11 王都マグナキャッスル(6)
そこにいたのは真紅のコートをまとったアドルーではなく、かすかに黄ばんだ、白いシャツとズボンに身を包んだ、そして黒髪を垂れるままに流したアドルーであった。両手首と両足首には鎖が巻かれて拘束されている。片手、片足を動かすには両手、両足それぞれ同時に動かさなければならないようだ。つまり歩くことは出来ない。グランド・テレーマの陽射しに焼けた肌は黒ずんでいて、薄暗い監房の中でも、もみあげと眉毛が伸び、髭が生えていることがわかる。きっと爪も伸びていることだろう。
海辺の都市にいて陽射しを受けて笑っていた男であったとは、とても思えなかった。エルストはごくりと唾を飲む。その音が聴こえたのか、アドルーの目がゆっくりとこちらへ向けられた。よかった、アドルーは生きている。エルストがそう安堵したのは、目の前のアドルーがひどくやつれているからであった。独房の片隅には手がつけられていないパンとミルクがトレイに載せられて置かれている。
この独房はほかと違い、異臭がする。アドルーの体から放たれているのか、下水のものなのか。エルストが不快に思うくらいなのだから、ミズリンも嫌な気分だろう。
「ミズリンとパトリシアと……エルスト。エルストだよな? おまえ。少し雰囲気が違うけど」
久しぶりに耳にしたアドルーの声は、グランド・テレーマで会った当時と変わらず、意外にもはきはきとしていた。エルストは頷いた。
「そっちの赤いのは、エルスト付きの宮廷魔法使いのベルって言ったよな。それから、あたまのはアギか」
「あ、ええと、お久しぶりです……アドルー様」
ベルはアギを押さえながらぺこりとお辞儀した。
「ここは王立魔法騎士団だよな? みんな、何しにここにいるんだ」
狭い独房が窮屈そうだ。アドルーは床に座り込んでいる。
「私はあなたに話を聞こうと思ったのよ」
ミズリンが言う。
「あなた、サード・エンダーズとかいう組織の一員なのだそうね。それは本当なのかしら? どんな理由で加担したの? 目的はなんだったの? 組織はどんな活動をしているの? 首謀者は誰? ドルミート卿? いつから活動しているの?」
「言うのが早いし、質問が多いよ。まるで尋問官だ。そう矢継ぎ早に言わないでくれ」
「あなたの顔を見たとたん、言わずにはいられなかったのよ」
ミズリンは腰に右手を当てた。次にエルストが口を開く。
「あの……アドルー。僕も、姉様とほとんど同じことが知りたい。そのためにここに来たんだ。あと、どうしてヨウ・ヨウの湧水洞で僕を襲ったの? 僕、加工済みドラゴンなんて持っていないし、ましてや魔力すらないんだよ。それはアドルーも知ってるよね。あの時はアギを奪うつもりだったの? サード・エンダーズって、加工済みドラゴンを狙ってるんでしょ?」
「ちょっと待て。待てよ。少し見ないうちにずいぶん姉貴に似てきたんじゃないか、エルスト。質問が多いよ」
「あ、ごめん……」
「はは、べつに謝ることじゃないけどさ」
アドルーはあぐらをかき、しばらく黙り込んだ。何かを思案している顔だった。ミズリンもパトリシアも、エルストもベルも、そしてアギすらも、アドルーが何か言うのを静かに待った。静寂が全身にまとわりつくのを感じながら、エルストはこぶしを握った。
先ほど再会した時から、目の前の、この薄汚い格好をしたアドルーはグランド・テレーマで一緒に食事をしたアドルーと態度や口調、堂々とした雰囲気はなんら変わらないように思える。変わってしまったのは見かけだけだ。最後にグランド・テレーマで見た、父もろとも連行されてゆくアドルーが浮かべていた、悔しげな表情も一切ない。
「俺がサード・エンダーズだっていうのは、本当だよ」
長い静寂を、アドルーの言葉がようやく破った。
「サード・エンダーズの目的は、魔法使いから加工済みドラゴンを奪うこと。俺自身もいくつか加工済みドラゴンを奪ってきたよ。ほら……エルストたちを襲撃したようにさ。といっても、ミズリンたちにはピンとこないか。首謀者については言えない。言うつもりはない」
