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12月にはいると途端に街はクリスマス一色になる。 玲二たちの店も例外ではなく、天井にも届くような大きなツリーが飾られた。 普段のカットやパーマの客だけではなく、パーティー用にセットの予約も増える時期だ。
玲二も来店の客だけでなくホテルやスタジオ、テレビ局などに呼ばれる仕事がにわかに多くなる。
年も明ければ今度は着付けの依頼が成人式まで続く。バタバタと忙しない時期だ。
「松谷さんに予約してました、清水です」
「はい、清水さま。お待ちしておりました。あちらへどうぞ」
来店した客はまずミーティングシートに通される。ここで担当者と面談して希望のスタイルを話し合う。そしてそれぞれの施術に入っていくのだ。
「おー、瑶子。ひさしぶりー」
「ほんとにー。もうすっかりボッサボサになっちゃったよ」
「んー?そうでもねえだろ。なに、今日はカットとトリートメント?」
「よろしくー」
二人の会話が届いていたフキエは、二人がどうやら知り合いらしいということはわかった。
お互いを名前で呼び合う親しさが、どういう距離のものなのかフキエは知らない。それでも、なんだかモヤモヤする。 このモヤモヤには覚えがある。 でもそれは、まずい。とてもまずい。
「山本さん、今のお客様は松谷さんのお知り合いですか?」
「はい、学生の頃からのお知り合いだと聞いています。1~2ヶ月に一度いらっしゃいますね」
「そう……ですか」
「……あれ、もしかしてジェラス?フキエさんチーフにラブですか?!」
静かにBGMがかかっている程度の店内で、さすがに大きい声は出されなかったが、突然そんなことを聞かれれば焦る。
「ちっ……違うっ!」
「えー、隠さなくてもいいじゃないですか。チーフかっこいいし、腕もすごいし、お似合いだと思いますよ、ふたり。」
「いや、だから違うから!」
敬語がとれていることも忘れて必死に否定するフキエは、山本から見ても魅力的な人だった。 松谷だって憎からず思っているのだろうから、押してみればいいのに。
「……協力しましょうか?」
「だから、違うっ……」
……
ちょうど、BGMの曲が変わる瞬間だった。
フキエの声は小さいながら、店内に響いてしまった。 寸時、集まってしまった視線にふたりはたじろいだ。
「う……申し訳ありません」
フキエに続き山本も店内に向かって頭を下げる。 すぐにそれぞれの仕事は再開されたが、玲二にまで鋭くにらまれてしまった。 かなり、ショックだった。
松谷家で世話になって5ヶ月。 普通に給料ももらっているからある程度は金も貯まった。 自分の気持ちが感謝や尊敬の枠を越えてしまっているのなら、あの家を出ていった方がいいのだろうか。
『……でも、このつぎ恋をするときは、きっと好きだって自分でちゃんと伝えようと思います。無理でも、無駄でも』
そう言ったはずの自分の言葉に縛られている。 言わなければ、またいつまでも引きずる。 想いに絡め取られて動けなくなる。
「失礼いたします。コーヒーお持ちしました」
「ありがとうございます。」
普通はパーマやカラーの待ち時間のある客にしか提供されないコーヒーを持っていったのは山本の指示だった。
「今日暇だし、このあとしばらく指名ないし、チーフもゆっくり話ながら接客してるみたいだから、持っていって?」
嫌なそわそわに気づいたばかりであまり近くにいきたくもないのだが仕方がない。 失礼しました、と頭を下げて下がろうかと思ったら、客の方から声がかかった。
「……新しい人?よね」
「いえ、8月からお世話になっています。なか……中野ともうします。よろしくお願い致します」
最初に名乗った名前のまま、ここでは訂正をしていなかった。
うまく笑えているだろうか。 心中は穏やかではなかったとしても、この店に勤めるものとしてこれ以上の失態はなんとしてでも避けたい。
「えー、その間会わなかったよね?」
「そうですね」
「ねえ、もしかして玲二、会わせないようにしてたんじゃないの?」
「何でそんなことする必要があんだよ?」
憮然とした表情で玲二は答えた。 そんな玲二を始めてみた、というのも衝撃だったのに。
会わせないようにしていた
そうだった。自分がここにいる理由。 それはあまり人に大きい声で言えることではなかった。 赤の他人を自宅に住まわせているなんて、親しい人であればあるほど言えるわけはない。 素性もわからず、自分の目の前で命を絶とうとした女。
自分がそういうものであることを改めて知る。 それは、予想以上の打撃だった。
「もう、いいんじゃないのかな?恋人作ったって。誰もおこったり、玲二を責めたりしないよ?……彼女とか、いいじゃない」
最後の一言は玲二に対して耳打ちされたので、フキエには聞こえなかった。 でもその親しい仕種が、また痛い。
「んなっ……!いいんだよ、俺は。仕事が恋人なの!ずっと一人でいるって決めてんだから。はい、この話おしまい!フキエも下がっていいから」
