8 島隠れ
ブラウン火山に湧く泉の水はあたたかく、すくい上げてもしばらくはその温度を保っている。エルストは二度すくい上げ、まだあたたかいうちにそれを己の顔に打ちつけた。眠気のとれないまぶたの油分は落としてくれたが目は覚めさせてくれそうにない。水気のある手のひらで、前髪を掻き上げた。昨日までの自分と今の自分は決定的に〝変わって〟いる。そのことを内側だけでなく外にも示したく、エルストはそうしたのである。
ベルは例のテラスのチェアに座り、テーブルの上にヤシの実の繊維で作った縄を広げている。いや、今もなお作り続けている。朝食はエルストもベルもヤシの実で済ませていた。アギはベルの頭の上でうとうとと船を漕いでいる。
エルストはベルの向かい側に空いていたチェアに座った。テーブルの上にはエルストのナイフも転がっている。このナイフには昨日、ブラウンが刻印を焼き付けてくれた。切っ先へと昇ってゆくドラゴンの刻印だ。これをブラウンへの挨拶の証としてファーガスに見せよ、とのことだった。ナイフ、カッコよくなりましたね、とエルストよりもベルがはしゃいでいた。そんな格好つけたナイフも今はベルの作業具となっているようだ。屋根の隙間から漏れる朝日に、銀色のなかを昇る赤黒いドラゴンが輝いている。
「エルスト様……」
チェアの背もたれにマントを掛け、肩をさらしたベルの視線は縄の編み口のままに、しかし口はエルストに向かって開かれた。エルストはヤシの木の繊維を少しつまむ。
「やっぱり、ブラウン様のところに戻るべきなんでしょうか……」
はあ、とベルは難しい顔をした。これにはエルストも表情を苦くする。
エルストとベルが思い悩んでいる原因の種、そしていまだテラスに滞在している理由、それは、「次に挨拶するドラゴンの居場所がわからない」という、驚くほどシンプルなものだった。ふたりは昨晩それに気付いたものの答えが出ず、うんうんと唸りながら夜もろくに眠れなかった。
エルストは片手で目をこすった。悩むくらいならば答えを聞きに行こう、と夜中にベルが言い出したのだが、その提案は「あんなに気持ちよくお別れしたのにまたノコノコ引き返すのは男がすたる」とのアギの否定により却下された。くだらないとは思えど、エルストにはその気が見え隠れしていたが、じつはベルもアギもこれでけっこう、体裁を気にするタイプであったのだ。三者とも納得し、ひとまず「ブラウンのところに引き返して道を尋ねる」案はお流れとなった。
「グランド・テレーマに戻れば、少しは情報を集められるんじゃないかな」
今エルストが述べたのが第二の案である。文字どおり、このままグランド・テレーマへ戻り、アドルーや街の人々に情報を尋ねることだ。三者はこちらを選んだ。これならば、体裁なんて気にならないからであった。なんとも情けない王子一行である。
「それより、これ……どうやってするの?」
エルストはつまんだ繊維をベルに見せた。
「魔法じゃ、ないんだよね? 本当に……」
するとベルは顔を上げてエルストと目を合わせる。しばらく沈黙が続き、そのあいだに、エルストの質問の意味と、珍しく前髪を掻き上げているエルストの心の変化を悟ったベルはやがてにっこり笑い、自身の作業を中断すると、新しい繊維をくるくると巻いてみせた。
「こうやって細くしていってください」
「うん……」
エルストはていねいに、ベルの見様見真似ではあるが、ゆっくりと繊維をまとめていく。おぼつかなくて、あやういしぐさだが、それでもベルはにこにこと見守っている。そしてふたりのあいだに杖を置いた。
「そうしたら、先っちょを、この杖に結んでください。そうすると、作業しやすいですよ」
「む、結ぶ……」