それは独房の外にいる全員が聞きたくなかった返答だったろう。ミズリンは一番に眉をしかめた。エルストは奥歯を噛み締めた。
「組織についてはこれ以上言うこともない。ごめんな」
「なぜ言えないの? 誰かに口止めされているのではないの?」
「言いたくないんだ。ミズリン、君が察してくれるかどうかはわからないけれど。仲間なんだよ。俺は、仲間の秘密を敵に漏らす男として生きてきてはいない」
ミズリンの質問にはそう答えた。
「でもアドルーは僕たちにサード・エンダーズの目的を教えてくれたじゃないか」
エルストが鉄格子越しに言う。エルストが言っているのはテレーマ宮殿のバルコニーでの出来事だ。
「あれは僕たちへの忠告だったんじゃないの?」
「あれくらい……エルストとベルに知られたところで、俺たちに不都合はないと思ったからに決まってる」
アドルーはついでに鼻で笑った。
「敵というのは、魔法使いのこと?」
ミズリンの質問がふたたび投げられた。アドルーはミズリンを見つめる。
「君たちだよ」
そのアドルーの答えには、悪気なんてさらさら含まれていないように思えた。そうであることがごくクリアで当然のことであるかのように、そしてそれに対してなんの疑問も抱いていないかのような口振りでアドルーは答えたのだ。
正直に言うなら、エルストは心臓を射抜かれたのではないかと錯覚した。たしかな衝撃とめまいがエルストを襲ったのだ。一瞬のことであったが、もともと気弱なところがあるエルストの心を沈ませるにはじゅうぶんな刺激であった。
「それは王族という意味かしら?」
こんな時でもミズリンは強気だった。弟とはまるで正反対である。
「広い意味で取ってくれていい。ともかく君たちは俺たちの敵なんだ」
念を押すようにアドルーは言った。
「俺は敵を許さない。許すことなんて、できっこないんだ」
力強い言葉だった。アドルーの眼差しが鉄格子の外に並ぶ全員をじっとりと眺める。
「エルストの質問にも答えてやりたいんだけど、やっぱりさ、いくらおまえに対してでも、仲間の秘密は打ち明けられない」
そう言われると、エルストは鉄格子に手をかけた。
「打ち明けられない理由は何? そんなにだいじな仲間なの?」
「仲間って言ったんだぜ。そりゃだいじさ。それに俺は、組織の理念に賛同している。……ああ、念のため言っとくが、これに関しても口を割るつもりはない」
「僕たちよりもだいじ?」
珍しくエルストが責め立てるような言葉遣いをした。ベルはやや驚いた表情でエルストを見る。ミズリンとパトリシアはエルストを一瞥すると、またすぐにアドルーへと視線を戻す。その後、ベルもアドルーのほうを向いた。
アドルーは長い長い溜め息をついた。それが自分の感情を押し堪えるしぐさに見えたのは、ベルとアギの勘違いだろうか。
「測るものさしが違う。だけど俺は組織を優先したい」
アドルーはうつむき加減に言った。それを聞いたミズリンは腰に当てていた右手を下ろす。
「エルスト。もうおやめなさい。きっとこれ以上は何も得るものはないのだわ」
そうは言うが、もちろんミズリンの気は済んでいないのも事実だ。だがアドルーの頑なな拒絶に観念したのだろう。ミズリンは見切りが早いのだろうか。ベルとアギはミズリンとアドルーを交互に見比べる。
「アドルー」
ミズリンはアドルーの名を呼んだ。
ミズリンは杖を取り出した。ベルの杖と同じていどの長さの杖だ。右手で持ち、胸の前にかざす。
「パトリシア、例のものを」
「かしこまりました」
パトリシアは杖を脇に抱え、水色のマントから小さな箱を取り出す。パトリシアの手のひらにおさまるくらいの、紺色の箱だ。パトリシアは箱をぱっくりと開ける。エルストの嗅いだことのない匂いが漂ってきた。
ミズリンは杖を振る。
「タアーユシュ」
ベルですら聞いたことのない呪文をミズリンは唱えた。箱の中から小さな光がアドルーの手元へと飛んでいく。同じように、ミズリンの手にも光が届いた。
