6
「締切糞喰らえーーーっっ!ガッデーーームッ!」
「はいはい、不謹慎なこと言いなさるな。もうすぐアシさん来るんだろ?」
「うえーーーん、いつにも増して終わる気がしないーーー!フキエさーん、唐揚げ食べたいーーー!」
「たっぷり揚げていきますから、頑張ってください!」
「やーーーーだーーーー!!」
あかりは決して原稿が早いほうではないと自分でもわかっているので、準備を後回しにすることはない。 意外とキチンとしているのだ、ことマンガに関しては。
そのうえ、あまり人に任せることが出来ない性格で、例えばアシスタントに任せることが多い背景やトーンを貼るなどの仕事も自分でしなければ気がすまない。
よって、入ってもらうアシスタントはいつも一人。 主にインクの乾いていない原稿を乾かすとか、資料を探すとか、消ゴムをかけるだとかの本当のアシストをお願いしている。 そんなこととはいえ、あかりが一人でやるよりよっぽど効率的だ。
サロンは定休日の日曜。 フキエは、それならば山ほど鶏肉を買ってきてせっせと揉んでおくかと腰をあげた。
「……来れないーーーー!?」
階下から悲鳴にも近いあかりの叫び声が聞こえた。 何事かと玲二とフキエは顔を見合わせる。 間もなく乱暴に階段をかけ上がる音が聞こえリビングのドアが勢いよく開けられた。
「アシさん、インフルエンザにかかったってーーー!ヤバいーーー、もうだめだーーー!!」
「え、それって……」
「おまえそれ、マジでヤバいやつじゃね?」
「あ゛ーーーーーっ!」
締め切りはあす午前9時。 他人事ながら青くなる玲二とフキエだった。
「一応、今日の夜、自分の仕事が終わったら編集の館山さんも来てくれるって言うんだけど。まあ、キツいよな……」
完全徹夜が決まったあかりのためにフキエはせっせと修羅場弁当を作った。 リクエストのあった唐揚げはもちろん、うずらの卵をケチャップで炒めたもの、ニンジンのごま和え、ブロッコリーのフリッター…… あかりが好きで作るたびテンションの上がるものを中心に、いくつも作った。
「あかりしか、いねえのにそんなに弁当どうするの?」
「あー、お役にたつかわかりませんがお手伝いしてこようかと。消ゴム位なら教えていただければできるかも」
「だから、自分や館山さんの分もか?」
「と、玲二さんの分も。暖めて食べてくださいね?」
「……悪いな、さんきゅ。俺はあかりのマンガに触れるなと言われているので、手伝いは辞退申し上げます」
「なんですかー、それ?」
クスクス笑うフキエに気まずげに言い訳をする。 いつぞやも似たようなことがあり、その時ヘルプに入った玲二は、なれない仕事に奇行を繰り返し、手伝うどころか仕事を倍にしてしまったという経緯がある。
その時悲壮な顔をしたあかりに『感謝はしている。気持ちは嬉しかった。しかし金輪際、あたしの原稿に触れるな』と宣言されたのだ。
寒い、冬の明け方のことだった。
「そういうわけで」
「……あんなに華麗にハサミを操るのに……何をどうしちゃったんですか?」
「ん?消しゴムかけてたら手が滑って原稿、握りつぶしちゃったとか、ドライヤーで原稿乾かしてたら、焦がしちゃったとか?」
「ゴール目前だったのに……」
「ねえ?」
日が高いうちからビールを飲んで、フキエの弁当を摘まむ。 おかずだけのタッパーとおにぎりは別になっていた。 おかずはみんな一口サイズでピックが刺さっている。 手も汚れないし、汁も垂れない。 おにぎりは小振りでラップフィルムが巻いてある。 完全にあかり仕様だ。
時間は午後8時。 途中DVDや録るだけ録って見ていなかったテレビ番組を見たりしながらダラダラ酒を飲む。
外は寒そうなのに、部屋のなかは暖かく、酒はうまい。 普段はタバコも自室でしか吸わないが、今日は遠慮なくリビングで吸っている。
ゆったりした時間のなか、階下では地獄絵図が繰り広げられているかと思うと少し申し訳ないが、ウトウトとしてしまう。 タバコの火をアシュトレイで消すと、絶妙な弾力のクッションに頭を埋めた。 満腹感と程よい酔いから来る眠気には勝てそうもない。 玲二は抵抗するのを諦めて目を閉じた。
ふわふわ、暖かいものが体を包む。 やわらかい。気持ちいい。 いい匂いもする。
そういえば、こんな匂い女の子はよくさせている。 甘くて、優しくて、花みたいな。
最後に女の子を抱き締めたのは、いつだっけ。 別にそれがいつだっていいんだ。
だってそんな日は、もう二度と来ない。
俺は、もう一生、誰とも抱き合うことなく生きて行く。
最後に、誰かの体温を感じた日は、いつ、だっけ……?
