座の父に確認する。マックス、カーシー、そしてエルストの父たる国王は白い顎髭をなぞりながら頷いた。
「エルスト」
この場において初めて、国王自ら口を開いた。
「そしてベル、アギ。今年も王子と宮廷魔法使いが揃った。話はさっそくなのだが、おまえたちには継承の旅へと出てもらう。今日呼びつけたのは、そのためだ」
「はい……」
エルストは緊張した面持ちである。
「……継承の旅?」
ところが、国王の話についてゆけていない人間がいた。言わずもがな、ベルである。
「……なんだ、なぜ首をかしげる?」
その様子が変であると感じた国王は、次男であるカーシーに目を配らせる。
「えっと……」
カーシーはこめかみを掻きながら、ベルのほうを見た。
「ベル。王族の子どもたちは十七歳になると、宮廷魔法使いを側近につけるんだ。つまり、今回のエルストとベル、君たちのことだね」
あくまでも穏やかな口調は崩さず、カーシーはベルとアギに聞かせてやる。
「そして、王族の子どもたちは、十七歳の年には旅に出る決まりがある。宮廷魔法使いは彼らのサポートのほかに、旅での護衛役も務めることになっているんだ」
「……宮廷魔法使いなのに、宮廷勤めやないんかい!」
アギの指摘はごもっともだ。
「旅は一年を通して行われる。宮廷勤めになるのは、そのあとだよ」
「ええ〜っ?」
がっくりと肩を落としたのはベルだった。てっきり、優雅な宮廷暮らしが待ち構えているものだと思い込んでいたのだ。それを察したらしいカーシーは、残念だけどね、と付け足した。
「じゃあ、さっきの……卒論はやらなくていいっていうのは……」
ベルは恐る恐るカーシーに尋ねる。
「旅を終える一年後に提出してもらう。旅が終わるまで、卒業は延期だ」
「そんなあ〜!」
まるでこの世の終わりだと言わんばかりに血相を変えるベルに、カーシーは苦笑しながら、
「以上のことは、しっかりと願書に記載されていたんだけど」
と、やんわりとベルの注意力不足を窘めた。
「しかし、なんでまた旅に? 継承の旅っちゅうのも、ワシも初耳やで」
アギは己の二千年に及ぶ記憶を辿ってみるが、継承の旅とは、やはり初耳であった。
「継承の旅の意味は、旅の途中で理解できることだろう」
しわがれた声とともに、とつぜん玉座がぐにゃりと歪んだ。
いや、歪んだのは玉座ではなさそうだ。国王の姿こそ歪んでいるものの、国王本人はぴくりとも動いていない。マックスも平然としている。それらのことから、玉座とベルらのあいだの空間が歪んだということが、少しの間をおいてベルらにはわかった。エルストはやや驚いている。
何もない宙の歪みのなかから、緑色のツメが現れた。こちらに手招きをするかのごとく、ゆっくりと動くツメは、やがてぐんと一気に下方へ降ろされた。まるで空間を引き裂くようにして、彼は現れたのである。
「ファーガス理事長!」
カーシーがその名を呼んだ。
空間を歪ませたのは緑色のドラゴン、ファーガスであった。つばの広い帽子をふかく被り、麻のマントで身を隠している。その姿は王立魔法学園理事長のものである。
「やあ、ベル。それからアギ。元気にしているようだの」
ファーガスはまず右の後ろ足を絨毯の上に降ろした。なめらかな動作であった。両前脚を歪みの入り口に引っかけ、重いからだを支えている。右前脚を離したかと思えば、やがてすべての部位が絨毯に降りる。それと同時に歪んでいた空中は元どおりになった。ファーガスは猫のように背中を丸めた。
ファーガスは右前脚の指のひとつをクイと小さく動かす。すると、ベルの頭にふてぶてしく居座っていたアギが、一瞬にしてファーガスの手元に移動した。
「生意気なツラは相変わらずだなあ」
「じじいも相変わらず、辛気くさいカオしとんな。みんなは元気かよ」
「おまえがいなくなって、みんなせいせいしておるようだよ」
「ふん」
その直後、アギの口から勢いよく炎が飛び出した。ファーガスの顔を狙ったようだった。顔面にアギの炎を喰らったファーガスは、アギをひょいと放り投げた。すると、アギはふよふよとベルの頭に戻された。
「さて」
ファーガスはいちど帽子を取り、長く垂れた頭髪を掻き上げた。アギの炎による負傷はどこにも見当たらなかった。ごめんなさい、とベルがアギのかわりに謝るのを、ファーガスは、よい、とさして気にしたこともなく応じていた。
ファーガスはふたたび帽子を目深かに被る。
「継承の旅では、まず水、火、風、そして最後に地の属性のドラゴン。彼らの代表に順ぐりに挨拶をしてきてもらう」
