7 ブラウン火山(2)
誓約の旅を始めてから、昨晩が一番寝苦しかった夜だったろう。エルストは薄暗い、朝らしきなかに目をこする。杖の明かりは夜どおしエルストとベル、アギを照らしてくれていたらしい。
「おはようございます、エルスト様」
ベルは先に起きていたようだ。アギのマントの上に膝を立てていた。エルストは身を起こして、おはよう、と返した。
「ごはん食べたら出発しましょうか」
「そうだね……」
朝は一番、涼しかった。今のうちなら思う存分に山を登れそうだとさえ思った。ベルはすでに出発の支度を整えているようだ。準備がはやい。エルストはひとかけらのパンを口にして、寝をともにしたラグマットを巻いた。暑苦しさから来る胃もたれで、それ以上は食べられそうにもなかった。
ベルがアギの鼻ちょうちんを破ったことが出発の合図となった。今日もドラゴンを探す道のりになる。
「せめて半分、登りきりたいものですね」
「朝のうちにペースを上げよう」
「ファァ……よう寝たわァ〜」
アギはひとりだけまだ夢心地だ。
汗くさいシャツの袖をまくりながらエルストは先頭を歩む。前髪が額に張り付いているのがひたすら不快だ。杖の明かりがなくとも、なんとか進めそうだが、念のためにベルは杖を握っている。一行のあいだに会話らしい会話はなく、誰もが黙々と上を目指した。
ペースを上げる時間を朝に選んだことが幸いしてか、昼になる前には山の中腹まで到達していた。目を凝らせば、木々の隙間から頂上がうんと近付いて見える。それにしても、ここには水源はないのだろうか。エルストは水の確保を期待していたのだが、窮すればヤシの実をすすることになりそうだ。チャポン、と水筒が鳴ったのが虚しい。
「なかなか……遠いね」
頂上まで、あと、およそ半分か。暑さの増してきた樹林のなかで、一行は岩場の陰で休んでいる。この黒ずんだ岩でさえ熱い。ベルの表情にも疲れの色が見え隠れしている。せめてもの憂さ晴らしと、エルストは背後の黒ずんだ岩に後頭部を打ちつけた。
「……うわっ!?」
「ええッ!?」
まず最初に驚きの声を上げたのはエルストだった。そして次にベルが瞠目する。エルストが頭を打ちつけた瞬間、がらっと音を立てながら、黒ずんだ岩が崩れたのだ。
「ああ〜ッ!?」
しわがれた声が響く。
「え……ええー!? ……あ痛ッ」
黒ずんだ岩を崩したエルストの頭が、またも、ごつんと岩にぶつかる。だがこれは今しがた打ちつけた衝撃によるものではないとエルストは瞬時に判断する。岩と思ったが、岩ではないようだ。岩ではないが、何か硬いものにぶつかった、それはたしかだ。崩れた黒ずんだ岩は埃を舞い上げている。仰向けに倒れたエルストは、黒い粉が付着した後頭部をさすりながら上半身をねじって起こした。ベルとアギはぱちぱちと瞬きをしている。
「だ……誰……」
そんなことをつぶやくベルとアギの目にはたしかに、第三者の頭が映っている。
「いッ……てェーだろがボケーッ!」
しわがれた声で怒鳴るのは、一行の誰ひとりとして見たことなんてさらさらない、茶髪のモジャモジャ頭の男だった。男は浅黒い肌をしていて、袖のない、薄汚れたシャツを着ている。いや、男、なのだろうか。ベルもアギも、エルストすらも、断定するには決定打に欠けていた。なんせこの男らしき人物は、
「チビ助や……」
驚くほど身長が低いのだ。
エルストが立ち上がると、モジャモジャ頭の身長はエルストの膝上ほどであった。しかし子どもだとするならば、しわがれた声は不自然であるし、髪はおろかヒゲだってモジャモジャ生えている。
「オイ……誰や今、わいのことチビ助っつったんは?」
モジャモジャ頭の隙間からギロリと眼光が覗く。性別はどうやら男で間違いないらしい。気になるのは身長のみである。
「わいはチビ助やあらしまへェーん! チ・ビや!」
「チビ?」
「チビ助」
「チビ助やん……」
エルスト、ベル、アギは三者三様に反応を見せた。
