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「あの人、受け付けにいた人って中川富貴恵ですか?」
その日、玲二は予約の常連の客を座らせると声を潜めてそう聞かれた。
彼女はもう3年くらい通っている常連で名前を宇野奈津子といった。
それにしても、中川?中野じゃなくて?あいつは、そういう名前なのか?彼女は何を知っているんだろう。
「あたしの会社に前いた人で、社長の娘なんですよー。でもねー、ひっどい女なの。他人の彼氏、盗っちゃって。でも振られちゃったみたい。彼、会社やめちゃったんですよー。そりゃ、社長の娘振ったりしたらいられないとは思いますけどねー」
「……ああ、そうなんだ」
「そうなの、酷いんですよー。元カノも、彼氏とられてすぐ辞めちゃったし。中川さんが圧力かけたんじゃないかって、もっぱらの噂なんですよー。でも、なんでここにいるんですかー?」
貴重なはずのフキエの情報が右から左へと流れていく。 玲二よりも長くフキエを知っているはずの彼女がここで嘘をついても仕方ないのだが。
「……ああ、数ヵ月前からうちで働いてもらってるんです。とてもしっかりしたいいスタッフですよ」
「ふーん。でも気を付けてくださいねー?職場でそういう問題ってぇ、ヤバいじゃないですかー?」
「うん、ありがとうございます。気を付けます」
玲二はそう返したが、やはりそれらは自分が知っているフキエではない。 別人の話を聞かされているような気がする。 人の男を盗るなんて、彼女の行動としては似合わない。 違和感が拭えない。
夕食が終わりあかりは仕事があるからと部屋に戻った。 しっかりデザートのプリンは食べていった。
玲二は日中、客に言われたことがまだ引っ掛かる。
人の男を盗る女、最期まで肌身離さず持っていた招待状、自分のことについて何も話さないフキエ。
「なあ、お前……中川っていうの?」
「……」
「あー、わりい。今日、客にお前のこと知ってるって人が来て。それで、少し」
「……すいません」
その謝罪が何にたいしてのものなのかはわからなかったが、おそらく名前に関して偽っていたのは間違いがないのだろう。
玲二は少し迷ったが、あかりが見つけた招待状を、しまっておいた引き出しから出してきてフキエの目の前に置いた。
「悪いと思ったんだけど、とっておいた。ここら辺ごみの分別、厳しいんだよ。布は燃えるごみじゃなくて資源ごみに出さないと回収してくんないの。それで、それ、はみ出してた」
「……はい」
「もちろん、中は見てない。でも、大切なもんだったんだろ?ずっと、持ってたんだから」
はー……深いため息をついてフキエが俯いた。傷口をグリグリとえぐる行為なのだろう。 それでも、彼女のことを知りたい。知りたかった。
「その人と、婚約していました。
……父が、結婚を勝手に決めてきて。私はそれまでも、全部父のいいなりでした。友達も学校も、就職も。
でも、結婚相手が彼だと知ったとき、私、初めて嬉しかった。ずっと彼のことが好きだったんです」
「彼には別に彼女がいたって聞いた」
「……はい、それも知っていました。彼は、断れなかったんだと思います。聞きましたか?私の父は私と彼も勤めていた会社の社長だったので」
「うん、それも聞いた」
なんとも言いがたい表情で、彼女が笑った。自分のことを嘲笑っているようだった。
「私ももちろん、嫌だなんて言えません。相手が彼でもそうじゃなくても。でも、私は初めてその立場を自分の意思で利用しました。流されている振りで、仕方ない振りで」
「……本当に仕方なかったんだろ?」
「そうだったと、思っていました。でも、彼の方が先にやっぱり間違っているって気がつきました。会社をやめて、先に退社していた彼女を追いかけていったんです」
「それで、招待状って……無神経すぎないか?」
「……私は、自分の気持ちを彼には伝えていませんでした。彼の気持ちが私にないことはわかっていたので。
彼はきっと、私も父に振り回されて結婚しなくてはいけない、同志のようなものだと思っていたんだと思います」