「私の誓約の旅は終わった。私はこれから、あなたの妻として生きるから」
エルストは驚いて、今は消えた光の軌跡を確認する。アドルーの左手の薬指にはオレンジのランプに照らされて光る指輪がはめられていた。それと同じようなものが、ミズリンの左手の薬指にも輝く。
「王国では他者の持つ加工済みドラゴンの奪取は認められていない。たとえ譲渡だったとしてもよ。本来の持ち主である魔法使いが生きているあいだは譲渡も禁止されている。だからそれは罪だわ。なぜなら加工済みドラゴンとは魔力の塊であり、〝寿命〟なのだもの。……あなたはそこで自分のおこないを恥じ、しかるべき罰を受けなさい。いいこと。その指輪は、あなたが敵と呼ぶ、私たち王族の縁者になった証よ」
アドルーは指をよじって指輪を外そうとした。が、外れない。
「それはあなたが死んでも外れることはない!」
ミズリンはとつぜん声を荒げた。興奮しているようだ。エルストには、それはアドルーに対する怒りのように見えた。
「魔法って、そんなことも出来るんだ……」
エルストが言った。
「ですが指輪による拘束を持続させるには、絶え間なく魔力を使い続ける必要がありますわ」
パトリシアが小声で言う。
「あれはミズリン様の命がけの戒めなのです」
「戒めね……」
アドルーはせせら笑う。
「いかにも王族がやりそうなことだよ。誓約の旅なんて仰々しい慣例を代々手厚く続けている王族のな。とはいえミズリンらしくはないと思うから、ハッキリ言えば、驚いたが」
「言葉が過ぎますわよ!」
先日マックスにも諫言したように、パトリシアはまたしてもミズリンへの文句を聞き逃さず指摘した。さらに続ける。
「サード・エンダーズに加担したのはドルミート家の逆恨みではありませんの? 今の王国への!」
なぜかパトリシアの形相は切羽詰まっている。それに対してアドルーは冷静だ。
「〝四番目〟が何か言ったところでまったく響かないぞ。パトリシア。宮廷魔法使いになれたから家が格上げされるとでも思っているのか? 何を期待してる?」
「まあ! 聞き捨てなりませんわ! わたくしがミズリン様の宮廷魔法使いになったのはわたくし自身の希望です! あなたなんかに何がッ」
ミズリンはパトリシアの肩にそっと手を置き、わなわなと怒りに震える自身の宮廷魔法使いをなだめた。ミズリン自身、唇を震わせているが。エルストやベル、アギは呆気にとられている。
「牢屋で口汚く喧嘩するなんて、ずいぶん下品なことをしているんだね。みんな」
この場にいる誰のものでもない声が聴こえた。まずベルが反応して杖を取り出した。いつでも魔法が使えるように身構えたのだったが、その新しい声の主を見た瞬間、杖を下に向ける。
牢屋にブーツの音が響いた。
「騎士かと思った……」
ベルが戸惑いつつも言った。声の主は眼鏡の位置を整える。
「騎士じゃなければ大丈夫とでも思ったかい」
最前にいるベルと二メートルほど距離を置き、声の主、カーシーは呆れた顔で溜め息をついたのだった。
「カーシー兄様……なぜここに?」
ミズリンが、これはまずい、といった表情を浮かべた。
「エルストたちが王立魔法学園を通過したままどこかへ行ってしまったようだからね。たどってきたんだ」
「しもた! ああ〜、もう二時間経っとったんかいな?」
「やば……気づかなかった」
アギとベルはうろたえる。ふたりにつられてエルストも焦り始めた。
「気づかなかったのは時間だけかい」
カーシーは懐から濃いグレーの杖を見せた。そして大きく振る。
「えっ。うそ」
ベルのみならず全員が驚愕する。なぜならば、カーシーが杖を振り終わった瞬間、オレンジの光であったランプの色が青色に変わり、カーシーの背後にぞろぞろと魔法騎士たちが姿を現したからであった。
将軍であるマックスの正装ほど絢爛ではないが、シンプルな制服に身を包み、その上から加工済みドラゴンを身にまとう騎士たちはそれぞれ杖の先を前に突き出している。そして、まるでさっきからそこにいたかのように微動だにしていないのだ。