「ちゃう、ちゃう、ちゃうちゃうちゃう」
モジャモジャ頭がぶんぶんと頭を振る。壊れた黒ずんだ岩から湧き上がる埃がけむたい。
「チ・ビ。わいの名前な。チ・ビや、チ・ビが、わいの名前」
「チビ?」
「チビ助」
「チビ助やん……」
「だああっ! もうえーわ、この流れ! チ・ビゆーんがこうも通じらんとは!」
モジャモジャ頭を抱えたチ・ビは、わなわなとからだを震わせながらも、それより、と場を仕切る。
「わいの住居をぶっ壊しおったのはおまんか、金髪小僧?」
チ・ビはエルストを見上げた。
「住居って?」
するとチ・ビは勢いよく地団駄を踏む。
「ここにー、あったやろー? わいのマイホームが!」
なんのことだ、とエルストはベルに助けを求めたが、ベルも知らないと首を振る。
「さっき! おまんが後頭部を打ちつけた岩があったろがい、ゆーてんねん!」
ふんぬっとチ・ビは拳を掲げる。鼻息が荒い。
「ああ、岩……あったね……」
エルストはうなずく。それにしても、やはりチ・ビは小さい。
「それがわいのマイホームやったんや! イキナリ壊しおってからに!」
「岩がマイホームて、なんのジョーダンやねん……」
アギのつぶやきにチ・ビは血眼になりながら訴える。
「わいらはずぅっとそこに暮らしとんねん! しかしおまん、さては、加工済みドラゴンやろ! 加工品のくせにヒトの住まいにイチャモンつけんなや!」
「ハァァン?」
加工品のくせに、という言いぐさが気に食わなかったらしい。アギは陰険な態度になった。すかさずベルが割って入る。
「待って、アギ、話がややこしくなるから」
アギは舌打ちしつつもおとなしくなった。ベルはチ・ビと目線を合わすべく、その場にしゃがみ込む。
「えっと……チ・ビ、あなた、ここに住んでるの?」
「せや」
つられてエルストもしゃがみ込んだ。
「この岩が……君の家?」
エルストの目には粉々になった黒ずんだ岩が映っている。
「せや。わいらはみんな、ブラウン様のおちからが加わったこの岩を、恐れ多くも住居にさせてもろちょる」
「ブラウン様っていうのは?」
もしや、と、ベルは期待を込めて尋ねた。
「火のドラゴン様や。加工職人のわいらには、ブラウン様は欠かせない存在なんやで」
その瞬間、エルストとベルは顔を見合わせる。
「ブラウン様が……火のドラゴンの代表!」
両者の表情は明るい。
「ど、ど、どこにいるの? ブラウン様っていうのは」
エルストは興奮気味だ。
「……あ?」
だが、チ・ビの眼光は険しい。
「ブラウン様の所在を訊くよりも、おまんには先に、言うべきことがあるじゃろが」
「え……」
なんだろう。エルストはぽりぽりと頬を掻いた。ベルには何か思い当たることがあるらしく、エルストに耳打ちする。
「エルスト様、おうち!」
エルストはようやくその意味がわかった。
「おうち……君のおうち、壊してしまって、ごめんなさい」
そう言って頭を垂れたのであった。
「うむ」
チ・ビは短い腕を組んでうなずく。
「ええじゃろ、許したろ。ほんなら、おまんら、ブラウン様を探しちょるんならば、わいが案内しよか」
「ありがとう、チ・ビ」
安心したようにエルストが言うと、チ・ビはにっこりと、屈託なく笑った。八重歯には、ぽっかりと穴が空いていた。
「そいじゃ、ちぃっと、どいとくれ」
チ・ビは一行に向けて手を払った。
「なんや、なんや」
アギがのたまうが、ここはチ・ビの言うとおりに従ったほうがよさそうだ。
「ボクト・チューツー!」
「え……呪文?」
ベルが目を見張る。チ・ビが大きく両手を振りかざしたかと思えば、植物のつるが踊り狂い、葉がざわめく。そしてぼこぼこと土が盛り上がり、徐々に穴を形成していくではないか。エルストとベルは思わず後ずさった。土に飲み込まれるのではないかと錯覚したのだ。盛り上がった土は人ひとりの足もとを覆うていどに広がり、穴は深く深く沈んでいった。やがて出来上がったのは、土のなかを進む道だった。