まさか生まれてこの方いちども紐を結んだことがないというわけではなかろうに、エルストは非常に戸惑った様子で杖に紐を回したかと思うと、それをゆるく結んでみた。すぐにベルは、そうじゃないです、と言いながら結び目を解く。「もうちょっと、キツめに」そのベルの助言に従って、エルストはこんどはギュッと力一杯結んでみる。杖が折れやしないかと危惧したものの、さすがはドラゴンから作られた杖だけあって曲がりさえもしなかったことにエルストはとても安堵した。
こんどこそベルのお許しも得たので、さてようやく作業開始である。
「じゃ、あるていど作ったら、出発しましょ」
ベルは上機嫌である。エルストが加勢してくれることが正直に嬉しくもあり、昨日のエルストとは違うエルストの、ささいで確実な変化に心が弾んでしまうのだ。そんなベルの気持ちなどつゆ知らず、エルストは汗を浮かべて、ぎこちない手つきで紐を編んでいった。
本日、王都マグナキャッスルの岩トカゲの頭付近はにわか雨に降られていた。標高が高い王城では朝方のにわか雨も珍しいことではない。
先日から王都に帰還しているミズリンは、宮廷魔法使いのパトリシアを従えて午前中から王城の家族の部屋を訪れていた。王族のための談話室である。深い青緑の壁紙に包まれた部屋に鎮座するベルベットのソファーや、ウォールナットのローテーブルの上を、ミズリンとパトリシアが持参した豪華なドレスたちが占領している。雨足など知ったことではないと足蹴にでもするように、談話室の雰囲気は至って明るい。
「ほら、クリスタベル。このドレスはどう?」
ミズリンがエルストやベル、アギには決して見せなかった笑顔を振りまく先にいるのは、黒髪の女の子であった。癖っ毛の髪を伸ばした、今年二歳になる姫である。つり目がちな瞳がどことなく父マックス王太子を匂わせる。この幼いクリスタベル姫が王国の王位継承順第二位にいる王女だとはとても信じがたいが、彼女はれっきとしたマックス王太子のひとり娘であり、現国王の孫であり、カーシー、ミズリン、エルストの姪である。
ソファーに座りもせずにドレスを取り囲む少女たちの団欒の間からやや離れたチェアには、色素の薄い髪をまとめた女性が、そばにメイドを控えさせながら微笑んでいる。女性の柔らかい微笑の素質は黒髪のお姫様にはあまり受け継がれていないようだ。
「ミズリン様、こちらのワンピースも素敵ですわよ」
パトリシアが魔法で宙に浮き上がらせたのは、ミズリンやパトリシアのような年代の娘にはあまりにも小さすぎるワンピースだ。これらの召し物はすべて、この小さな黒髪のお姫様、クリスタベルのために、ミズリンとパトリシアがグランド・テレーマで買いつけたものである。
「それはあなたが選んだものだったわね、パトリシア。……ええ、さすがパトリシアだわ。クリスタベルにぴったり」
ミズリンは満足そうにクリスタベルとワンピースを眺めた。
すっかり着せ替え人形となっているクリスタベルは、泣きもせず、わずかに口もとを緩ませながらドレスやワンピースを触っている。しかしどこか遠慮がちなのは、一年ぶりに再会した叔母の姿に戸惑っているからだ。
「ごめんなさいね、お義姉様。朝から押しかけてしまって」
ミズリンはひとり離れたところに座る女性のほうを振り向いた。
「いいのよ」
女性はうなずいた。
女性はクリスタベルの母であり、マックス王太子妃である。カーシー、ミズリン、エルストが呼ぶならば義姉の立場にある。上品な装いは生家の貴族の家からのものだ。
「クリスタベルも話し相手が欲しそうにしていたし、何より一年ぶりにあなたたちに会えたから、クリスタベルもきっと嬉しいわ」
するとミズリンはクリスタベルと視線を交わらせ、口角を頬いっぱいにつり上げて微笑んだ。グランド・テレーマにてはエルストらにマックスのことが嫌いだと語っていたミズリンでも、その家族ともなれば話は違うらしい。
「王妃様のところへは?」
王太子妃は尋ねた。するとミズリンは義姉を一瞥し、すぐさまうつむきながら首を振った。
「母上は、私が帰ってからも、ずっとお伏せがちだから」