エルストたちの顔色が青ざめたのは、何もランプの色のせいではあるまい。
「君たちは本部に来るのは初めてだったのだろうから、知らなかったのも無理はない。残念だったね。初めから、王立魔法騎士団には筒抜けだったんだよ、君たちの潜入は……」
カーシーはとても残念そうな表情だ。
「国王陛下がお呼びだよ。王女ミズリン、王子エルスト、そしてその宮廷魔法使いたち」
残念そうな表情の裏には動揺と失望がかすかに漂っている。それは兄としての顔ではなく、王国のキーマンとして王族の失態を見つめる顔だった。
「しかたないわ……行くわよ、みんな」
まずミズリンが一歩歩き出した。午後九時五十分。アドルーは何も言わずに去りゆく人々を見送った。
夜も半ばの王城の謁見の間には、国王とその子どもたちが一堂に会していた。マックスは最後に到着した。仕事が立て込んでいたようだ。玉座に座る国王は眉を寄せ、目もとに深い影を落としている。両手でレイピアを握っているのは昼間と変わらない。
「王族が規則を破るとは言語道断」
国王の怒りの言葉はそれだけであった。
「恥ずべき、そして看過することは出来ない事態だ。おまえたち……まず責めるべきは王族であるおまえたちだ、ミズリン、エルスト!」
父の激情を代弁したのはマックスだった。国王の右手に立っている。
「おまえたちはアドルーへの面会要請をしりぞけられたそうだな。だがそれを踏まえてもなお王立魔法騎士団に忍び込むとは何事だ? 国王陛下のお言葉にそむいたのと同義だ、おまえたちの狼藉は! わかっているのか!」
王太子、王立魔法騎士団将軍、長兄、マックスを取り巻くあらゆる地位、立場がマックスを荒々しくさせている。そしてマックスは、己の背負う責任と同等のものをきょうだいたちにも求めているのだ。マックスからしてみれば、きょうだいたちに置いていた信用を裏切られたと思っている。おまけに、きょうだいたちに王族としての責任を放り投げられたとも思っている。それは国王も同じ気持ちであろう。ただ国王は今は、マックスに責められる子どもたちがどういった出方をするか、じっと見極めている。
「その指輪はなんだ、ミズリン?」
マックスの追及の矛先がミズリンの左手に向けられた。
「その指輪がある位置は男女が結婚を誓うための位置だぞ」
「ええ、誓ったのよ。アドルーとの結婚を、アドルーと」
マックスのブーツの音が規則正しく、すばやく響く。ミズリンの目の前にやってきた。マックスの右手が振りかざされると、それを見たエルストはとっさに動き出す。ミズリンは来るべき衝撃に備えてかたく目を閉じていた。パトリシアも息を飲む。
まもなく、乾いた音が謁見の間にこだました。
マックスも、ミズリンも、パトリシアも、エルストも押し黙る。ミズリンはおそるおそる瞳を開き始める。来るはずであった衝撃が来なかったことを不思議に思ったのだ。
「エルスト様!」
「王子、大丈夫か!」
ベルとアギだけが悲痛な声をあげた。すぐさまエルストに駆け寄る。マックスは末弟の目の前で鼻息を荒くしていた。信じがたいものを見たように両目を剥き出しにしながら、肩で大きく息を整えている。きっと今、マックスを動かしているのは怒りの感情だけだ。
「おまえとロクに話したことは、今までも、なかったが……」
口を開いたマックスの頬は引きつっている。
「そのせいなのかどうかわからないが……知らなかったぞ……エルスト……おまえもミズリンと同じ、大馬鹿者であることをな!」
ぼたぼたと鼻血が滴った。打ちどころが悪かったらしい。左の奥歯も一本抜け落ちた。エルストの右手の上には真っ赤な水たまりが作られた。その中に白い歯も混じっている。
「エルスト様! 血! 血! 鼻血!」
「おい、くらッ、王太子! おまえ、なんちゅうことしてくれてんや! 王太子なら何してもええんか! 兄貴なら!? 王子、血ぃ流しとるやないかい! ボォケッ! このッ、ボォケ!」