「このなかを行くぞい!」
チ・ビは笑う。
「ど、どこに続いてるのよ、コレ?」
ベルは恐る恐る土を突っついた。
「ブラウン様のおところに決まっとろーが。わいら一族はブラウン火山の地下深くで、ずっと、ドラゴンを加工してきたんじゃ」
「ドラゴンの……加工を……」
エルストは心を鷲掴みにされた気分だった。純粋な興味が湧いたのだ。
チ・ビは、ドラゴン加工職人の一族だった。
まるでモグラの穴のなかを進んでいるようだった。息苦しく、暑く、這いずりながら、ゆっくりと進んでいった。エルストはこの時、生まれて初めてホフク前進というものを体験した。全身に泥がつきまとい、汗に濡れたからだにへばりつく。冷水のなかに今すぐ飛び込みたいと思ったが、ここにそんな恵まれたものはない。ブラウン火山の中腹まで登ってきたはずが、こうして逆戻りしようとは。下へ下へと続く穴道を進みながらエルストは微妙な気持ちになった。
そうしてたどり着いた道の先は、驚くほど広い空間で、ヨウ・ヨウの湧水洞よりも広さがあるのではないかと思うほど余裕のある空間だった。土まじりの洞窟が広がっていたのだ。あたりは熱のこもった黒ずんだ岩壁が道を作っていて、そしてさらに進まなくてはならないらしい。ベルは杖の先端を照らした。
「ここで加工を?」
エルストが尋ねる。
「いんや、もちっと先や」
チ・ビがずかずかと先頭を歩く。彼の肌着が汚れているのは、先ほどの穴道を往来していたからだろうか。エルストのシャツも真っ黒だ。髪をはたくが、土は落ちず、汗にまじって金髪を汚している。ベルも頬が真っ黒だった。
ゆるやかに下降していく道中でも、じりじりと熱がエルストとベルを逃さない。ベルは空いた片ほうの手で、汗の玉がついた口もとを拭った。
「みんな、お客人やで」
チ・ビが手を叩いて誰かに一行の存在を知らせた。チ・ビの一族の仲間だろうか。こんな地下に、とエルストは不思議に思うが、背丈といい、彼らはふつうの人間のそれとはかけ離れた生活を送っているらしいということは想像にたやすい。
ベルの杖の光は、作業場のような、鍛冶場のような広間を照らした。ここがドラゴンの加工場なのだろうか。鉄の匂いと土の匂い、それから汗の匂いが充満していて、とても気持ちのよい空間ではない。日射しがないため、よけいに不穏な空気を漂わせている。加工場を囲う岩壁にはところどころ穴が空いている。今しがた進んできた穴道のような大きさだ。
加工場には、金敷は数台あるが火床は一箇所だけであった。チ・ビと似たような背丈、風貌の男たちが火床の炎に輪郭を照らされながらジロジロと一行を見てくる。その誰もが作業なんてしていないことが、一行の目にはおかしく見えた。虚しくも火だけがごうごうと燃えている。まるで火山の熱をひとつにまとめて焚いているかのような炎だ。火柱が火山を突き破るのではないかと見紛うほどである。金敷のあたりには、男たちの身長には似つかわしくない、大ぶりの刃物が錆びれて横たわっている。そのほかにも、金槌や鋏なども転がっているようだ。
「誰や」
加工場にいる男のひとりがチ・ビに投げかけた。
「ブラウン様をたずねてきたんだとよ」
チ・ビは親指で一行を指差しながら、ぶっきらぼうに答えた。
「ブラウン様に、何しに?」
「えーと……」
するとチ・ビは困った顔で、ついっと一行のほうへ振り向く。
「……おまんら、ブラウン様に何しに来たんや?」
そういえば、チ・ビにはこのブラウン火山へ来た理由を伝えていなかった。そこでベルが伝えることにする。
「継承の旅なの、エルスト様の」
「エルスト様っつーのは、金髪小僧のことかや」
なんと名乗ってすらいなかった。エルストとベルは反省し、三者それぞれの名前を名乗った。そこでチ・ビは、エルストが王族であることを知った。なるほどな、とうなずきながら。
「こないだも、誰か、オナゴが来とったの。立て続けに継承の旅か……王族も大変やの〜」
オナゴとは、おそらくミズリンのことだろう。