王国の王妃はエルストを産んだあと、十七年間ずっと病床に伏せている。国王の部屋の隣の部屋で、いつもひとりで静かに眠っているのだ。ミズリンは物心ついた時から幾度となく見舞いに行っているが、会話が出来たことは片手で数えるほどしかない。それでもミズリンは惜しみなく母のもとを訪れるのだが、〝母〟から抱きしめてもらったことはいちどもなかった。誓約の旅に出る日だって、見送ってくれた家族はカーシーと、当時一歳たったクリスタベルだけであった。
「お墓へは?」
王太子妃はさらに尋ねる。これにも、ミズリンは首を横に振るのだった。
「ごめんなさい。お義姉様だって、疲れてらっしゃるのに」
ミズリンがそう言うと、王太子妃はミズリンにはわからぬくらいに眉毛を曲げ、困ったように微笑む。
「私のことはいいのよ」
この王太子妃も、クリスタベルを出産してからというもの、何かと体調を崩しがちであるのだ。
「でも、クリスタベルの相手をしてあげるのは、せめてマックス様がお帰りになられるまでよ、ミズリン」
その義姉の言葉に、ミズリンは義姉に見つめ返す。
「誓約の旅はまだ終わっていないのでしょう」
やんわりと咎められ、ミズリンはばつが悪そうに唇をとがらせるのだった。
「うーん、やっぱり、火山よりは涼しいですね、グランド・テレーマは!」
約一日を費やして下山したエルスト、ベル、アギの一行は、すぐにグランド・テレーマに戻ってきていた。今回はきちんと地上から関所をとおり、通行料も納めている。
「夜やからやろ」
朝とは違い、はっきりと目が覚めているアギはすかさず指摘した。
グランド・テレーマはすでに星のまたたく夜空に覆われている。祭典は終わったというのに、グランド・テレーマは夜になっても店が賑わい、酒場も人で溢れている。街並みは明るい。一行は午前中に作っておいた縄を、グランド・テレーマの中央街に夜市として出ている買取屋に見せて回った。なんと二千ゴールドで売れた。これで今日の宿屋や、旅支度の資金にもあてがうことが出来る。エルストはベルと喜んだ。「エルスト様のおかげですよ」と言ってくれたのが、エルストには照れくさかった。
「どうします。今日はこのまま、宿屋で休みますか?」
財布をナップサックに入れたベルはエルストに尋ねた。
「そうだね……宿の人に、話も聞けるかもしれないし」
はたして宿屋の主人がドラゴンに詳しいのかはわからないが、こうなれば地道に尋ねていくしかないだろう。今日はもうこの時間であるし、アドルーに訊いてみるのは明日にしたほうがよさそうだ。中央街に沿う宿屋は少し値段が高いようだから、一行は街の外れたところの宿屋に行こうと選んだ。
「エルスト様、危ないっ」
エルストが中央街を歩き出そうとした時、ベルが慌ててその腕を引いた。次の瞬間、エルストの目の前を馬車が通過した。蹄の音と車輪の音、馬の唸り声と鈴の音がけたたましくエルストの耳を叩く。眼前には黒い塊が横切った。ベルはいちはやく馬車の鈴の音を聴いたのだった。
「飛ばしすぎやろ、アレ!」
アギが言うとおり、歩行者の多い中央街をとおる馬車にしてはスピードを上げすぎているように思えた。鈴を鳴らした馬車の姿はとうに小さくなっており、あっという間にテレーマ宮殿のほうへと進んでいった。歩行者たちは迷惑そうに、しかたなく馬車に道を譲っていた。
「ありがとう、ベル」
ベルが腕を引いてくれなければエルストは馬車に蹴られていた。エルストは素直に礼を言った。
「あの馬車……」
そしてエルストは、テレーマ宮殿へと消えていった馬車のとおった道をじっと見つめる。
「……どうします、文句言いに行きますか?」
ベルが言うのには、エルストはそうじゃない、と首を振った。
「王立騎士団の紋章が見えたんだ」
一行はテレーマ宮殿へと足を進めていた。自治領であるドルミート領に王立魔法騎士団の馬車が走ることなど滅多にないことであると、エルストにとって気がかりであったからだ。
「だいたい、王立魔法騎士団って何やねん」