あ
「うわああっ!」
「……大丈夫ですか?すごい汗」
心臓が止まるかと思った。 いや、止まった。
恐らく、ものすごい勢いで起き上がったのだろう。 傍らにいたフキエが驚いた顔をしている。 手に持ったトレイにはさっき食べた弁当のタッパーが乗っている。 ビールの缶や焼酎のグラスもだ。
胸から下には軽い毛布がかけられていて、夢と同じ匂いがした。
「……いま、何時?」
「えっと、10時過ぎました。まだ見通しつかないみたいなんですけど、私にできることも限られているのでコーヒーでもと思って」
「あー……そう」
声が震えていることに気づかれないわけはない。 みっともなくかすれる言葉を隠すこともできず、情けなさに笑ってしまう。
もう、9年だ。 それなのに玲二は、ずっと同じところにいる。
苦笑する玲二をフキエは黙って見ていた。 静かにキッチンへ向かう。 コーヒーメーカーからはいい匂いが立ち上がり、さっきの悪夢を、消し去ろうとしてくれる。
「はい、どうぞ」
玲二の前にもコーヒーが置かれた。 フワリと湯気が香りをつれてくる。
動悸が治まるとごまかそうとなにか話さなくてはいられない。 フキエには行動の理由はわからなくても、なにかおかしいと気づかれたりしないか。 その上、落ち着けば恥ずかしさが込み上げてきた。
「……なあ、前にさ。客と山本が揉めたとき、何でとっさにあんなこと言えたの?あの……自分の努力を無駄にしないで、とか。雅人に聞いちゃったんだけど」
「え?やだ、恥ずかしいですね……そうですね……私が、言って欲しかったんです、きっと」
自嘲気味の笑顔は力がない。 目も落ち込んだように見えるし、髪も乱れている。 一日閉じ籠って原稿とにらめっこすればそうもなる。
「私は、幼い頃から父の言いなりでした。それが一番正しい、一番私のためになるって、信じていました」
それが壊れたのが婚約破棄の瞬間だった。 フキエの父親は怒り狂い、相手を訴えてやるとまで言った。 でもそれは、娘かわいさではなかった。 家の名前を傷つけられたことに対する報復だ。 彼はフキエのために悲しんだりはしてくれなかった。
もちろんフキエ自身も何重にも心が痛んだ。 好きだった人が離れていってしまったこと、父から愛されていないことを再確認してしまったこと、会社の人間として責任を果たせない重圧。
でもそれよりも自分の家のせいで二人を引き離すようなことはやはり出来ないと、むしろ、ホッとした。
「でも、本当に私がもうだめだなって思ったのは、母から言われた一言だったんです」
母親も独裁の父の元で、自分を圧し殺すような生活を送っていた。 家のこと、子供のこと、自分のこと。 母が口を出せる事柄はひとつもなく、ただただ、父の言う通りに生活していた。
だから母は、自分の気持ちをわかってくれる唯一の味方なのだと信じていた。
婚約が破棄されて、石原がいなくなり、母は『またすぐにいい人があらわれる』といって慰めてくれた。 その時はもちろんそんな風には思えなかった。しかし母がそう言うのなら、いつかは自分を好きになってくれる人に出会えるのだろうと、希望さえ持てるようになっていた。
その日、たまたま実家にいたフキエの携帯に公衆電話からの呼び出しがあった。 不思議に思いながらもでるとそれは石原だった。
彼女と結婚することになった。迷惑をかけたけれど、君が応援してくれたからここまでこれた。 もしよければパーティーに出席してくれないだろうか、という電話だった。
複雑だった。 好きだという気持ちはひたすらに隠していた。 もう、終わってしまう予感がする頃、彼にまだ彼女のことが忘れられないのだという告白をされた。
きっと、このまま結婚してもいつも彼の心にある彼女の影に怯えなければならない。 少し帰りが遅くなれば疑い、電話をしているときに席を立たれば疑い続けるのだろう。
父は、それでもよかったのかもしれない。 表向き仲良く見えて、男の子のひとりでも授かればなんの問題もないのかもしれない。 娘が幸せかどうかは、どちらでもいいのだろう。
でも、そんな人生は嫌だ
フキエは、石原に彼女のもとに戻ることを勧めた。 お互い好きあっているのに離れなければならない理由なんかない、と。
そして自分は結婚式には行こうと決めた。 幸せな二人をこの目でしっかりと見て、きっぱりと諦めようと。
招待状を受けとるために待ち合わせをした。 数ヵ月ぶりに会う彼は少し痩せたように見える。 それでも、自分と婚約していたときよりずっと元気そうだった。