「そんなら、ブラウン様。案内してきましたんで、なにとぞ、よろしゅう」
チ・ビがぺこりと頭を下げた。
「へ? ブラウン様、いるの?」
エルストとベル、アギはきょろきょろと辺りを見回すが、ドラゴンらしき影はない。ベルの杖、そのうえ火床の炎が照らすのは、どれもチ・ビの仲間たちであった。
「あすこにおるじゃろ」
チ・ビの仲間のひとりが火床を指差した。
「……炎だけど」
ベルの冷静な指摘である。
「せやから、あすこにおわす炎が、ブラウン様なんや」
チ・ビが言ううちに、炎はたちまち爪のような手先を現し火床のふちへと突き立てた。のそり、のそりと、獲物を目の前にした猫が身を起こすように、ゆっくりと炎の爪先が這い出る。火床のふちから身を乗り出した炎は、みるみるうちに赤黒いウロコ模様に変貌していった。アギの頭よりはひと回り大きいであろうドラゴンの頭が出てきたのである。
「われがブラウンだ。火属性ドラゴンの代表である」
深みのなかに鋭さがある声が加工場に響く。
「チ・ビ、ここまでの案内、ご苦労だった。……さて貴様ら、エルストとベルと……アギと言ったか。先日から、グランド・テレーマにいた連中であろう」
「あ、ご、ご存じで……」
エルストはたじろぐ。このブラウン、ヨウ・ヨウとはまたひと味違う威圧感がある。赤黒い頭から、二本のツノが、火を吹くように燃え立っているのか恐ろしい。火床から乗り出した上半身より先はいまだ火床にて炎として揺らめいている。アギと違って目立ったキバはないが、細めの、つり上がった双眸がぎらりと一行を睨んでいるようだ。
「ドラゴンの気配には敏感なのだ。とくに加工済みドラゴンなら、なおさらである」
「アギの気配がわかるんですか?」
ベルが尋ねた。ベルはブラウンに怖気づいた様子はない。
「すべての加工済みドラゴンはわれの炎で焼かれたのだから、その気配を、われが察知出来て当然であろう」
「すべての……」
王立魔法学園で数々の加工済みドラゴンを目にしてきたベルにとっては、それは感慨深いようだ。
「ワシもここで加工されたんか?」
「すべて、と申している」
アギにはどうやら記憶に残っていないらしく、うーん、と唸っている。二千年前のことのようだからしかたないといえばしかたない。
「誓約の旅、二箇所目のドラゴンのもとへ、ようこそ参った」
厳しい雰囲気を持ち合わせているブラウンだが、一応は、一行のことを歓迎しているらしい。
「ではいつものように、われは語り部の役を務めるとしよう」
「語り部?」
エルストは首をかしげた。
「なんだ、知らぬのか。われら四つの属性を代表するドラゴンは、継承の旅にて訪れてきた王族の子らに対し、代々語り部の役目を担っているのだ。対して王族は、われらの語りを、すべからくきちんと聞かねばならぬ」
ベルは眉をひそめる。
「ファーガス理事長は、ドラゴンに挨拶してこいって言ってましたけど……」
「そうだな。挨拶は必要だ。こちらとしても、話を聞く気のない王族には何ひとつとして語りたくはない。〝われらの世界の歴史〟を、われらを軽んじるような者たちには託したくはないのだからな」
チ・ビが金敷の上の土埃を払い落とし、座りや、と一行に促した。ベルはためらったが、エルストは迷いなく金敷の上に腰を下ろした。少しでもからだを労わりたい、その一心だった。チ・ビはベルに手で示したが、ベルはなかなか座ろうとはしない。立ったままで、と言って断るのだった。その様子を、ブラウンはじっと眺めて、やがてこう言う。
「貴様のようなやからを言っているのだ、エルストよ」
「えっ……」
ブラウンから鋭い眼差しを向けられ、あれほど暑がっていたエルストのからだが、一瞬にして凍りついた。
「……貴様が今、からだの下に敷いているのを理解出来るか?」
ブラウンにそう言われ、エルストはひとりぶんの隙間がある金敷を見つめる。エルストの答えを待つまでもなく、続けざまにブラウンが言う。