「はい、失礼しました……」
「フキエさん、コーヒーありがとうー」
早く出ていこう。来たときと同じように、なにも残さず出ていこう。
「でも、どこに……?」
思い当たる行き先が見つからず、フキエは暫し呆然としてしまった。
「フキエさん、今度の定休日付き合ってもらえませんか?」
休憩中のフキエと山本の会話がバックヤードのそばにいた玲二の耳にも入ってしまった。 山本はすっかりフキエになついていて、その親しさがどういう種類のものなのか玲二にはわからない。 だいたい、自分がそういう感情から逃げまわってきた。 誰かを、純粋に好きだという気持ちを知らずにここまで来てしまった。 山本のあれが、そういうものなのだろうか。 どうして自分にとってフキエだけがそんな風に気になるのか。
「今週はちょっと用事があって。ごめんなさい」
「そっか、残念。あのね、俺の妹にプレゼント買いたかったんだけど、何がいいかわかんなくて。一緒に選んでもらえたらなーって思ったんですけど」
「そうなんですね。妹さんっておいくつですか?」
「22」
「私でお役にたちますかね?」
「もっちろん。いつだと平気?」
「来週の定休日は大丈夫です。でも、間に合いますか?」
「来月だから。じゃあ、よろしくお願いします!」
「こちらこそ」
そうか、ふたりで出掛けるんだ。
情けないな、こんなところで立ち聞きなんて。 山本を羨んだって、どうしようもない。 大体羨むってなんだ?勘違いだ。
フキエの用事はあかり絡みだと言うことは知っている。 先週の休みをまるっとアシスタントとして過ごしたフキエは、翌日の明け方まであかりに付き合って仕事にはふらふらの状態で出掛けていった。 そして張り付いた笑顔で一日を終えると、家に帰るなりベッドに倒れたのだ。
そんなわけで、今週の休みはあかりが礼をしたいからと、フキエを誘っていたのだ。 どこかで買い物をしたり、飯でも食ったりするつもりだろう。
考えてみれば、ここに来てフキエが店と家、近所のスーパー以外に出掛けたことなんてなかった。 ここは青山のど真ん中だというのに。 ここに来る前の生活で死を覚悟してきたからといえばそのせいだろうが、友達に連絡をするなんていうこともない。 何かを欲しがる様子もないし、食の好き嫌いも聞いたことがない。
家族が探しているかもでもない。確執があるようだったが、跡取りにとまで考えていた娘の動向が気にならないわけはないと思うのだが。
つまりは。
玲二は呆然とする。自分はフキエのことを何も知らないのだと。
休日の午後、玲二が起きるともうあかりとフキエの姿はなかった。 夕べ、吉祥寺に遊びに行くとは聞いていたが。
テーブルの上には、フキエが作ったのであろうサンドイッチが乗っている。
「ん、きゅうり入ってない……」
玲二はサラダなどで食べるきゅうりはなんとも思わないのだが、サンドイッチのそれは苦手だ。 何ヵ月も前にボソリと言ったことをフキエは覚えてくれていた。
自分は、何も知らないのに。
「フキエさーーーん!これかわいっすよおーーー!」
「いや、あかりさん。もうたくさんだから!気持ちは十分にいただいたから!」
新しく出来たデパートのなか、それぞれの両肩にショッピングバッグを担いだフキエとあかりは通路を狭くしながらよたよたと歩いていた。
徹夜作業のお礼にと、あかりの実家がある辺りに出掛けようかと話をしたのは一週間前だ。 そこには行ったことがないといったフキエをつれて来たあかりは、片っ端から洋服をあて重機のような勢いで買い物をした。
こんなことなら差し出された謝礼を受け取っていけばよかったと今さら思ったところで遅い。 フキエも最初は付き合っていたが、両肩にバックが下がった頃、これはいかんとあかりを止めた。
「ね、本当に。しまうところもないし!来ていくところもないし!」
「えええー……じゃあ……あと一軒だけ?」
「ううう……わ、かりました。お付き合いします」
「って、これこそどこに着けていくんですか!!」
「必需品デスよー?」
あと一軒を許したばかりに、酷く派手なランジェリーショップに連れ込まれる羽目になった。
さんざん買い物をして、遅くなったランチをとる。
そういえば玲二はちゃんと起きてサンドイッチを食べただろうか。 きゅうりは入れなかったから食べられたとは思うのだが。
フキエはここのところの自分の変化に多少どころか大いに戸惑っていた。 生きると、生きていくと決めたのだから誰かを好きになることもあるだろう。 でもそれが玲二だというのは、少し困る。
とんでもない現場に遭遇したばっかりに、こんなお荷物の世話をさせていることへの罪悪感。
自分の命を大切にしないやつだと思われているだろう劣等感。
そして先日店に来た玲二の知人、清水がいっていた言葉
───もう、いいんじゃないのかな?恋人作ったって。誰もおこったり、玲二を責めたりしないよ?───
それに対して玲二が返した
───仕事が恋人なの!ずっと一人でいるって決めてんだから───
もういい、といわれる何かが、玲二にはあった。それがきっかけで恋をしていないという。
