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次の日を何とか玲二は乗りきった。
2度ほどカラーのレシピを間違えそうになったり、担当じゃない客に施術をしそうになったりしたが、彼の事情を知る回りのスタッフがフォローに入り事なきを得た。
フキエはその鮮やかなごまかし……カバー術を見て、ここのサロンは天才揃いかとかなり尊敬してしまった。
そんな状態だったので、今日は残業もなしと終業するとスタッフは帰っていったが、玲二は座り込んだ椅子から立ち上がれなかった。
風邪なんて時々ひくのにこんなに辛く感じたことはない。 もう大分熱も引き、今朝はいつものひとり分とまではかないが食事もとれた。 それなのに、なんで。
「あ、玲二さん。タクシー来ましたよ?通りまでは歩けます?」
「……むり」
「無理って。ほら、肩に掴まって。辛くても早く帰ってちゃんと寝ましょう。今日はうどんを柔らかく煮てきましたから」
知っている。
朝から出汁のいい香りがして、それにつられて目が覚めたくらいだ。 別にきちんと用意された朝食を前に、そっちも食べたいと言いたかったけど、そんなに食欲が戻ってはカッコつかないとか下らないことを考えてしまった。
そうか、甘えているなあ。
あかりとふたりで生活しているときは、自宅で仕事をしている奴のために、なるべく頼らず暮らしていた。 締め切り前に風邪でもひかれた日には、全国的に多大な迷惑がかかる。 それまでは知らなかったがあかりはなかなかに人気のある漫画家だったのだ。 知ったところでポンコツの妹に変わりはないのだけれど。
でも今は、何故かフキエには情けないところもカッコ悪いところもみんな見せて甘え倒している。 腹を見せて忠誠を訴えている犬みたいだ。
……甘えているから?
甘えているから風邪が辛いのかもしれない。一人で何とかしなければならなかったときには、泣き言をいっても誰も助けてなんてくれない。 それに、辛いからとて仕事を休んでは、誰かに追い越されてしまう恐怖をいつも感じていた。
誰にも負けない、必ず一番になる。
それは、そう思わなければ前も向けなかった自分に対する呪いのようなものだった。 具合が悪くて一人部屋で寝ていたとしても、何かが玲二を追いたてる。 黒くて、どろどろしたものが寝ている部屋ごと飲み込んでしまう夢を見る。 こんなところで寝ていられない、行かなくちゃ。 そうして玲二は具合のいいときも悪いときも何かに駆り立てられ、仕事場に向かう。 朝は誰より早く、夜は日付が変わっても。 そうして部屋に帰れば意識がなくなるように眠る生活を何年も続けてきたのに。
こんな風に腑抜けてしまっては、フキエがいなくなったとき困るじゃないか。
……そうだ、フキエはここにずっといるわけではない。
自分の準備が整ったら、どこかに帰る人だった。
でも、どこに?どこに帰るのだろう、どこから来たのだろう。
「フキエは……どっかに行っちゃうのか……?」
「……どこかって、どこですか?どこにも行くところがないの、知ってるくせに」
「うん、そうだよな……家出して、そんで死にかけて……俺んちに居候してるんだもんな……」
「よくも、言いづらいことをはっきりと。そうですよ、よくわかってるじゃないですか?」
「うん……悪りい……じゃあ、ずっといるよな……?うちにいるよな?」
肩に掛かる玲二の腕が熱い。 もしかしたら、自分の体温も上がっているのかもしれない。 フキエは自分が唾を飲む音が大きく聞こえた。 恥ずかしい。 恥ずかしいけど、聞きたい。
「……ずっと……いて、欲しいですか?」
「……玲二さん、寝てますね?てか、気絶?!ちょ!運転手さーーん、たすけてくださーーーーい!!」
やっとのことで気づいてくれた運転手さんが一緒に運んでくれて、タクシーに玲二をのせるのに成功したフキエは、戸締まりをして店を出た。 スタッフが気遣ってくれて早めに帰れたはずなのに、既に10時近くになっている。
