11 王都マグナキャッスル(4)
エルストは久しぶりに自室のベッドに身を倒した。少し硬いシーツが懐かしい。母親のぬくもりを知らないエルストにとって、この部屋の、このまっさらなシーツが母親がわりだ。
母である王妃はエルストを産んだ直後から床に伏せている。母と会話したことは一度もないどころか、おはようも、おやすみなさいも交わしたことなんて一度もない。エルストが産まれてからというもの、会う時は瞳すら開けてくれないのだから、エルストは母の見舞いに行くのがしだいに億劫になった。ミズリンは熱心に見舞いに行っていたようだが、ミズリンが母と話したことがあるのかはエルストにはわからない。
母が伏せているからといって父である国王がエルストに優しくしてくれていたのかといえば、必ずしもそうではない。
父も、マックスも、ミズリンも、一度でもエルストに微笑みかけてくれたことがあったろうか。
カーシーだけは、生まれながらに魔力のない末弟を気にかけてこそくれていたが、教師というのはなかなか忙しいらしく、まともに話したことは、やはりなかった。
いま思えば、エルストと会話らしい会話をしてくれたのは、アドルーとベルとアギくらいのものだ。なんて狭い関係なのだろう。他者との希薄な間柄を思うと頭が痛くなり、エルストは枕に顔をうずめた。時刻は午後八時である。
「エルスト様〜……」
部屋の扉が遠慮がちに叩かれた。遠慮がち、というよりは、必要以上に音を立てないよう控えめに叩かれたように聴こえた。エルストはベッドから降り、扉を開ける。するとそこにはベルとアギの姿があった。ホウキまで抱えている。ベルとアギは今夜は実家には帰らず、執事が手配した客室に宿泊している。
「ちょっといいですか?」
ベルは部屋に入りたそうにしている。エルストは首を傾げながらも部屋の中へ招き入れた。ベルを素朴なソファーに座らせ、エルストはデスクに備え付けられた椅子に腰掛ける。
「どうしたの? お腹が空いた……とか?」
夕食はベルとアギの泊まる客室でエルストも一緒に済ませたはずだ。一時間前のことだっただろうか。
「そうじゃないんです。私たち、あれから考えたんですけど……」
この部屋には一行以外には誰もいないというのに、ベルはしつこく周囲を気にした顔で言う。アギもわざとらしくおとなしい。ベルの言う〝あれから〟の見当がつかず、エルストはますます不思議に思う。
「アドルー様って、今も王都にいるんですよね?」
ベルは確認するように言った。
「そうだね……そうだと思う。王立魔法騎士団は王都に本部を置いてるから。ベルも知ってるよね? 騎士団は学園を通った先の、王城の地下にあること」
「尋問もそこで?」
「うん。アドルーとドルミート侯爵は貴族だ。平民ならわからないけれど……彼らのような身分の人たちは、本部で取り調べをおこなうんじゃないかな……」
定かではないが、父が彼らを粗末に扱うとは思いたくはない。
「騎士団の本部ですから、もちろん牢屋もそこですよね?」
ベルの質問はなおも続く。エルストはだんだんと顔を歪めていく。
「あのさあ……僕、さっきから、イヤな予感がするんだけど……気のせいかな?」
胃のあたりがむかむかするのをエルストは感じた。グランド・テレーマの牢屋で身震いした時とそっくりだ。
「忍び込みましょっ!」
ベルの屈託のない笑顔と、アギのにやにやした得意げな顔に、エルストはいよいよ首を振った。イヤな予感が的中してしまった。
「ダメだよ、そんなこと。王立魔法騎士団はきっと学園よりも厳しいし。僕だって入れてくれるかわからない」
「せやから、忍び込もうゆーとるやんけ」
「アギ……もしかして、アギの提案?」
エルストはうらめしげにアギを見る。
「ふたりの意見の一致です」
ベルの笑顔はやまない。
「忍び込むってさ……悪いことだよね?」