道中、アギが尋ねた。エルストが答える。
「王国の守護を司る軍事機関だよ。本拠地は王都だけど、世界じゅうに基地がある」
「せやったら、ここにおっても不思議やあらへんやん」
「ここはドルミート領だ。ドルミート領にはドルミート侯爵家がもつ警備団といった私兵団がいるから、王立魔法騎士団は駐在しないことになってるんだ」
「ほーん」
そうこう言っているうちに、一行はテレーマ宮殿の前に到着した。宮殿内は明るく、庭園の噴水の音が掻き消されるほどに何やら騒々しい。先ほどとおった馬車は一台ではなく、数えて五台、宮殿の外に駐車しているのが見える。そればかりではなく、単騎の馬も、何頭も繋がれていた。そのどれもにエルストの言う王立魔法騎士団の紋章がぶらさげてある。この金の岩トカゲの紋章は、ベルも何度か目にしたことがあった。
「騒々しいっていうか……物騒というか?」
ベルの視線の先にはドルミート侯爵家の警備団に混ざる、王立魔法騎士団の騎士たちの姿がある。門の入り口に構えている全員が加工済みドラゴンを連れているうえに、サーベル、あるいは刺又を携えているのだから物騒と言うほかに言いようはない。
「すいませーん」
そんな物騒な兵士たちにも怯むことなくベルは声を掛けた。よく度胸があるものだ、とエルストは改めて感心する。
「ここ、何かあったんですか?」
尋ねた相手は王立魔法騎士団の騎士だった。騎士はベルをじろりと睨む。若そうな騎士だが、暗がりでよく見えない。
「貴様、魔法使いか。だが騎士団の者ではなさそうだな。悪いが、部外者には教えられん。あっち行った、行った、小娘」
「ムカッ」
するとベルは勢いよくエルストの腕と肩を引いた。突然のことにエルストは足がもつれるが、ベルはそんなことにはお構いなしだ。
「ここにおわすはエルスト王子殿下です! 私はエルスト様の宮廷魔法使いのベル!」
だから教えろ、とベルは言外に圧力を掛けた。エルストは苦笑する。さすがは王立魔法騎士団の騎士、牢屋の見張り兵とは違ってエルストの顔をきちんと知っていた。驚きつつも、疑いはせず、
「将軍……マックス王太子将軍殿下にお呼ばれに?」
と、そんなことを口にしたのだ。
「……兄上? 兄上がおられるの?」
エルストは眉を寄せた。ちょうどその時、別の騎士が現れ、若い騎士に向かってエルストやベルが何者かと訊いてきた。ここにエルストがいると知った騎士は、「おとおしするか、一応」と若い騎士に言った。
「一応って何よ、一応って……」
ぶつくさ言うのはベルである。
宮殿内はオレンジ色の明かりが灯されている。宮殿のなかにも騎士の姿が目立つ。白とネイビーのモザイクタイルの上をつかつかと歩き回る者もいたが、一般人は宮殿の外で門前払いにされているらしく、現在テレーマ宮殿にいるのはドルミート侯爵家の一族と、それに連なるドルミート領の執政官、警備団、王立魔法騎士団とエルスト一行ということになる。
一行は若い騎士に宮殿の塔群へと案内された。ちょうど一行がアドルーに連れられてミズリンと対面した、ソファーのある部屋であった。
「王太子将軍殿下。エルスト殿下がお見えです」
なんと本当にマックスがいるらしい。扉をノックした若い騎士がそのまま扉を開ける。どうぞ、と促されるままに一行は部屋へと入った。
それとほぼ同時であった。
気のいい金属音が響き、エルストの視界で、真紅のコートを着たアドルーの両手首に手錠がはめられたのは。
エルスト、ベル、アギの誰もが事態を理解出来ていず、ただ言葉をなくして目の前の光景に呆然としている。部屋のなかには、一行以外にはアドルーとマックス、騎士数人、それから黒い髭をたくわえた身なりのよい壮年の男がいた。壮年の男がドルミート侯爵だろう。エルストも数回会ったことがある。
アドルーは騎士に手錠をはめられたのだった。
「このドルミート領はまもなく王国の統制下に置かれる」