「ただいまです……」
「それ、玲二くん?」
「そう……です。た……すけてください……」
フキエの息も絶え絶えの声を聞き、あかりが顔を出してくれた。 玲二を抱え大人が三人、横に並ぶのはかなり厳しい廊下をカニの群れのように横歩きで進む。 真ん中のカニはほぼ引きずられている。
「玲二くんが筋肉にこだわりとかなくてよかったー!ボディビルダーみたいの運べないデスヨー!」
やっとの思いで玲二の寝室に彼を運び込み、取り合えず、ベルトやアクセサリーなど、金属っぽいものは外してベッドに転がした。
ダハダハと笑いながらあかりが缶ビールを飲み干す。 意外と酒に強い、玲二もそうなので家系なのだろうか。
「後で、玲二さんの様子見てもらっても良いですか……?寝室にそうしょっちゅうお邪魔するのもあれなので」
「うん?あー、あたし今日は……」
「あ、お仕事でしたか?」
「うんー。来月の……ネームっていうんだけど、こういう内容でこういうコマ割りですよっていうの」
「へー、そういうのも用意するんですね?」
フキエは前回本当に仕上げの段階しか見なかったので、そういう準備があることに驚く。
「……あれ?でもこの間書き上げたばっかりじゃないですか。あかりさんて月刊誌一本でしたよね?」
「うん、あの年末進行っていって」
12月の頭。 年末年始は出版業界が休みに入るためいつもだと月末に迎えるあかりの締め切りが月半ばになる。 11月の締め切りは普通なので、この時期はほぼ休みなく原稿に向かっていなければならない。
「え、じゃあ忙しいじゃないですか?いつまでなんですか?」
「えっと、締め切りが……」
ピンポーーーン
「……」
「……今日」
ピンポーーーン ピンポーーーーーーン
「まだ、できてなくって、会社が一段落したら館山さん来るって……」
ピンポンピンポンピンポーーーーーーーーン
「間違いなく、館山さんですね」
「ん、デスネ」
「……って、なんでビール飲んじゃったんですかーー!?」
「だってだって!玲二くん運び終わったらお仕事終わったと思ってついうっかりいいいい!」
あかりは館山に首根っこをつかまれて仕事部屋へと消えていった。 その後ろ姿を見つめ深いため息がこぼれる。
フキエは取り合えず玲二に薬を飲ませなければいけないことを思いだし、今朝煮ておいたうどんを軽くあたためた。 ついでにあかりたちの夜食も必要かもしれないとおにぎり用に炊飯器に米をセットし、玲二の部屋を覗いた。
「………ん……」
息が荒い。 暗くてよくわからないが顔色はどうだろう。 照明のスイッチを探して灯りが着くと、急に部屋の表情が浮き彫りになる。
「……なんにも、ないですね」
たとえば、学生頃の写真とかコンテストの賞状や盾。ポスターや散らかった雑誌とか。 そういう、玲二の素顔が見えるものは何もなかった。
ベッドには白いカバーがかかっている。 カーテンも白。 家具らしい家具は部屋のすみに寄せてある、ヘア関係のものしか入っていないと思われる本棚とその横の簡素なデスク。 それらはすべて黒で、クロゼットに衣類が入ってしまっているから色はそれだけだ。
呆然と部屋を眺めた。 そして、淋しくなる。
あかりやフキエ、それに時々は館山も加わってバカな話をした。 休みの前の日に酒を飲んではしゃいだり、借りてきたDVDを夜中に見たこともあった。
それでも玲二は同じ屋根の下で、こんな寂しい部屋で眠っていた。 色のない部屋で。
「……誰……?」
「……あ、勝手にごめんなさい。フキエです。軽くうどん食べて薬、飲まないと」
「フキエ……あ、うどん……食べる」
やっとの思いで玲二の上半身を起こし、背中に枕を突っ込む。 肩に取り合えずさっきまで来ていたジャケットを掛け、膝の上にうどんのトレイをのせた。