「いや、アギ……おおげさだから。大丈夫。ベルも……鼻血が出たのは初めてだけど……歯がこんな抜け方したのも、まあ、初めてなんだけどさ……」
エルストは口の中に広がる血を味わって、じつに不味そうな顔をしている。そのあいだにも鼻血はぼたぼたと流れてくる。ベルはエルストの眉間の少し下を指で押さえた。上向いちゃダメですよ、と言いながら。
「エルスト、おまえ……私を庇うことなんてなかったのに……」
ミズリンは目を瞠る。エルストの行動がまったくもって予想外であったし、マックスに打たれるのは自分だと思って覚悟もしていたのだ。しかしエルストが自分を庇った。あの気弱な弟の行動に、驚いてまともな言葉も出ない。それはパトリシアも同じであるようだ。カーシーは端で事を見守っている。
「なんか、とっさで……」
エルストはミズリンのほうに顔を向けて苦笑いを浮かべる。ベルの指はまだ引っ付いている。
「姉様が……女の人が打たれそうなんだって直感で思ったら、はあ、なんか、体が勝手に動いてしまいました……なんでかな……アハハ」
「アハハ、じゃないですよ! エルスト様、もう!」
ベルに怒られたエルストは、こんどはマックスのほうを見る。
「マックス兄様……ごめんなさい」
「……それは本部に侵入したことへの謝罪か? それともミズリンを庇ったことへの謝罪か?」
マックスはエルストを打った右手をすでに下ろしている。
「あ……えっと……どっちも、かな……申し訳ありませんでした……本当に」
しゅんと眉尻を下げたエルストを前に、マックスは深い溜め息をついた。その溜め息がエルストの前髪をも揺らした。
「陛下。私からは以上です。場を乱してしまい、申し訳ありません。あとは陛下からのお下知を」
マックスは元の位置に戻った。
「ふむ」
国王は右手で顎髭を撫でる。
「マックスが言ったように……おまえたちは私の言葉を無視したことになる。しかも、ミズリンにはアドルーとの婚約を破談にする旨も伝えていたはずだ。私が国王である以上、そしておまえたちが王位継承権を持つ王族とその宮廷魔法使いである以上、それらは許されぬことだ。許すつもりはない。だからおまえたちにはペナルティを与える」
「……ペナルティ……王立魔法学園の魔法使いたちに与えるペナルティと同じものかしら?」
ミズリンが言った。そうだ、と国王はうなずく。
「ミズリンには一年。パトリシアには三ヶ月。ベルにも三ヶ月。そのぶんの魔力をバンクに抽出させる」
国王の下知を聞いたエルストは呆然とした。下知の内容があまりにもショックであったからだ。
「……ん? エルスト様……泣いてらっしゃる?」
エルストの鼻に指を当てていたベルがすぐに気付いた。エルストはようやく鼻血が治ってきたというのに、次は涙を流し始めたではないか。
「どしたん、王子」
アギが心配そうに尋ねたが、エルストの涙は増していき、さらにはこぶしから足の爪先までガタガタと震わせ始める。
「僕は。父上、僕のペナルティは? ……」
国王は少しの沈黙を置いたあと、
「おまえには魔力がないだろう」
と答えた。ごく自然の返答であり、マックスをはじめ、エルストを除くきょうだいの誰もが疑問に思いもしなかった。しかめっ面のエルストにベルが言う。
「……もしかして、エルスト様。ペナルティ受けたかった?」
正解を言われ、エルストはこくんとうなずく。
「うん……受けたいよ。受けたかったよ……それくらいの悪いこと、してしまったんだし……ヒック……魔力がないなら、魔法使えないってさ……あんまりだよ! ……うう。悪さしてもペナルティも受けられない……魔力。こんな時も魔力……」
うぐっと息が乱れ始める。
「これじゃ僕、なんにもできない人間じゃないか……」
国王とマックスは顔を見合わせながら何かを考えるそぶりを見せた。ミズリンやパトリシアは戸惑っている。エルストがむせび泣くのなんて、ミズリンやパトリシア、カーシーすら初めて見る光景だ。ベルとアギも、ここまで熾烈に泣くエルストを見るのは初めてだろう。