「あ、挨拶だけ……ですか?」
エルストはファーガスと顔を合わせたことは数えるほどしかないのだろう。指先をわずかに震わせながら、強張った様子で尋ねた。
「ふむ」
ファーガスはエルストをじっと見つめた。
「本来ならばドラゴンたちと王族のあいだで〝旅を終えた証〟を確約してもらうのだが、魔力のないそなたにはドラゴンと契約するちからはない。もしもそなたがドラゴンと何かを約束するとしたら、それはそなた付きの宮廷魔法使いとなったベルを介する必要があるのだが、ベルを介するためにはまずベルとそなたが契約しなければならない……そのための魔力も、そなたにはない。よって不可能だ」
「……あ? ちょい待てぇや、ベルは宮廷魔法使いになったんやろ?」
異を唱えたのはアギである。ファーガスはうなずく。
「そうだ。特例の、王族と契約していない宮廷魔法使いだ」
「これは理事会でも承認されたことだよ」
カーシーはファーガスの話に補足するべく説明した。
「本来、王族と、それにつく宮廷魔法使いのあいだには魔法を使用した契約がなくてはならない。僕も兄上も、父上も、その先々代々も行なってきたことだ。しかしエルストは、ベルたちも知ってのとおりに魔力がない。しかしエルストも十七歳になる……そこで、形だけでも宮廷魔法使いを選ぼうと、今回のようになったんだ」
「か、形だけ!」
ベルはショックを受けた。今日はどうにもこうにも、ショックな事実ばかり浮き上がってくるものである。
「魔法による契約がないだけで、やることや、待遇は何ら変わらないよ」
「給金は?」
アギが尋ねた。
「ほかの宮廷魔法使いと同じようにきっちりと支払われる」
「ほっ」
先ほどから、鼓動の音が加速してやまない胸を、ベルは優しく撫でた。
心配なのはエルストである。魔力がない、魔法が使えないという異例の人生を送りながら、また新たな問題が浮上していようとは。ベルがそっとエルストを見ると、想像どおり顔色を曇らせたエルストがそこにいた。
「あの、理事長……ドラゴンと証を確約するには、必ず魔法を使わなければならないのですか?」
エルストは、ほんの一握りの期待をこめて質問した。
「そこなのだ。……国王、ここあたりもわたしから話してやろうか?」
ファーガスは玉座の国王に確認する。国王は黙ってうなずいた。
「ええ、では……オホン。話は戻る。しかたがないから継承の旅での目的と合わせて、説明してやろう。先ほども言ったとおり、継承の旅では四つの属性を代表するドラゴンたちへの〝顔見せ〟が主な目的だ。だが、そなたたちをヒョイヒョイと旅に行かせたところで、ズルをして帰ってくる可能性もありうる」
「ズルって?」
ベルは首をかしげた。
「本当は会ってもいないのに、〝すべてのドラゴンに挨拶してきたぞ〟と我々にウソをつくようなズルだ」
「みくびんなや! 腹立つゥ!」
アギがファーガスを睨みつけるが、ファーガスはそれを一蹴する。
「可能性の話だ。これは旅に出る王族すべてに言えるからな。……そこで、いつもであれば、四属性の代表にそれぞれ挨拶が済むごとに、この紙にサインしてもらうことになっている。これが旅の証になる確約証書ということだな」
「わー、キレーな紙……」
ファーガスのマントから出てきた一枚の紙を見て、ベルが目を丸くする。色彩豊かな表面が何にも照らされることなく輝いており、見る角度によって赤や青、緑と、ほんのりと色を変えている。文字どおり宙に浮いた紙の文面には、いくつもの名前が浮かんでは消えていく。曰く、これらはすべて継承の旅を終えた王族たちの名前らしい。
「四つの属性の代表のドラゴンたちのたてがみやウロコなどを織り交ぜた、特製の用紙だ。そのたてがみやウロコをもつドラゴンのからだに一筆書けば、同じ筆跡の同じ文字が、そっくりそのままこの表面に反映される。遠くにいても、即座にな」
特別なものらしく、ファーガスは紙をていねいにマントに仕舞った。
「このように、いつもであれば、挨拶が済めばすぐにわたしが確認できる。ところがこのサインの一連は筆者が行なう魔法なのだ。筆者、つまり王族は魔法を用いてドラゴンのからだにサインする必要がある。そこいらのペンやインクでは反応しない」
「そりゃ王子にはムリやなあ」
アギは、今回ばかりは諦めがはやいらしい。
「なので、今回は特例だ。各属性の代表であるそれぞれのドラゴンたちと、そなたたちで、挨拶が済んだ証となるものを〝持ち帰って〟きてほしい」
