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思った通り、大きな窓は朝日を存分に取り込みリビングを眩しく包んでいた。
フキエは迎えるはずのなかった新しい朝の中で、ぼんやりとしてしまう。 息を吸って吐く。
「生きてる」
生きているから、お腹もすく。 米がどこにあるかもわからないから、昨日見たときにまだあった冷凍のご飯を解凍しよう。 卵もまだあったし、味噌も昨日見つけた。萎びた野菜も見つけたしなんとか朝御飯は作れそうだ。
コップに一杯の水を飲み、顔を洗いに階下へ行く。
そういえば、この家の人たちは朝は何時から活動が始まるのだろうか。 夕べのうちに起床時間などを聞いておけばよかった。
顔をざばざば洗い、考えてみれば化粧品なども持っていない。 あかりの化粧水を借りてもいいだろうかと顔をあげると、鏡の向こうに玲二がいた。
「………!びっくり、した。おはようございます」
「……おはよー。はやいねえ。っていうか、一瞬誰がいるのかと思っちゃったよ。自分で呼んどいて」
「すみません。お邪魔してます」
「ふはは。どういたしまして。あ、その辺にあかりの化粧水とかあるからてきとーに使って?メイクは店でやってやるから。あいつ、普段化粧とかしないから」
「……お仕事がおうちだからですか?」
「そ。サイン会とかパーティーとか、どうしてもん時だけプロに頼んでんの」
「……流石」
「プロって俺だけどね」
「ふはっ」
素顔で、化粧水もつけない艶のない顔でも、自然に出た心からの笑みは美しかった。 窓の小さなこの狭い空間も照らすような、ほころんだ心。
何が彼女を死に駆り立てたかは知らない。 出来るならもうそんな馬鹿な考えは忘れて、ずっと笑っていてくれたらいいのに。
「……笑ってろよ、そーやって。その方がずっといい」
「……善処します」
「ん」
それでも心は、留めておけない。 縛ってはおけない。 その白くて小さな手を引く権利さえ、玲二にはないのだから。
普段は起きるのも昼近くなのだというあかりを起こして、礼二はフキエが着てもいい服を出させた。 というかあかりはそもそも家にいるときはジャージで過ごすことが多いので何を着て行ってもらっても構わない、とのことらしい。
その中から玲二がコーディネートした服を身に付け、二人は一緒に歩いてサロンまで出勤した。
「……あの。一緒にとか、不味くないんですか?」
「んー、この時間ならまだだれも来てないからな。いたとしてもあいつだけだから」
「あいつ?」
「そ。まず、余計なことは言わない奴」
路面に向かってガラス張りの店の前を通り中にはいると、確かに店内は明かりも落ち静まり返っていた。
「そこ座れー」
玲二が指した椅子に腰かける。 がらがらとワゴンを引きその後ろにスッと立った。
「おーい、雅人、来てんだろー?髪の毛ちょっとやってくんねえ?」
「……雅人?」
バックヤードからぼんやりした男が出てきた。 フキエは思わず立ち上がり頭を下げる。
昨日帰りにも会ったかもしれない。確か、一番後ろに立っていた。
「おはようございます!」
「……はよ」
「おいおい、まだ寝ぼけんのか?こいつ、結城雅人。こう見えて腕のいいスタイリストだから、メイク終わったら頭いじってもらうかんな」
「よろしくお願い致します」
「……ん」
ケープを巻きフキエの顔にメイクが施されていく。 始めてみたときから美人だと思っていたが、少し整えただけではっとするほど目を引く。 それでも、あえて作りすぎないように。 受け付けに座らせるつもりでつれてきたのだから、ナチュラルに仕上げるように心がける。
それをはたから見るとぼんやりした視線で見ていた雅人が、やはり作りすぎないセットをしていく。 全体を緩く巻き、所々ルーズにピンで止めていく。