ソファーの前でアドルーと対峙するマックスが、一行になど目もくれずに言った。
「国王陛下より、じきにお達しがあるだろう」
「し、しかし……アドルーを捕縛するなど……」
ドルミート侯爵が額に脂汗を滲ませながら何か言いたげに口を動かしたが、マックスは毅然とした態度で淡々と述べる。
「あなたもだ、ドルミート卿。諸悪に手を染めたのは、何も、息子のアドルーだけではあるまいに」
マックスが右手を挙げると、騎士は慣れたしぐさでドルミート侯爵の手にも錠を掛けた。
「宮殿内の金庫に隠された加工済みドラゴンはすべて王都に持ち帰らせていただく」
マックスに何を言われようとも、アドルーは凛としていた。
そのあとだった。マックスの鋭いつり目の瞳が、ようやく弟を映し出したのは。
「誓約の旅は順調か、エルスト」
そう言われても、エルストはうんともすんとも答えられない。胸のなかには得体の知れない疑問の念が沸き立っているのだが、どう言葉にすればよいか、そして何から訊けばよいのか考えあぐねているのだ。お久しぶりです、との簡単な挨拶すら出てこないほど動揺している。
この時ほどベルの存在が心強いと思ったことはない。舌すら動かせないエルストに代わり、その宮廷魔法使いたるベルが言う。
「どうしてアドルー様たちを捕まえてるんですか?」
単刀直入すぎる質問だったが、マックスはとくに気にもせず、それに答える。ただその返答が、エルストとベル、アギにとっては耳を疑うものなのだが。
「アドルーとドルミート卿が、悪の組織、サード・エンダーズの一員だからだ」
時が止まってしまったのではないかと思った。あるいは夢か、あるいは別の世界の出来事であるかのようにエルストには思えてしかたなかった。エルストの後頭部を鈍い塊が打ちつけたようだった。耳鳴りがして、目の前の景色と音をエルストの意識から切り離そうと、ほかでもないエルスト自身の意識がそうさせようとしている。寒気がする。めまいがする。
「ど……どういうことやねん!」
アギの怒声が響いているのだろうとエルストは思った。
「どうも何も、そういうことだ。このテレーマ宮殿内の金庫からは持ち主のいない加工済みドラゴンが数多く見つかり、調べた結果、それらはサード・エンダーズに襲われた魔法使いのものであると判明した。ついでに……」
マックスは続ける。
「ヨウ・ヨウの湧水洞でエルストを襲撃したというのは、このアドルーだ」
マックスのこの言葉が追い打ちとなり、エルストはとうとう呼吸すら乱し始めた。その様子を察したベルは、エルストの腕にそっと触れる。あくまでも視線は、マックスとアドルーに向けられたままだ。
「証拠とか、あるんですか? エルスト様を襲ったのがアドルー様だっていう証拠は。それに、エルスト様を襲ったのは境界村の、オフルマズド教の神父のはずじゃ……」
「その神父が自白したのだ」
マックスはベルの言葉を遮った。
「神父がエルストを襲ったのは境界村でのみ。湧水洞の山麓でエルストを襲ったのは、神父ではなく、アドルーであると。証拠は……」
マックスが目を配らせると、騎士のひとりが黒いブーツを持ってきた。騎士はブーツの底を一行に見せつける。
「この靴裏に、ヨウ・ヨウの花の花粉が付着していた。おそらく川に流されてきた花粉だろう」
ベルはエルストに代わってブーツの底を見た。かかとのあたりに、ちらちらと光るものがある。これには一行も見おぼえがある。
「このブーツはアドルーの私室で見つかった。サイズもアドルーの足にぴったりだ。それから、黒い、加工済みドラゴンのマントも合わせて押収されている……ほんのわずかに焦げついたマントがな」
ベルはもはや何も文句は言えなかった。ヨウ・ヨウの湧水洞の山麓で黒い服の男に炎の魔法を放ったのは、このベル本人であるからだ。あの時、炎魔法を受けても焼け落ちなかった黒いマントが気になってはいたが、まさか本当に加工済みドラゴンのマントだとは、と、ベルは頬を引きつらせている。そしてその時、黒い服の男が小川のなかを歩いたことも、ベルの目は鮮明におぼえているのだ。