「貴様の下の金敷でドラゴンは加工されてきたのだ。チ・ビたち一族の振るう刃で肉を削がれ、槌で身を打たれ、われの灼熱の炎で焼かれてな」
エルストの全身は硬直したままである。座れ、と、チ・ビが言ったのではないか。なのになぜ、責め立てられねばならない。エルストは目を剥き出しにしてチ・ビを見たが、チ・ビは知らぬ顏だ。チ・ビたち一族の誰もが、エルストを見ようとはしなかった。
「あえて、あえて貴様に語ってやろう、エルスト」
地獄の底から響くかのようなブラウンの声に、図らずもエルストはおののいた。
「よいか。貴様ら人間は、ドラゴンが動けぬからだになっていたのをよいことに、その身に宿る〝無限の魔力〟を利用するため、ドラゴンの肉体を加工したのだ。人間の都合のよいように」
それは世界の歴史の、ほんの一部に過ぎなかった。
「かつて……人間が初めてこの世に誕生するよりも遥か昔、すでに誕生していたドラゴンたちのあいだで戦いが起こった。当時、〝世界〟や〝魔法〟、〝魔力〟などという概念はなかったが、ドラゴン同士、互いを意識し始めた頃だった。互いを意識し、認識すれば、すれ違いが起きるのも命ある者の性質。たった一瞬にして、ドラゴンは互いを打ち破った」
「でも、ドラゴンは不死身ですよね?」
ベルが尋ねた。ブラウンはその赤黒いウロコの皮膚にしわを作りながらうなずく。
「同胞による攻撃を受け合ったドラゴンたちの肉体は活動こそ停止してしまったが、意識……つまり命だけは、死ぬこともなく、肉体に残ったのだ。命、すなわち寿命があるなら魔力もある。寿命と魔力だけは、今なお尽きることは、加工されたドラゴンとて誰ひとりとして前例がない」
そして、とブラウンは続ける。
「このドラゴン同士の戦いのことを、われらや王族は〝ファースト・エンド〟と称している」
第一の終わりであった。ブラウンは胸を上下させながら口を閉じる。以上の経緯が、加工済みドラゴンとなったドラゴンたちの〝大もと〟らしかった。
まるで昔の思い出を懐かしむようにしてブラウンは細めがちの瞳をさらに細める。
「ドラゴンだけが生きていた時代……ファースト・エンドが訪れる以前の時代を、〝ファースト・シーズン〟と呼んでいる。そしてドラゴンが初めて加工された時代、つまり人間が誕生した時代が〝セカンド・シーズン〟だ」
「ワシが生まれたのは、いつやろ」
アギが言った。
「貴様はおおよそ二千年生きたくらいであろう。とすれば、セカンド・シーズンだろうな」
「アギは……ファースト・エンドの時にはいなかったんだね」
ベルがアギの鼻を優しく撫でた。その手には少なからず安堵の気持ちが込められていたことを、アギはしっかりと感じ取っていた。
「生まれてすぐ加工されたしな」
いつ加工されたのかは、なんとなくおぼえているようだ。
「ファースト・エンドの時にはいなかったのに……アギは加工されたの? ……」
エルストが胃のあたりを押さえながら言った。ブラウンの話と合わせるならば、加工されたドラゴンは、ファースト・エンドで肉体活動が停止したドラゴンであるはずだ。しかし、アギが生まれたのはファースト・エンド後のセカンド・シーズンということである。エルストの胸には疑問が湧いた。熱を取り戻した頬からはぽたりと汗が落ちた。
「ファースト・エンドで幸いにも肉体活動が可能なまま残った数少ないドラゴンたちを、人間がわざと交配させ、そこから加工するためのドラゴンを産ませたのだ」
そのブラウンの言葉に、ベルはあからさまに不快感を示した。牛や豚の交配とは、なんら変わらないはずなのに。歯を食いしばり、口角を引きつらせている。エルストも同様だった。
「人間には寿命に限りがある。だから、人間たちはドラゴンの魔力に魅了された。だが生身のドラゴンでは、その魔力を使えぬから、人間のからだに合うように加工した。……つまり加工済みドラゴンというのは、〝人間向け〟に作られた、人間のためのドラゴンなのだ。小娘のマントだって、人間がまとうことを想定されているものだろう」