「おお、いいじゃん」
雅人はペコリと頭を下げたがその顔は『こういうことでしょ?』と言っているようだった。
驚いたのはフキエだった。
「……違う人みたい」
「そーだろ、お前みたいに整った顔の奴はこんくらいゆるいメイクで充分いいとこが引き出せんだ。雅人のヘアもいいしな」
「……なんか、変なの。昨日は、こんな今日があるなんて、思ってもいなかったのに」
「……お前、もう変なこと考えんなよ。頼むよ。一緒に飯食った奴が変なことになったら、俺がかわいそうだ」
「……」
「ぜってえ泣くなよ。メイク崩れる」
「はい。」
近くに雅人はいたけれど、やはりぼんやり聞いていた。
驚いたことに、フキエは仕事のできる奴だった。
簡単に説明をしてレセプションに座らせたが、電話の応対、客への振る舞い、パソコンを使っての予約操作も難なくこなした。
本人の造作に加え、着ているものやヘアメイクですっかり店に溶け込んでずっとそこにいるような馴染みかたをしていた。 客の中には、あの人みたいな雰囲気にしてほしいとオーダーをする人もいて店の顔としては上々の滑り出しだ。
フキエの初日は難なく終わった。 が、店が終わっても若手のスタッフの指導をするため玲二は今日も残業だ。 カットを見てほしいというスタイリストのために残ることにした。 少し心配ではあったがフキエは先に返した。 家に帰ればあかりがいるし、店と家は歩いて20分だ。
国家試験を控えたアシスタントもいてずいぶんと時間がかかってしまった。 どんなに帰りが遅くなっても玲二は不満に思ったことはない。 辛いとさえ感じない。
ここにしか自分の居場所はない。 ここで頼られること、必要とされることでしか生きている価値がない。
だから休みがなかろうと、夜がどんなに遅くなろうと仕事は楽しい。
一生懸命なやつらは好きだ。その力になれるなら苦労も苦労ではない。
すっかり遅くなった帰り道、やっとフキエのことを思い出した。 ちゃんと家に帰っただろうか。 あかりからはなんの連絡もないから大丈夫だとは思うのだが。
玲二は夜の道を足早に帰った。
家についたのは11時を少し過ぎた頃だった。 玄関から見える廊下に明かりはついているが静かだ。
階段を上がりリビングに行くとあかりがダイニングの椅子に座っていた。 フキエはいない。
「おう、ただいま」
「あー……おかえりー」
「どーした、お前。元気なくね?」
「うん……ああ、ご飯食べる?フキエさん、作ってくれたケド」
「途中で食べた、この時間に食うと肥える」
じゃあ、とあかりはコーヒーを入れる準備を始めた。 部屋にまろやかなかおりが立ち込める。
「……フキエは?」
「疲れたから、先休むって」
「初めての職場だもんな。あいつ、よくやってたよ」
コーヒーを2杯。 入れる間をゆっくりためてあかりが切り出した。
「これが、フキエさんの洋服のポケットに入ってた。」
「……」
中身を確認するまでもなく、それは結婚式の招待状だった。 封筒を裏返すと『壽』のシールが貼ってある。 その横には新郎新婦の名前が記してあり、それはナカノではない。
「もしかして、これが、その……原因だったのかなって」
あかりはフキエがこの家に来た理由も知っている。 ビルの屋上でフキエがしでかそうとしたこと、すべて。
「お前、この話あいつにしたのか!?」
「マサカ!捨てるようにゴミ箱に入ってたんだけど、ほら、分別しないといけないから資源の方に移そうと思ったら、ポケットからはみ出してて。身元がわかる唯一のものかと思ったら、捨てられなくて……」
「そうか……」
表書きに住所はない。 つまり、手渡されたのか。この男のことが好きだったのか。 結婚するから失恋してしまったのか……。
それが原因で自殺未遂?あいつ、そんな弱い女か?