ベルとアギは眉をうんと寄せて考える。
「あの、王様!」
やがて何かにたどり着いたらしいベルが国王を呼んだ。
「こういうのはどうですか。私とエルスト様の、誓約の旅の期間を短くするのは?」
「おーっ、そらエエ考えやで、ベル!」
アギも名案だと言わんばかりに目を輝かせた。国王は片眉をあげる。
「……そういうペナルティの与え方も、ありだと思いますよ。僕も」
それまで傍観していたカーシーもここに来てベルへの同調の兆しを見せた。今のところ、エルストに〝寿命〟としてのペナルティを与える術はほかに思い当たらないからだ。
国王はいちどマックスを見た。マックスは静かにうなずく。
「わかった。ではベルの魔力はそのままにしよう。かわりに、エルストの誓約の旅の期間を、一年間から九ヶ月に短縮する。すでにひと月が過ぎているので、あと八ヶ月弱だ。それまでに旅を終えるように」
エルストはベルの指に当たらないように両手で涙を拭く。
「ありがとうございます……父上」
その様子を見て、カーシーが笑う。
「ペナルティを受けるというのにお礼を言うなんて、エルストは変わった子だね」
「よかったですね、エルスト様!」
「こりゃ魔法使ったのと変わらんで!」
「あはは。うん。なんか、嬉しいや」
エルストは初めて誰かに〝時間〟を差し出した。この記念に、エルストはベルとアギと笑い合うのだった。
その後、エルストは私室でベルとアギと話していた。ミズリンとパトリシアは王立魔法学園の魔力のバンクに向かったらしく、また兄たちはそれぞれ仕事に戻っていった。父は就寝したのかどうかわからない。
鼻血は幸いにも治った。顔を洗い、服を着替えたので現在エルストはきれいな装いだ。
「さすがに抜けた歯を戻す魔法はないので、エルスト様、ずっとそのままですよ。奥歯」
「腫れてる気がするんたけど……エラのあたり……ちょっと見てくれない?」
エルストはデスクのチェアに腰かけたまま左のエラをベルとアギに見せる。ベルはソファーから立ち上がった。
「いや王子、腫れとるんは頬っぺたやで。かーっ、さぞかし強力やったんやろなあ……痛そ」
「これでミズリン様が殴られてたら、ミズリン様のお顔がヒドイことになってましたよ、きっと」
「僕もそう思うよ……ヒリヒリするもん」
指で掻いてみるが、痛いのでやめた。
「結局、アドルーには何も聞けなかったね」
「えーっと……話していただいたのは、アドルー様がサード・エンダーズだってことと……王族が彼らの敵ってこと……だけですかね」
「うん。しかも、広い意味で取ってくれていいって言ってた。王族だけが敵じゃない? ……んー。それがどういう意味なのか、よくわからないな」
「誓約の旅を〝仰々しい慣習〟とも言っとったで」
ベルは腰に手を当てる。
「パトリシアに言ってた、〝四番目〟ってどういう意味なんだろ?」
「あ、それなら、なんとなくわかるよ。パトリシアってきっと、ガードナーっていう貴族の娘さんだよ。ガードナー家は……こんなことは言いたくないんだけど……王国の王侯貴族のあいだには序列があってね。僕たちエン家が一番、ドルミート家が二番。ガードナー家は四番。だからアドルーはあの時、四番目なんて言ったんだと思う」
「なんか……あれやな。アドルーって、グランド・テレーマで会うた時はいい兄ちゃんって気がしたけど、今日のパトリシアへの態度見ると、けっこう嫌味なヤツなんやな」
アギはしみじみと言った。
「どうするんや? もう忍び込むのは無理そうやし……アドルーもあれ以上、口を割るとは思えへんし……振り出しに戻ったっちゅーか、仕切り直す時が来たっちゅーか……」
「エルスト様を狙った理由もわからずじまいですしね」
「そうなんだよね……どうしよう」
三者は揃って頭を傾げた。
「ねえ」
エルストがベルとアギを見上げる。
「旅を続ければさ……見えてくるかな? アドルーやサード・エンダーズのこと……彼らの動機っていうか……どうして加工済みドラゴンを狙ったか。そのあたりのことがさ。いや、当てずっぽうなんだけど」