「貴様は知らなかったのだろうが……」
マックスはアドルーに向き直る。
「あの湧水洞には輝く花が咲いているのだ。ヨウ・ヨウというドラゴンが魔法をかけ、我ら王族が咲かせた花がな」
アドルーは下唇を噛んでいる。
「王族ではなく、誓約の旅をおこなえない貴様には、知りえないことだったろうがな」
そののち、ついにアドルーが口を開く。
「知っててたまるかよ」
と、短いひとことだった。
アドルーはエルストを見ようともせず、騎士に連れられるまま部屋を退室していった。彼の父ドルミート侯爵もまたそれに続く。マックスが退室するのは最後であった。マックスは退室ざまに立ち止まり、エルストにこう言う。
「おまえは何も気にすることなく、誓約の旅を続けなさい」
「む、むちゃ言うなや!」
アギが言ったが、マックスは表情ひとつ変えない。
「取り調べは我々王立魔法騎士団でおこなう。おまえたちの出番はない。ではな」
その日のうちに、アドルー、ドルミート侯爵、騎士数名は王都へと発ったという。マックスや残りの騎士はグランド・テレーマで宮殿内の調査を続けるらしく、また執政官やドルミート侯爵家の私兵団への監視の役割も彼らが担うらしい。
夜が更けてもなお宮殿内は騒然としていたが、街の人々へはいまだ噂さえ立っていないようだ。とはいえ領主とその息子が王都へ連行されたなどという一大ニュースが住民の耳に入るのも時間の問題だろう。混乱を避けるために王国がどのような処置を施すかはエルストらにはわからないが、マックスがしばしグランド・テレーマに滞在することは、いずれ起きるであろう混乱を予測してのことなのだろう。
気付けばエルストは宿屋の天井を眺めていた。
あれからしばらくもせずに一行は宿屋へ寄り、すぐに就寝した。街はずれの宿屋は宿賃も安く、二室とって千ゴールド強だったが、安い宿賃と相まって部屋はじつに寂しいものだ。天井の隅には蜘蛛の巣が張っている。ベルとアギはこの隣の部屋で休んでいるはずだ。朝日がうすくカーテンをつらぬいている。もしかすると、ベルとアギも目が覚めているかもしれない。エルストは仰向けになったまま腕を額に置いた。十分近く、どうにも起き上がる気になれないでいる。
昨日は宿屋の主人にドラゴンの情報を尋ねようと決めていた一行だが、一行の誰もが他人と口をきく気にすらなれず、結局は何も掴めぬままだった。ベルとアギにもよけいな気をつかわせてしまったものだ。今日こそは普段どおりに接したいものである。エルストはようやくベッドを降りた。
「ベル。アギ。……起きてる?」
身支度を済ませたエルストは隣室の扉をノックした。控えめに叩いたから聴こえなかっただろうか。返事はない。ベルは耳は良いはずだから、もしかすると、まだ寝ているのかもしれない。しかしアギのいびきは聴こえてはこない。エルストは悩んだ末、自分の部屋へ戻ろうと踵を返す。
「あ、王子や」
すると廊下の角からアギの声が聴こえてきた。
「ほんとだ! おはようございます、エルスト様」
アギがいるならベルもいる。ベルは両手にトレーをもち、こちらへ歩み寄ってきた。
「おはよう。起きてたんだね」
「はい。ご主人にキッチンお借りして、朝ごはん作ってました。あ、材料費はもちろん、払ってますよ」
トレーの上には大皿一枚、小皿二枚、それから水の入ったグラスがふたつ乗っている。小皿は空だが、大皿からは香ばしいかおりが漂っている。エルストはなんとなしに自分の部屋の扉を開けてやった。たしか、テーブルと椅子があったはずだ。扉の蝶番が軋んだ音を鳴らした。
「ジャジャーン。ベルとアギ特製のシーフードリゾット〜!」
楽しそうだ。エルストの部屋のテーブルに、ベルとアギが作ったというリゾットが乗せられる。香ばしいかおりは魚介とチーズのかおりのようだ。オレンジ色の残る焦げ目は表面を火で炙った証拠である。この焼き加減は、おそらくアギの魔法だろう。上には輪切りにされたオリーブがトッピングされている。
