10 マックス王太子とミズリン姫
ミズリンはかちこちと鳴る時計の長針の音をもう何度聞いただろう。先日、色とりどりのドレスが占領していたベルベットのソファーには、ミズリンがパトリシアともども座らされている。隣のパトリシアは身の丈弱ある杖を大儀そうに握ったままだ。この部屋には彼女たちのほかには誰もいない。メイドがいたが、早々に出て行った。ミズリンはローテーブルからティーカップを持ちあげた。カップとソーサーは白いアンティークだがとてもミズリンの趣味ではない。ハーブティーは飲みやすい温度を保っている。長いひとくちを終えると同時に談話室の扉が開いた。
「急に呼び出してすまないな」
現れたのは長兄のマックスだった。きょうだいの顔を見てにこりともしないのは、マックスもミズリンも同じである。マックスはミズリンの向かい側に座った。ミズリンはカップをローテーブルに置き、それから肘掛けに、出来るだけ体が大きく見えるようにもたれた。
「アドルーのことは耳にしていると思うが」
今日初めて会うというのにこの兄は挨拶だってしない。
「それを踏まえた国王陛下の決定を伝える。おまえとアドルーの婚約は破談にするとのことだ。おまえも差し支えないな?」
まあ、とパトリシアが眉を寄せた。
六日前、マックス率いる王立魔法騎士団の馬車でアドルーとその父ドルミート侯爵が連行されてきた時から、おそらくこうなるであろうなということはミズリンにもパトリシアにも予測できていた。それがいざ現実になろうとした時、すんなりと受け入れるための心の準備だってしてきていた。パトリシアはもう何も言うことはない。ただパトリシアが気がかりなのはミズリンだけである。
「そのことだけど」
パトリシアと違ってミズリンは眉ひとつ動かさない。パトリシアの心配など知ったことではないといった顔だ。
「予定どおり、私は十八になったらアドルーとの婚儀をおこなおうと思っているの」
マックスはわかりやすく顔をしかめた。
「罪人と結婚しようと言うのか」
「アドルーの罪状が確定されたら、そうなるわね」
「おまえが十八になるまで、あとどのくらいだ?」
「ひと月ほどよ」
「馬鹿馬鹿しい。うすぎたない監房で婚儀の誓いを立てようと言うのか。私や国王陛下に正装をしてそこに並べと?」
マックスは背もたれに右腕をかける。
「私はおまえが無鉄砲であることは知っているつもりでいたが、こんなに手をつけられないほどの考えなしだとは思わなかった」
「マックス様。少々お言葉が過ぎるのではありませんか?」
パトリシアは杖を握りしめたままマックスを睨む。
「パトリシア、幼い頃に君をいじめていた貴族の男子を殴り倒したのはほかでもないミズリンだったろう。自分の立場もわきまえない、これのどこが無鉄砲ではないと言うのかね」
それから後始末に追われたのは私だったのだとマックスはつけ足した。あれはマックスがちょうど二十歳の時であったろう。
「ともかく、結婚は取り止めだ。王女が罪人に嫁ぐものではない。話は以上だ」
マックスは素早く立ちあがる。
「それを言うためにわざわざ呼び出したの?」
「書面で知りたかったか?」
「結構。私は書面で結構よ。その空いた時間でクリスタベルに会いに行けるでしょう」
ミズリンは頭上からマックスの視線を受けるのを感じ取った。
「お母様のところにも」
「……母上のところにはクリスタベルを私の名代として行かせている。じゅうぶんだろう。本来なら騎士団に入るはずだったカーシーのぶんの仕事をこなしてくれる人材がいるのなら話は別だがな。ではな」
談話室の扉が閉まる音を、ミズリンは片耳で聞いた。ミズリンは足を組む。
「マックス兄様を好きになるのは、私の人生で最も越えるのが難しいハードルだわ」
その代わり、嫌いになるのは本当にたやすいものであった。それも昔の話である。
「行きましょう、パトリシア」
ミズリンは意を決したように立ち上がった。
「地のドラゴンに会いに行くわよ」
飲み残したハーブティーが冷めきらぬままに、ミズリンとパトリシアは談話室を出た。彼女たちの誓約の旅が終わるのは遠くない時だ。