彼に何があったのか、それを知ったら自分の恋も消えてしまうような出来事なのだろうか。
それでも
知りたい、どんな小さなことでも。 彼に関する事柄をひとつでも多く。 それで今より、もっと辛くなっても、それでも。
「フキエさん、荷物多くなっちゃって電車に乗るのも大変なので、実家によって車借りてもいいですか?」
「え、うん。構わないですけど、運転誰が?」
「ワタシですけど?」
「……電車で帰ろうかな……」
「失礼な」
あかりの実家は駅の裏、大きな公園のそばにあった。
特別大きいわけでも、新しいわけでもないが、そとから見ただけで公園の眺めを借景にした心地良さそうな家だと思った。
よたよたと門をくぐり、玄関の前まで進む。 あかりがドアをあけ『ただいまー』と叫ぶと、奥から女性が出てきた。
「あら、いらっしゃい。玲二とあかりの母です。ゆっくりしてってね?」
「突然申し訳ありません。お邪魔します」
あかりが年を取ったらこんな風だろうか。 もう少しキツい勾配の山道、甘いはちみつ、ゆったりの時間。 そんなものを加えたら。
「紅茶でいいかしら?お砂糖いる?」
「はい、ストレートで結構です」
通されたリビングは、玲二とあかりの子供の頃の写真がいっぱい飾ってあった。
「……」
「どしたの、フキエさん?」
「いえ、玲二っていうからお兄さんがいるのかとかってに想像しちゃってて」
「あー、うん。いた、かもしれない」
「?」
「玲二の上にもう一人いたんです。でも、流産してしまって」
「……ごめんなさい、私……失礼なこと……」
「ふふふ、いいんですよ?玲二のこと、考えてくださっているんですね」
「いえ……ごめんなさい」
お茶をごちそうになると、あかりが以前使ってた部屋を見てみるかと誘った。 玲二の部屋が一番眺めがいいのだと。
「わ、本当だ。隣の公園が丸見えなのはこの部屋なんですね?」
「うん。ここは向こうより少し高くなってるのねー。だから奥の方までよく見えるのー。玲二くんがこっちの部屋がいいっていったときには、景色がなんとかなんて考えてなかったと思うんだけど、この家で一番アタリー」
今はもう、使う人のいないベッドにあかりが腰掛けながらいった。 部屋は、恐らく玲二がいたときのままきれいに掃除がされ、ほこりひとつない。
「ここからなら、玲二さん通勤無理じゃなかったんじゃないですか?」
「うーーーん、そうだねー。でも、玲二くんは出ていきたかったんだね」
ここから先は。 またさっきみたいに地雷になりそうだ。フキエは、ここから出ていく口実を考え始めた。
「玲二くん、専門学校の時に付き合ってた彼女が事件に巻き込まれて亡くなってるんだー。それで、卒業したらすぐに家を出ちゃった。お父さんもお母さんも、今一人にしちゃいけないって思ったみたいなんだけど、何回話し合ってもダメで」
「事件……って」
「婦女暴行未遂、みたいなの。でも、暴行は成功しなくって彼女が亡くなったから、過失致死罪っていうのかな。きっともう、出て来てるよ。おかしいね、志帆さんは死んじゃったのに」
「……そう」
そういうことだったんだ。 玲二さんがもう恋をしない理由。 誰かに責められることを恐れる理由。
───ずっと、忘れられないんだ───
会うこともできなかった兄弟の死、恋人の死。
自ら命を落とそうとした自分のことを玲二がどう思っているのか、考えたくなかった。
「玲二くんはなんにも悪くないのに、その頃から人が変わったみたいになっちゃって、夜も遅くまで学校に残って勉強して、朝は誰よりも早くでていって。卒業したら逃げるように会社の近くの社宅に入っちゃって、全然帰ってこないの。お母さんたちも心配して、あたしがマンガでご飯が食べられるようになった頃に、玲二のところに行ってくれないかって言われて。それから一緒に住んでる」
「彼女さんや玲二さんは、犯人のこと知ってたの?」
「ううん、その人も志帆さんのことはそこではじめて見たって。玲二くんと待ち合わせしてた公園で、玲二くん遅刻して。その間に、事件が起こって……」
「遅刻……」
「うん、だから……自分のせいだと思ってる、たぶん、きっと」
あかりが運転する車は思いの外安定して走り、スムーズに青山のマンションに着いた。 フキエと荷物を下ろすと、車を返してくるとその足で出掛けていった。 今日はハンバーグが食べたいとリクエストすることは忘れなかった。
「ただいま、戻りました……」
そっと2階に上がりソファを見ると、玲二が仰向けで眠っていた。 少し開いた口から、穏やかな寝息が聞こえる。
理不尽な理由で恋人を失った人。 どんな気持ちがしたんだろう。 それから十年ちかくが経っているが、それでも、その心に大きく影を落とす事件。
「……酷い」
フキエは一言呟いて、彼の足元に落ちていたブランケットをかけてやる。 自室にと使わせてもらっているベッドの横に荷物を並べると、財布をもって部屋を出た。
かける言葉も、楽になる方法も知らないから、せめて美味しいハンバーグを作ろうと、そう思った。