やけどしないでくださいね、なんて言いながら、ベルは大皿に隠れていたスプーンをひとつエルストに手渡した。さっそく椅子に腰掛けたエルストはリゾットに興味津々だ。不思議なことに、ライスが黄色い。
「サフランライスっていうんですって。美味しそうですよね」
「うん。いただきます」
ベルも向かい側に座り、朝食の時間が始まった。
今朝はすぐに完食してしまった。
「今日、これから街に出ますか?」
グラスを傾けながらベルが言う。大皿は見事に空っぽだ。
「ちゅーても、誰に訊いて回るねん、ドラゴンのこと」
アギが言うように、この街の誰がドラゴンについて詳しいか、一行は皆目わからない。情報源として最も有力候補だったアドルーはあのさまだ。ドルミート侯爵も息子ともども連行されてしまい、一行は尋ねる相手を失ってしまっているのだ。こうなれば、宮殿にいるであろうマックスに訊いたほうがよいだろうか。
マックスの顔を思い出し、エルストは口もとを歪ませる。昨日の宮殿内での出来事があまりにも衝撃であり、その余韻で寝覚めも悪い。うーん、と唸るだけだった。
「……やっぱり気になりますよね。アドルー様のこと」
ベルは本当に察しがよい。
「ワシも夢かな思たで。冷や汗かいたわ〜」
ベル、アギもそれぞれ思うところがあったらしい。
「アドルー様とそのお父様がサード・エンダーズって……」
先日一行にサード・エンダーズについて教えてくれたのはアドルー本人だったのだ。そのアドルーが昨日、王立魔法騎士団に捕縛されようとは、なんの冗談だったのだろうか。それも、よりによって兄マックスの手で。エルストは口をかたく結ぶ。
これよりはベルとアギが会話をする。
「アドルー様も、何も言ってなかったし……」
「昨日か?」
「うん。だって私がアドルー様なら、マックス様に文句のひとつでも言っちゃうよ。逮捕なんてヤだねー、べろべろ! とかね。アドルー様のお父様は何か言いたそうにしてたけど、アドルー様はずっと黙ってらしたから、なんでかなって」
「そりゃー悪事が証拠付きで露呈したもんやから、もう言い逃れ出来そうにもあらへんわぁって諦めてたんとちゃう? マックス王太子の威圧感ハンパなかったし、べろべろなんて言ーひえんやろ」
「そういうものかなあ」
「いや知るかいな。ワシなーんにも悪いことしたことない、まっさら清らかなドラゴンやからな〜。ワッハッハ」
アギの笑い声がむなしく部屋に響いた。なんかツッコめや、というつぶやきも残されたが、ベルは聞いていないのか、あるいは聞こえていないふりなのか、テーブルに頬杖をつく。
「なんか腑に落ちないっていうか。……エルスト様はどう思います?」
「僕は……そうだな……」
エルストは少しだけ下唇を出す。
「まだ実感がないというか、信じられない気持ちが大きくって……ベルが今言ったように、腑に落ちないというか……だって、そんなそぶりも見せなかったでしょ、アドルーは」
「そこですよねぇ」
ふう、とベルは変な顔をして前髪を吹き上げる。
「そもそも、サード・エンダーズの目的て、なんやったっけ」
おいおい。ベルは呆れ顔になった。
「アギたち加工済みドラゴンでしょ、もう」
「せやった、せやった。ワシらが狙われとるんやった」
アギはわざとらしく舌を出した。
「で、ワシらを奪って何すんねん?」
これにはエルストとベルは互いに顔を見合わせ、同時に首をかしげる。
「なんだろ?」
考えるがわからない。
「マックス兄様は、宮殿内の金庫で加工済みドラゴンが見つかった……みたいなことを、おっしゃってた気がするけど」
「売りさばくつもりだったんでしょうか?」
「え……売れるのかな? 加工済みドラゴンを買う人、いるの?」
「闇市っちゅうヤツやな! 闇取り引きや!」
「楽しそうだね、アギ……」