これにはベルは唇を尖らせた。その様子を見るに、どうやら否定は出来ないらしい。
「じゃ……待ちます? 尋問が終わるの。このまま王都で?」
ベルにしては意地の悪い言い方をした。
「悪いことだっていうのは理解してるんだね……」
エルストがうなだれると、まあ、おりこうではあらへんわな、とアギが言うのだった。
「それこそペナルティ対象じゃないの? 僕、バンクに提出する魔力なんてないよ」
自分で言いながら悲しさが襲ってくる。魔力がないという現実を自分自身の言葉で突きつけられ、エルストはしょんぼりと眉尻を落とす。ベルは腕を組み、うーん、と悩ましげにするが、次の瞬間には、じゃあ、と言いながらホウキを片手に立ち上がる。
「私とアギで忍び込んできます!」
「ま、待ってよ! どうしてそうなるの!」
「だって……私とアギだけだったら、もし見つかったとしてもペナルティを受けるのは私だけで済みますし……アドルー様から聞いた話はそのままエルスト様に伝えます。だからエルスト様には無問題!」
「そういうことじゃないんだよ、僕が言いたいのはっ!」
「エルスト様、いかがなさいましたか?」
ついつい荒げてしまったエルストの声が届いてしまったのか、部屋の外から執事の声が聞こえてきた。エルストとベルは慌てて口をふさぐ。
「な、なんでもないよ!」
「せやせや、ちょいと寝言の練習〜!」
「……アギ様がいらっしゃるのですか? もしや、ベル様も?」
ベルは必死の形相でアギの口をふさいだ。言い訳にしたってほかに適当な嘘があるだろう。焦ったエルストは両目に涙が浮かんでくるのを感じた。
「ベルとアギと……カードゲームしてるんだ! そう、今のは、僕が負けたから変なことを言わなくっちゃいけなくなってさ」
「左様でしたか。ジュースをお持ちしましょうか?」
「僕たち、お腹いっぱいだよ。遠慮しておくよ」
「かしこまりました」
エルストが足音をおさえて扉に忍び寄り、そっと耳を当てる。部屋の前で規則正しい靴の音がしたので、どうやら執事は去っていったようだ。エルストは安堵の息をついた。
「王子の執事どないな教育受けとんねん。あれ地獄耳か? いやァ、びっくらこいたわ〜」
「じいは昔からああだよ。アギ……お願いだから、もっとマシな嘘をついてよ……」
エルストは椅子に戻った。
「せやったら一緒に嘘つこーや。一緒に牢屋行って、誰かに何か訊かれても、行ってまへーんってごまかそーや」
エルストは胃のあたりの不快感をついに声に出す。
「それが悪いことじゃないならやってるよ。そりゃあ、行ってるよ! でも悪いことって、やっちゃいけないことでしょ。それに……僕、ベルみたいに魔法、使えないんだよ。ベルは簡単だろ? 嘘つくの……魔法があるからさ……」
気付けば太ももには涙が落ちていた。エルストはズボンに浮かび上がるいくつかのシミを見つめながら言う。
「嘘つく魔法だって学園で学んだんでしょ、どうせ……」
ベルはホウキは手にしたまま、すとんとソファーに腰を下ろす。やがて真顔になり、じっとエルストを見る。一方アギは困った顔をしていた。
「嘘つきますよ」
そう言ったベルの声は真剣だ。
「でもそれは魔法じゃないです。そりゃあ、嘘つくための魔法は教わりましたけど……でも今回はエルスト様とおんなじように、自分の口で……あ、えっと……言葉を言うのって、魔力いらないですよね? エルスト様、喋ってるもんね。……うん。だから、私も、それで嘘つきますから」
エルストは何も言おうとせず、とうとう困ったベルは下唇をうんと出し、こう言う。
「……なんのために王都に来たんですっけ?」
エルストは涙ながらに、そしてうらめしそうにベルと目を合わせる。
「……アドルーに話を聞くため。ベルって……意地悪なんだね」
ベルは何も言わなかった。