「伝えなかったって……」
「言えなかった……こんな理不尽なことを押し付けておいて、私は彼が好きだから嬉しいなんて……言えるわけない」
つまりはここにいるということはフキエもまた、父親に背いて逃げ出してきたということか。 親の会社に入り父の選んだ男と結婚をするということは、彼女は後継者ということなのだろう。 そういう責任がありながら、結婚できなかったことに対する重圧。
自ら命を絶とうとした理由は、それか。
心の暗闇を暴くようなことをしても、彼女は涙さえこぼさない。 ここに来るまで、たくさん泣いて枯れてしまったのだろうか。 それともまだ、涙を塞き止めるような破片が刺さって抜けないのだろうか。 無理に抜いたら、血が吹き出すほどに生々しく彼女を苦しめるのだろうか。
「それ……結婚式。行かないの?」
「……まさか。私が行っても皆さん嫌な思いをするだけですし」
「でも、彼や彼女はわかってるんだろ?」
「まあ、誤解ですけど」
その破片は、俺が抜いてやる、玲二は思う。傷口が開いたって構わない。そうしないと前に進めない。
「俺も一緒に行ってやる。彼に本当のことを言ってこい」
ホテルの小さい会場を使ったビュッフェスタイルのパーティーだから人数が増えたって構わない、と彼、石原哲平は告げたらしい。
玲二は何度もせっついて、ようやくフキエに連絡をさせた。
パーティーは1週間後。 玲二は腕によりをかけ、フキエを磨きあげることを決意した。
仕事が終わってから知り合いのやっているブティックにドレスを見に行く。 無理を言って待っていてもらった。
白は不味いけど、最初に見た印象が強くて白いドレスばかりが目につく。
一緒に見立ててくれたオーナーが、淡いラベンダーを薦めてくれたので、それとフキエを一緒に試着室に放り込んだ。
「綺麗なかたですね」
からかうようなオーナーに、玲二は返事もせず渋い顔をする。 彼女とは長い付き合いで、こちらの事情も何となく知っている。
「いいんじゃないですか?彼女。意地張らないで、つくったらいいのに、恋人」
「意地、とかじゃねえから」
玲二が呟くとすまなそうに「そうですね、勝手言ってごめんなさい」などと言う。嫌な思いをさせている。 罪悪感。 でも、簡単に振り切ることのできない罪。
ほの暗い感情がフキエにもあるのだとしたら、それを払拭してやりたい。
────お前はどんどん光のなかを行け。 俺なんか置いていけ。
もしもそこに手を貸すことができたら、少しは救われた気になるだろうか。
オーナーに選んでもらったドレスはフキエによく似合った。 踵の高いパンプスをはかせたら、本人の持っているシャープな美しさが際立つ。 普段は店に立たせるから、客を食ったりしないよう控えめで優しいメイクやヘアを心掛けているが今日は違う。
嫌みにはなってもらっちゃ困るが、せめて、元彼氏に惜しいことをしたと思わせるくらいでなければ。
「おおーーーー」
店は休みではなかったけれど、予約の調整をしてもらい玲二と雅人でフキエを仕上げた。 出来上がった彼女にスタッフからは感嘆の声が上がった。
会心の出来だ。 雅人もいつものボンヤリより2つくらいメモリが上のように見える。 きっと満足のいく作品なのだろう。
ドレスのラベンダーにあわせて、アイメイクはピンクに近い紫。 ラインはしっかり引いたが後はぼかした。 唇も輪郭をとらず指で叩き込んだだけ。 チークも控えめにピンク系をチョイス。 ふんわりしているけれど青みがかった色なので甘いだけではない色気もある。
ヘアはカールした髪をコンパクトにまとめた。 襟足に石が光るコームをつける。 顔にかかる一房は下ろしたままにした。 揺れると光るスワロフスキーにあわせて色っぽく印象に残る。
「凄い、さすがチーフと結城さん。モデルもいいけど倍増って感じです」
「これは、花嫁喰っちゃうんじゃないっすかー?」
スタッフには、共通の知り合いなので玲二も一緒に出席するから宜しくと伝えてある。