ブラウンはベルのまとうマントを見た。そのとおり、アギの皮膚からなるマントは現在、ベルという人間が着用していて、サイズも合っているのだ。杖だって、人間の手のひらに合わせ握りやすいように加工されている。ベルは杖を強く握りしめた。
エルストは下唇をいちど噛み、次に口を開いた。
「抵抗することは出来なかったの?」
ブラウンに言っている。
「加工されるのが嫌なら……ドラゴンなら、抵抗出来たはずですよね?」
無限の魔力をもつドラゴンと、有限の魔力をもつ人間とならば、どちらが優位にあるのかは一目瞭然だろう。ではなぜ、ドラゴンたちは現在まで人間との関係を断ち切らずにいるのだ。
「ドラゴンは共存を図ったのだ。ほかでもない、人間との」
ブラウンは短く答えた。
「共存……」
エルストは繰り返した。この現代が、遥か昔、ドラゴンが人間との共存を図った頃の延長線上に存在している時代なのだろうか。
「偶然の確率で世界に生まれた人間という種族を、ただのドラゴンの一存で殲滅させてよいのか、と、ファースト・エンドを経たドラゴンたちは憂慮したのだ。それに……そのことに気付いた時にはもうすでに、加工されていたドラゴンもいたのだから。人間に抵抗したとしても、加工されたドラゴンはもう二度と、本来の姿には戻れない」
そもそも肉体活動が停止しているから、万が一に戻れたとしてもどうせ動けないままなのだ、とブラウンは付け足した。動けないドラゴンがいずれは己を憐れみだすだろうことなど、わかりきったことだった。
「じゃ、じゃあ、今は? 今もドラゴンは交配させられて、加工されているんですか?」
そのエルストの質問にはブラウンは首を振る。
「今の王国が建国されて五百年、今日に至るまでは一切、加工されていない」
「なんでだろ?」
ベルがつぶやいた。
「現王国の初代国王、オフルマズドがドラゴンの加工を禁止したからだ」
「オフルマズド国王って、神様のことですよね」
「あー、王国の国教やったっけか、たしか」
ベルの言葉にアギが重ねた。ブラウンはうなずく。
「オフルマズドはたとえ自身が没したのちの世であろうと、直系の子孫に王位を世襲させることで、ドラゴンの歴史を絶やさず王族に遺している。“継承の旅”とは、オフルマズドの子孫が歴史を忘れないための儀式なのだ」
「王族以外の人間は、ドラゴンの歴史を知らないってことですか?」
エルストが尋ねた。
「伝承させるか否かは貴様次第だ」
今現在においてこの継承の旅を行なったのは、現国王と、マックス、カーシー、ミズリン、そしてエルストたち四人の兄弟と、彼らに仕える宮廷魔法使いたちである。少なくとも彼らはドラゴンの歴史を知っているのだ。しかしそれを〝どう〟するのかは、四つの属性のドラゴンたちは何も言わないのだという。
「あくまでも、王族の意志次第ってことですね」
ベルが言った。もしやマックスは、謁見の間で〝これ〟をエルストに問いたかったのだろうか。エルストは考える。何が〝答え〟に繋がる糸口かは、今はまだわかりかねている。
「われの語り部の役目は以上だ」
ブラウンがそう区切りをつけると、やがてエルストは金敷の上から降り、地べたに尻をこすりつけて座った。
「あの……」
そして、あぐらをかいたまま、ブラウンに向かって深く頭を下げるのだった。
「お話してくれて、ありがとうございました」
それを見たベルは、すぐにエルストの隣に正座をする。アギと、光を照らしたままの杖は地べたにそっと置いて並べる。
「ありがとうございました!」
茶髪を揺らしながらベルも頭を下げた。ベルがチ・ビの催促を断ってでも立ったままの姿勢を崩さなかったのは、ベルなりに金敷の意味を察したからだったのだろう、とエルストは今さらながら、ようやく気付いた。
ブラウンの代わりにチ・ビがニッと笑う。その仲間たちも満足そうな表情を浮かべていた。
「王子のこと、許したってーや」