触れた額は、また熱くなっていて、熱がぶり返してきたことを伝える。 お椀にほんの少しよそったうどんを玲二がゆっくりと口に運んだ。
「……やっぱ、味しねえ」
「熱がありますからね。今日明日だけの我慢ですよ」
「うん……。なあ、フキエ」
「はい?」
ぼんやりと玲二が視線を動かしそれでも定まらずフキエがいる方向で揺らぐ。
「明日、さあ。山本と行っちゃうの?」
「……」
「出掛けるの?」
忘れていた。
すっかり頭から抜け落ちていた。
そうだった。 明日は山本の妹のプレゼントを選ぶのを手伝うと約束していた日だった。
あかりはあの様子であてにはならない。 玲二 の熱が一晩で下がる保証はない。
フキエにとってそれは、秤にかけるまでもないことだった。 だって、自分の好きな人が目の前で苦しんでいるのだから。
白と黒の部屋。
そんなところで一人で苦しませるのは嫌だ。
「行きませんよ。明日はずっと、玲二さんの看病してます」
「でも、約束したんだろ……二週間も前に」
「はい。だけど、ゆずれない用事ができちゃったから仕方ないです。断ります」
「……ふーん、そっか。あのさ、」
「はい」
今度はしっかりとフキエをとらえた玲二が言った。
「うどん、もうちょっと食いたい」
翌日も玲二の熱は下がりきらず、一日中ベッドで過ごさざるを得なかった。 それでも熱でぼんやりしながら機嫌はよいらしく、味がしないとぼやきながらも食事をとり薬を飲んだ。
フキエも献身を惜しまず、食事を運び薬を飲ませ、冷えピタを替えた。 さすがに着替えを手伝う勇気はなく、蒸しタオルや着替えは用意するも後はお願いしますと寝室を出た。
山本には夕べのうちに行けなくなった旨を伝え、その代わり行こうと目星をつけていた店やそこで薦めようとしていた商品の画像などを送っておいた。 それだけでも参考になったらしく、山本からは午後になっていい買い物ができたと連絡が来た。
夕方になると、玲二の熱も落ち着きほぼ平熱になり、あかりも徹夜明けの睡眠から目覚め、三人でぼんやりとリビングに集まっていた。
「今晩、何食べたいですか?」
「なんか、味の濃いもの」
「あたしはあっさりしたものがいいですネーー」
「バラバラですねー、気の合うこと。じゃあ、各々カスタムできるお鍋にしましょう」
「賛成デスーーー、鍋サイコー!」
「だな、鍋いいなー」
財布と買い物袋を持ち、フキエが席をたつ。
「じゃあ、お買い物してきます。消化にいいようにとり団子にしますね?」
「あ、俺もいく」
「……はい?病み上がりが何を言ってるんですか?」
「や、タバコ買おうかと思って」
「それぐらい買ってきますよ。っていうかついでに禁煙しちゃえばいいんじゃないですか?具合が悪いとはいえ、二日吸わなくて大丈夫だったんですよね?」
「あれ……そういや」
全く吸いたいと思わなかった。喉が痛い風邪ではなかったけれど……味がわからなかったからだろうか。
「そら玲二くん、淋しくなかったからでショ。ずっとフキエさんがいてくれたんだし」
「……」
「……は?」
フキエと玲二はそのまま固まっていたが、声が出たのは玲二が先だった。
「なにそれ」
「えーそのまんま。玲二くんはさー、独立してから辛いとかキツいとかって言ったことないじゃん。こんかい風邪ひいたときもあたしには言わなかったよ?でもフキエさんには『だるいー』とか『無理ー』とか言ってたし。そやって、大事にしてもらえたからイライラもないし、寂しくもないし。ご飯も美味しいし、あたしの嫁にほしいくらいだわ、フキエさん」
「や、嫁は無理かも」
「わかってまーす」
「……えと、買い物いってきます」
ふわふわした足取りでフキエは出ていった。
得意顔の妹と、なにか暴かれてしまった感のある兄はぼんやりとテレビを見ながら鍋の材料の到着を待った。
とりの挽き肉を吟味しながらフキエはあることに気がついた。
(あれ。どうして玲二さん、私と山本さんが出掛けること知ってたんだろう……)