「……それこそ、ズルし放題やないか」
「それぞれのドラゴンが認めたものでいい。それなら、わたしが直接彼らに聞けばわかることだからな。そなたたちが勝手に決めたものじゃだめだ」
「あ、なるほど……四つの属性の代表であるドラゴンたちと、みんなで決めたものを四つ持ち帰ればいいんですね」
エルストは指折り四つ数える。
「そうだ。水、火、風、地、計四つの挨拶の証をわたしに渡すのだ」
「それが継承の旅?」
「そのとおり」
ベルの問いに、ファーガスはうなずいてみせた。〝挨拶〟するだけの〝継承の〟旅とは、少し違和感を感じる名前である。ベルとアギは不思議に思った。きっとエルストも、まだまだ納得できないことがあるだろうが、こうなっては行くしかあるまい。
「ファーガス。地図を渡してやれ」
国王はファーガスに言った。
「ああ、そうだった。さ、これが地図だ。まずはこの、湧水洞に行きなさい」
ファーガスは麻のマントからまたも紙を取り出した。色褪せた古い平面地図のようだ。エルストがこれを受け取る。
「どの道で行くかはそなたたち次第。道中、街や村落に立ち寄るもよし、観光地を巡るもよし、険しい獣道を行くもよし。落ちたら命はないだろうから、空を飛んでいくことはあまりおすすめしないがな」
そう述べながら、ファーガスは左前脚の先を何かに引っ掛けた。ファーガスの爪先が空中のどれについたのかはわからないが、とにかくファーガスは見る者たちの景色を歪ませていく。円状の靄のようなものがファーガスの後方に広がった。
「では、わたしはこれで、失礼しようかね。……すべき話はひととおり言ったはずだが、言いそびれたことがあっても心配するな。そのつど鳩を飛ばす」
ファーガスは重たそうに靄の中へと身を移す。
「鳩っつっても、見分けつかへんがな」
といったアギの文句には、
「見ればわかる」
とだけ返答を寄越した。
「無事を祈っておるよ」
「無事? 無事ってどういうこっちゃ? どんな旅なんか、おい!」
何やらゾッとする口ぶりだ。アギは声高々に吠える。だが、必死の声もむなしくファーガスは片方の前脚を挙げるだけで、それ以上の言葉は発しなかった。ファーガスの全身をつつむと、次第に靄も範囲を狭めていく。
「せめてみんなによろしく言っとけよ!」
縋るようなアギの言葉には、少しだけ口角を上げていた。
「エルスト、ベル、アギ」
靄が完全に消え、ベルらの目の前の光景が正常に戻ると、やや間をおいて国王が三人を呼んだ。
「おまえたちも知ってのとおり、今回の旅は王国で初めての例になる。ベルについてはぞんぶんにエルストをサポートしてやってほしい」
「ワシもおるで」
「……なら心配はいらぬか。いずれにせよ、この旅はおまえたちの旅。今日発つも明日発つも、ひと月後に発とうともおまえたちの選択次第だ」
国王は薄く笑っている。
「ただし、旅を終えたら必ず戻ってくるように。期間は一年後だ」
「……戻ってこなかったら?」
恐れを知らないのか、ベルは無邪気にも尋ねた。
「三日ほど高熱に悩まされたすえに身体の末端から内蔵に向かって、徐々に沸騰していくだろう。心臓は最後だ」
「ええ! や、やだ! どうしよう、アギ、エルスト様!? 私たち死んじゃうよ!」
「あ……ワシ大丈夫やで。火のドラゴンやから熱には強いもん」
「抜けがけ!?」
「ま、待ってよ。そんな病気は聞いたことないよ……」
国王直々の仰せとあって、三者三様に動揺を見せる。とは言っても、アギはさして構わないようである。火属性のドラゴンは沸騰しないらしい。
「病気ではない。おまえたちがそれぞれこの場に来た時に、すでに魔法をかけておいた」
「罠ッ!」
ベルの瞳にはとうとう涙が滲み出ている。はめられた。すでに最初から、はめられていたのだ。
「罠をかけるほどに重要な旅なのだ」
マックスが言葉を連ねる。
「私はエルスト、おまえの答えを聞きたい」
「答え?」
「旅を終えたおまえの……考えとも言うべきか……ともかく、その時感じた、おまえの意志が見えてくるはずだからだ」
長兄が話すのを、カーシーは黙って見つめる。この二人こそ旅を終えて何を感じたか、当人たちはいっさい語らない。
「挨拶って……」
ベルは、頭上のアギと視線を通わせる。
「ただの、挨拶だよね?……」
やがてベルとエルストが互いの顔を見合った。すると国王が、
「オフルマズド様の教えを忘れるなよ」
と、そう告げたのだった。