アギが言った。
「よい」
ブラウンはまたたきを重ねながら言う。
「ドラゴンは人間の選択には口出しをせぬ」
エルストが頭を上げる。しばらくブラウンと見つめ合ったあと、エルストはふたたび頭を下げた。
加工場の外に宿泊場所を作ってやれ、とのブラウンの言葉に従い、チ・ビたち一族は一同に工具を持ってわらわらと太陽の下へ姿をさらし、簡単な屋根と床、ベッド等をこしらえた。エルストら一行はブラウンに別れを告げて穴道から抜け出してきたのである。来た穴道とは別の穴道をとおったおかげか、チ・ビたちについていくと、なんと水場も確保してくれた。加工場に比べれば、外はいくぶん涼しく思える。
「そないな小さいからだで、よーも木を切れるもんやな〜」
アギは素直に感心していた。なんせチ・ビたちは、錆びたノコギリにも関わらずヤシの木を五本、切り倒したのだ。組み立てたのも己らの腕と錆びた工具のみである。ひとことで力持ちと済ませてしまうには、やや人間離れしている気がする。
「力持ちなのも、わいら一族の特長や」
「せや。ドラゴン様を加工するにゃ、おまんらふつうの人間の魔力なんかじゃ足りゃあせん」
「そうなんだ……」
聞けば、チ・ビたち加工職人の一族は、エルストやベルたち一般の人間よりも寿命が長いらしいのだ。長い者で二百年生き続けるらしい。そのぶん、いちどの作業に費やす魔力の量も増え、一般の人間には行なえないドラゴンの加工も可能になるのだという。もっとも、この五百年はドラゴンを加工することもなくなったため、魔力を持て余し、二百年以上生きる者も増えたのだとかという、これは余談だ。
「もうすぐ日も暮れる頃やき、下山するのは明日にしたらええが」
チ・ビが、やたら装飾がきめ細やかに施されたテーブルを掲げながら言った。よくよく見ればブラウンの姿を模しているようで、揺らめく炎とウロコが見事に再現されている。チ・ビたちは腕力があるうえに手先も器用らしい。
「なんか、もったいないですね、エルスト様。この家具たち……」
小さな泉の湧くほとりに建てられた、もはやテラスと言ってよいロケーションに酔いかけながらベルが言う。テラスの上には二つのベッド、二脚のチェア、それとセットのテーブルがずらりと構えている。それらを日射しから守るのが、簡易的ではあるが屋根だった。二つのベッドのあいだにはヤシの木の葉が生けられており、このテラス上のリゾートテイストを引き立てるのに一役買っている。泉の水面には日射しが煌びやかに舞っている。
「私たちが使うのはたった一回なのに……」
「気にすんなや」
チ・ビが笑い飛ばした。
「おまんらが帰ったあとにでも、これらはグランド・テレーマの商人にでも売りつけるさかい。ごいごい高く売れるんやで、わいらの製品は」
「せや、せや。困るのは残った家具の使い道やのーて、余った金の使い道や」
「金はあるに越したことはねーがのー!」
一行には耳が痛かった。いっそこの豪勢な家具たちは自分たちで貿易商人に仲介してやりたかったが、そんな下賤な欲はエルストとベルのそれぞれの良心がなんとか押し殺した。チ・ビたちにそこまで世話を焼いてもらう筋はとおっていない。
「あとは、このヤシの実でも食べーや」
「もう行くんか」
アギがチ・ビに言う。
「そりゃ、そや。わいらは今から、エルスト王子にぶっ壊されたマイホームを再建せなあかんきの!」
ガハハハッと愉快げに笑うチ・ビの手前でエルストは肩をすくませた。そうは言うが、チ・ビはちっとも気にした様子はない。チ・ビなりの冗談だった。
「また会えるとええの、エルスト、ベル。あと、アギもや」
「うん……ブラウン様にも、よろしく言っておいて」
エルストがぎこちなく笑った。
「おう。またの」
ニヤリと微笑み返すチ・ビたちに、エルストとベルは惜しみなく手を振った。アギの口から噴き出た炎が屋根を焦がしたのも、大量のヤシの実に腹をめいっぱい膨らませたのも、よきこの日の思い出のひとつとなった。