結婚式に身内でないものが連れ立っていくなんて、特別な場合以外に考えられない。 それも少し狙っているとこだった。
美しく着飾った女、しかも連れているのはまあそこそこ顔と名前の知れている美容師。 自分の担当している客が、有名であろうとなかろうと、インタビューが雑誌に載ったとか載らないとか、あまり玲二は気にしたことがなかった。 仕事は仕事だし、女優でも小学生でも変わらない、相手の話を聞き、できる限り希望に沿うように、より良い提案をすることがすべてだと思っていた。
今夜に限っては自分の立場を有効に使える。 自分さえも彼女を飾るアクセサリーでいよう。 パーティーに集まった誰もが、フキエを羨ましがればいい。
「……緊張します」
「お前、パーティーとか慣れてんじゃねーの?」
「出掛ける機会は多かったですけど、自分と関係なかったといいますか、なんというか……」
「なによ?」
「玲二さん、なんか目立ってるし……」
「あたりめーだろ。作戦のうちだ」
作戦?とわからない顔のフキエは放っておき、二人は受付を済ませ会場に入る。
ロビーでも玲二たちはさんざん注目を浴びてきた。 フキエは玲二が着飾っているせいだと思っているらしいが、馬鹿である。 自分が今日どんなに綺麗なのか気付きもしない。
それは玲二も隠すことなく『松谷玲二でございます』オーラを撒き散らす衣装を選んではいた。
よく見ると織りの細かいチェックで黒い細身のスーツ。 淡いブルーのシャツに、光沢を放つシルバーグレイのネクタイ。 あわせてシルバーのチーフを無造作に突っ込んで。
元々ウエーブがかかっていた髪はラフな感じでオールバックにしてきた。ワイルド系のいい男風とか、雑誌なんかに出てそうな。
いつもより少し大人っぽく装ったフキエをエスコートするには足りないことはないだろう。
会場に入るなり、他のゲストからの視線が刺さる。 フキエの同僚だったやつは誰も来ていないのだろうか、声はかからない。
「知ってる人とかいねえの?」
「……彼も、近藤亜希子さんも───ああ、新婦さんですけど、最後はあまりよくない辞めかただったので……」
「ああ……」
「彼女の方は突然今週で辞めますっていう感じだったし、彼の方もいきなり来なくなって、連絡もつかなくなって、解雇されて……」
「そうか」
「皆さん、同情的な意見だったんです。でも、仕事に穴を開けてしまったことには違いないので、お二人も気にされていて……だからたぶん会社関係のかたは……」
「ふーん」
玲二たちのことを遠巻きに見ていても、それでは、声はかけられない。 この間サロンに来た客も呼ばれていないようだった。
「あの。中川さん、ですよね?」
「……あ、人事の……」
「湯沼です、お久しぶりです。」
「ナカガワの関係の人はいらっしゃらないと思っていました」
「ええ、私だけです。私と亜紀子、大学の時からの友人なので。」
「湯沼さんにも、不快な思いをさせてしまったんでしょうね。本当に申し訳ありませんでした」
湯沼、という元同僚は少し笑って、それから泣きそうな顔になった。
「はい……亜紀子見てるのが辛かったこともありました。でも、石原さん戻ってきてくれたから……。そのせいで中川さんも大変だったんでしょう?」
「私は……いえ、済んだことですし、お二人が幸せならそれで。」
「そうですか……。あ、ところでこちらって、美容師の松谷玲二さんですよね?お知り合い、なんですね」
「あ、はい。今、お世話になっています」
「一緒にいらっしゃるっていうことは、お二人もご婚約されてるんですか?素敵ー」
「……こ……」
「うん、そうなんだ。」
玲二はこれ見よがしにフキエの肩を抱いた。ため息のような悲鳴があちこちから上がる。
「ここのホテルも本当に素敵だ。ご結婚される二人はとてもセンスがいい。俺たちもこういうところで式を挙げたいな、な、フキエ?」
「フッ……」
「やだ、中川さん照れちゃって。松谷さんのお式ならもっとキャパの大きいところでないと難しいんじゃありませんか?中川さんの方だってご招待客は多いでしょうから……」