「……アドルー様は敵を許さないって言ってましたよね。敵……つまり王族だとして……王族を許さない……うーん……」
ベルがぶつぶつと呟いた。エルストは顎を撫でながら言う。
「どうして王族が許せないんだろう。そこが見えてくれば、僕たちを襲った理由も、僕を狙った理由もわかる気がしない?」
「なるほどなあ。まあ、王子が王族として出来ることと言えば、今は誓約の旅だけやろしな……」
「……うん。そうですね。どのみち期間が短縮されたから、早いとこ旅を終わらせないといけませんし。……王様の魔法、忘れてないですし。……コワイし。じゃあ、私たちの目的はまた、旅を終わらせることだけに絞りましょう」
「うん。てことは……図書室での調べ物を再開しないとね」
その時、部屋の扉が控えめにノックされた。エルストは、どうぞ、と声をかける。執事だろうか。エルストのかわりにベルが扉を開けた。
「こんばんは。夜にごめんなさいね」
ノックしたのはミズリンだった。うしろにはパトリシアの姿もある。
「少し、よろしいかしら」
エルストがうなずくのを確認すると、ふたりはエルストの私室に入ってきた。エルストが促してもふたりはソファーには座らなかったので、必然的にエルストも立ち上がった。
「さっきのお礼を言いに来たの」
「……ワシの耳おかしくなったんかな? ミズリン姫、お礼っちゅった? 今」
「アギ、しーっ」
「エルスト様。こちらを」
パトリシアが進み出て、エルストに小型のポットを見せた。
「貧血に効く薬草で作ったサプリですわ」
「え……ぼ、僕に?」
エルストは目をぱちくりさせながら自分の顔を指差した。
「もちろんですわ。本来なら、わたくしがミズリン様をお守りしなくてはならなかったところを、エルスト様に救っていただきましたので……心ばかりのお礼の気持ちでございます。受け取ってくださいまし」
パトリシアはにっこり微笑んで、そしてわずかに頭を垂れながらポットを差し出した。エルストはためらいがちに受け取る。
「ありがとう……とっても嬉しい……」
ガラスポットには緑色のサプリメントがいくつか入れられていた。蓋を開け、くんくんと匂いを嗅いでみる。苦そうだ。だが、パトリシアがわざわざプレゼントしてくれたのだ。今はその事実だけで飛び上がるほどに嬉しい。
「おまえたち……風のドラゴンを探してるのよね? カーシー兄様から聞いたわ」
ミズリンが言った。
「これは私からのお礼……王立魔法学園の図書室にある、〝風の夢〟という絵本を探してみなさい。きっと見つかるわ」
「え……えっ? 絵本……」
エルストはガラスポットを落とすところであった。ミズリンが風のドラゴンの居場所にまつわるヒントをくれたことよりも、本当に〝お礼〟をしてくれたことに、情けなくも拍子抜けしてしまったのだった。
「……おぼえたわね?」
しかし威圧的な態度は相変わらずだ。
「あ、は、はい。憶えました! 風の夢……ですね」
エルストは髪が乱れることなど気にも留めずにこくこくと何度もうなずいた。表情は依然として呆気にとられているままだ。
ミズリンは少し笑い、
「ありがとう。私を庇ってくれて」
と言った。
「おまえのこと……マックス兄様よりは、好きになれそう。ちょっとだけね」
旅の成功を祈っているわ、と言い残し、ミズリンとパトリシアは部屋を出ていった。残されたエルストとベル、アギはそれぞれ視線を交わす。
「エルスト様……エルスト様が、ミズリン様を庇ったからですよ。これはエルスト様のお手柄ですよ。……やった。やった! エルスト様のおかげで風属性のドラゴンが見つかりますよ! やったあ!」
「王子、やったな! 魔法じゃなくても、やったったなあ! 魔力なくても出来ること、あったでェー!」
「ふたりとも……はしゃぎすぎ。はは……やった! やったあ!」
エルストはふたたび涙を流し始めた。悲しいわけではない。エルストは今日、生まれて初めて、嬉し涙というものを知った。