決行はすぐにおこなうことにした。なぜなら王立騎士団の牢屋を目指すなら道中に問題があり、今行くほうがよいであろうと結論づけたからだ。その問題とは、王城の門と、学園の〝バーバ〟の存在である。
「学園の図書室は午後十時まで開いてます。だから、門を通る時は、図書室に行くんだってことを言いましょう。今なら絶対に通用します」
王城と王立魔法学園のあいだにある門の番人にはおそらくその言葉が通るはずだ。エルストの私室を出る前にベルがエルストとアギに言い聞かせた。
「ってことは、逆に言うならタイムリミットは二時間やっちゅうことや」
「そう……だね。十時までに王城に戻ってこないと、バーバにも何か言われそうだ」
「そのバーバなんですよね……今のところの、一番の問題は」
バーバを形成しているのは王立魔法学園の教員たちの魔力だ。バーバが認識した人間を同時に教員たちも認識しているのかは、生徒であるベルにはわからないことだった。もしもそうならば一行がどこに向かうのかはすぐに知られてしまう。図書室の開放時間ならもちろん教員だって待機しているだろう。教員の宿舎だって学園の敷地内にある。
「行ってみないことにはわからないよね……」
こればかりはエルストの言う通りだった。
「王立魔法騎士団の本部内の地図なら僕、古いのだけど、持ってるから……行ってみようか」
「やっと乗り気になってくれたな」
アギが笑う。
「手段なんか選んじゃいけないって、ベルとアギの目が言ってたじゃないか……」
気が進まないことは確かである。だがエルストはベルとアギとともに王立魔法騎士団の牢屋を目指したのだった。涙はすでに乾いていた。
ベルが言ったように、門番からは図書室へ行くという理由で通行が認められた。じつに簡単なものだった。その後、王立魔法学園の敷地内に入ったとともにバーバが一行の入園を確認する。バーバの存在を感じるのは声だけだというのに、そこらじゅうにバーバの目があるのではないか、実際はどこからか見られているんじゃないかとエルストは錯覚に陥る。それほど生身の声に聴こえるのだ。
王立魔法騎士団への入り口はベルが知っている。ひとまずそこへ進むことにした。人通りがないぶん、昼間よりも静かだ。そして薄暗い。昼間は灰色であった廊下がランプによってところどころオレンジに染まっている。本当に教員が待機しているのかも疑わしいほど、なんの気配もない。バーバの声もしない。それが恐ろしく感じた。エルストはもちろんベルもブーツの音が際立たないように気をつけて歩く。王立魔法騎士団への入り口は図書室とは真逆の方角にあるようだ。エルストは周囲に気を配りながらベルとアギに続く。
「そこのカドを曲がったら……です」
ベルが小声で話した。角を曲がった先は当然ながら見えない。一行はいちど踏みとどまり、曲がり角の影に身を隠す。
「門番っているのかな? バーバじゃなくって……人間の門番」
エルストが言った。
「いないはずですけど……そこに門番が立ってた記憶はないです」
「ここで立ち止まっとってもしゃーないし、行くか」
アギの言葉が後押しとなり、ベルとエルストは曲がり角へと一歩踏み出した。
門番はいなかった。そのことにベルもエルストもほっと胸を撫で下ろす。やけに大きい、おそらく焦げ茶色であろう二枚扉が待ち構えているだけだった。そしてすぐに次の心配がやって来る。
「もし〝いたら〟?」
エルストは具体的な対象を言わずにベルに訊いた。それでもベルとアギはエルストが何を言わんとしているのか容易に理解した。ベルがこう答える。
「許可を得てるって言いましょう。誰からの許可からというのは、最初は言わずに。訊かれたら王様って言いましょう。つきやすい嘘は今のところ、それです」
「胸が痛くなってきた……」
「乗りかかった船やで、王子。ちゅーか腹くくれよ。男やろ」
女の子であるベルのほうがよっぽど肝が据わっている。アギにそう言われ、エルストはつばを飲み込みながらうなずいた。少しむせた。