エルストは溜め息をついた。
「でも、わざわざ魔法使いを襲ってまで加工済みドラゴンを狙うでしょうか?」
ベルが話題を戻す。
「えっと、いくら元王族だからって、ドルミート家がもともと加工済みドラゴンを所有していたとは思えませんし……」
そのとおり、加工済みドラゴンの所有権はあくまでも王国にあり、その管理はファーガスがおこなっている。
「魔法使いを襲って、その加工済みドラゴンを売るなんて、売るにせよ買うにせよリスクが高すぎる商売じゃありません? バレたら一巻の終わりなんですから。港があるんだし、ふつうの商売でも儲かりそうなものですけど」
ブラウン火山にはチ・ビたち腕の立つ職人も住んでいるのだ。あるていど儲けようとするなら、彼らに商談を持ち掛けたほうが都合がよさそうである。
「リスクか」
エルストはうなずく。
「もしも本当にドルミート侯爵やアドルーが加工済みドラゴンを隠蔽していたとするなら、たしかに王国への反逆行為と見なされるだろうね。だからこそ今回、マックス兄様おん自ら騎士団を率いて来られたんだろうし」
マックス兄様は王立魔法騎士団の将軍でもあるんだ、とエルストは告げた。王国の幹部直々にドルミート侯爵家に赴いたのだから、見つかった加工済みドラゴンの数はエルストたちの予想以上に数が多そうだ。
「ドルミート侯爵家が公に所有しているのは、私兵団がもつ加工済みドラゴンだけだろうね」
その加工済みドラゴンも、詳しくは王国やファーガスの管理下に置かれているはずだ。
「思ったより闇が深そうやな……」
アギは難しい顔をしている。エルストとベル、アギにとっても決して他人事ではないのだが、マックスは「気にするな」と言った。まるで突き放されたようだった。
「でもこれで、なんでサード・エンダーズが王子の行動を把握しとったかっちゅう謎は解けたようやな」
「え?」
エルストはアギを見る。そしてすぐに、その意味を理解した。
「……言われてみれば、そうだね。僕が今年、誓約の旅に出ることを、アドルーももちろん知っていたんだから」
「ってことは、ミズリン様が主犯って線は消えましたね!」
「うん……だといいんだけど」
エルストは消極的である。
「このままマックス兄様にお任せしてていいんだよね……」
父王に似て厳格な兄のことだから調査に手を抜きやしないだろう。その点においてはエルストも納得しているのだが、しかしサード・エンダーズは組織という話なので、まだ仲間がいるやもしれない。ベルやアギがいてくれるとはいえ、不安がまったく取り除かれるというわけではなかった。エルストの行動を把握していた理由はわかったが、だからと言って、ベルではなくエルストを襲った理由には繋がりそうもない。アドルーはエルストが魔法が使えないことを知っていたのだから、なおさらおかしいと思う。それとも本当にエルストを人質にとるつもりだったのか。
ベルがエルストの心を探るような目つきで見ていることに、エルストは気付いた。
「あ、いや、なんでもない。なんでもないよ。ドラゴンの話を聞いて回ろうっか」
エルストは苦笑した。
「ん〜……」
ベルはしかめっ面を浮かべ、
「ようし、決めた!」
そして勢いよく立ち上がった。
「こうなったら、アドルー様と直接、お話しする!」
「ええっ?」
「だってエルスト様、ずっと浮かない顔してらっしゃるんだもの。アドルー様の口からお話を聞けば、少しはスッキリしますよね?」
「で、でも……」
エルストのまぶたの裏にはマックスの険しい顔がちらつく。何度もまたたきをするが、消えてくれそうにはない。
「じゃあ、このまま旅を続けますか。モヤモヤしたまま?」
頭上からベルの言葉が胸に突き刺さる。エルストは短く息を吐き出すと、上目にベルを見る。
「行く。行くよ、王都に」
遠回りになる誓約の旅だが、猶予はまだある。半ば衝動的ではあるものの、一行の次の目的地は王都マグナキャッスルに決定した。