───でも人の心なんてわからない。たしかにそうだ。 ましてや玲二は人の繊細な感情を読み取る力に乏しい。 傷ついたんだろう、苦しんだんだろう。
未来を全部手放してしまいたいと願うくらいに。
その封筒をどうしようかという結論は出ないまま、半月ほどが過ぎた。 相変わらずフキエは順調に仕事をし、玲二もまた彼女がいる暮らしに馴染んでいった。
その日は珍しく残業もなし。 二人で並んで帰る。
「今日は何にしましょうか、晩ご飯」
「あー、今日なー。おにぎりとか唐揚げとか、片手でつまめるものがいいと思うぞ」
「……え、ピクニックですか?」
「うん、帰ればわかる」
玲二の言葉通り、それでも首をかしげながらフキエは買い物かごに材料を入れていく。 あかりが好きな飲み物もさりげなくかごに入れる。
いない者のことまで気づかえて、仕事も真面目で根性もある。 サロンのスタッフたちに年下にだって先輩だからと敬語を使い、パシらされることもいとわない。
玲二は独りごちた。 なんでだろうな、俺の方がよっぽどクズで、生きる価値もないような男なのに。
「ああ、なるほど……」
家に帰り、フキエが部屋をのぞくと玲二からのなぞ謎みたいなものの答えがあった。
今日、あかりは仕事の大詰めを迎えていた。 彼らの言うところの修羅場、とかいうやつだ。 この時期だけ手伝ってくれるアシスタントと編集者がマンガで一杯のあかりの部屋で呻き声をあげながら原稿を仕上げていく。
あかりは今時、アナログで書いている漫画家だ。 トーンなんてパソコンでやってしまえば早いと思うがそういうものでもないらしい、よくはわからないが。
しばらくの間あっけにとられていたフキエだったが、一番近くにいた編集者、館山に食事をとったか確認するとキッチンへと上がっていった。
「本当にピクニックセットですね」
笑いながら、彼女はおにぎりをせっせと作った。 唐揚げも玉子焼きもアスパラもピックを刺して食べやすく、タッパーに詰めていく。 3つ作ったセットとペットボトルの飲料を階下に運んで行った。
しばらくして帰ってきたフキエは「こちらもピクニックセットですけど」と、皿に盛られたおにぎりやおかずをテーブルに並べた。
いつもより静かな食卓で、考えてみればはじめて二人きりの食事をとる。 いつもはなんのきっかけもなしにあかりが突拍子もないことを話し出すから、頷いたり笑ったりしていればいいが今日は違う。 元々玲二もフキエも口数の多い方ではない。 でも、気詰まりもない。
一日が終わって、明日への課題があって、飯がうまくて。
「うまいな」と言えば、恥ずかしげに笑う顔があって。
心地よい静けさだ。
一晩中、あかりたちの仕事は終わらないだろう。 引き上げた寝室にいても時おりあかりが指示を出す奇声が聞こえる。
目が覚めてしまった夜中、玲二はキッチンに水を飲みに上がっていった。
暗がりの中、静かな寝息が聞こえる。
ソファの上、フキエが丸くなって寝ていた。 大きめのバスタオルに身を包み、すうすうと眠っている。
そうか、今日はアシスタントたちが来ているから、仮眠用にいつものベッドを使うだろうとここで寝ていたのか。
冷蔵庫から冷えた水を出し、飲み干す。
フキエがうちに来てから2週間。招待状以外の彼女のことはまだ何も知らない。 知らなくてもいいのかもしれない。
いつかフキエはここを出ていく。 彼女の準備ができたとき────それがいつなのかは玲二にはわからない。 彼はそれを少し、寂しいと感じている。
これは、何だろう。
もう誰にも心を動かさないと決めている。
二度と、一生。
フキエがこの家に持ち込んだ空気は、そんな決意を揺るがすような波動も連れてきた。 その事に、気づき始めている。
それでも、知らない振りをするしかない。
(俺は絶対、誰かを好きになったりしないのだから)
階下で、あかりの叫び声が聞こえた。 呼応するようにフキエがすん、と鼻を鳴らした。