招待状を受け取り、それじゃあ元気で、パーティーで待ってるから、と去っていった彼はフキエもまた痩せたことには気づかなかった。 気づこうともしなかった。
そういう男だったんだ。どんなにフキエが辛い思いをしているかを想像も出来ない。
それで、少しも自分を好きではなかったんだ。
ひとつだけ、諦めがついた。
その他のたくさんの『好き』は心からなくなってはくれなかったけれど。
実家に帰り、自室のベッドにうつ伏せに倒れた。 いつもだと優しく包んでくれるはずの慣れた空気もなんだか刺々しい。
部屋に帰ろう。
実家とは別に借りていたマンションに帰りたくなった。 荷物をまとめ、母に帰ることを告げとりあえずリビングに荷物をおいた。 忘れ物を思い出したのだ。 用事を済ませリビングに戻ると、母が招待状をもって立ち尽くしていた。
「……お母さん、それ……どうして勝手に……」
「なによ、これは。結婚って……どういうことよ……っ!」
手にした招待状は彼女の手で握りつぶされ、床に叩きつけられた。 母は怒りで顔を真っ赤にしながら叫んだ。
「こんなものを平気で受け取れるあなたの気が知れない!この恥知らず!……やっぱり……お兄ちゃんじゃなくてあなただったらよかったのよ!」
「ずっと、たぶんそう思っていたんでしょう。私も薄々は感じていたんですけれど。できのいい兄と愛嬌のある弟だけが可愛がられているように見えるのは気のせいで、単に男の子で跡継ぎだからだって思い込もうとしていましたが」
「……お兄さんじゃなくて、ってどういう意味?どうしてお兄さんがいるのにフキエが婿をとらなきゃならなかったんだ?」
それがいつか感じた違和感の正体だ。 できのいい、といわれる兄なら当然父親は大きな期待をして彼を手塩にかけて育てたろうに。
「私と6歳違いの兄でした。父の会社に入って3年目に事故で亡くなりました。弟は、とても自由に育ったので、今更会社に入れるなんてことは出来ませんでした」
「そうか、そういう……」
「母は、兄じゃなくて私が……っ。」
フキエが声を詰まらせた。 にぎり閉めた両手は膝の上でわずかに震えている。
「……母はずっと、ずっとそう思ってきたんです。それがわかって……」
フキエは、それでも泣かない。
コーヒー、冷めちゃった。 と言って彼女はまたキッチンに戻り、新しく豆をセットした。 機械が唸る音がして、少しだけ空気が緩んだ。
「山本さんを見てたら、あのときの自分となんだか重なっちゃいました。もっと楽に息ができるのになって。だから、自分が言って欲しかった事がスルスル出ちゃったのかも。
私はあの日……玲二さんにひっぱたかれたときに、がくーって力が抜けちゃって自由になれたような気がします」
まだ、そんなに昔のことではないけれどフキエにとっては生まれ変わったような一日だったのかもしれない。
なのに、またなにか思い出したように眉がグッと寄せられた。
「でも、玲二さんに合うまでの私はまだ、ガチガチに家に囚われていて、そんなんで自分で借りていた部屋に戻ったら、もう、なんだか……。全部無駄だったような気がして。自分の全部を否定されたように思いました。
存在も努力してきたことも……生きてることすべてを。
それで、全部処分して……あの日、あのビルの屋上に行ったんです」
「……ここには、どうして?」
「時々、ここの前を通りかかったんです。人目につきやすくて早く見つかるし、だけどあっちのフェンスの方は人通りが少ないから誰かにぶつかることもないし……玲二さんの美容院の花壇いつも、お花がきれいで。最期くらい……寂しくない方がいいじゃないですか」
どうにも出来ない衝動が大人になってもあるんだと玲二ははじめて知った。 そんなものはもうとっくに枯れて、自分の中からはポロリと取れているのだと。
気がついたら玲二はフキエのことを抱き締めていた。 力の加減も知らない子供のような抱擁だった。 優しくしてやりたいとか、慰めて、甘やかしてやりたいとかじゃなく、ただ、ただ抱き締めたくて腕に力を込めた。 同時に、泣きたくなった。 涙なんてもう何年も流していない。それもまた、衝動と一緒に朽ちてしまっていたのに。
「あ……りが……ありがと……」
「ど……して……?」
「ここを、選ん……くれて……花、俺……よかっ……」
信じられないほど激しく、涙はあとからあとから溢れてきて、まともに言葉を紡ぐことさえ出来ない。 嗚咽が苦しくて息も出来ない。 フキエが肘から下を不器用に動かして玲二の体を擦ろうとする。 でも、指先が辛うじて背中を擽るくらいだ。
くすぐったくて、嬉しくて、悲しい。
コーヒーが落ちきるまで、玲二はそうしていた。