「いえいえ、僕たち落ち着いた方が好きなので。結婚式を派手にするより、そのあと旅行にでも行った方がいいな」
「それも、素敵ですねー……あ、そろそろ始まりますね。それでは私はこれで。ごゆっくりなさっていってくださいね?」
玲二はフキエには一言も口を挟ませなかった。なにを言い出すかわからないからだ。
「こ。婚約って!」
「まあまあ。軽い冗談だから。だいたい、お前に意気地がないからってなんの関係もない男を披露宴につれてくんのは非常識ってもんでしょ?婚約者なら問題なくエスコートできるって言うもんです」
「そ……れは」
「もう、言っちゃったもん。あの子さっきからみんなにふれまわってるし」
「ああーー……」
「いいじゃん、今日は婚約者。フキエが彼にちゃんと打ち明けるのを見届けっから」
パーティーは始終穏やかに進み、派手な演出も何もないほほえましい宴だった。 時おり新婦が好きだというギターの演奏が入ったり、新郎の友人が手品をして失敗したり。 中頃になれば二人がそれぞれにゲストのなかに入っていき、ゆったりと歓談をしている。
そんな中、新郎がフキエに向かって近づいてきた。 フキエも気がつき少しだけ体を固くする。
「来てくれて、どうもありがとう」
「いえ、こちらこそお招きいただいて。ご結婚おめでとうございます」
「ありがとう」
こんなに。 視線や仕種、本人の意思ではどうにもならない髪の先からだって、石原を好きだっていう気持ちがこぼれているのに、本当に気づかないんだろうか。気づかない振りをしているだけなんだろうか。
「すいません、関係ないのまでついてきてしまって」
玲二は嫌みなほどの微笑みを彼に向けた。
「どうもはじめまして、石原です。えっと……お二人はどういった?」
「いま、うちの美容院で働いてもらっています。それが縁で親しくお付き合いをさせていただいています」
「……そう、ですか」
差し出した名刺に目を落としたあと、彼はフキエを真正面からとらえた。
「今は、幸せなんだ?」
「……」
フキエは答えない。当たり前だ。 彼女の幸せが石原なしで完成するわけはないのに。 まだ、乾いていないかさぶたにさらに爪を立てるために二人はここに来たのだ。
言ってやれ。 お前につけられた傷を、こいつのどこかにも刻んでやれ。 忘れるなんて決して出来ないように。
「久し振りなんだろう?俺は少しはずしているから、話してきたらどう?」
戸惑うフキエを置いて、玲二はバンケットからドリンクを受けとる。 料理も少し、皿に盛り付けてもらい部屋のすみに備えられたスツールに腰かけた。
離れたところで、フキエと彼が話しているのが見える。
少し、苦しい。
今日の彼女は本当にきれいだ。 あんなに踵の高い靴をはかせても、重心がぶれることなく歩く姿も美しい。 ドレスにもしっかり馴染んで、着せられちゃっている感じがしない。
今でもまだ、彼を好きなのだろうか。
石原だってきっと、社長の娘との結婚に目が眩んだこともあっただろう。 意地悪なことを考えては首を振り考えを追い払う。
忘れちまえ、そんな男。俺だったら……
いや違う、それは違う。 まだそんなに飲んでもいないのに、おかしなことを。 ろくでもない考えにヒタヒタになってしまいそうなとき、フキエが帰ってきた。不安げに俺を探している。 そんなことが、なんだか嬉しい。
「おう、おかえり」
「はい……緊張した……」
「言えたのか、好きだったって?」
「……」
「言わなかったのか」
「……はい、言えませんでした。でも、最後に幸せなところが見られて、よかったです。今日は、ありがとうございました」
少しだけ、彼女を包んでいた薄暗い膜のようなものが剥がれてトーンが上がったように見えた。 好きな人の幸せが、彼女を救ったのだろうか。
「……後悔、しないんだろうな」
「はい、絶対にしません……でも」
「でも?」
「……でも、このつぎ恋をするときは、きっと好きだって自分でちゃんと伝えようと思います。無理でも、無駄でも」
そう言って笑ったフキエは、息をのむほど美しかった。